38 哲学は無力? (20220514) 

[カテゴリー:日々是哲学]

哲学は無力?

ウクライナの戦争を止めるにはどうしたらよいのでしょうか。「哲学は無力だ」と考える人がいるかもしれませんが、私はそう考えません。何故なら、戦争を支持している人もまた、ある哲学に依拠して戦争を正当化しているからです。つまり、ここには哲学同士の争いがあり、戦争に反対する哲学が、戦争に賛成する哲学に負けているのです。

秩序よりも自由が大切です。

プーチンは、自由主義は古い、自由よりも秩序が大切だ、と考えるようです。しかし、今日の我々は、「普遍的な一つの正しい秩序」が存在しないことを知っています(ポストモダンの時代です)。プーチンが大切だと考える秩序は、プーチンにとっての秩序であり、それは多くの人にとっては無秩序でしかありません。指導者が「秩序」の名のもとに自由を制限するとき、それは指導者にとって都合の良い「秩序」であって、多くの人にとってはむしろ彼らの秩序を壊すものです。「一つの正しい秩序」がない世界では、様々な人にとっての様々な秩序の可能性を保障するために、自由を保障することが何よりも必要です。つまり、秩序よりも自由が大切です。

(これに対して、プーチンならばこういうかもしれません。「それでは無秩序な混乱した社会になる」と。しかし、本当にそうでしょうか。プーチンがおそれる無秩序で混乱した社会は、多くの人々にとっても無秩序で混乱した社会なのでしょうか。プーチンにはそれを考えてほしいです。)

17 人の生存は、目的そのものである (20220509)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回の議論は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への直接的な答えには成っていません。)

「全ての人は生きているだけで価値がある」と仮定しましょう。このとき、人の生存は、何かの役に立つがゆえに価値を持つのではなく、それ自体で価値をもつのです。人の生存は、何かの目的のための手段でなく、目的そのものです。

  「人の生存は、目的そのものである」

Xの生存が目的そのものであるならば、Xの生存はより上位の目的を持ちません。そうすると、Xの生存以外のものは、Xの生存のための手段となるのでしょうか。Xの活動と能力は、Xの生存のための手段となりそうです(たとえば、狩りをしたり食べ物を買ったりすることは、生存のためです)。Xの生存以外のものが人でなければ、それらもまたXの生存のための手段となりそうです(たとえば、食べ物は、Xの生存の手段となります)。しかし、Xの生存以外のものが、人であれば、その人の生存もまた目的そのものですから、それはXの生存の手段となることはありません。ただし、X以外の人の活動と能力は、Xの生存の手段となるかもしれません(たとえば、Xがレストランでコックに食事を作ってもらうことは、Xの生存の手段になります)。

 しかし、そのコックさんの生存は、Xの生存の手段にはなりません。では、二人の人間の生存の間には、どのような関係があるのでしょうか。

 XとYの二人がいるとき、Xの生存とYの生存は、一方が他方の手段になるのではなありませんし、互いに無関係でもないでしょう。前者は、今回の話の仮定によります。後者の理由は、Xの活動の目的とYの活動の目的が両立しないとき、例えば、同一の木の実をとって食べようとすること、同一の場所を住処としようとするとき、二人の活動の目的は両立不可能になるということです。他者の活動の目的を妨げることは、場合によっては他者を死に至らしめることがあります、つまり他者の生存を否定することがあります。したがって、XとYの生存は互いに無関係ではありません。 XとYが互いの生存を尊重するためには、双方の活動を制限する必要があります。

(補足:他者の活動の目的を尊重することから、他者の生存を尊重することが帰結するでしょう。なぜなら、これの対偶(他者の生存を尊重しないならば、他者の活動の目的を尊重しない)が、帰結するように見えるからです。

 しかし、他者の生存を尊重することから、他者の活動の目的を尊重することは帰結しないでしょう。なぜなら、これの対偶は成り立たないからです。つまり、他者の活動目的を尊重しないとしても、他者の生存を尊重することはありうるからです。たとえば、パターナリスティックな態度がそれです。子供を教育する場合などです。)

では、Xの生存とYの生存は、どう関係するのでしょうか。Xにとって他者Yの生存もまた価値を持つとすれば、Yもまた目的そのものです。Xの生存もYの生存も、Xにとって目的そのものです。ここで、次の3つが成立しています。

  ①全ての人の生存が、Xにとって目的そのものである

  ②Xの生存は、全ての人にとって目的そのものである。

  ③全ての人は、全ての人にとって目的そのものである。

(②は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への(不十分な)答えになりそうです。)

この後考えるべきことはいくつかあります。

・③は、カントのいう「目的の国」に似ています。「目的の国」の中で目的同士はどう関係するのでしょうか。カントの「目的の国」とヘーゲルの「相互承認」は、正当化の方法が異なるだけであり、最終状態は同じものなのでしょうか。

・前々回説明した「「生存価値」の問答論的論証」は、「全ての人は生きているだけで価値がある」の論証として十分なのでしょうか。

(ここには、まだまだ多くの考えるべき論点がありそうですが、まだ整理できないので、考えが進んだら、また戻ってきます。)

16「価値がある」とはどういうことか (20220507)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(しばらくブログのupがなくて、失礼しました。次に何を論じるか、考えていました。

ところで今日は、哲学者D.ヒュームとC.T.さんの誕生日でした。)

これまで、人生の意味、人生の目的、人生の価値について説明し、これらの区別を明確にしようとしてきました。また、人生の価値については、「能力価値」「メタレベルの能力価値」「生存価値」を区別してきました。ここからもう一度、生存価値、つまり「人は生きているだけで価値がある」という主張の意味と正当化について考えたいと思います。

「価値」は関係概念です。

①「Xは価値がある」とは「Xは、あるものYとの関係において価値をもつ」ということです。たとえば、「ダイヤモンドは価値がある」は、「ダイアやモンドは、他の鉱石や金属よりも硬いので、ダイヤモンドは、価値がある」と説明されます。

「XはYにたいして関係Aを持つ」あるいは「XはYとの関係においてAという性質を持つ」それゆえに、「XはYとの関係において性質Aを持つので、価値を持つ」と考えられます。

では、Xは、Yとの関係において性質Aを持つことによって、なぜ価値を持つのでしょうか。なぜなら、主体Zの目的Bの実現にとって、性質Aが有用だからです。

②「Xは価値がある」とは、「Xは、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということです。「主体Zとって価値を持つ」とは、「主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

③ところで「Xが、主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

「ある木の実が、ある動物にとって価値がある」とは「ある木の実が、ある動物の生存という目的の実現にとって有用である」ということです。しかし、動物についてこのように語ることは、擬人法です。なぜなら、動物は意識して目的を持たないので、動物の行動について目的について語ることは、客観的な事実を語っているのではなく、動物の行動についての人の解釈を語ることだからです。したがって、「Xが主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

④Xが人の場合には、「ある人は価値がある」とは、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということであり、さらに言えば、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

これは次の二つの場合に分けられます。

・「ある人の存在が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「生存価値」に関わります。

・「ある人の活動と能力が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「能力価値」に関わります。

⑤生存価値について

「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。

ここでXとZが同一人物である場合、「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、その人Xの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。Xが何を目的にするにしても、Xが生存していることは、その目的の実現に有用です。しかし、この場合には、生存そのものに価値があるというよりも、生存がある活動や能力のための手段として、「メタレベルの能力価値」を持つということです。

 では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか。