二種類のシミュレーション?

名古屋から帰りの新幹線です。

urbeさん、ご質問ありがとうございます。

我々が明確に主張できるのは、
<4歳前の子供は、我々が理解している意味では,「自分の心」や「他者の心」を理解していない>
ということです。したがって、
「それは,大人がよく他者の意図を間違って理解するのと類似的です(誤解,思い込み,情報の不足etc.)」
というurbeさんの発言の後半部分に、私は疑問があるのです。4歳未満の子供の間違いには、大人の誤解や、思い込みとは、異質なところがあるはずです。では、その違いがどのようなものであるのかを、探求することが、とりあえずの課題です。

しかし、私は上の指摘で、シミュレーション理論を批判できているとはおもっていません。なぜなら、トマセロのシミュレーション理論は、以前にも書きましたが、もう少し曖昧というか、もう少し手ごわいもののように思うからです。

2月28日書いたことですが、このような批判に対してトマセロは、次のように反論しています。
トマセロの反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

シミュレーションを、類推のような意識的な思考として理解する場合と、(うまくいえませんが)無意識的に起動する心の働きとして理解する場合がありうるだろうと思います。とりあえず私が批判したいのは、前者です。

「シミュレーション理論ならば,自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていないため,「間違った」意図を他者に帰属してしまう,と説明するでしょう.」
urbeさんが言うように、このようなシミュレーション理論による説明が正しいとしましょう。たしかに、この時期の子供は「自他の信念・欲求の隔離がうまくいっていない」のです。しかも、この時期の子供は、たまたま間違うのではなくてつねに首尾一貫して、ある種の判断において間違うのです。
しかし、この時期の子供の判断の全てが間違いなのではありません。他者の心について正しく理解できることもあるのです。なぜなら、この時期の子供は大人と会話できるので、机の上のチョコレートを見て、それをチョコレートだといえるし、隣にいる大人も机の上のチョコレートがあると思っている、と正しく判断することができるのです。しかし、そのとき、それは我々がそのように判断するのとは、どこかが本質的に違うだろう、と思います。このように子供が正しく判断するときに、それを我々大人が行なうような仕方で正しく判断しているのではありません。おそらく、この時期の子供は、我々大人が行なうとのとは違った仕方で、正しく判断しているのであって、<正しく判断してはいないのだが、結果として常に正しい判断と一致している>というのではないと思います。このとき、子供が例えば、「隣の大人のyさんも、机の上にチョコレートがあることを知っている」といったとしても、その文は、おそらく我々が理解する意味とはことなる意味で用いられているだろう、というのが私の予測です。

 取り留めのない、コメントになってしまいましたが、次回から仕切り直してはじめましょう。

批判と予想される反論

  名古屋の夜景です。研究会の写真はプライバシーがあって載せられないので、こんなしゃしんになってしまいます。
   3月15日?の記事は、この書庫にupすべきものでした。間違えて「世にも奇妙な共有知」の書庫に載せてしまいました。お詫びしますが、訂正しません。なぜなら、コメントがついているので、コメントまで移動させられないからです。

urbeさん、pretenseのご説明ありがとうございました。
シミュレーション理論に対する批判の一つは、次の通りです。

<誤信念問題を解けない子供は、自分の心と他人の心を区別できません。つまり、誤信念問題を解ける我々が理解している意味では、「自分の心」や「他者の心」を理解していません。したがって、子供には、「自分の心」のなかの自分の意図を「他者の心」に転移する、ということが出来ないはずです。>

この批判に対して、次のような反論があるかもしれません。
<子供が意図を持つようになるとき、子供は他者の行為もまた意図的な行為であると理解します。そのときに、子供は自分の意図を意識して、それを他者の中に転移すると考えると、確かに批判を受けることになるでしょう。しかし、子供が自分の意図を意識せず、無意識的に、他者の中に意図を転移している、ということもありうるのではないでしょうか?>

このような反論に対して、どのように答えることができるか、考えてみましょう。

pretense?

奈良から近鉄で名古屋に向かう途中です。ローカルな景色です。
   そこには別の時間が流れているように見えるのは、pretense?
名古屋出張から帰って、計画書の仕上げに追われていました。

Urbeさん、コメントありがとうございました。
(「先生」でなく、「yukioさん」でお願いします。)

「おっしゃるとおり,まさに自分の理解が他者の理解に先行します.自分の行動決定システムを使っているわけですから,もしそれがなければ,他者が次,何をするのかはまったく分からなくなるわけです.」
「しかしそのこと自体がどうしてシミュレーション理論の弱点になるのかが,いまいちうまく把握できません.」

このご説明をしたいと思いますが、その前に、教えていただけるでしょうか。

「pretense欲求」「pretense 信念」「pretense 意図」
これらはどういう意味なのでしょうか。つまり英語のpretenseの意味が解らないのです。
普通の辞書に載っている意味「みせかけ」とは、少し違うように思いますので、教えていただけるでしょうか。

「私の知っていることは他者も知っている」を「(the principle of charityの類)」と理解するというのは、非常に面白い指摘だと思います。

二つの間には確かに、深い関係があるだろうとおもいます。私は、コミュニケーションを可能にする基底の一つとして、共有知を考えています。共有知は、「私の知っていることは他者も知っている」をその一部としていますので、コミュニケーションを可能にする原理としての、principle of charity とも関係しているだろうとおもいます。もっと言うと、共有知から、principle of charity を説明できるかもしれません。

三田三丁目の東京タワー

  先週出張で見た東京タワーです。

雑用に終われて、しばらく書き込みできませんでした。
前回の続きです。
「チンパンジーと二歳から三歳の子供に、三つの容器のうち、どれにご褒美が入っているかを教えるのに、(a)正しい容器を指さす、(b)正しい容器のうえに小さな木片を印として置く、あるいは(c)正しい容器のレプリカを見せた。子供はすでに指さしを知っていたが、伝達用の符号として印やレプリカを使うことは知らなかった。それにも関わらず、子供はご褒美を見つけるために、そういう新しい符号を非常に効果的に使うことができた。」(p. 137)
チンパンジーと違って人間の子供は、どうして符号の意味を理解できたのでしょうか。
まだ発達したことばを持たない子供がどのように考えたのかを、我々が言葉で説明するときには、慎重でなければなりません。しかし、一応方弁として、子供がつぎのようなことを考えたとしましょう。

「なぜ大人は、そうしたのだろうか? それは、私にあれの入っているものを示すためではないだろうか。」

この時期の子供が、どの程度言葉を使用できるのかを確認しなければなりません(この確認をできれば後で行いたいと思います)が、これに似たことを考えたのだとしましょう。なぜなら、このように考えるのでなければ、木片が正しい容器を示めす符号であることを理解することは、困難であるように思われるからです。

この場合には、前回述べたトマセロがいう言葉を理解するための三つの条件が揃っています。
①「他者も意図をもつ主体であるということを理解しなければならない。」(p. 136)
②「共同注意場面への参加が必要である」(p. 136)
③「共同注意場面の中で特定の意図的行為、つまり、伝達意図を表す伝達行為を理解しなければならない。」(p. 136)

つまりこうです。
「なぜ大人は、そうしたのだろうか(大人は意図をも主体である)? それは、私にご褒美の入っているものを示すためではないだろうか(大人の伝達意図の理解)。」

②「共同注意場面への参加が必要である」も成立していることの説明が必要ですが、これは後回しにさせてもらって、ここでは、③「伝達意図の理解」の成立について考えて見ましょう。

トマセロは、これについて次のように言います。

「相手の伝達意図を理解するためには以下を理解しなければならない。
相手は[私がXに対する注意を共有することを]意図している。
Grice(1975)以降、誰の分析においても、伝達意図の理解には、この埋め込み構造がなければならないとされている。」(p. 137-138)

(グライスの論文「論理と会話」から伝達意図についてのこのような分析を引き出せる、という主張に対して、私は疑念を持つのですが、しかしそれは瑣末な問題なので立ち入りません。)
ともかくトマセロは、
「相手が[私がXに対する注意を共有することを]意図している」
ということの理解が、上の実験において成立していると主張しているのです。上の実験のケースで言うと
「大人は[私がご褒美の入っている容器に対する注意を共有することを]意図している」
ということになります。
この段階の子供は、誤信念課題を解くことができません。つまり、「わたしが知っていることは他のひとも知っている」とおもっています。この段階の子供が、「他のひとが知っていることは、私も知っている」と思っているかどうか、これについて私は知りません(ご存知の方がおられましたら是非教えてください)。
この段階の子供は、上のような伝達の意図をどのように理解しているのでしょうか。それは大人がそれを理解する仕方とは、違っているはずです。大人の理解を転移しないように注意して、この問題を考えてみたいとおもいます。

明日から名古屋に出張なので、2,3日お休みします。

コメント

    昨日は、東京出張でした。

4spaceさん、鋭い分析ありがとうございました。
私が「認識論的個人主義」と呼んでいるものは、まさに
(x)[ K(x) -> (Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
で表記されているとおりのものです。
したがって、その否定はご指摘の通り、
(Ex) [K(x) & ~(Ey)[I(y) & (x is y's)] ]
となります。
そして、ご指摘の通り、「いかなる個人にも属さないような認識がある」と主張したいと思っています。
そこで以下のご質問に答えたいと思います。
「これは一体、どんな様子なのでしょうか?」
「「個人」ではない、「全体者」あるいは「複数者」とでもいうような存在者による認識(そしてそれは「個人」によっては所有され得ないようなもの)がある、ということなのでしょうか? 」
個人の知ではないような「共有知」というものが個人の知の「基底」にあるだろうと考えています。
そのとき、個人の知と「共有知」の関係が問題になるのですが、その関係の前に、
そもそも、そのような「共有知とは、どのようなものなのか?」という問に答えなければならないでしょう。
「全体者」とか「複数者」というようないわば「大きな主体」を考えないで済ませたいとおもっています。J.サールもまた、”collective intentionality”(集団的志向性)を主張しつつも、ヘーゲルの精神を呼んで批判していますが、私もこれには賛成です。なぜなら、そのような主体の存在を証明することは出来ないし、仮にそのようなものを想定すると、それをどのような規模で考えるのか、ということが問題になります。不都合のない形で、それを想定することが難しいだろうと思います。
そこで、この共有知については、いわゆる「主体」を想定しないで考えてみたいとおもっています。むしろ、「主体」に関しては、「個人が知の主体である」というときに、「知の主体である」とはどういうことなのか、ということを分析する必要があるだろうと思います。
私は、個人を超えた共有知を考えていますが、しかし、共有知もまた、個人の知とおなじく、誰かの脳の現象(ないし随伴現象)であるだろうとおもいます。しかし、そこから全ての知の主体が、個人であるとか、個人の脳である、と言うことにはならないだろうと、予想しています。
(これは、まだ全くの予想です)
wise man’s knowledge と言うのをネットで調べてみたのですが、うまくヒットしなかったので、
お暇なときに、どういうものなのか、どこを見ればよいのか、などを少し教えていただけたらありがたいです。

ことばの理解の成り立ち

これはコンサートホールの床です。模様が我々に錯覚を起こすのですが、心のありようもまた、
我々に錯覚を起こすのではないでしょうか。

シミュレーション説による「共同注意」の説明を批判して、代案を提出するには、9か月ころ成立する「共同注意」、11か月ころ成立する「指差し」、そしてその後(?)登場する言葉の使用とその発達、4歳ころまでのこの発達過程についてよく知る必要があります。
(乳児が、自分で指差しを発見して、それを大人の振る舞いに転移して、大人な指差しを理解するとか、乳児が自分で言葉を発見して、それを大人の振る舞いに転移して、大人の言葉を理解する、などと考える人はいないでしょう。それならば、乳児が自分の意図に気づいて、それを他者に転移して、他者が意図をもつ理解する、という説明も同じようにおかしいのではないでしょうか。これは先走った予測です。仮にこの批判が正しいとしても、問題は、代案をどう考えるかです。)

この過程を最初から見て行くのではなくて、逆にすこしづつ遡ってゆきましょう。なぜなら、最初の心の状態を理解することは非常に難しいからです。ともすると、我々の先入見を転移することになるからです。そこで、まずことばの習得についてです。
 
トマセロは、ことばの理解を次のようにして説明しています。

「子供が、大人が何かに注意を向けさせる意図で音を発しているということを理解したとき、初めて子供にとってその音は言語になる。」(『心とことばの起源を探る』p. 136)
彼は、この理解のためには、次の3つが必要だといいます。
「他者も意図をもつ主体であるということを理解しなければならない。」(p. 136)
「共同注意場面への参加が必要である」(p. 136)
「共同注意場面の中で特定の意図的行為、つまり、伝達意図を表す伝達行為を理解しなければならない。」(p. 136)

トマセロは、自ら行った実験によって、これを説明します。
「チンパンジーと二歳から三歳の子供に、三つの容器のうち、どれにご褒美が入っているかを教えるのに、(a)正しい容器を指さす、(b)正しい容器のうえに小さな木片を印として置く、あるいは(c)正しい容器のレプリカを見せた。子供はすでに指さしを知っていたが、伝達用の符号として印やレプリカを使うことは知らなかった。それにも関わらず、子供はご褒美を見つけるために、そういう新しい符号を非常に効果的に使うことができた。」(p. 137)

サルは、おそらく相手が意図を持つ主体であるということを理解していないから、符合を理解することが出来なかったのだと、トマセロはいう。では、子供は、どうして符号の意味を理解できたのでしょうか。
それを考えて見ましょう。

もごもご、言っています

一昨日の日曜日、久しぶりに音楽会に行きました。

昨日の私の批判が正しければ、子供が自分を心を持った主体として理解すること、他者が自分の心とは独立の心を持った主体であると理解することは、同時です。それはシミュレーションによるのではありません。

もし、トマセロのように、コミュニケーションの体験を重視するのではなくて、他者が心を持った主体であることを理解するのは、think,want, believe, などの言葉を使用するようになって、“I think that ..” “I want …” “I believe that ..,”,などを習得した後で、それを他者に転移するのだという説明があるとすると、それについても、同様の批判が可能でしょう。つまり、”I think that …”を使用できるようになるときには、すでに”You think that ..” “He thinks that …”なども使用できるようになっていると思われるからです。(この説明は、不適当かもしれません。なぜなら、こどもが「私」や「あなた」の人称代名詞を何時から使い始めるのか、私には、まだ確認できていないからです。ご存知の方がいたら、文献を教えてください。)

ところで、私の批判は、シミュレーションによる説明の批判にとどまらず、このような変化の前と後の子供の理解の内容についても、トマセロと私の理解は違うかもしれません。
4歳以前の幼児は、自分の理解について他人から異議を唱えたり、自分の言ったことが他人に理解されないということを経験します。また他人の言ったことを自分が異議を唱えるたり、他人の言ったことが判らなくて質問することもあるでしょう。しかし、このことが起きたとき、4歳以前の子供は、理解についての合意が出来たときに、その理解を自分と相手が共有していると考えるでしょう。つまり世界の理解は、私に理解にすぎず、他人と一致することは原理的には確認しようがないのだ、とは考えません。つまり、理解するのは個人なのではなく、世界についての理解は、世界の一部なのです。あるいは、世界の理解と世界は同一なのです。世界の理解が、間違っているときだけ、それは世界と区別されるのです。ちょうど、我々が通常はコップの知覚をコップそのものから区別していないが、それが食い違ったときだけ、錯覚であるとして、コップの知覚をコップそのものと区別するように。
 では、4歳以後の子供は自分の心と他人の心をどう理解するのでしょうか。このように基本的に世界の理解は個人のものではなく公的なものでした。4歳以前の子供にとっては、世界の理解は公的なものであって、そのなかで、自分と他者では世界についての理解が異なる場合があること、それは偶然に食い違うのではなくて、自分と他者の世界理解は、それ独自の秩序を持っており、個別の対象についての理解ではなくて、その秩序がことなること、したがって、食い違いについてある予測が可能であるようになります。

なんだか、もごもごと、未整理なままに書いてしまいました。
4歳以後の子供の世界の理解をどのように理解すべきか、ということが「共有知」を考えるときに重要になります。ただし、この書庫では「共同注意と指示」を扱いたいので、これは、別の書庫で扱うことにして、話を少し戻すことにしましょう。

批判の開始

昨日はひな祭りでした

トマセロは、幼児が他者を心を持つ主体として理解するようになることを「シミュレーション理論」で説明するのですが、彼によるとHarris, 1991,1996 もまたシミュレーション理論で説明しているそうです。
Harris, P. 1991. The work of the imagination. In A. Whten, ed., Natural theories of mind, 283-304. Oxford, Blackwell.
Harris, P. 1996. Desires, beliefs, and language. In P. Carruthers and P. Smith, eds., Theories of theories of mind, 200-222. Cambridge U. P.

ところで、幼児が、他者を意図を持つ存在として理解するのは、9ヶ月頃なのですが、しかし、他者を心を持つ主体として理解するのは、4歳ころなので、この間に非常に時間がかかるのはなぜなのか、という疑問がわきます。

これに対してトマセロは、シミュレーション説では、子供が「自分自身の思考や信念を新しい仕方で理解するようになることが必要であり」235、そのために時間がかかると説明します。
それには、まず自分の心について言葉で語ることが出来るようになる必要があります。この言葉の習得に時間がかかるのです。とくに、think, want, believe などの言葉の習得が必要なります。そして、これについては、研究(Bartsch and Wellmann, 1995)があるのだそうです。
トマセロは、これに加えて、「言語的なコミュニケーションと言うプロセスそのものも重要である」と考えます。
自分と他者の心的状態の関係を理解する上で重要なコミュニケーションの体験として、
「意見の不一致と誤解」237 と 「コミュニケーションの失敗とその修復」238
を指摘しています。これらの体験を通して、自分が知っていることと他者が知っていることが異なることを子供は知るようになるのです。

トマセロのこの指摘は大変説得力があるようにおもいます。しかし、シミュレーション理論は、納得が行きません。そこで、そろそろ批判に取り掛かりましょう。

まず、4歳ころの子供が、他者を心を持つ主体として理解するようになることを、シミュレーションで説明することへの批判です。もしこれがシミュレーションであるとすると、子供は、自分を心をもつ主体として理解し、そのような自己理解を他者に転移して、他者を理解していることになります(トマセロは「転移」とは言いませんが、そういってもよいでしょう。)。

「誤信念課題」が示していることは、4歳以前の幼児は、自分の知ることと他者の知ることが異なることがありえるとは思っていません。つまり、自分が世界について知っていることは、世界をみれば誰でもわかると思っているのです。青い引き出しにチョコレートがあると私に分かっているのなら、他の人もそのことを当然知っていると思っているのです。(誤信念課題が解けない子供は嘘をつくことが出来ないだろうと思います。)

ところが、子供は、トマセロの指摘するように、「意見の不一致と誤解」237 と 「コミュニケーションの失敗とその修復」238の体験を重ねることによって、自分が知っていることと他者が知っていることは異なるということに気づくのです。つまり、自分が、他者から隔てられた心を持つことの理解と、他者が自分から隔てられた心を持つことの理解は、裏表の事柄として同時に成立するのです。したがって、ここには、自己理解を他者に転移するというような関係はありません。

もう一つのシミュレーション

urbeさん、コメントありがとうございました。
読むのが遅れてしまいましたが、昨日私が書いたことが、urbeさんのコメントに対する、応答になるだろうとおもいます。たしかに、赤ちゃんによる自分の意図の理解をどのようなものとして理解するかが、問題です。

代案を提案するまえに、もう少しトマセロの主張を確認しておきたいとおもいます。

幼児の発達心理学では「誤信念問題」というのが有名な事例です。それは、幼児は、自分が知っていることは他者も知っていると間違って信じているということです。この間違いをしなくなるのは、4,5歳なのですが、そのためには、他者が自分とは独立の心をもつ主体であるという理解が必要です。
このりかいについても、トマセロはシミュレーションで説明しようとします。

「生後9ヶ月で乳児が意図をもつ主体として他者を理解するようになることを説明するのにシミュレーションというプロセスを採用したのに続いて、本書では、幼児が他者を心を持つ主体として理解するようになることを説明するためにもシミュレーション説を援用する。」235

このシミュレーションは、「自分自身の思考や信念を新しい仕方で理解するようになること」(235)を前提すると考えられています。

指さし

次の3-1は3-2に先行していないという批判に対する、トマセロの反論はあいまいであった。
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」

トマセロの反論は、この時期の赤ちゃんはまだ言語をもたないので、自分の意図の理解といってもあいまいであり、自分の心的状態の概念化や言語化のレベルの話をそのまま適用することは出来ない、ということであろう。

しかし、トマセロの説明は、やはり他者の類推説の一種であるように思える。
それならば、そこでは、次の二つが前提になっているはずである。
①自分の心の状態の理解と、他者の心の状態の理解は、区別される。つまり、自他の区別が前提される。
②自分の心の状態の理解が、他者の心の状態の理解に先行する。

②に対する批判は前回見たとおりである。私は①に対する批判を行いたい。

ただし、トマセロに対する批判を進める前に、もう少しトマセロの理論を確認して起きたい。
(しかし、正確に紹介しようとすると、引用ばかりになり、そうすると著作権を侵害することになりそうで困ります。)

トマセロによると、
■9ヶ月ごろに、共同注意が出来るようになる。
■11ヶ月から12ヶ月にかけて、指差しを行うようになる。
この指差しは、赤ちゃんと他人と対象からなる三項関係的で「宣言的な身振り」(p. 119)である。
子供がどのようにして指差しを学ぶのかは、まだ分かっていないそうだ。しかし、「儀式化」と「模倣学習」という二つの可能性が考えられるそうだ。
(トマセロによれば、チンパンジーの身振りと同様の身振りは、以前から行われている。それは、他人へ向かったり、対象へむかったりするが、それらは「二項関係的」(p.118)であるという。それは、「模倣」によるのではなく、「儀式化」によるものであり、「信号(事柄の実行を実現させるための手続き)」であって「記号(symbol)(経験を共有するための慣習)」ではない(Cf. p.118)そうである。)

■他者を通してみた自分“me”を知る
赤ちゃんが共同注意ができ、他者の意図を認知するようになると、「赤ちゃんは自分のかかわりあっている相手が、意図をもつ主体であり、その人は赤ちゃん自身を知覚し、赤ちゃんに対して何らかの意図を向けているのだということが分かっているのである」122 つまり、他者から自己がどのように理解されているかを理解するようになる。トマセロは、このような自己は、ウィリアム・ジェームズとジョージ・ハーバート・ミードの、“me”に当たるという(Cf. p. 122)。
「自分について他者がどういう感情を抱いているかについてのこのような新しい理解が、はにかみ、自意識、そして自尊感情の発達の可能性を開く(Harter, 1983)。」(p.122)
「一歳の誕生日の頃にはじめて、赤ちゃんが他者の前や鏡の前ではにかみや気恥ずかしさの兆候を見せる(Lewis et al., 1989)。」(p.122)