16 攻殻機動隊の自我論(2)

 

16 攻殻機動隊の自我論(2)(20160307)

 

「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思を、ある一方向に向かわせたとしても、“孤人”が、複合体としての“個”になる程には、情報化されていない時代・・・」

 

この世界では、電脳化とネットワークによって個人の自律性は揺らいでいるが、しかしまだ個人の自律が尊重されており、基本的人権も認められており、他人の電脳に勝手に侵入することは「電脳倫理侵害」(92)として法律的に禁止されている。しかし、電脳ネットワークへの依存が強まっていくとき、個々人の自律性は相対的なものになり、ネットワーク全体が、一つの(あるいは複数の)「複合体としての“個”になる」ことが予想されている。(現在のところ私たちが、これについて何かを予測することは難しいように思われる。それは電脳ネットワーク化によって何が生じるのかが、よくわかっていないからである。その一部を考えたい。)。

 

 

1「攻殻機動隊」の自我論

 

電脳化されたネットワーク環境下で、直接に他の電脳化された脳や外部データとアクセスできるが脳は逆に外部からの侵入と操作の危険にさらされることになる。外部から脳の働きがコントロールされ、記憶が書き換えられることも容易に起こりうる。このような電脳化されたネットワーク環境下で「自己」の境界が曖昧になることが、この世界の基本設定であり、基本問題である。

 

(1)事例

●清掃局員がゴーストハックされ、妻子持ちで離婚されようとしているという疑似体験を持たされて、外務大臣の通訳にゴーストハックする犯罪に利用されていたケースで、荒巻部長は次のように言う。「疑似体験も夢も存在する情報はすべて現実でありまた幻なんだ」(荒巻)94ゴーストハックは「電脳倫理侵害」92とされる。

 

●「私時々『自分はもう死んでいて、今の私は義体と電脳で構成された模擬人格なんじゃないか?』って思うことあるわ」(素子)104

「そんなに人間と同質なロボットが創れたらそりゃロボットじゃなく人間なんだよね!違うのは外見だけ・・・」(タチコマ)104

 

●「ゴーストをダビングしたときにできる擬似ゴーストライン」240

記憶や感覚のコピーだけでなく、人格をコピーできるらしい。PCでいえば、CPUの機能含めてvirtualにまるごとコピーできるということだろうか。コンピュータ上にvirtualに実現した人格を、ある電脳の中に実装するときには、それをそのままコピーするのではだめなので、一工夫必要だろう。そのときに擬似ゴーストラインなるものができる。

 この作品では、人間のゴーストを電脳にダビングすれば、通常の場合には元の人間は死亡するとされている。

 

●外務省のプロジェクト2501「人形使い」は、「企業探査、情報収集、特定のゴーストにプログラムを注入し、特定の企業や個人のポイントを増加させるプログラム」(267)である。

しかし、この人形遣いが、いつのまにかゴーストを持つことになる。

AIではない・・・ 私は情報の海で発生した生命体(ゴースト)だ」247

「私はあらゆるネットをめぐり「自分の存在」を知った」267という。

(「人形使い」の話は、09Bye Bye Clay, 2030.07.1511Ghost Coast 2030.09.18

に登場する。)

 

●「装備に関してだが、いくつかの企業と共同で管理開発を行っている。銃器や義体もそうだが特殊素材部品の製造や交換等メンテ、それに関係して超純水や無菌工場などの設備は個人や部隊で維持できるものではない。ハイテクもネットの一部(端末)なのであって独立で活動維持しつづけられない。もちろんそれら関連企業から機密リークや企業に対するテロも想定して対処しなければならないので中々簡単ではない。」(欄外)141

 

 

(2) この世界の自我についての問い

 

問1:人工知能はゴーストをもてるのか、言い換えると、人間の脳と人工知能に原理的な区別があるのか?

 プログラム「人形使い」が、「一生命体として政治的亡命を希望する」と要求し、外務省の人間が「バカな自己保存のプログラムに過ぎん!」と応えたときに、人形使いは次のように反論する。「それを証明することは不可能だ。現代科学では生命を定義できないからな。」(246)

 この人形遣いは、いわゆるチューリング・テストをパスするだろう。人間の脳と人工知能に機能の上での原理的な区別がないということになる。そのとき、人間と人工知能の区別は素材の区別に過ぎないのではないか。素材の区別や、コンピュータの演算メカニズムの違い(量子コンピュータ、光コンピュータ、トランジスタ、などの違い)は、知能にとっての本質な区別ではない。

 では、クオリアはどうだろうか。「人間は、赤い林檎をみて、赤さのクオリアをもつ。音楽を聞いて、あるメロディのクオリアをもつ。しかし、コンピュータは、赤さやメロディについて、人間と同じように語れるとしても、クオリアを持たない。」と主張する人がいるかもしれない。それに対して人形使いは、「私はあなたと同じようにクオリアをもつし、それについて語ることができる。あなたがそう言うならば、あなたは私がクオリアを持っていないことを証明しなければならない。もし私がクオリアを持っていることを証明すべきだと言うのならば、まずあなたがクオリアをもつことを証明しなければならない。」と反論するだろう。そして、この反論に適切に答えることはできないだろう。

 

問2:人工知能プログラムが、「我思う、故に我在り」というとき、それは何処に在るのだろうか。

 TVシリーズの中のある回のタチコマ同士の会話の中で、タチコマが他のタチコマの頭部を開けるとそこは空っぽであった。そのとき、彼らの脳は静止衛星に積まれた一台のコンピュータであることを知ることになる。

 例えば私が「私は会議室にいる」と認識するとき、私は周りを見渡して、私の眼と頭部と身体が、会議室の中にあることを観察し、それに基づいてそのように答える。

 

  1私の身体は会議室の中にある(観察命題)

  2私の眼と頭部はその身体に付いている(観察命題)

  3私は頭のなかで考えている

  4故に、私は会議室の中にいる。

 

ところで3をどうやって証明すればよいだろうか。通常の人間の場合、分離能やロボトミーや脳内出血などで頭脳を損傷した人が、正常な思考ができなくなることから、人が思考するとき頭脳が働いていることは主張できるだろう。しかし、頭脳だけで思考していることは証明できない。(私たちの脳はミラーニューロンによって周りの人の脳とつながっている。後述)

 電脳化した人の場合、その人の思考は、おそらく頭脳のなかだけでは行われていないだろう。それは実質的にネットワークの他の場所で行われているかもしれないし、数カ所に分散して行われているかもしれないし、数百箇所に分散して行われているかもしれない。ネットワークに繋がっているとき、本人にも他人にも(通常の状態では)その思考がどこで行われているか分からない。

 ネットの中の情報の流れを調べる特殊なプログラムがあれば、それが可能になるかもしれない。そして本人がその特殊なプログラムを使用して、自分の思考がネットの中にどのように分散して行われているかをモニターすることは可能かもしれない。もちろんその特殊なプログラムによるモニターが、ネットの中でどのように行われているかを知るには更に、別のモニターが必要なる。しかし、仮にこのようにしてモニターできるとしても、その情報がそれほど重要であるとは思われない。電脳化された脳にとって、その場所の特定は重要なことではないように思われる。

 思考プロセス(精神)が存在する場所よりも、人格にとっては、身体の位置の方が重要であろう。もし精神がネットの中に分散しているとすると、身体は一つとは限らないだろう。人形遣いのように身体をもたずにネットの海をさまよっているかもしれないし、逆に身体を複数持つことも可能だろう(人形使いと融合した後の素子は、『攻殻機動隊1.5』では、複数の人型ロボットを操ることができる。)

 

 

問3:人工知能の精神と身体

・タチコマの場合

「フチコマはAI(人工知能)である。朝、あるいは1単位の仕事をはじめてから個別の経験をし、個体差が生じるが、夜あるいは一単位の仕事がおわると全機の記録(外的刺激の記録や自己状況の記録・全行動、思考記録etc)をネットして互いにデータリングを行い、次の朝あるいは、次の一単位の仕事を始めるときには再び均質なものとなっている。装備の点で個性はあるがこれとAIとしての均質性とはあまりカンケーがない。ただバトーは自分のフチコマを一機に限定しており他のフチコマは使用したがらない。このコトにあまりイミはないが。」(欄外)95

 

 公安9課のタチコマたちの頭脳は、静止衛星の中のコンピュータであった。そのとき、<そのコンピュータの中に、タチコマたちの複数の精神?が共存している>のか、それとも<一つの精神が、複数の身体(タチコマ)を持っている>のか。言い換えると、タチコマたちの会話は、<一台のコンピュータの中で作動している複数のプログラムの間のコミュニケーション>なのか、それとも<一台のコンピュータ内の独話>なのか。

 確かにタチコマ1台を一つの人工知能プログラムがコントロールしている。その人工知能プログラムは、同じコンピュータの中で走っている別の人工知能プログラムについては、身体運動、会話、そしてネットによる同期をとおして知ることができる。しかし、その同期をタチコマは切ることができる。同期を切ったら、他のタチコマが何を考えているかを直接に知ることはできない。

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・ネットの海の中での融合体やAI同士の関係

 ネットの海の中で複数のAIは原理的にはあらゆるデータベースを共有できる。

 AIプログラムが個体として存在する時、その記憶や感覚や思考を他のAIとは共有していない。ただし一時的に同期することはできる。

 しかしゴーストハッカーができるということは、ある領域に鍵を掛けても、原理的には他のAIをハッキングできる(これは本作世界では法律で禁止されている)。AIをハッキングしコントロールすることは融合することではない。

 ネットの全体が一つのAIにハッキングされ、個々のAIは自律的に働いているつもりだが、実際にはそうではないとしたらどうなるだろうか。

 このときこの唯一のAIは誰とも対話せず自己とモノローグするだけである。

電脳化されたネットワークの中では、自分が誰かにゴーストハックされている可能性、あるいは唯一のAIにすべての人がゴーストハックされている可能性を否定するには、どうすれば善いだろうか。それをするには自由や自律性を定義する事が必要である。

 

問4 自然脳(素子)と人工知能(人形使い)の融合

プログラム「人形使い」は、「AIではない・・・ 私は情報の海で発生した生命体(ゴースト)だ247私はあらゆるネットをめぐり「自分の存在」を知った267という。

 

人形使いが素子に問う

「あるネットが破局を避け、安定した平衡状態を保つ為にはどうする?」

素子が答える。

「二つの方法があるわ。一つは二種のコピーを取る事。一方一種が何ら観お要因で滅んだとしても他方が存続するわ。もう一つは自己内部を分業、細分化し様々なタイプの破局に対応できる様に多機能化する事。生物が単機能単細胞から多機能他細胞化した様にね。」

これを踏まえて人形使いは言う。

「私は以前『自分は生命体だ』と言ったが現状では未完成な水蛭子にすぎん。なぜなら私のシステムには廊下や進化の為のゆらぎや自由度(あそび)が無く、破局に対し抵抗力を持たないからだ…コピーをとって増えたところで『一種のウイルスで例外なく全滅する』可能性をもつ…コピーでは個性や多様性が生じないのだ。」

 

人形使い「多様性やゆらぎを持つ為 君と融合したいのだ」340

素子「私に多重人格にならないかって!? 冗談じゃない お断りよ バカ」

人形使い「多重ではなく完全
な統一…融合だ―― 君も私も総体は多少変化するが失う部分はない…強制よりも統一された概念だ…融合後、互いを認識することは不可能なはずだ」
(340)

素子「それじゃ私が死ぬ時どうするの?遺伝子は当然模倣子としても残れないわよ!」

人形遣い「融合後の新しい君は事あるごとに私の変種(グライダー)をネットに流すだろう・・・人間が遺伝子を残すようにね・・・そして私も死を得るわけだ・・・」

素子「ロボットの人類消去計画に手を課す事にならないって保障ある? 私が私でいられる保障は?」341

人形使い「前者の保障はない――だが君と私からそのような低知能の変種が生じる格率は低く 生じた場合 外の多数の私の子孫がこれを消去するだろう・・・」341

「後者の保障は全くない――人は常に変化するものだし私もその機能を欲している…」341

素子は、これを受けれて融合する。

 

・人工知能という種の保存

ここでは、人工知能プログラムは、いわば自己保存のために、素子との融合を希望している。人工知能プログラムも時間とともに記憶や経験知の差異を持つようになるだろう。しかし、しかしプログラムとしては同型だから、一種のウィルスで全滅する可能性をもつ。人間で言えば遺伝子レベルの多様性にあたるプログラムレベルでの多様性を獲得することが種(?)の保存には望ましい。品種の異なるコメはほぼ似ているだが、それを実現するプログラム(遺伝子)が異なり、一種のウィルスで全滅する可能性が少ない、ということだろうか。

 

・不死なる融合体

素子と融合したとき、その融合した精神、思考プロセスはどこに素子の自然脳を一部とするがネットの中に分散して存在するだろう。この融合体は、素子の自然脳が死んだとしても、ネットの中に存続するだろう。融合体は、ウィルスや停電が無い限り、原理的には不死である。

 

・どうやって融合するのか?

二つの人工知能プログラムの融合を考えても、それが記憶やセンサーや身体機能の共有、同期でなく、どうやって融合するのだろうか。一方のプログラムが他方のプログラムを部分プログラムとしてコントロールするのでは、他方は自律性を失い人工知能ではなくなってしまう。両方が自律性を持ったままだとすると、二重人格になってしまう。

 

・なぜ素子は融合に同意したのか?

 素子にとっての融合のメリットについて、人形遣いは「私のネットや情報や機能をもう少し高く評価してもらいたいね」という。しかし素子はそれらのために同意したのではないだろう。「申し出を受けるわ・・・私も何かを予感してたのよ・・・融合してみましょ!

 融合後の素子は、後日バトーに融合を勧め、バトーの「融合したらどうなるわけ?」という問いに、「あなたは知ることになるわ。これが宇宙の種子(シード)だって事や・・・『情報の高効率パッケージ』…生命の偉大さをね・・・」346

 

・この融合の後、素子は公安9課を去る。その後の素子については、『攻殻機動隊2』で描かれる。ここでの素子は、その後3回の融合を繰り返し、複数の同位体をもっているという設定になっている。(この作品世界の分析は準備が間に合いませんでした)。<
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問5 人間の脳やAIは外部とどう関係しているのか。

 

位相1、人間の脳やAIは物理プロセスであるので、それが動くために物質代謝や電力などを必要とする。開放システムを維持するための、熱エネルギーなどの入出力を必要とする。

 

位相2、人間の脳や高度な動物(霊長類)の脳は、ミラーニューロンで他の個体の脳と結合している。ミラーニューロンを前提にして、言語の獲得が可能になる。

 

 

*「ミラーニューロン」Wikipediaより

ミラーニューロン(: Mirror neuron)は霊長類などの高等動物内で、自ら行動するときと、他の個体が行動するのを見ている状態の、両方で活動電位を発生させる神経細胞である。他の個体の行動を見て、まるで自身が同じ行動をとっているかのように""のような反応をすることから名付けられた。他人がしていることを見て、我がことのように感じる共感(エンパシー)能力を司っていると考えられている。このようなニューロンは、マカクザルで直接観察され、ヒトやいくつかの鳥類においてその存在が信じられている。ヒトにおいては、前運動野下頭頂葉
においてミラーニューロンと一致した脳の活動が観測されている。

 

ミラーニューロンはイタリアにあるパルマ大学のジャコーモ・リッツォラッティGiacomo Rizzolatti)らによって、1996年に発見された。彼らは手の運動、例えば対象物をつかんだり操作したりする行動に特化した神経細胞を研究するために、マカクザルの下前頭皮質に電極を設置した。この実験において、彼らはマカクザルがエサを取ろうとする際の、特定の動きに関わる神経細胞の活動を記録していた[8]。その際に彼らは、実験者がエサを拾い上げた時に、マカクザル自身がエサを取るときと同様の活動を示すニューロンを発見した。その後、さらなる実験によってサルの下前頭皮質と下頭頂皮質の約10%のニューロンが、この''の能力を持ち、自身の手の動きと観察した動きの両方で同様の反応を示すことが分かった。

 

位相3 言語によるコミュニケーション

 

位相4 電脳化による外部データへの直接的なアクセス

 本作世界では、「2015年 記憶の機構が解明され、記憶を記録情報とする技術を手に入れる」とされる。記憶の記録情報化ができれば、それをコピーしたり転送したり実装したりできるだろう。記憶は、知識の記憶、過去の経験の記憶(長期、短期)、ノウハウの記憶などに分けられる。感覚や知覚の情報のデジタル化の方は、より簡単だろう。

15 「攻殻機動隊」の自我論

 
15「攻殻機動隊」の自我論 (20141020)
 
しばらく、音信不通で失礼しました。取り上げたいテーマはあるのですが、本来の仕事、つまり論文と講義があって、うまく時間が取れませんでした。
 
さてしばらく「攻殻機動隊」の自我論を論じたいと思いますが、これは書庫「物理主義からの倫理」に続くべきテーマでもあります。「物理主義からの倫理」では、心についての物理主義ないし消去主義を採用したときに、法や道徳はどのようなものになるのか、あるいは消去されるのか、を考えようとしました。そこでの答えは未決定のままになっています。その問題を考えるときに、人が道徳や法の責任主体となりうるかどうかを検討しましたが、個人が(自由ではないとしても)主体であることを前提して議論しました。しかし、物理主義の時代になっても、個人が主体であり続ける保証はありません。一方で、個人は、分人に解体するかもしれません。他方で、個人はネットワークにつながることによって主体性を喪失するかもしれません。後者の可能性を考えるときに、「攻殻機動隊」の世界観は非常に興味深いものであり、その自我論を検討する価値があるあると感じました。この流れでは、いずれ別途書庫を立てて追究したいと思います。
 
他方で、「攻殻機動隊」の自我論は、戦後日本の自我論の流れの中でも重要な位置を占めると思います。そこでそれを戦後日本の自我論の中に位置づけたいとおもいます。「近代的個人」に対する批判は、戦前からありました。それは個人を「社会的諸関係の総体」として捉えようとする見方であり、右翼も左翼もこの点に関しては一致して、近代的個人を批判してきました。しかし1990年ころから戦後思想は大きく変化してきているように思われます。自我論は重点を物語論や多元主義に移してきており、そのなかで「分人主義」も現れてきました。「攻殻機動隊」(士郎正宗の原作1989年)の自我論は、個人が分人に分かれるというより、個人がネットを介してつながり、その意味で個人を超える、あるいは個人性を喪失するという事態を捉えています。「分人主義」と逆方向の展開ですが、しかし互いにリンクするところも多いと予想します。分人主義との関係、あるいは戦後自我論の中での位置づけについては、あとで考えることにして、まずは「攻殻機動隊」の世界観、そこでの自我論、そこで提起される自我に関する問いの確認を行いたいと思います。
 
ここでは、攻殻機動隊のストーリーやキャラクターは扱いません。大塚英志の指摘するように、物語は、世界観とストーリーとキャラクターに分解できるでしょう。ストーリーは、さらに要素物語に分解され、その要素物語の直列や並列から構成されるシークエンスだと言えるでしょう(プロップとそれに続く物語論はこれを研究してきました)。ここで紹介し考察したいのは、「攻殻機動隊」の世界観とりわけ自我論です。
 
本作世界の基本的な技術は、「電脳化」と「義体」であり、Wikipediaの項目「攻殻機動隊」によると次のようなものです。
 
「脳にマイクロマシンなどを埋め込み、人間の脳とコンピュータネットワークを直接接続したバイオネットワーク技術。脳そのものを機械に変えてしまうことも電脳化と呼び、制御ソフトを導入するタイプの高性能な義足・義手などはこの電脳化を施す必要がある模様。」
 
「本作世界におけるサイボーグ技術。義手、義足、人工臓器の概念を全身に拡張、草薙のように、脳と基幹神経系だけを残してほぼ全身を人工物に置換したり(完全義体化)、逆に電脳化を行わず肉体だけ義体化することも可能。」
 
登場するのは、電脳化した人間、義体化した人間、その両方を行った人間、それから人工知能を搭載したロボットです。このような世界で、電脳化によってつながった人間はどうなるのか、ネットでつながったロボットは、人間と同じようになるのか、作中では「ゴースト」を持つようになるのか、という言い方をされています。
 
本作の世界観は「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」の冒頭で次のように表現されている。
 
「あらゆるネットが眼根を巡らせ、光や電子となった意思を、ある一方向に向かわせたとしても、“孤人”が、複合体としての“個”になる程には、情報化されていない時代・・・」
 
 

 
 

14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」

                                  森のなかは涼しいです。今日は大阪に戻りましたが、また森のなかに戻ります。
 
14 「内面」の登場と「近代家族」の「愛情」(20140828)
 
 近代における生活と労働と教育の分割、個人が複数の役割を生きることによって、それらを一つにまとめるために個人の内面が生じたのではないかと推測する。「近代家族」にとって夫婦や親子の「愛情」による結合が重要になったと言われることもまた、生活と労働と教育の分割が原因になっているのだと思われる。つまり、役割分割による家族の分離を補償するものとして「愛情」が必要になったのだと思われる。もちろん、生活と労働が分離することによって、大家族から核家族に変化したこともその一因であろうが、それだけでは「愛情」の重視を説明できない。ルネサンスに描かれ始める愛らしい子どもや女性の表情は、「愛情」の重視の現れである。ルネサンス期の肖像画や自画像は同時に個人の「内面」を描こうとしている。
 
 ところで、役割分割は更に進み、分人主義に行き着いている。このことは、「近代家族」の崩壊と結合しているに違いないが、どのように結合しているのだろうか。役割分割が分人化にまで進んだ背景には(以前に述べたように)社会の多元化があるのだとすると、「近代家族」の崩壊の背景にも社会の多元化があるのだろうか。「近代家族」の崩壊は、「無縁社会」と関係し、「無縁社会」は社会の多元化と関係している。グローバル化のもたらす厳しい競争が、人間関係をすりつぶし、家族を破壊し、無縁社会を作り出し、個人を分人化させ、分人としてかろうじてアイデンティティを保持しているのだだろうか。分人主義にはポジティヴな側面もあると思うのだが、現代日本ではそのネガティヴな側面ばかりが目についてしまう。
 
   分人主義は、「私とは何か」への答えになりうるのだろうか?
 平野啓一郎は、「私とは何か」の問いへの答えとして、分人主義を提案した。しかし、それは答えになりうるのだろうか。確かに複数の異なる分人を生きている人に、「対人関係ごとに見せる複数の顔が、すべて「本当の自分」である。」「たった一つの「本当の自分」など存在しない。」ということが救いになるのかもしれない。
 しかし、それでも自分がどのような分人を行きており、それら複数の分人の関係を調整する必要があるのではないだろうか。それとも複数の分人の関係を調整することが必要だと考えることが、そもそも唯一の「本当の自分」があると考えることに由来する間違いなのだろうか。
 子どもたちが教室で割り振られたキャラを演じようとしたり、演じることを強制されたりする、という斉藤環の指摘(斎藤環『承認をめぐる病』日本評論社)を読むと、教室でのキャラを「本当の自分」だと考えられる子どもたちはむしろ少ないのではないか思われる。そのような子どもたちには、複数の分人の調整が必要になるだろう。
 逆に次のようにも言えるだろう。現代社会における分人化の進行によって、自分とは何かという問いに答えることは、より困難になり、より切実なものになってきたと言えるのではないか。分人化が「自分探し」ブームの原因になっているのではないか。
 
 

 

11 グローバル化による主体の多元化

                                  暑い夏の 開始を告げる 蝉の声
 
11 グロー バル化による主体の多元化 (20140731)
 消費社会論から自我の多元化を説明することは、しばしば行われるが、もう一つ説得力にかけるような気がする。なぜなら、1980年代のバブルの時代に盛んだった消費社会論が、バブルの崩壊後はあまり活発でないからである。
 そこで前々回の話に少し戻らせてほしい。前々回に、冷戦期の自我論を、
  ①近代的主体
  ②伝統的日本的自我論
  ③マルクス主義的主体
に分類した。②と③は共に近代的主体を批判し、主体を他のものとの関係において捉える。②と③の違いは、その「他のもの」の理解の仕方である。
 マルクス主義は、「フォイエルバッハ・テーゼ」の第6テーゼにあるように、「人間は社会的諸関係の総体である」と考える。現代では、その「社会的諸関係」は、資本主義的な生産関係という経済関係を中心にしたものとして理解されるだろう。この「社会的諸関係」は、時代、地域によって異なるはずであり、人間のあり方を、具体的に検討するには、社会を特定して議論が必要になる。
 伝統的日本的自我論では、その関係は例えば、和辻哲郎の「人間」論のように、あるいは濱口恵俊の「間人主義」のように、人間と人間の関係として考えられるだろう。全ての人間関係は、社会的関係に媒介されているはずであるが、ここでは素朴に人間と人間の関係が考察されているように思われる。その関係は、時代を超えて日本社会に妥当するものとして理解されているのかもしれない。あるいは、それは日本人の間で強く意識化されているが、原理的には日本人の人間関係にかぎらず、人間一般の普遍的な存立構造として理解さているのかもしれない。つまり、時代と社会を超えて、普遍的に成り立つこととして考えられているのかもしれない。
 近代的主体に対する批判は、②や③に限るものではない。西洋でも、構造主義による実存主義批判や、共同体論者によるロールズの「負荷なき自我」に対する批判や、ルーマルのシステム論や、ウィトゲンシュタインの私的言語批判や、フーコーの規律訓練型権力に対する批判や、社会構築主義など、多様な批判が行われている。
 さらに遡るならば、近代的主体への批判は、フィヒテやヘーゲルの「承認論」に既に始まっているということもできる。これらの批判は、いずれも主体を実体として捉えるのではなく、関係において存立するもの、あるいは関係そのものとして存立するものとして理解する関係主義的な主体理解である。
 このような関係主義的な主体理解からの「近代的主体」に対する批判は二種類に分けることができる。一つは、歴史と社会を超えた人間の普遍的なあり方の考察から、近代的主体を批判するもの、もう一つは、論者の生きているある歴史のある社会において「近代的主体」は成立しないという批判である。上に見たように、マルクス主義からの批判の中には、二種類の批判がありうるだろう。日本的な主体理解の立場からの批判も、二種類の批判がありうるだろう。この二つの観点を区別に注意しておくことが明確な議論のためには不可欠である。
 関係主義的な主体理解は、近代的実体的個人主義的な主体への批判として登場してきたので、最初にはその批判に重点がおかれるが、その次には、関係の中で主体がどのように成立し構成されているかの説明に重点が移ってくることになるだろう。大庭健の「責任=呼応可能性」の議論はその一つだと言える。(ちなみに、永井均の〈私〉論、および永井均と大庭健の論争は、それ自体大変興味深いし、また戦後自我論において重要な位置を占めるに違いないのだが、それをどのように位置づけたらよいのかは、いまだ思案中である。)
 
 さて、1990年代以
後の「自分探し」ブームの中で登場した新しい概念として、多元主義と物語論という二つの自我論があげられる。もっともこれは日本に限らない世界的な傾向である。そのうちの「多元的な主体」に話しを戻そう。
 関係主義的な主体理解を認める時、主体そのものが分裂すること、あるいは多元化するとは、主体を構成する社会的諸関係が分裂すること、あるいは多元化することである。では、主体を構成する社会的諸関係の分裂ないし多元化は、どこにどのように登場しているだろうか。
 平野啓一郎が言うように、コミュニケーション手段の多様化、人間関係の複雑化によって、家庭や職場やインターネットサイトやNPOなど様々な社会空間が分裂しており、そのためにある人が演じるキャラが社会空間ごとに異なる。
 ただし、それだけでは理由として不十分ではないだろうか。もし国民国家が、究極的にはこれらの社会空間を一つに統合しているのだとすると、それぞれのキャラも一つに統合可能であろう。つまり、社会空間ごとの複数のキャラの使い分けは、一つの人格に属するものとして統合される。フーコーによれば、近代主権国家の規律訓練型権力が、個人の欲望を抑圧するだけでなく、他方で個人の欲望を生産し、欲望の編成によって、近代的主体を生み出したのである。この理解からするならば、主権国家と近代的主体は構造的な補完関係にある。従って、主権国家は、個人を構成する社会的諸関係、諸空間を編成しているのであり、それらは主権国家によって統合される。
 
(注、ドゥルーズがいうように、「規律社会」から「管理社会」への変化が20世紀初頭に起こっているのだとしても、主権国家が存続する限り、それが社会的諸関係を管理統合するだろう。ちなみに、この「管理社会」は、第一次大戦頃から登場すると言われる「総力戦体制」に対応するのかもしれない。)
(注、私は書庫「問答としての経済」で述べたように、近代的「個人」は資本主義経済の中で誕生したと考えるが、近代主権国家(近代的主体)と資本主義社会(近代的個人)の関係の考察は、今後の重要な課題である。)
 
 しかし、グローバル化のなかで、主体を構成する社会関係が国民国家を越えてグローバルに広がっているのだとすると、それらの社会関係を国民国家が統合することはできない。したがって、主体を一つに統合するものはなくなる。主体を構成する社会的諸関係の多様化が、原理的に国民国家の中に収まらなくってきていることが、主体の多元化を引き起こしているのではないだろうか。グローバル化における人、物、金、情報の国境を得た移動が、私たちを構成する社会的諸関係を国民国家で統合できないものにしている。
 
(注、それを歓迎しないものは、ナショナリズムを復活させようとする。しかし、人々が好むと好まざるに関わらず、どうやら経済のグローバル化は不可避的に進んでゆく(右翼政権ですら、TPPを推進する。なぜなら経済の国家間競争に勝つためにそれが必要だからである)。つまり、好むと好まざるに関わらず、主体の多元化は不可避的に進んでいくだろう。それに反応して、ナショナリズムは執拗にバックラッシュする。国家というシステムをナショナリストに委ねてしまうことは非常に危険である。それを避けるには、グローバル化の進展の中に、過渡的であれ、国家システムを適切に再設定する必要がある。グローバル化の中で、国家に求められるのは、国内的および国際的な再分配機能ではないだろうか。
 安倍政権は、一方では、TPPを推進し、法人税をさげ、グローバル化に棹さしており、他方では、国内の再分配は消費税で行おうとするので余計に格差を拡大し、その不満をナショナリズムにむけ、「いつでも戦争できる国家」(総動員体制)を作ることによって、主権国家を維持しようとしている。)
 

 
 

10 大衆消費社会から自我の多元化へ

 

今日は巴里祭です。フランス革命をジャスミンティと中華料理で祝いました。

 
10 大衆消費社会から自我の多元化へ (20140714)

 
社会学者浅野智彦は『「若者」とは誰か アイデンティティの30年』(河出ブックス、2013)において、大衆消費社会と関係付けて、自我の多元化を説明しているので、それを紹介したい。まず1980年代のバブルの頃に、消費社会論が流行したが、当時のボードリヤールのガルブレイス批判などに依拠しながら、浅野は次のように指摘する。
 
「自分を選ぶという営みが消費という形式を取ることによって、誰にでもできるようになる。これが80年代におこったことなのである。あるいは、こういってもよい。消費とこのような形で結びつくことではじめて自分らしさは多くの人々によって追求されるべきものへと昇格したのである。」(同書60
 
浅野は、80年代における消費と自己のむすびつてきは、次の四つの効果をもったという。
 
「消費と自分との結びつきは、以下の様な四つの効果を持った。第一に、それは1960年代以来伏流してきた本当の自分、自分らしさという問題系にだれもがアクセスできる手軽な回路を与えた。第二に、その結果、自分というものが自分自身の選択と構成の結果であるという感覚が定着していった。第三に、本当の自分、自分らしさというものが虚構に拮抗する現実の重さとして希求されるが、第四に、いかなる「ほんとうの自分」も結局はもうひとつの虚構であるという感覚がそれとともに台頭する。」63
 
1980年代に入ってからの社会学的自己論は、1980年代に醸成されたこの感覚を理論的言語に翻訳することによって成り立っていたようにも思える。すなわち、自己とは社会的に構成されたものであり、また自己について語る物語として成り立つ」63
 
浅野は、ここで、消費社会論による自我論が、自我の多元化だけでなく、自我の物語的構成へも通じることを指摘しているが、これについては、別途扱うことにして、このような消費社会論から、90年代以後の「自己の多元化」への道筋について、浅野は次のようにまとめている。
 
「本当の自分、自分らしさといった問題系が消費という触媒を得て大衆化された後、いったい何が起こるのか」
第一に、自分らしさ志向、「個性尊重」の名のもとに学校教育の中へ。そして「やりたいこと」志向へと形を変えながら職業労働の領域へ広がっていく。
第二に、「自己を選択するという問題が前景化すると同時に、その選択の準拠点としての対人関係やコミュニケーションの重要性が急上昇していく。「コミュニケーション不全症候群」してのオタクから「非コミュ」としての「引きこもり」「ニート」、あるいは企業が求める資質としての「人間力」「コミュニケーション力」「コア・コンピタンス」まで」64 80年代の消費社会論からの自我論から、90年代のコミュニケーショ
ン論からの自我論への変化がみられる。
第三に、「対人関係への敏感さが上昇するにつれて、その都度選択的に構成される様々な自己の間の齟齬が徐々に大きくなっていく。一人の人間の中の多元性が次第に目につきやすくなっていく」65 例えば、「キャラ」という言葉は、「多元的自己の個々の部分的な人格を指し示すものと理解することができる」65
第四に、「関係によって規定される自己と自分の内側にあるはずの「かけがえのない」「個性」としての自己との間の矛盾が耐え難いものになってきたときにそれを緩和するためにいくつかの戦略が開発されることになるだろう。」65
 
これを手短にまとめると、次のようになるだろう。
・消費社会の中で、自分らしさは消費を通して構成されるものになる。
・自己は、学校教育や職場の中でコミュニケーションを通して構成されるものになる。
・ひとは、対人関係ごとに構成された「キャラ」ないし「分人」を生きることになる。
 
 

 

9 日本における戦後自我論の変化:冷戦中と冷戦後

               もうすぐ梅雨明けです。しかしその前に台風が来そうです。
 
9 日本における戦後自我論の変化:冷戦中と冷戦後 (20140707)
 
明治以後の日本社会にとって、最も喫緊の問題は、
  「西洋社会にどのように対応するか」
であった。それに対する答えとして提出されたものは、大きく次の3つに分けられる。
  1、近代主義:西洋の社会制度や学問や文化を取り入れること
  2、日本主義:
  3、マルクス主義
明治以後の日本の人文社会科学は、15年戦争の前も後もこの3つの立場を追求してきたといえるのではないだろうか。(社会学や政治学での日本研究では、15年戦争前と後との連続性に注目する研究が多くなされているが、その傾向とも一致するのかもしれない。)京都学派は、西洋哲学を研究しつつも、2を再構築しようとしたといえるだろう。また1への批判は、資本主義への批判でもあり、それに対する社会構想として、ファシズムと共産主義があったと見ることもできるだろう。
 自我論に関しても、同様の3つの立場が中心になってきたと思われる。
  1,近代的主体
  2,伝統的日本的自我論
  3,マルクス主義的主体
戦後思想は、主体性論争に始まるが、そこでは戦後復興を担うべき主体のあり方について論争が行われた。現実における日本人の自我の有り様は、伝統的な日本的なものであり、それは批判的な仕方で『菊と刀』『「甘え」の構造』『タテ社会の人間関係』などに描かれた。それに対して実現するべき自我のあり様として、「近代的主体」(大塚久雄、丸山正男)や革命の担い手となるマルクス主義的な「主体性」が論じられた。
 そして、このような戦前戦後の議論の枠組みは、1989年の冷戦集結、1991年のバブル崩壊、によって大きく変化した。明治以後、西洋に追いつこうとして進められてきた近代化が経済的にはバブルの時期に達成されたこと。冷戦後、マルクス主義が力を失ったこと。バブル期にもてはやさされた日本的経営が冷戦後のグローバル化時代に通用しなくなったこと、などがその原因である。バルブル後の金融問題、財政赤字問題、高齢化問題、年金問題、など日本社会の問題を解決するモデルをもはや欧米に求めることはできなくなり、「西洋社会にどう対応するか」という明治以後の喫緊の課題そのものが、重要性を失った。そのため、従来は、西洋社会や西洋の文化の研究を最重要の課題としてきた日本の人文社会科学は大きく変わり始めている。。(これについては、以前に書庫「グローバル化のゆくへ」でどうようのことを論じました。)
 このような中で自我論もまた、1990年代以後大きく変化している。1990年以後、「自分とは何か」という「自分探し」がブームとなり、多くの自我論、自己論、が出版されている。このような1990年以後の自我論にあらわれた新しい論点として目につくのは、多元主義物語論である。
 この二つの論点は、日本に登場した思想というよりも、欧米で登場し日本に輸入されたものというべきかもしれない。それにしてもなぜこの二つの論点が、冷戦後の世界や日本で重要な論点になったのだろうか。それに対する一つの解答案は次のようなものである。
 
size=”3″> 冷戦後の世界ないし日本社会にとっての喫緊の問題は何だろうか。それはおそらく、
  「私たちは、グローバル化にどう対応するべきか」
という問いであろう。この問いの「私たち」とは誰のことだろうか?
 この問いの「私たち」が日本国や日本国民であるならば、「日本は、グローバルな国際競争に勝ち抜くにはどうすべきか」という問いになり、これまでと同様に、そのためには「国民総動員が必要だ」というような回答がなされるだろう。この場合、「グローバル化」は、黒船のように外からやって来るものとして理解されている。
 この問いの「私たち」が、国家を離れた個人や、地球市民であるならば、「私たちは、グローバル化をどのような方向に進めるべきか」と問うことになるだろう。あるいは、グローバル化をグローバル資本主義と狭く取るならば、「私たち市民は、資本主義のグローバルな展開にどう対応するべきか」となるだろう。
 「私たち」の社会にとっての喫緊の問題のこのような多義性、多元性が、冷戦後の社会や「自我」の多元化の原因ないし理由であると思われる。
 ただし自我の多元化については、大衆消費社会と関係付けた説明も提案されている。次にそれを検討しよう。(物語論については、さらにその後で考察したい。)
 

 
 
 
 
 
 

8 分人主義と役割論の比較2

 
 
 

集団的自衛権を認める解釈改憲が閣議決定されてしまいました。
 
8 分人主義と役割論の比較2 

(20140630) 

 
 分人主義と役割論との比較をしようとしているのだが、ある種の困惑を感じる。それは、一方で、分人主義は、現代社会において登場しあるいは強化されている、現代に固有の、自我(主体、個人、自己)のあり方を主張しており、他方で、役割論は、時代や社会を限定せず、人間ないし人間社会に普遍的に成立している主体のあり方を主張しているのではないかという疑念である。もしそうならば、これらの前提の違いを無視して単純に比較することはできない。そこで、まずこの疑念を確かめたい。
 廣松が、『存在と意味』第二巻などで「実践的な世界」を分析するとき、それは特定の時代や社会を超えて、一般的に妥当に妥当する事柄を分析しているのだと思われる。 廣松は、『世界の共同主観的存在構造』(1972)の「II」の「一 共同主観性の存在論的基礎」の冒頭で、考察対象について次のように述べている。
 
「世界観の地平は歴史的・社会的に相対的であり、学問的な世界観といえども当代の「日常生活体験」に根ざした「民衆的先入見」(マルクス)の大枠を端的に超出することは不可能であって、結局のところ“世人の日常的な世界了解の構図”を準拠枠frame of referenceにせざるをえない。[…]われわれとしては、それ故、日常的な世界像に流目するところからは始め、そこにおける存在論以前的Vor-ontologischな了解の構えに遡って問題点を剔抉しておく必要がある。」(『世界の共同主観的存在構造』135
 
 廣松は、とりあえずは「当代」の「日常的な世界了解」を準拠枠にせざるを得ないという。つまり、1970年前後の日本社会についての“常識的な理解”を準拠枠にするということである。しかし、その考察は、「歴史的・社会的に相対的な」側面を「超出」して、時代や社会に限定されない原理的一般的な考察を目指しているのだろう。
 しかし、例えば役割理論に関して、役割は、原始共同体、古代国家、近代資本主義国家、グルーバル化する現代、のそれぞれで大きく異なるのではないか、それらの社会に共通する役割のあり方を考察をしても、それぞれの社会の本質的な特徴を捉えきれないのではないだろうか。例えば、資本主義による「物象化」についての廣松の分析は、「実践的世界」の分析に生かされていないように思われる。なぜなら、その「実践的世界」は、資本主義社会に限らない、より一般的な社会として対象になっているからである。
(もしこの指摘が正しいとすると、これは廣松哲学の重大な惜しまれる点になるだろう。それは私たちの課題かもしれない。もちろん役割理論の研究の中には、時代と社会を限定した研究、現代社会や日本社会の役割論の研究がすでにあるのかもしれない。)
 
 では、分人主義の方はどうだろうか。それは自我のあり方の現代的な特徴なのだろうか。それとも特定の時代と社会に限らない、普遍的な「自我」の理解なのだろうか。平野啓一郎はおそらく前者を考えている。彼は『私とは何か』の冒頭で次のように言う。「むしろ問題は、個人という単位の大雑把さが、現代の私たちの生活には、最早対応しきれなくなっていることである」(3)
 では、ムフの「主体位置」はどうだろうか。この概念は、エルネスト・ラクラウとシャンタル・ムフの共著『民主主義の革命』西永亮、千葉真一訳、ちくま学芸文庫(2012)(原著1985ではじめて導入されたのではないかと思われる。彼らは当時の資本主義社会の分析のためにこの概念を用いているが、それをローザ・ルクセンブルクの分析を参照しつつ導入するので、1980年代の資本主義にかぎらず、20世紀の資本主義に通用する概念として考えているのかもしれない。彼らは、おそらく時代と社会を越えて人間に普遍的に妥当する概念だとは考えていないだろう。
 
 廣松の役割理論は、普遍的な社会理論であった。それに対して分人や主体位置の概念は現代社会ないし現代資本主義社会における自我論ないし主体論として考えられていた。これを考慮した上で、アプローチの仕方を再考したい。まずは、大きな見取り図を示すことにする。
 
 
 

 

7 分人主義と役割論の比較

 

いつも通りすぎるのですが、先日はじめて中津川に立ち寄りました。
駅前の蕎麦屋さんがとても美味しかったです。
 

7 分人主義と役割論の比較(20140623)

 「分人」概念をより明確にするために、「役割論」との違いを確認したい。
 廣松渉は『存在と意味』第二巻で、「実践的世界」を扱う。廣松は、実践的関心に対して、対象は、「実在的所与」以上の「意義的価値」として現前し、主体は「能為者誰某」以上の「役柄者或者」として現存在するという。つまり、私たちが行為する時、対象は何らかの価値をもったものとして現れ、主体は何らかの役割を背負ったものとして登場する。
 彼はこれを「用在的世界の四肢構造」と呼び、つぎのように整理する。
  用在的財態の二肢性(実在的所与―意義的価値)
  人格的主体の二相性(能為者誰某―役柄者或者)
ここで「役柄的或者」と言われているものは、「役割」とほぼ同じものと考えてよいだろう。一人の人は、父親、夫、子供、会社員、お客、などの複数の役割をもつ。人格的主体の行為のほとんどは、役割行為であり、役割行為とは、他者の期待を察知し、目標を実現することであるとされる。夫々の役割行為は、他者の役割との共互構造(順次交替的、並行共業的、同時相補的)をもつ。
 廣松の役割論がユニークな点は、社会的な役割や個人の存在を前提せずに、むしろ役割行為を通して、社会な様々な役割や人格的主体が存立すること(構成されること)を示そうとする点である。(これはフォイエルバッハや、ミードや、レーヴィットの先行する仕事の影響を受けている。)
 それでは、人格は役割の束なのであろうか。廣松はそのようには考えず、「「人格的特性」は「役柄規定の束」に還元されるべくもない」(第二巻p142)と述べている。例えば野球監督という役割を持つ人々の間にも個性の差異があることを指摘して、その個性は、役割から独立して各人が持つものであるとする。したがって、その個性は「当該人物の非社会的=自然的な特性」142として思念される、という。
 個性を持つ人物主体が、ある役割を持つものとして、行為する、という二肢構造を主張するのであるから、主体は役割の束に還元されるのではなくて、役割ないし役割の束の担い手となる。
 ところで、分人主義において、友人と話している自分と家族と話している自分が別の人格であるという場合、その分人はそれぞれ異なる個性を持つ。これに対して、廣松が、野球監督も個性を持つというとき、役割と個性はそれぞれ「役柄者或者」と「能為者誰某」の二肢にふり分けられている。個性をもつ「能為者誰某」は、様々な役割の担い手であり、その担い手が様々な役割を貫いて共通している特性になるだろう。これは、分人主義において、分人が異なるごとに異なる個性を生きるということとは、全く異なる。
 廣松には、社会の多元性への指摘はみられないように思われる。むしろ次の引用に見られるように、非常に同質的な社会ないし共同体が考えられているように思われる。
「同一“共同体”に内在する諸人物の人格形成は<当在的主体>の契機に即するとき、相当に“同型的”であるといえよう」(『存在と意味』第二巻、p.180)
 社会が同質的であるから、個人がさまざまな役割を担っているとしても、それらの役割を貫いて同質的な個性を維持することができるのだろう。社会が同質的でないとき、様々な役割を貫いて、同質的な個性を維持することは困難になる。
 では、この「個性」理解の違いを除けば、役割理論と分人主義は、同じようなものになるのだろうか?
 

少し下草刈りをしましたが、まだ不十分です。書庫の方は、どのように手を付けていけばよいのか、方針も問題設定も考えあぐねています。
 
6 分人(ないし主体位置)の間の矛盾とそれへの対応 

(20140613)

 平野の「分人」とムフの「主体位置」が同じものだといえるかどうか、確信がもてないが、とりあえずほぼ同じものとして議論を進める。
 分人はそれぞれ、それが属する人間関係の中で、ある課題を共有し、その解決に取り組むだろうと思われる。そこで分人は他者と課題(問題=葛藤)を共有する。つまり、それぞれの分人自身が、何らかの問題ないし葛藤を抱えている。人が何かを意図する時、たとえば、Xを実現しようと意図するとすれば、そのとき現実にはXが実現していない(とその人が信じている)ことが前提になっている。そこに現実と意図との葛藤があると言えるし、また意図はすでに葛藤の表現であるとも言える。その問題は、職場でのルーティンワークのような問題であるかもしれないし、次の給料日までのやりくりの問題かもしれないし、参加しているNGOが長年取り組み続けている問題であるかもしれない。
 ところで、ある人が複数の分人を生きている時、その分人の間にも矛盾が生じる可能性がある。この分人間の矛盾に私たちはどう対応しているのだろうか。とりあえず、次のような対応が考えられる。
 
 (1)分人の間の矛盾を解消しようとする。このために、矛盾する一方ないし両方の分人を変えようとするだろう。
一方の分人を他方の分人と矛盾しないように変えようとすると次のようにするだろう。
 ①そこでのその分人としての活動を抑制する
 ②そこでのそれまでの活動を続けながらも、本音は別だと思う(心理的に逃避する)
 ③そこでのそれまでの活動を続けながらも、その活動に別の意味付けを与えようとする(解釈を変更しようとする)
あるいは、④矛盾する一方の分人をやめてしまうことも矛盾解決の一つの方法である。
 
(2) 分人の間の矛盾をむしろ積極的に評価しようとする。
 ⑤その矛盾を自分の中に抱え込んで、外には出さないようにする。これは上記の②と似ている。ただし、②の場合には、自己内に矛盾を抱えることをやむを得ざることとして受け入れるのだが、ここでは自己内の矛盾を積極的に評価している。⑤の場合、矛盾する複数の分人の有り様をそれぞれ積極的に評価する場合と、それぞれの分人の有り様そのものよりも、むしろそれらの矛盾を生きていること自体を(例えば、自由の証ないし自由そのものとして)積極的に評価する場合も考えられる。
 ⑥その矛盾を社会化ないし「政治化」(中野敏男)し、社会を変えようとする。これは、矛盾する一方あるいは両方の分人が属している共同体を変えるということであろう。これは、矛盾を自己の中で解消解決しようとするのはなく、社会を変えることによって解消しようとしているのかもしれない。その意味では、長期的には、矛盾の解消をめざしているのかもしれない。
 ムフは「根源的かつ多元的な民主主義にとって、紛争の最終的解決がやがて可能となるとの信条は、[…]決して民主主義のプロジェクトの必然的な地平を提供するものではなく、むしろそれを危殆に陥れるものと言うべきであろう」
(ムフ『政治的なものの再興』
p.16)というので、個々の矛盾は解決されたとしても、社会全体が「自由かつ抑制なきコミュニケーションの整序的理想へ」近づくことはないと考えている、またそれをむしろ危険なことと考えている。
 
 これら以外の分人間の矛盾への対応もあるかもしれない。そして、これらの対応の各々についても立ち入った分析をすることが有益だろうと考える。しかし、そもそも人はなぜ複数の分人や主体位置をもつことになるのだろうか。これについて、次に考えてみよう。
 

 

5 分人主義とラディカル・デモクラシー

                                  久しぶりに森に帰ってきました
 
 
5 分人主義とラディカル・デモクラシー(20140530)
 
 平野啓一郎の「分人主義」を、同調圧力から帰結する日本的な発想として捉えるのではなく、現代的なものとして捉えようとする時、その主張は、ムフのラディカル・デモクラシー論が主張する主体の有り様と似ているようにみえる。
 ムフは、「主体」概念に批判的であると紹介されることもあるが、そうではない。彼が否定するのは、「単一的な主体の理念」であって、「主体」そのものではない。彼は、ロールズの自由主義が主張する「負荷なき自我」に対する共同体論者の批判を認める。つまり、自我は他者や社会から独立に何の社会的な負荷もなしに主体たりうるわけでない。自我は「社会的諸関係に先行して存在すると想定される主体」なのではない。常に一定の社会関係の中で、あるいは一定の共同体の中で主体たりうるのである。しかし、ムフはその共同体を「単一な共同善の理念によって統合され」た共同体であるとは考えていない。その意味で、彼は「単一的な負荷な自己」も、「単一的な位置づけられた自己」も批判する(参照、シャンタル・ムフ著『政治的なるものの再興』千葉真、土井美徳、田中智彦、山田竜作訳、日本経済評論社、p. 41)。
 ムフは、「われわれは、つねに多数の矛盾をはらんだ主体なのであり、多種多様な共同体――現実にわれわれが参与する社会関係やそれらによって規定される主体位置ほどの数にのぼる共同体――に住む住民でもある。これらの共同体は、さまざまな言説によって構築されており、またそれらの主体位置の交差するところでかろうじて一時的に縫合されているだけである。」(同書、p. 42)という。
 ムフの主張の中で「分人」にほぼ対応する概念だと思われるのが「主体位置(subject positions)」(p. 156)という概念である。彼は「社会的行為主体」を「一元的な主体」として考えるのではなく、「複数の主体位置が一定のまとまりをもって結合したもの」として考える。「主体位置」は言説によって構成されるものであり、「異なった主体位置を構成する諸言説のあいだには、アプリオリで必然的な関係はない」(157)。この「複数の主体位置の結合体」もまた「特定のディスコースの内部で構成されるもの」(p.143)であるしかもその主体位置の多元性の「共在」が重要なのではなくて、「むしろ他の主体位置による絶えざる破壊と重層的決定」(p.157)が重要なのである。
 ムフは、このような複数の主体位置の偶然的な結びつき(「節合」(articulation)p.158))としてとしての主体が、われわれの現実の有り様であり、これを単一の主体として捉えたり、この接合を必然的なものないしアプリオリなものとして捉えることを、強く批判する。
 それはなぜだろうか。複数の主体位置が矛盾しあうことには、どういう意味があるのだろうか。