西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法

                                  世界最古の大学ボローニャ大学の旧館です。
 
07 西欧近代哲学をグローバル化する2つの方法 (20120928)
 
前回、西洋哲学の「世界」概念や日本の「世間」概念は、ローカルな文化に属する概念であると述べました。その意味は、①それらは現実にローカルにしか通用していない、②それらをグローバルに通用する概念だけで説明することが難しい(不可能ではないかもしれません)、ということです。西洋近代哲学には、このようなローカルな概念が沢山あります。「世界」「理性」「精神」「構想力」「意志」などです。
 それでは、西洋近代哲学をグローバル化するにはどうすればよいでしょうか。その方法の一つが、「言語論的転回」だったと言えるのではないでしょうか。近代の「意識哲学」が20世紀初頭に「言語分析の哲学」へ転回したと言われています。たとえば、論理実証主義の意味の検証理論によって、哲学における文の意味もまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することができるようになりました。あるいは「プラグマティック・ターン」もまたグローバル化の一つの方法であったといえそうです。プラグマティズムは、文の主張の意味を私たちの行為にどのような変化を与えるかによって、説明しょうとしました。これもまた、特定の歴史や文化のコンテクストから自由に、その意味を理解することを可能にしています。
 おそらく他にも、西洋近代哲学をグローバル化する方法はありうるだろうとおもいます。いずれにせよ、アメリカの哲学はそれに成功しているのだとおもいます。それはアメリカが単一の分厚い歴史的文化的コンテクストを持たなかったためであろうとおもいます。
 
 
 

 

ボローニャで「世界」を考える

                                     ボローニャの中心マジョーレ広場の噴水です。
 
06 ボローニャで「世界」を考える (20120924)
 
 先週は、ボローニャで開かれた第八回国際フィヒテ学会大会に参加していました。例によって、海外でのネット接続がうまくゆかなくて、ブログの更新が遅れて失礼しました。
 
 その大会である発表を聞いている時に思ったことを書きます。その発表者は、「世界」という概念を多用していました。そこでは、フィヒテの「世界」概念が特に問題になっていたわけではありません。つまり、西洋哲学の世界で通常使う意味の「世界」であったのです。西洋哲学を勉強している私には馴染みの概念です。しかし、この「世界」は、現代の自然科学的な意味の物理的「世界」でも、社会学者や政治学者が用いる国際社会という意味での「世界」でもありません。それら二つの「世界」概念は、グローバルに通用する概念です。それに対して、これは(曖昧な言い方になりますが)ある精神的文化的な意味の「世界」です。この「世界」は、ヨーロッパのある時代に通用しているローカルな概念です。日本人の「世間」という概念が、日本のある時代に通用しているローカルな概念であるのと同様です。
 もちろん、現在の日本で「世間」という概念が生き生きとした意味を持っているのと同様に、ヨーロッパではこの「世界」概念が、生き生きとした意味を持っているのです。しかし、それはグローバルな概念ではありません。
 そして、このようなローカルな「世界」概念を用いた哲学は、グローバルな哲学にはならないように思います。それをグローバルな概念にするには、少なくともそれについてのグローバルに共有可能な説明を与える必要があります。しかし、それをグローバルに通用する概念だけで説明することは、日本語の「世間」をグローバルに通用する概念だけで説明することが難しいのと同じように、非常に困難です。
 

 
 
 

死に対する態度と心の哲学

                                  ピンぼけの 写真のような 夢の跡
 
  久しぶりにこの書庫に書き込みます。
 
死に対する態度と心の哲学 (20120912)
 
生物として私の死も、ロボットとしての私の死も、区別して論じる必要はないかのように書きました(2007/10/23と、その後の数回)。しかし、そうでしょうか?
 
もし、私の脳の情報が、コンピュータの中にコピーされて、コンピュータとして私が考え、それを搭載したロボットとして生きていくことができたとしたら、そのときには、私は単なる機械であり、自然現象です。もしそうなったとしたら、ロボットとしての私の死に対する態度は、変わるでしょう。
もちろん、私が生物であったとしても、心についての物理主義を採用するのならば、ロボットの場合と同じです。その意味では、生物かロボットかの違いではなくて、心をどう考えるのかの違いです。
 
現代哲学には、「心の哲学」と呼ばれる分野があります。そこでの中心問題は、心と脳との関係です。これについての主な主張は、次のようなものです。
  心と脳は別の実体であるとする二元論
  脳しかないという一元論
  心しかないという一元論、
二元論は、心と脳の間の相互作用を説明する必要があるけれども、それを説明できないという問題を抱えているので、現代では少数派です。
心しかないという一元論(観念論)も現代では少数派です。
多くの研究者は、脳しかないという一元論(物理主義)を主張するのです。しかし、この中には、ひとは心があると思っているが、実は心は存在しないのだという心の消去主義の立場と、心は脳の状態やプロセスに随伴する(supervene)と考える立場(例えばDavidsonの非法則的一元論など)があります。
 
書庫「物理主義からの倫理」では、「仮に心の哲学での物理主義が正しく、人間の心が脳の中の物理的な過程や状態に過ぎないとし、心の働きに自由がないとすると、倫理や道徳をどのように理解することができるのか」ということを考えました。
 
物理主義が正しいとしたら、道徳や倫理に関わるだけでなく、私たちの死に対する態度にも大きな影響を与えることになる、ということに今頃になって気づきました。この場合には、私たちの死は、冷蔵庫が壊れるのと同じ事になってしまうのでしょうか。現在のパソコンが壊れるのと、未来の人間であるAIが壊れるのは、同じ事になってしまうのでしょうか。
 
この問題に、どこから手を付けたらよいのか、アイデアがありましたら、おねがいします。
 
 
 
 
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