15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転

                                     Fridlich Gaussが使っていたゲッティンゲン大学の天文台です。
 
15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転 (20131116)
 
 これまで見てきたように、<貨幣によって、個人で解決できる問題が増加し、そのことによって、個人が誕生した>のだとすると、個人と社会問題の関係についてのこれまでの主張を逆転させる必要があります。
 
 <個人が最初にあって、個人が一人では解決できない問題を解決するために、共同体ないし社会を作ったのであり、その問題が社会問題である>と考えきましたが、人間は群れでの生活を基本とするのだとすると、生存の単位は群れないし共同体であり、生存の単位が個人になったのは貨幣経済が広まってからのことになります。そこで次のように変更する必要があります。
 
 <人間は群れないし共同体で生存していた。群れないし共同体は、その維持ないし自己保存のために、さまざまな問題を解決する必要がある。そのために、分業したり、近親相姦のタブーなどの掟を作ったり、狩猟、採集などの共同作業を効率よくするために、あるいは争いを避けるために、言語を作ったりしてきたのであろう。言語の登場は、おそらく決定的な出来事であったと思われる。それは共同体のあり方、共同性のあり方を、根本的に変更することになっただろう。社会制度(社会組織、社会ルール)は、共同体が自己維持のための解題解決ないし問題解決のために作り出してきたものであるが、共同体はそのことを明示化し、共有することになる。言語によって複雑な共同作業、機動的な共同作業が可能になり、共同体の生産力と攻撃力は向上しただろう。しかし逆にそのことによって生じた共同体の危険性や不安定性の問題を解決するために新しい社会制度(新しい掟や新しい分配制度など)が必要になっただろう。また、共同体の生産力や攻撃能力の増大は、共同体が解決できる課題の増大(定住や食糧の貯蔵や戦争など)をもたらし、それらの課題の実行は、他方でまた新しい社会問題を生み出したに違いない。>
 
 
共同体から国家への移行については、次のように考えます。
 <共同体の生産力や戦闘能力が増大してくると、いずれ共同体は安全問題を解決するために、共同体の共同体(国家)をつくって、その問題を解決する必要に迫られる。国家は、共同体が単独では解決できない問題を共同体の共同で解決するために作った制度である。個人と共同体の関係と、個人と国家の関係は非常に異なる。自然的な共同体では、個人間の関係は相互的なものであるが、国家においては、その権力は、相互的な諸個人の関係からできているのではなくて、諸個人を超越している。それは共同体の共同体であるから、共同体の相互的な関係からできているとしても、個人の日常的な利害を超越している。>
 
個人の登場は次のように考えます。
 <国家は、古代国家、封建国家、資本主義国家へと経済と政治の形態を変えきた。柄谷によれば、国家以前の共同体では、主たる交換形態は「互酬性」であり、古代国家や封建国家では、主たる交換形態は「再分配」である。古代国家や封建国家では、再分配の問題が、同時に政治問題であり、経済は政治から分離していない。最も豊かなものは王である。資本主義社会になって、経済は国家から分離し、経済的な豊かさと政治権力は分離し、個人が貨幣への無限の欲望をもつことが可能になった。他方で個人が大統領になろうと欲望することも可能になった。貨幣の登場は伝統的な中間共同体の必要性を少なくし、伝統的中間共同体は弱体化し、個人と、個人を超越した国家の役割が次第に重要になる。
 このようにして個人が登場することによって、個人が自分だけでは解決できない問題を解決するために社会(社会制度、社会組織、社会規範)を作ったという思想が登場可能になる。社会契約論が、それであった。>
 
 私のこれまでの社会問題理解も、これと同じ理解でした。もちろん、社会契約論は、個人が社会の構成素であるのに対して、問題(個人問題や社会問題)を社会の構成素と考える点は異なります。しかし、個人問題から出発して社会問題を構成しようとする点では、よく似ていました。これを修正したいと思います。
 個人でも、行為でも、
コミュニケーションでもなく、問答を社会の構成素と考えた点は、これまで通り維持しますが、しかし、個人問題ではなくて、共同体の問題を優先させ、資本主義とともに個人が登場したと考えます。
 
(間話:貨幣への無限の欲望は、自己目的化する。
貨幣の無際限の追求には終わりがない。無限の貨幣をもつことが、何かの手段であるとすると、それは決して実現することがない。つまり、決して実現しえない無限の貨幣への無際限の欲望は、他の欲望の手段となることはありえない。真理や美や善への無際限の欲望は決して実現することがなく、したがって他の欲望の実現のための手段とはなりえない。
 100億円あれば幸せになれると考えて、100億円稼ごうと欲望することは可能である。しかし、幸福になるために無限の貨幣を追求しようとすることは不可能である。その時には、無限の貨幣を追求する人にとっては、幸福に成ることは目的では無いはずだ。このことは、真理や美や善への無際限の欲望についても当てはまる。
 ちなみに、幸福になるという欲望は、自己目的化する欲望である。なぜなら、幸福は、他の目的の実現のための手段にはならないからである。しかも、幸福になるという欲望は終わることがない。なぜなら、幸福は一旦獲得したら消え去ることがないようなものではないからである。つねに幸福を求め続けなければならない。)
 
 

13 無限の欲求の誕生

                Heidelberg 大学とGoettigen大学でworkshopをしました。
 
13 無限の欲求の誕生 (20130917)
 
(しばらく中断してすみませんでした。ゲッティンゲンでThe self-reflectiveness of Societyについて発表しました。)
 
部族のような集団、共同体、古代国家、近代以前の封建国家、これらにおいては、貨幣への無限の欲求はなかったのではないでしょうか。なぜなら、これらの社会の中で大きな富を持つことは、攻撃を受ける可能性を高めるからです。部族のような集団やもう少し大きな共同体の首長であっても、大きな富を持つことは、彼の安全を危うくする可能性があります。
 
そのために、ポトラッチなどの祭りで富をみんなで消尽することが必要になったのではないでしょうか。「ポトラッチの主目的は富の再分配(redistribution)と互酬(reciprocity)である」[Wiki Englisch]とされますが、しかし、受けとったものを壊すポトラッチもあるそうなので、富の再分配や互酬だけでは説明できないものもあります。これは、<大きくなりすぎた富の所有が危険であるので、それを解消するのだ>という仕方で説明できるかもしれません。
 
共同体の首長がどれほど大きな富を獲得しても、攻撃される危険がないということを、共同体と国家を分けるメルクマールにできるかもしれません。そのためには、首長は武装集団を部下としてもち、首長はその富を武装集団に分配し、また長はその富を共同体の成員に再分配することが必要になるでしょう。古代国家や封建国家では、首長だけが無限の富への欲望を持ちえたでしょう。
 
しかし、近代市民社会になると、市民が非常に大きな富を持っても、安全が脅かされるということはなくなります。王様や大統領より金持ちになっても、安全が脅かされることがなくなります。身の危険を感じることなく、富を追求できるのが、資本主義社会です。
 
お金のへの欲望に限らず、「無限」という概念が重要になるのも、近代になってからだといえるかもしれません。「閉じられた宇宙」観から「無限の宇宙」観へ変化するのも、近代になってからと言えそうな気がします。「無限の宇宙」と「無限の欲望」は深いところで結びついているかもしれません。
 
 
 
 
 
 

12 貨幣貯蔵と個人

                                   人間もタイルも劣化する暑さかな (ひねりも劣化する還暦かな)
 
12 貨幣貯蔵と個人 (20130813)
 
前の2回で、フランクファートの自由意志の定義をもちいて、お金への欲求と人格論や自由意志論との関係を説明しょうとしました。しかし、次の区別を忘れていたわけではありません。
 
それは、人格や自由意志の成立と、近代的な個人の成立の区別です。前者は、近代以後の人間にかぎらず、人間が言語を話すようになったときに成立していることだろうと思います。しかし、それから近代的な個人が登場するまでには、長い歴史があります。
 
貨幣経済によって、個人によって解決できる問題が増えたことによって、近代的個人が登場したと言うのが、0509で説明してきた仮説でした。個人が解決できる問題が少ないとすると、個人がもつ「欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求も少なかったと予測出来ます。例えば職業選択の自由がないとすると、「ある職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということも無いでしょう。もちろん、親の跡を継いで、ある職業につかなければならないけれども、その職業に付きたくないときに、「其の職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということがあるかもしれません。しかし、他の職業を選択する余地がまったくないときに、親の職業に就きたいとか、就きたくないとか考えたりしないのではないでしょうか。二階の欲求は、全く選択の自由のないところには成立しないよう思います。もちろん、近代以前の社会でも、個人には選択の余地はあるでしょう。しかし、それは近代社会においてよりも、狭い範囲にかぎられています。人間は言語を持ってから二階の欲求を持っていたけれども、近代的な個人は、それ以前に比べて非常に多くの二階の欲求をもつようになった、という違いがあるだろうおもいます。
 
 しかしそこにあるのは単に量的な問題だけでしょうか。近代的個人の特徴は、お金でひとが一人で自由に解決できる問題が増えたという事だけでなく、自由そのものを求めるひとが登場したということではないでしょうか。自分の自由そのものを求めるひとの登場が、個人の登場ということではないでしょうか。なぜなら、行動や欲求の自由がなければ、個人というものは成立しないからです。(近代的個人、ないし個人主義を定義する必要がありますね。)これを、この文脈で言い換えると、お金への欲求が自己目的になっている人が登場するということです。
 
貨幣社会では、すべての人はお金への欲求を持っています。なぜなら、お金が無ければ生存できないからです。生存への欲求から「お金への欲求をもつことを欲する」という二階の欲求が発生し、これが実現することによって、お金の欲求をもつことになります。しかし、お金への欲求は単なる生存への欲求や快楽や安全などへの欲求を超えて自己目的化することがあります。それはなぜでしょうか。
 
それは、お金は腐らないので、いくらでも貯めておくことができるからでしょう。貨幣には価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能があると言われています。この最後の価値貯蔵の機能は、お金がいつまでも腐らず錆びずに保存できるということに基づいています。織物やお米とちがって、貨幣は劣化しないので、ほぼ永遠に保存でき、ほぼ無限に貯めることができます。しかし、これはお金への欲求が自己目的化し、無限の欲求となるための、必要条件であっても、十分条件ではないように思います。
 
お金への欲求は、自己目的化したから、無限の欲求になったのでしょうか。それともお金の貯蔵への無限の欲求が可能になったから、自己目的化したのでしょうか。お金への欲求は、なぜ自己目的化したり、無限の欲求になったりしたのでしょうか。これらは、フランクファートのいう二階の欲求とどう関係するのでしょうか。
(お盆の間、田舎で考えてみます。)n>
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

11 二階の欲求による意志の自由の定義

 
 
                 おみやげ京都より来る、また樂しからずや
 
11 二階の欲求による意志の自由の定義 (20130807)
 
前回述べたことを訂正したいと思います。
前回「お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です」と述べましたが、これは、フランクファートが定義する意味での「二階の欲求」ではありませんでした。
 
フランクファートは「二階の欲求」を「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」と定義します。これは、「ある欲求を満たしたいという欲求(ないし欲望)」とは異なります。Aさんが欲求xをもつことを欲するとすれば、Aさんはまだ欲求xを持っていないはずです。しかし、Aさんが例えば欲求x「パンを食べたい」の満足を欲するとすれば、Aさんはすでに欲求xを持っているのです。仮に欲求xを持っていなくても、パンを食べることはできますが、そのときAさんは<欲求xの満足>を得ることはできません。なぜなら、欲求xをそもそも持たないからです。
 
私がつぎのように言うべきでした。
「パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する」ということは、「お金が欲しいという欲求をもちたいと欲する」という二階の欲求が実現することによって成立する事態です。したがって、ここにはもはやこの二階の欲求はありません。
 
以上が訂正です。
 
さて前回の繰り返しになりますが、物への欲求があるなら、それを手に入れるためのお金への欲求は、二階の欲求の実現によって成立します。逆に、もしお金への欲求がすでにあるならば、それを手に入れるための(労働などの)行為への欲求は、二階の欲求の実現によって成立すると言えます。
 
殆どの人は、前者のお金への欲求はすでに持っているので、お金への欲求を持ちたいという欲求は、すでに実現しています。多くの人が、お金に関係して通常持っている二階の欲求は、後者です。ある目的のために、やりたくないことをやらなければならないとき、人は二階の欲求をもつことになります。
 
フランクファートは、行為の自由との類比にもとづいて、意志の自由を定義します。彼によると「行為の自由」とは、「人が欲していることをする自由」である。これと類比的に考えると、「意志の自由」とは、「自分が欲したいと欲していることを欲する自由」であり、「より正確には、彼には自分が意志したいと欲していることを意志する自由があるということ、あるいは、自分の欲する意志をもつ自由があるということ」である。「意志の自由についての問いは、その意志が、彼がもつことを欲している意志であるかどうかに関わる。」(邦訳、116
 
 
フランクファーとの「自由な意志」の定義は、次のように説明できるでしょう。
<「欲求xを持つことを欲する」という二階の欲求があって、それによって(それが原因となって?)欲求xを持つことになったとき、そのような欲求xは、「自由な欲求(意志)」である>
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したがって、お金を稼ぐために、「労働への欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求をもつ生真面目な労働者が、実際に労働への欲求xをもつようになったとき、その欲求は自由な欲求(意志)です。
なんだか、悲しい自由です。
 
 
 
 
 

10 二階の欲求とお金への欲望

                         蝉が必死に鳴いています
 
10 二階の欲求とお金への欲望(20130731)
 
お金の登場によって、いくつかの問題が、一人で解決できる問題になりました。そのような問題が、ふえることによって、そのような問題に取り組む主体としての「個人」を作り出すことになった可能性があります。
 
お金で解決できない個人の問題もありますが、それは近代以前には個人の問題ではなく、家や共同体の問題であったのです。それが近代以後に個人の問題とみなされるようになるのは、個人が登場したからに他なりません。
 
ところで、お金で解決できる問題には、二種類あります。一つは、お金がないという問題です。お金がないという問題は、お金を獲得することによって解決出来ます。もう一つは、お金で財やサービスを購入して解決できる問題です。それは、空腹を満たすことであったり、自動車を修理することであったりします。コンビニでパンを買って、空腹を満たすことができます。パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する時、お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です。お金は、様々な欲求をみたす手段になりますから、お金が欲望しいという欲望は、様々な欲求を満たしたいというより一般的な欲望になります。あるいは、特定の欲望を超越したより抽象的な欲望になります。
 
そこで、フランクファートのいう「二階の欲求」概念を用いてお金への欲望を分析したいと思います(H. G. Frankfurt, ‘Freedom of the will and the concept of a person' in The Importance of What We Care About, Cambridge UP.,1988. 近藤智彦訳 「意志の自由と人格という概念」『自由と行為の哲学』門脇俊介+野矢茂樹編・監修、春秋社)
 
フランクファートの定義では、「一階の欲求」とは、「あることをすること(あるいはしないこと)を欲求すること」です。これに対して「二階の欲求」とは、「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」です。「xへの欲求をもつことを欲する」としても、xを欲しているとはかぎりません。たとえば、彼の例では、麻薬中毒者を治療している医師は、麻薬に対する欲求がどんなものかを理解したくて、「麻薬に対する欲求をもつことを欲している」。しかし、麻薬を欲しているのではありません。もちろん、「xへの欲求をもつことを欲する」ときに、xを欲していることもあります。例えば、ある人がお金を稼ぐためにパンを作っているとしましょう。彼女はパンが好きで、美味しいパンを食べるという欲求をもっています。彼女は仕事熱心で、お客さんのパンへの好み、つまりお客さんの好みと同じようなパンへの欲求をもちたいと欲しています。これは、二階の欲求です。
 
このような二階の欲求は、行為の目的手段関係と次のように関係します。今仮に、目的Xを実現するためには、行為Yをしなければならないとしましょう。そして、ある人がXの実現を欲求しているとしましょう。このとき、彼女には行為Yをする必要があります。彼女が行為Yをしようとするとき、彼女は行為Yへの欲求をもつこと欲することでしょう(特殊な場合にはこのことが成り立たないかもしれませんが、大抵の場合はこのように言えるとおもいます)。これは二階の欲求です。
 
お金は、目的にも手段にもなるので、次の2つのケースが考えられます。
①何かの財やサービスを手に入れるという目的あり、そしてお金でそれを手に入れることができるとき、お金を手に入れることは、その目的実現のための手段になります。それゆえに、お金
への欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
②お金を稼ぐことが目的であって、働くことがその手段であるとき、お金への欲求から、働くことへの欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
 
 
(注:フランクファートは、書庫「問答としての人格」で取り上げたストローソンの人格論を批判します。ストローソンによれば,意識状態は常に一定の時間空間上で同定されるのであり、それゆえに意識状態と身体は不可分です。つまり「人格」こそが、原初的な概念なのであって、「身体」と「意識状態」から合成して作られる概念ではないということです。もっと言えば、「人格の同一性」こそが原初的な同一性概念なのであって、それを他のものの「同一性」から説明することはできない、ということです。
 これに対して、フランクファートは、このような人格概念は、動物にも当てはまるので、これによって動物と人間を分けることができないと批判しました。(それにたいして、ストローソンならばどう答えるでしょうか。これについては、書庫「問答としての人格」で論じるのがよいでしょう。フランクファートは、二階の意欲をもつことで、動物と人間(人格)を分けようとしました。
 これにたいして、ストローソンならばどう反論するでしょうか。これはまた別の機会に。)
 
 
 
 

09 お金と個人的問題

 
 
09 お金と個人的問題(20130724)
 
前回述べたように「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」。この「多くの問題」の中には、多くの個人的な問題も含まれています。前回述べたようにお金では解決できない個人の問題もたくさんありますが、お金で解決できる個人の問題もたくさんあります。(お金で解決できない問題の中には、死、老化、病、結婚、出産に絡む問題があり、それらの問題は、貨幣社会誕生前からある問題です。他方では、住まいの獲得、食べ物の獲得、など貨幣社会以前からある問題であって、貨幣社会になってからお金で解決できるようになった問題があります。もちろん、お金で解決できる問題の中には貨幣社会になってから生じた新しい問題もあります。)
 
ところで、05で述べたように、いわゆる「近代的個人の自由」は、資本主義社会が可能にした自由であり、その自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのだとしましょう。そうすると、お金で解決できる問題が、近代的個人を構成している問題なのではないでしょうか。お金で解決できない問題は、近代的個人が登場する前からあった問題です。しかし、それらが個人の問題になったのは、個人が登場した後のことであり、近代以前には、それらは家族の問題であったり、共同体の問題であったのではないでしょうか。
 
「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのではないでしょうか」
 
「近代的個人は資本主義社会の中で誕生した」ということは、陳腐な真理です。それは、資本主義社会が、財やサービスや労働の自由な売買契約に基づく社会であり、その中で、所有と契約の主体として「個人」が成立したという意味です。
 
しかし所有と契約の主体としての個人が、売買契約をするのは、それが必要だからであり、それによって何らかの問題を解決するためです。売買契約によって彼が解決しようとしている問題もまた、彼を個人に構成しているものなのです。それが売買契約によって解決できる問題である以上、それはお金で解決できる問題なのです。つまり、「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのです」
 
 

08 交換手段=問題解決手段

 
 
 
08 交換手段=問題解決手段 (20130715)
 
 人がお金である商品(財、サービス、など)を買うのは、その商品が必要だからです。その商品が必要なのは、通常は(買った商品をより高く売るためではなく)その商品によって何かの問題を解決するためです。それは飢えを満たすことであったり、寒さをしのぐことであったり、住まいを快適にすることであったり、気分転換をすることであったりするかもしれません。個人が抱えている多くの問題を、商品(財、サービス、など)の購入によって解決することができます。
 たとえば、自動車の修理が必要な場合には、その問題を解決するために必要なことは、それに必要な代金を稼ぐことです。ほとんどの問題は、その解決に必要なお金を稼ぐことで解決できます。お金は、万能ではありませんが、ある程度、一般性を持つ問題解決手段です。この場合、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 お金が問題解決手段となるのは、個人の問題に限りません。国家は、社会問題を解決するために作られた組織ですが、国家は、軍隊や警察や刑務所、裁判所や病院や学校、などの組織によって様々な社会問題を解決しようとします。そのとき、国家は、力を行使する権利を必要とするだけでなく、その活動のためのお金を必要とします。軍隊や警察の権力を持つためには人件費や施設や装備を購入するためのお金が必要です。そのためには徴税が必要になります。この場合にも、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 もちろん、お金で解決できない問題もたくさんあります。個人の場合には、死、老化、病気、就職、進学、結婚、出産、などの問題、国家の場合には、領土問題、戦争責任問題、人権侵害などの問題です。会社のかかえる問題にもおそらくお金で解決できない問題があるでしょう。
 とりあえず、私たちは個人や社会の問題をつぎの3つに分けることができます。
 ①お金で解決されている問題
 ②お金で解決可能であるが、支払い能力を超えているためにお金で解決できない問題。
 ③お金では解決不可能な問題。
 
イノヴェーション(新商品の開発など)によってある問題を解決することは、(ある場合には)、③ないし②の問題を①の問題に変換することです。(イノヴェーションには、他のケースもあるでしょう。)
 
「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」
これはごく当たり前のことですが、このテーゼのもつ含意が汲み尽くされていないように思えます。
 
 

 

07 価値尺度と功利主義

 
 
             一枚目のお好み焼きと二枚目のお好み焼き、その心は?
 
07 価値尺度と功利主義 (20130708)
 
すべての商品の価値が貨幣で図られる時、そこでは使用価値の差異は無視されます。功利主義者が、快楽や幸福の質を区別せず、すべての快楽や幸福を量で測れると考えたことは、すべての商品の使用価値の質の違いを無視して、すべての商品をその交換価値の量で測れると考えたことと似ています。交換価値の同じ商品が交換可能であるのと同じく、量の同じ快楽や幸福は交換可能なものと見なされます。
 
私があるお金を持っている時、それでどの商品を買うかは、私の自由です。そのとき、私がどの商品を買うかで私の快楽や幸福の質は異なります。それだけでなく、そのとき何を買うかで私の快楽および幸福の量も変化します。
 
あるお金で買える商品によって得られる満足は、どの商品を買っても同じというわけではありません。もしそうならば、店先でどれを買うかで悩んだりしないでしょう。選好に個人差があるということももちろんですが、限界効用逓減の法則があるからです。一杯目のコーヒーも二杯目のコーヒーも同じ値段であるが、二杯目のコーヒーのもたらす満足は、一杯目のコーヒーのもたらす満足よりも少なくなります。これが、限界効用逓減の法則です。そこで経済学では、ひとは、一定の金を使うときには、ひとつないし少数の商品ばかりを買うのではなくて、様々な商品買うことによって、貨幣単位あたりの限界効用が最大になるような仕方で消費すると考えます。
 
私たちにとっての快楽や幸福は、私が自由に選択できるものであす。その限りで、逆にいうと私はその快楽や幸福を選ばないこともできたということですから、それらの快楽や幸福から自由であるということです。私にとって不可欠な快楽や幸福と私にとって偶然的な快楽や幸福の区別は、功利主義者にはないのです。そこにあるのは量的な区別だけであって、質的な区別はないからです。
 
快楽や幸福を選択する私は、その限りで快苦から独立な自己です。売買できる能力や権利をもつ主体が存在すること、つまり功利計算ができる理性的で自由な選択の主体が存在することは、資本主義社会にとっても、功利主義にとっても、社会の不可欠な前提条件です。
 
 

 

06 売り手の自由と均質な時間空間

 
06 売り手の自由と均質な時間空間 (20130624)
 売買とは、貨幣と商品との交換の契約です。この売買契約は、他の契約と同様に、両者が自由に契約できることを前提しています。自由な契約でなければ、それは契約とは言えないでしょう。自由は、「契約」という概念の中に含まれています。
 お金や商品を自由に売買できるためには、それらを自由に処分できるものとして所有していることが必要です。自由に処分できるためには、その対象は、他の対象から分離可能でなければなりません。例えば、ある人Aが木の根の部分を所有しており、Bがその幹の部分を所有しており、Cが枝と葉の部分を所有しているとしましょう。このとき、Aは根の部分を勝手に処分できるとすると、Aの自由な行為が、他者の所有物である幹や枝の部分にも大きな影響を与えることになります。したがって、Aが木の根の部分だけを所有するということは、そもそもあまり考えられません。たとえば、その木全体の元の所収者Dがいるとしましょう。彼は、根の部分だけをAに売ったりはしないでしょう。なぜなら、根の部分をAに売ったときに、Aがその根の部分を運び出そうとすると、所有者Dは、幹の部分や枝の部分を枯らしてしまうことになるからです(『ベニスの商人』も似た話です)。そのように考えると、Aが根の部分だけの所有権をもつようになるということは考えにくいことです。しかし、Dがその木全体を掘り出したあと、それを売ろうとして、根の部分と幹の部分と枝の部分を別々に売ることはありうることです。
 ある対象が商品になるということは、他の対象から分割可能だと見なされるということです。たとえば、労働者が、自分の労働力を商品として売るとき、あるいは自分の8時間の労働を商品として売るとき、彼のその労働力ないし8時間の労働は、彼の他の能力ないし他の時間から、分割可能だと見なされています。
 商品を売る者は、自由な契約によってそれを行うのですが、それは自分の所有物の一部を自由に分割できることを前提しています。彼の所有物は、世界から分割可能なものとして、彼の所有物になっているのですが、彼がそれを自由に売れるとすれば、それは彼がそれを自由に分割できるということです。
 様々なものが商品となることによって、様々なものの使用価値の質的な差異は無視され、貨幣で交換価値が表現される等質なものとなります。しかも、それらは、自由につまり任意に分割可能なものとなります。近代に登場する自然科学が想定する均質な時間空間は、市場社会における商品の均質性および分割可能性と深い関係がありそうです。(マルクスか既にどこかで言っているのかもしれません。)
 
 
 
 

 

05 貨幣の流動性と自由な個人

 
05 貨幣の流動性と自由な個人 (20130616)
 
 封建社会というのは、おおよそ身分制の社会であり、身分制の社会とは、おおよそ生まれで身分が決まっている社会だといえるでしょう。つまり、そこに職業選択の自由はありません。また住所選択の自由もありません。結婚の自由も身分性によって制約されていたでしょう。こういう社会の中では、おそらく、個人に許された選択の自由が非常に少なかったと言えるでしょう。これらの個人の社会的な自由は、資本主義社会になって可能になったものであり、労働力や土地を含めてあらゆるものが商品として、おおよそ市場で自由に売買される社会において可能になったといえるでしょう。資本主義社会こそ自由な個人を創りだしたのです。(私は歴史研究者ではないので、このあたり全くの推測です。)
 個人の自由の核にあるのは、いわゆる「意志の自由」です。そして意志の自由の核心部分は、他行為可能性(他の行為をすることができた)にあります。この他行為可能性とは、職業選択、居住の自由、結婚の自由などの社会的な自由についていえば、多くが契約の自由と結びついています。雇用契約、賃貸契約、婚姻契約などです。そして、契約の多くが売買契約です。
自由な売買契約ができるのは、お金が何とでも交換できるからです。お金のこの流動性と個人の自由は、深く結びついています。流動性をもつお金が支配している世界だからこそ、個人の自由が成り立っているのです。
 ヘーゲルは、古代では一人の君主だけが自由であり、その後の貴族制の世の中では少数の人間が自由であり、近代国家において全員が自由になると考えましたが、資本主義社会の市民たちは、古代の王様よりはるかに自由な存在です。この自由は、資本主義社会が可能にした自由なのです。
 もちろん、お金がない人は、資本主義社会では不自由な生活を強いられます。そして、そういう人が多いことも事実です。お金がある限りで、私たちは自由なのです。私たちの自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのです。