予想される反論

 
予想される反論
 
これまでのところで、次のものが、三角測量の中で成立する、ないし構成される、ということを説明した。
  ・現実認識、意図、両者の矛盾(問い)
  ・問答ないしその連鎖としての人格
  ・人格の同一性
 
しかし、三角測量は、「私」「他人」の存在を前提していたのではないか。これまでの議論は、<人格の存在を前提して人格の成立を説明する>という循環論証になっていたのではないだろうか。このような反論が予想される。
 
さて、この反論に応えるにはどうすればよいでしょうか。
お正月にお雑煮を食べながら考えたいとおもいます。
 
皆様、よい年をお迎えください。
 
 
 
 

問答と三角測量

 

淋しいベンチですが、寂しい暖かさがあります。
 
問答と三角測量

 
前回見たように、Davidsonは、次の三種類の知識は、互いに他を必要とし、そのうちのどれも他の二つなくしては成立しないと考える。
 
  ①自分の心の内容に関する知識
  ②世界内の対象についての知識
  ③他人の心の内容に関する知識
 
ところで、前に見たように、問いは、次の二つの矛盾から生じる。
   (a)現実認識
   (b)意図
 
(a)現実認識は、上記の②に属することが多いだろう。(b)意図の認識は②に属する。(a)現実認識と(b)意図が矛盾していることを知るためには、①と②が必要である。①が成立するためには、他者も同じように対象をとらえるということが必要であり、②が成立するためには、他者が私の意図を私と同じように知ることが必要である。そして、①と②の矛盾についての知識が、確実なものになるためには、他者もまたその矛盾をとらえることが必要であるだろう。さもなればそれは、私的な思い込みと区別がつかないからである。
 
簡潔に言うとこうなる。対象の認識、意図の認識は、三角測量の二つの頂点であり、他者の心の認識なしには成立しない。したがって、現実認識と意図の矛盾もまた、他者の心の認識なしには成立しない。問いは、他者を介して成立するのである。
 
(発達心理学において、現時点でどの程度確実に証明できているのかわからないが、おそらく次のようなことが言えるだろう。幼児の場合には、大人と幼児の共同注意の中で、対象についての知識が成立し、大人と幼児の共同行為の中で、自分の欲望や意図についての幼児の知識が成立するのだろうと思われる。幼児にとっての最初の問いの成立は、身近な大人を介して成立するのである。別の書庫「共同注意と・・」を参照)
 
ここから次のことが帰結する。
問いは、三角測量の中で成立し、答えもまた三角測量によって成立する。したがって、「人格は問答ないし問答の連続である」と言えるならば、「人格もまた、三角測量によって成立する」と言えるだろう。記憶の連続性や意図の連続性や現実認識の連続性を保証するのは、他者とのコミュニケーションであった。それゆえにまた、「人格の同一性(つまり問答の同一性ないし問答連続性)を保証するものは、他者とのコミュニケーションである」。
 
 

 
 

個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性

カニバサボテンです。寒さのためか元気がありません。
 
「個人言語の不可能性、私的記憶の不可能性」
 
 前回述べたように、ウィトゲンシュタインによる私的言語批判を援用して、私的記憶の不可能性を主張したい。しかし、私が前回述べたことは、私的言語と個人言語を混同しているという批判があるかもしれないので、それについて言及しておきたい。
 
 ウィトゲンシュタイン研究者である友人S氏は、次のようにいう。<ウィトゲンシュタインが私的言語というのは、公共的に通用している言語ではなくて、ある人が新しく作った言語であり、独自の文法や語彙を持つものである。それに対して、個人言語というのは、ある人が全く一人で日本語で日記を書いているときのような言語である。ウィトゲンシュタインは、私的言語を不可能であると考えているが、個人言語は可能であると考えている。>
 私は、ウィトゲンシュタインがどのように考えていたのかを判断する知識を持たないので、ここではウィトゲンシュタイン解釈を問題にするものではない。私は個人言語も不可能であると考えるので、それを以下に説明しよう。
 
 私は昔日記をつけていた。その日記は何年も読み返していないが、しかし読み返せば、それを私は理解できるだろう。またそれを他の人が見つければ、読むことができるだろう。しかし、私がそれを実際に読み返えしてみるまでは、それが理解できるかどうかは、不確定である。私が読み返して理解できたとしても、他人がそれを読んで理解することができるかどうかもまた、実際に他人がそのようにしてみるまでは、不確定である。(ドアの向こうに廊下があるかどうかは、実際にドアを開けてみるまでは、不確実である、と言う観念論的な主張と似ている。)
 
 どうしてこういうことになるのだろうか。私は部屋に一人で、この文章を書いているが、これを他人が読めば理解できるだろうと思って書いている。私が書いているのは、通常の日本語であり、他の人も読むことができると思っている。しかしそのことを保証するのは、私の記憶である。つまり、私が一人で使っているのが、通常の日本語であることを確認するまえには、ある言語が、(上で説明したような意味での)私的言語であるのか個人言語であるのかを区別できない問ことである。私が一人で書いた日本語が、本当に日本語であるかどうかは、他人に読んでもらうまで不確実である。そして他人に読んでもらったなら、そのときそれはもはや個人言語ではない。
 
 次に、これとよく似た仕方で、私的な記憶の不可能性を説明しよう。
 
 私が小さな子供が写っている古い写真を見て、「これが小さいころのぼくだ」と思ったとしよう。それの発言の証拠は何だろうか。それは、私がその写真を昔も見たことがあり、そのとき私の写真だと考えていたという記憶であるかもしれない。しかし、私が今手にしている写真が、本当に昔見た写真と同一であることをどうやって保証すればよいのだろうか。写真の裏側に撮影の日付と私の名前が書いてあればよいのだろうか。しかし、その記載が内容が真実であることを保証するものは何だろうか。私の母親にたしかめたらよいだろうか。しかし、母親の記憶が正しいことを誰が保証するのだろうか。
 
 もちろん、こんなことを疑えば、ほとんどのことは疑わしくなる。私たちは、そんな疑念を無視してもそれほど困らない。私たちは私たちの大抵の記憶が正しいことを他者の記憶によって確認し、他者の記憶が正しいことを、さらに他者の記憶によって確認することができる。そして、必要な範囲でいつでも、そのように確認することができるだろう、と思っている。
 
 ただし、このような「常識」にもとづくのでは、原理的に先の疑念を晴らすことはできない。同じ疑念は、言語の公共性についても生じる。つまり、原理的には公共的な言語は成立しないかもしれない。とりあえず、ここでいえるのは、一人ではなくて、二人いることが、記憶の信憑性や言語の成立にとって、充分条件ではないにしても、必要条件であるということである。
 
(どなたでもご批判をお願いします。) 
 
 さて以上の話を問答と関係づけるために、次に三角測量の話をしよう。
 
 
 
 
 
 

余滴2 承認願望と無関心

 
大学の銀杏はまだのようです。この天気とおなじような、どんよりとした補足です。
 
久しぶりの補足です。
 
■無関心という悪意
「苦しんでいる人がいるのに、それを無視することは、悪である。助けられないのならば、仕方ないかもしれないが、助けられるのに、助けないのはえて、悪である。もしこのようにいえるのならば、我々のほとんど全ての人は悪人である。苦しんでいる人に対する無関心は、悪である。」
と書きましたが、その悪に気付いていながら、無関心を続けるとき、その無関心は悪意である(あるいは、悪意と区別できない)。
 
■特異な悪意を作り出すのは、私たちの悪意である。
「特異な悪意」は、悪意のポジティヴフィードバックの中で起る。この悪意のポジティヴフィードバックは、偏在する社会の無関心=悪意、によって引き起こされるのではないか。インターネット空間は、それを加速させることがある。特異な悪意を作り出したは、私たちの悪意なのではないでしょうか。
 
■競争社会と無関心
無関心である理由として、競争社会の中で勝ちたいという意図が働いているのではないか。共同体を離れて都会にくると、その空気は私たちを自由にする。それは、無関心という悪や悪意を互いに許容するという空気である。都会の競争社会を生きることと、無関心という悪を生きることは、不可分に結びついている。そして、現代では、世界全体が都会化している。世界全体が、競争社会になっている。
 
■承認願望と無関心
 競争の中で生き抜くためには、限られた資源を有効に使わなくてはならない(選択と集中)。そこで、ある課題に対する努力と関心の集中と、その他の事柄に対する無関心、が生じる。例えば、中高生は受験に集中して、他のことに関心を持てない。会社員は、会社の仕事に集中して、家庭に関心を持てない。多くの人は、目先の課題に集中して、苦しんでいる人々に関心を持てない。
 承認を求めようとするとき、それ以外のことに対する無関心が生まれる。承認を求めようとすることが、他の人に対する無関心、忘却になる。 仕事をして認められるという承認は、一方向的な承認である。一方向的な承認の追及は、排除、忘却、を伴う。
 
 資本主義社会の中での、相互承認は、法的な権利主体としての相互承認と、私的な恋愛や友情や仲間などの相互承認だけかもしれない。しかし、これでは苦しむ人への無関心や忘却の回避には向かわない。
 
 
 
 

「人格とは何か」の復習

 
 代わり映えのしない写真ですみません。
 
「人格とは何か」の書庫でのべたことの復習です。
 
(1)人格の同一性が、身体の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①身体を構成する分子は新陳代謝によって、入れ替われるので、身体の同一性とは、身体の物質の同一性ではない。
②身体の同一性が、分子が作る構造の同一性だとするとしても、身体の構造は、年齢とともに変化するので、身体の同一性は、身体構造の同一性ではない。
します。
(前の書庫で述べたのは、ここまででした。次の3を付け加えました)
③身体が同一性であるとは、身体の物質と構造が連続的に変化しているということであるとすると、その連続的変化を何によって保証するのか、ということが問題になる。
これを保証するのは、当事者の記憶や周りの人の記憶であろう。
 
つまり、身体の同一性は、記憶の正しさに依存することになる。これと似たことが意識の同一性についても生じるので、次に意識の同一性について考えよう。
 
(2)人格の同一性が、心ないし意識の同一性によるのだとすると、次のような困難がある。
①人格の同一性は、心の内容(ないし意識内容)の連続的変化によって成立するのだとしよう。このときには、心の内容が連続的に変化していることを保証するのは、記憶である。つまり、昨日の私の心の内容と今日の私の心の内容の連続性を保証するためには、昨日の私の心の内容についての記憶の正しさを前提する必要がある。
 
この記憶の正しさを記憶によって保証することはできない。しかし、他にはその保証の方法が見つからないとすると、①は循環論法に陥る。
(3)さて、そこで考えられるのが、身体と心の結合体として人格をとらえて、その両方の連続的変化として、人格の同一性をとらえるというアプローチである。(エイアーがそうであり、おそらくストローソンもそうである)
 
さて書庫「人格とは何か」では、この(3)のアプローチもうまくゆかないので、人格を構成されたものとして考えるというアプローチに可能性がありそうだ、と言うあたりで、終わっていました。
 
ここでは、この(3)からもう一度考えてみたいと思います。