15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転

                                     Fridlich Gaussが使っていたゲッティンゲン大学の天文台です。
 
15 個人問題と社会問題の関係の説明の逆転 (20131116)
 
 これまで見てきたように、<貨幣によって、個人で解決できる問題が増加し、そのことによって、個人が誕生した>のだとすると、個人と社会問題の関係についてのこれまでの主張を逆転させる必要があります。
 
 <個人が最初にあって、個人が一人では解決できない問題を解決するために、共同体ないし社会を作ったのであり、その問題が社会問題である>と考えきましたが、人間は群れでの生活を基本とするのだとすると、生存の単位は群れないし共同体であり、生存の単位が個人になったのは貨幣経済が広まってからのことになります。そこで次のように変更する必要があります。
 
 <人間は群れないし共同体で生存していた。群れないし共同体は、その維持ないし自己保存のために、さまざまな問題を解決する必要がある。そのために、分業したり、近親相姦のタブーなどの掟を作ったり、狩猟、採集などの共同作業を効率よくするために、あるいは争いを避けるために、言語を作ったりしてきたのであろう。言語の登場は、おそらく決定的な出来事であったと思われる。それは共同体のあり方、共同性のあり方を、根本的に変更することになっただろう。社会制度(社会組織、社会ルール)は、共同体が自己維持のための解題解決ないし問題解決のために作り出してきたものであるが、共同体はそのことを明示化し、共有することになる。言語によって複雑な共同作業、機動的な共同作業が可能になり、共同体の生産力と攻撃力は向上しただろう。しかし逆にそのことによって生じた共同体の危険性や不安定性の問題を解決するために新しい社会制度(新しい掟や新しい分配制度など)が必要になっただろう。また、共同体の生産力や攻撃能力の増大は、共同体が解決できる課題の増大(定住や食糧の貯蔵や戦争など)をもたらし、それらの課題の実行は、他方でまた新しい社会問題を生み出したに違いない。>
 
 
共同体から国家への移行については、次のように考えます。
 <共同体の生産力や戦闘能力が増大してくると、いずれ共同体は安全問題を解決するために、共同体の共同体(国家)をつくって、その問題を解決する必要に迫られる。国家は、共同体が単独では解決できない問題を共同体の共同で解決するために作った制度である。個人と共同体の関係と、個人と国家の関係は非常に異なる。自然的な共同体では、個人間の関係は相互的なものであるが、国家においては、その権力は、相互的な諸個人の関係からできているのではなくて、諸個人を超越している。それは共同体の共同体であるから、共同体の相互的な関係からできているとしても、個人の日常的な利害を超越している。>
 
個人の登場は次のように考えます。
 <国家は、古代国家、封建国家、資本主義国家へと経済と政治の形態を変えきた。柄谷によれば、国家以前の共同体では、主たる交換形態は「互酬性」であり、古代国家や封建国家では、主たる交換形態は「再分配」である。古代国家や封建国家では、再分配の問題が、同時に政治問題であり、経済は政治から分離していない。最も豊かなものは王である。資本主義社会になって、経済は国家から分離し、経済的な豊かさと政治権力は分離し、個人が貨幣への無限の欲望をもつことが可能になった。他方で個人が大統領になろうと欲望することも可能になった。貨幣の登場は伝統的な中間共同体の必要性を少なくし、伝統的中間共同体は弱体化し、個人と、個人を超越した国家の役割が次第に重要になる。
 このようにして個人が登場することによって、個人が自分だけでは解決できない問題を解決するために社会(社会制度、社会組織、社会規範)を作ったという思想が登場可能になる。社会契約論が、それであった。>
 
 私のこれまでの社会問題理解も、これと同じ理解でした。もちろん、社会契約論は、個人が社会の構成素であるのに対して、問題(個人問題や社会問題)を社会の構成素と考える点は異なります。しかし、個人問題から出発して社会問題を構成しようとする点では、よく似ていました。これを修正したいと思います。
 個人でも、行為でも、
コミュニケーションでもなく、問答を社会の構成素と考えた点は、これまで通り維持しますが、しかし、個人問題ではなくて、共同体の問題を優先させ、資本主義とともに個人が登場したと考えます。
 
(間話:貨幣への無限の欲望は、自己目的化する。
貨幣の無際限の追求には終わりがない。無限の貨幣をもつことが、何かの手段であるとすると、それは決して実現することがない。つまり、決して実現しえない無限の貨幣への無際限の欲望は、他の欲望の手段となることはありえない。真理や美や善への無際限の欲望は決して実現することがなく、したがって他の欲望の実現のための手段とはなりえない。
 100億円あれば幸せになれると考えて、100億円稼ごうと欲望することは可能である。しかし、幸福になるために無限の貨幣を追求しようとすることは不可能である。その時には、無限の貨幣を追求する人にとっては、幸福に成ることは目的では無いはずだ。このことは、真理や美や善への無際限の欲望についても当てはまる。
 ちなみに、幸福になるという欲望は、自己目的化する欲望である。なぜなら、幸福は、他の目的の実現のための手段にはならないからである。しかも、幸福になるという欲望は終わることがない。なぜなら、幸福は一旦獲得したら消え去ることがないようなものではないからである。つねに幸福を求め続けなければならない。)