フィヒテの没後200年に

 
 
 
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フィヒテの没後200年に (20140130
昨日は、ドイツ観念論の哲学者Johann Gottlieb FichteMay 19, 1762 -January 29, 1814)の200回目の命日でした。フィヒテは、この日の午前5時になくなっています。Wikipediaの日本語ページと英語ページには、1月27日死亡と書いてありますが、それは間違いです。最近までドイツ語ページもまちがって27日死亡と書いてありましたが、本日確認すると、29日死亡に修正されていました。この間違いは、ヘーゲルが『哲学史』のなかで、フィヒテが1814年1月27日死亡したと間違って書いている事によるのだろうと思います。ヘーゲルがなぜ間違えたのは、調べていません。
 
というわけで、ことしは、没後200年の企画が世界中でいろいろと企画されています。
 
 

 

 
 

4 ヒトの群れから人間の共同体へ

                                    臼杵の石仏のなかでもっとも有名なものです。
 
4 ヒトの群れから人間の共同体へ (20140130)
 
 「問いの成立と社会の成立の間に循環関係があるだろうか」
これが問題だった。社会の成立、つまり社会制度の成立が、社会問題に答えるものであるとすると、社会制度よりも社会問題の成立が先行する。そして、その問いそのものが、社会制度の一部であるとすると、問いの成立には、社会問題の成立が先行することになる。つまり、ここに循環ないし、無限遡行が生じることになる。
 
これを明らかにするには、「社会問題」と「問い」を明確に定義する必要があるだろう。
 
まず「社会問題」について。もし<個人が近代になって登場した>のだとすると、<個人的な問題もまた近代になって登場した>ことになる。従って、「社会問題」を以前のように、「個人では解決できず、共同で取り組まなければ解決できない問題」と定義することはできない。なぜなら、社会制度が成立したあと、しかも近代になって個人が登場したからである。人間社会が誕生するとき、私たちが考えるような個人も個人的な問題も存在していなかったのである。社会問題は、単に「人間が共同で取り組まなければ解決できない問題」だといえるだろう。
 
次に「問い」について。「問い」は、意図と現実認識の衝突によって生じる、とこれまで説明してきた。それでは、この意図や現実認識をもつ主体は何だろうか。これまではそれを個人だと考えてきた。しかし、もし個人が近代になって成立するのだとすると、近代以前の人をどのように考えたらよいだろうか。近代以前であっても、人は意図をもち、現実認識をもつだろう。しかし、その意図は、個人の意図ではない。つまり個人的な目的を達成しようとする意図ではない。人の目的は、家族の目的や共同体の目的から独立しておらず、それらを<分有する>ことによって成立するように思われる。(「分有」の意味がまだ曖昧です)
 
では次に、この二つの発生情況を考えて見よう。群れで生活していたヒトの間に、動物レベルの言語が成立したあとで、最初に生まれる問いの発話はどのようなものだろうか。それは、ヒトが自分自身に問いかける問いだろうか。それとも、他の人に向けられる問いであろうか。それは、相手の発言を聞き返すような問いだろうか。それがどのようなものであれ、その問いの発話は、発話のタイプとして制度化されていないはずである。このレベルの問いの理解は、コードモデルではなくて、推論モデルでしか説明できないだろう。その後、問いの発生が反復し、発話のタイプとして共有される様になって、疑問文の発話が慣習となる。それが慣習として共有されるためには、慣習として共有される前に、それが共同体の問題の解決手段として理解されるということは不必要であろう。慣習ないし制度として十分確立した後に、それがなければ、共同体にとって不都合な問題が生じると認識され、逆にその問題を解決するものとして、疑問文発話の慣習が共同体の制度として承認されるのであろう。
 
動物の群れが、人間社会(人間的共同体)になるのは、まさにこの時である。動物としてヒトは群れで生活している。その群れが、疑問文を含む言語によって成り立ており、もし言語がなければ、群れにとって非常に不都合な問題(「どうやって複雑な行為調整をしたらよいのだろうか」)が生じるということに気付き(「言葉がなければ大変だ」)、言語が、群れの問題を解決するものであることを認識し、それを共同体の制度として承認するとき、動物の群れは人間的共同体になる。つまり、それは自然的なルールではなく、人為的なルールによって構成される組織になる。
 
以上は、「問いをもつ言語が、動物の群れと人間社会を分けるものである」という仮定からの推測である。この推測が正しいとすると、次のような結論になる。<当初の問いの発生は、まだ社会的制度ではなく、其の意味で、問いの発生は社会制度の発生に先立つ。問いを含む言語が社会制度とな
るのは、それが社会問題への解決策として事後的に認識されることによってである。つまりここに、問いと社会制度の循環や無限背進は生じない。>
 
 
 

 
 
 

3 矛盾とその解消 

 
                                       臼杵の石仏です。
     
3、矛盾とその解消 (20140124)
<議論1>
社会制度は社会的な問題に対する答である
言語もまた社会制度である
故に、言語もまた社会的な問題に対する答えである
故に、社会的な問題は、言語の成立以前に成立している。
故に、社会は、言語より前に成立している。
 
<議論2>
動物の群れと人間の社会を区別するものは、言語である。
言語によって、人間社会が誕生する。
故に、言語の誕生と人間社会の誕生は、同時であるか、あるいは言語の誕生が先である。
 
この矛盾を解消するには、<言語はいっときに発生したものではなく、すこしずつ発達したものである>ということを考慮しなければならない。
 
問いの発生以後の言語の発達は、問に対する答えとして説明できるが、問いの発生以前の言語の発達は、問いに対する答えとしては説明できない。
 
<動物と人間社会を区別するのは、言語の有無だ>を認めるとしよう。
しかし、動物もある意味では言語を持つ。カールビューラーによれば、言語には、3つの機能(叙述的、喚起的、表現的)があるが、動物の言語もそれらの機能を持ちうる。動物の言語にないのは、問うことではないだろうか。もしそう言えるとすれば、ビューラーのいう言語の3つの機能も、それぞれ問に対する答えとして発話される場合と、そうではない場合の二つに分けることができる。つまり、より正確には次のように言える。<動物と人間社会を区別するのは、問いの発話の有無だ>
 
これに従うと、先の<議論2>の中の「言語によって人間社会が誕生する」も、より正確には「問いの発話によって、人間社会が成立する」(より簡潔に言うと、「問いは社会に先行する」)となる。また<議論1>のなかの「言語もまた社会制度である」も、より正確には「問いへの答えもまた社会制度である」(より簡潔に言うと、「問いへの答えは社会である」)となる。この二つは、もはや矛盾しない。
 
では「問い」はどうだろうか。上記の<言語の成立>と<社会の成立>の循環ないし矛盾と同様のことが、<問いの発生>と<社会の成立>の間に生じないだろうか。
 
face=”MS 明朝”>それを次に考えよう。
 
 

2 言語の誕生:再説

 
       愛媛県八幡浜から臼杵行きのフェリーです。
       温泉へフェリーで向かう年の瀬かな。
   
 
 
2 言語の誕生:再説 (20140111
 道具を持ち歩くようになったヒトの集団は、その道具がヒトに対する武器として使われる可能性があることから、相互の攻撃の可能性に対してより敏感な集団となる。その中で攻撃の意志のないことを示すことは非常に重要であり、そこら挨拶などの言語が発達したと考えた。
 もちろん、これは想像で組み立てた話しにすぎ無いが、この話はもし自立した個人を前提しないで語るとするとどのように成るだろうか。
 脳は、運動をコントロールするために発生したと考えられる。群れで生活する動物では、運動を相互に調整する必要があるので、ミラーニューロンが生まれたと考えられる。主人があくびをすると犬もあくびをするそうだから、群れで生活する犬にもミラーニューロンがあることになる。言語の成立以前のヒトは、猿や犬と同じようにミラーニューロンをもつだろう。そして、それが言語の発生に関わっていなということは考えられないだろう
 このようなミラーニューロンをもつ動物の群れでは、緊張もまたミラーニューロンによって集団に伝染するだろう。もし、群れの中で、誰かが切迫した声を上げれば、群れに緊張が走るだろう。もし誰かが、ゆったりとした声を上げれば、そのくつろぎは群れに拡がるだろう。そして彼らは、くつろぎが広がっている事自体をも、おそらくミラーニューロンによって互いに知ることになる。ある発声が群れを緊張させたり、くつろがせたりすることを互いに知ることになるだろう。それが反復されると、次にはそれを意図して、それらの発声をすることになるだろう。この意図的な発声が反復することによって、挨拶などの発話が誕生するのだと想像できる。つまり、個体が自己保存のために敵意のないこと、ないし好意を持っていることを他の個体ないし集団に伝えようとして声をあげるようになる前に、まず最初は、集団の緊張の高まりを緩和しようとして、声を上げるということが行われるようになるのではないか。それが反復されることによって、次に自己保存のために集団の緊張を緩和しようとして声を上げるということが成立するのではないだろうか(全くの推測です)。
 このように考えるとき、言語は集団の問題を解決するために作られた社会制度であるといえる。しかし、この時の集団の問題は、個人では解決できない問題のことではない。なぜなら、言語の成立以前であるから、個人はまだ誕生していないからである。