32 内因性ネットワークはなぜ予測するのか? (20210131)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

バレットは、「内因性脳活動」ないし「内因性ネットワーク」は、人が生きているか限り、絶えず膨大な予測をしていると考えている。彼女はそれの証拠をあげておらず、第4章の注15でAndy Clark, Jakob Hohwy, Sophie Deneve and Renard Jardri,Andyの文献を挙げているだけである。そこで、Andy Clarkの論文 ” What ever Next? Predictve Brains, Situated Agents, and the Future of Cognitive Science,” 2013と彼の近作Searching Uncertainty、2016とJakob Hohwy, The Predictive Mind, 2013をつまみ読みしてみた。

 ClarkとHohwyの研究関心は大変にている。どちらも情動研究よりは認知研究に重心がありますが、ともに面白い。彼らは、人間の認知プロセスを説明するときに、ディープラーニングの研究を応用してアプローチする。予測をしてそれをチェックしてエラーを修正し、次第にエラーを少なくしていくというディープラーニングの手法を人間に当てはめて、人間の知覚を説明しようとする。

(認知や情動を理解するには、やはりディープラーニングのプログラムを勉強することが必要なようだ。)

(ちなみに、彼らはともに、Helmholtzの視覚生理学の研究を、その先駆として高く評価している。ヘルムホルツは、Handbuchder Physiologischen Optikの第三巻で「知覚のための無意識の推論」を無視式的な知覚的推論」の重要性をしてしていたようで、それを高く評価する。 HohwyのPredictive Mind (p.5)によれば、Helmholtzのこの研究はカントの認識論の影響を受けているとのことである。)

今後は、探索と発見の関係(広義での「探索と発見」)を、それが言語によって行われるときには、「問いと答え」と呼び、言語に寄らない場合には、「探索と発見」(狭義での「探索と発見」)と呼ぶことにしたい。人間以外の動物、および言語を獲得する以前の人間については、探索と発見として語り、言語を獲得した後の人間については問答として語ることになる。ただし、言語を獲得した後の人間も、言語を用いないレベルで探索と発見をしている場合があるだろう。

ところで、「予測」は、探索による発見として、あるいは問いに対する答えとして得られるものだろう。なんの必要も理由もないところで、いきなり何かが予測されるということはありえず、何かについての何かの予測が生じるとしたらそれが求めらているからであろう。

「予測」についても、それが探索による発見として得られる場合と、問いに対する答えとして得られる場合があるを区別できるだろう。そして、この区別とは別に、「予測」についても、「意識された予測」と「無意識の予測」を区別できるだろう。

 前に「27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)」で「問いを意識するの」場合と、「問いの答えを意識する場合」についてのべた(そこでは、証明はなく、結論だけを述べたのだが、それはどうやって証明したらよいのかわからなかったからである。しかし「より良い対案」を今のところ思いつかない)。後者、つまり問いの答えを意識する場合には、次の3つであった。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

これを「予測」に当てはめると次のようになる。

①意識的におこなう探索にたいする(発見としての)予測を得たときには、私たちは、その予測を常に意識している。

②無意識的におこなう探索にたいする予測を得たときには、大抵は、それを意識していない。

③その予測が、他の意識している予測と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

では、無意識の予測が、他の無意識の予測と衝突するときには、どうなるだろうか。

その場合には、それをどう解決するかは、無意識の探索になるのではないだろうか。

ところで、ディープラーニングによるコンピュータの探索は、意識を持たないので、その成果である予測も意識を持たない。上の①にあるように、予測が意識的なものになるのは、意識的な問いに対する答えとして生じる時だとすると、意識の発生を説明するには、意識的な探索がどのように生じるのかを説明する必要がある。

 話があちこちしてしまいましたが、いろいろと考えるべきことが分かってきました。しかし、とりあえずバレットの情動の説明にもどって、最後まで見ることにしたいとおもいます。

31 内受容と内因性ネットワークから気分が生まれる (20210128)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

気分はどのようにして生じるのだろうか? バレットによれば、気分は内受容に由来する。内受容(interoception、「内受容感覚」と訳されることもある)とは、「体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象」(前掲訳104)である。

interoception は、Charles Sherrington(英、生理学者)が作った言葉と言われている。彼は、感覚を3つに分類したようです。詳しく説明すると次のようになるようです。

①interoception (内受容感覚)

これは、「心房、頸動脈、大動脈の伸長受容体、骨格筋の代謝受容体によって生じる感覚で、内臓や血管の状態の知覚に関わっている。心拍や血圧、呼吸などの変化の受容にはこの感覚が主にかかわっており、感情の生起にともなって観察される感情反応と呼ばれる身体反応の多くは、内受容感覚器が検出できる変化をもたらすものである。」(寺澤悠理「感情認識と内受容感覚――感情関連疾患と内受容感覚の下位概念について――」(www.jstage.jst.go.jp/article/jjbf/44/2/44_97/_pdf/-char/ja))

②exteroception (外受容感覚)

これは、「視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚」からなる。(寺澤悠理「感情認識と内受容感覚――感情関連疾患と内受容感覚の下位概念について――」(www.jstage.jst.go.jp/article/jjbf/44/2/44_97/_pdf/-char/ja))

③proprioception (固有感覚)

これは、「四肢の位置や動き、関節の曲り具合、筋肉の力の入れ具合などを感知するものです。「proprioception」は、筋・腱・関節など自分の身体内部の状態を知るための感覚なので、「自己受容感覚」とも訳されています」(http://www5c.biglobe.ne.jp/~obara/dokusho/dokusho6.html

これは「外受容感覚」の五感に対して、「シックスセンス」と呼ばれることもあるようです。

さてバレットによれば、内受容から気分は生じるのは、「内因性脳活動」による。ところで、彼女によれば、脳は、外部からの刺激を待って反応するようなものではない。

「刺激と反応による見方は、わかりやすいが誤っている。巨大なネットワークに結びつけられた脳の860億のニューロンは、起動されるのを静かに待ってなどいない。十分な酸素と栄養素が与えられれば、「内因性脳活動」と呼ばれる、興奮の巨大な連鎖は誕生してから死ぬまで続く。」106

「内因性脳活動は、……「内因性ネットワーク」と呼ばれる、絶えずともに発火するニューロンの集合によって組織化されている。」(前掲訳107)

「内因性ネットワークは、最近の10年間における神経科学の、もっとも重要な発見の一つとみなされている。」(前掲訳107)

内因性ネットワークにとっては、内受容(内受容感覚)もまた、外界についての感覚と同様に脳にとっての外部からの刺激であるだろう。そして、内受容から内因性ネットワークによって、気分が生じるのだとすると、外受容感覚と固有感覚から内因性ネットワークよって、知覚表象が生じるといえかもしれない。

ところで、この内因性ネットワークは何をしているのだろうか。バレットによれば、これは内部からの刺激外部からの刺激をうけて常に様々な予測をしている。

外受容と固有感覚に関しては「多数のニューロンの会話は、その人が経験するはずの視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚に関するあらゆる情報の断片と、とるはずのないあらゆる行動を予測しようとする。こうした予測は、外界で生じている事象に関する、また、無事に生きていくためにはそれにどう対処すべきかに関する、脳の最善の推測なのである。」108

「内受容は、感情を経験するためではなく、身体予算を管理するために進化したのであり、体温、体内のグルコースレベル、損傷をうけた組織の有無、心拍、筋肉の収縮などの身体の状況を追跡できるよう脳を支援している。快や不快、あるいは興奮や落ち着きの感覚は、身体予算をめぐる状況の簡素な要約とみなすことができる。「貯金は足りているだろうか?」「貯金を引き出しすぎだろうか?」「預金が必要だろうか?必要ならいますぐにか?」などのように。」128

内因性ネットワークにおいて、気分を含めてあらゆる意識が発生しているだろう。バレットは、この内因性ネットワークは、身体の内部や外部からの刺激があろうとなかろうと、人が生きているか限り、絶えず膨大な予測をしていると考えている。彼女はなぜ、そう考えるのだろうか。それをつぎにみよう。

 内因性ネットワークが、常に膨大な予測をしていると言えるならば、常に膨大な探索をしている(人間の場合には、問いを立てている)ということになるのではないだろうか。

30 犬は情動を持つのか? (20210126)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(「構成主義的情動理論」はthe theory of constructed emotionの訳です。前回の見出しは、当初「構成的情動理論」と書いてしまいましたが、高橋洋訳に従って訂正しました。直訳すれば「構成された情動の理論」となりますが、「構成主義的情動理論」の方が、わかりやすいと思います。) 

犬も情動を持つのだろうか。『情動はこうして作られる』「第12章 うなる犬は怒っているのか」での、バレットのこの問いに対する答えは、次のようになる。。

「人間以外の動物は何らかの気分を感じるが、情動という点になると、現在の知見にもとづいて言えば、私たちが動物に投影しているに過ぎない。」(前掲訳455)

その理由は、バレットによれば、情動には、3つの要素(内受容、情動概念、社会的現実)が必要であるけれども、犬は、「内受容」をもつが、「情動概念」と「社会的現実」を持たないので、情動を持たない、ということである。人間は、この三つを持っているので情動を持つということになる。この3つを順番に説明したい。

 まず犬が「内受容」を持つことについて、バレットは次のように言う。

「動物は、内受容によって身体予算を調節しているのだろうか? 動物界全体を対象に答えることはできないが、ラット、サル、類人猿、犬などの哺乳類に関して言えば「イエス」と答えても問題ないだろう。動物は気分を経験しているのか?生物学、ならびに動物行動学の知見に基づけは、それに対する答えも確実に「イエス」である]440

 この引用を理解するには、「内受容」と「身体予算」と「気分」を理解する必要があるので、これも順番に説明したい。

 「内受容」について次のように言う。

「単純な快や不快の感情は、「内受容」と呼ばれる体内の継続的なプロセスに由来する。内受容とは、体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報の脳による表象を意味する。」104

分かりにくいが、快不快の感情は、「内受容」に由来するが、「内受容」自体も表象である。それは「体内の器官や組織、血中ホルモン、免疫系から発せられるあらゆる感覚情報」の表象である。

(ここでの「感情」「内受容」「感覚情報」の関係は、ダマシオの「感情の認識」「感情」「情動」の関係に似ているように見えるが、用語の使い方が全く異なるので、この対応付けはうまくいかない。)

この内受容から生じるのは、気分(すなわち、快不快などの基本的な感情)である。

これについてバレットは次のようにいう。

「たった今、あなたの身体の内部で何が起こっているかを考えてみよう。そこには動きがある。心臓は動脈や静脈を流れる血液を送り出し、肺は空気で満たされたり空になったりし、胃は食物を消化している。その体内の活動は、快から不快、落ち着きからいらだち、さらには完全に中立的な状態に至る、基本的な感情のスペクトルを生んでいる。」105

バレットは、人間だけでなく他の哺乳動物も「気分」を持つと考える。この「気分」は、生物が持つ最初の心的なものであるかもしれない。(感覚や知覚は、非脊椎動物も持つが、気分を持たないだろう。哺乳類以外の脊椎動物が気分を持つかどうかはわからない。)では、哺乳類は、どのようにして気分をもつことになったのだろうか。

 それを次に見よう。

29 「構成主義的情動理論」の紹介 (20210124)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(見出しを「構成的情動理論」から「構成主義的情動理論」に修正しました。20210126) 

人間にとっての初期の問いは、個体にとっても、ヒトという種にとっても、知覚イメージに関わるものになるでしょう。ですから、知覚イメージや意識がどのようにして生じるのかを明らかにしたいのですが、情動についての面白い議論を見つけましたので、それを紹介し、そこで意識の成立についてどう論じられるかを、確認しておきたいとおもいます。

 ダマシオの情動論に納得できずに困っていたのですが、それを批判する情動論を見つけました。

Lisa Feldman Barrett、How Emotions Are Made、2017(バレット『情動はこうしてつくられる』高橋洋訳、紀伊国屋書店、2019)です。バレットは、「情動は、生まれつき組み込まれている身体の内部で起こる明確に識別可能な現象なのだ」という「古典的情動理論」を批判します(同訳、8)。ダマシオの情動論も、この「古典的情動論」に含まれると思います。二か所(同訳、138,268)で、ダマシオについて批判的に言及しています。

 これに対してバレットは、「構成主義的情動理論」(前掲訳63)を次のように定義します。

「目覚めているあいだはつねに、脳は、概念として組織化された過去の経験を用いて行動を導き、感覚刺激に意味を付与する。関連する概念が情動概念である場合、脳は情動のインスタンスを生成する」(前掲訳63)

構成主義的情動理論の二つの中心的な考えは、次の通りです。

①怒りや嫌悪などの「情動カテゴリー」には、身体や脳における指標は存在しない。

「たとえば怒りの或るインタスタンスは、他のインスタンスと同じように見えたり感じられたりするとは限らず、また同一のニューロン群によって引きおこされるとも限らない。」66

 バレットは、独自の情動経験を「情動のインスタンス」と呼び、「情動インスタンスを知覚する」という言い方をする(前掲訳77)これに対して、一般的な恐れ、怒り、幸福、悲しみなどを「情動カテゴリー」と呼ぶ。

②「人間が経験し知覚する情動は、遺伝子によって必然的に決められているわけではない」必然的なのは、「人間は、世界に内在する身体に起源を持つ感覚入力に意味を見出すための、ある種の概念[情動概念]を持つ」67

「「怒り」や「嫌悪」などの個々の概念は、遺伝的に決まっているわけではない。身に沁みついた情動概念は、まさにその概念が有意味かつ有用であるような特定の社会的な文脈のもとでそだったがゆえに組み込まれているのであり、脳は、本人の気づかぬうちに概念を適用し、経験を構築するのだ。」67

「心拍の変化は必然的だが、その情動的な意味は必然的なものではない。文化が異なれば、おなじ感覚入力から異なる種類の意味が生成されうる。」67

「構成主義的情動論」は、次の三つの構成主義の流派をすべて取り入れている。「社会構成主義」からは文化と概念の重要性を、「心理構成主義」からは情動が脳や身体の内部の中核システムによって構築されるとする考えを、そして「神経構成主義」からは経験によって脳が配線されるという考えを取り入れている(前掲訳70)

 では、このように情動が、概念で構成されていると考える時、ペットの犬は情動を持たないことになるでしょうか。それを次に確認したいとおもいます。

なおバレットのTEDでの大変わかりやすい講演が以下にありますのでご覧ください。

28 知覚イメージの発生について (20210121)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(今回は、人間と動物に共通の話です。)

#知覚することと知覚像(知覚イメージ)を持つことの区別

 眼を持つ動物は、空間とその中にある対象の形と表面の色や質感を知覚するだろう。また空間の中での身体の移動に合わせた対象の見えの変化を記憶し予測しているだろう。つまり、既に見えなくなった側面を記憶し、これから見えるであろう側面を予測しているだろう。その記憶と予測がなければ、動物は適切に行動できないからである。

 しかし、動物が、知覚することと、知覚像(知覚イメージ)を持つことは別のことであろう。動物が、対象について知覚し、それを記憶し、それを予測しているとしても、そのことを意識しているとは限らないし、それらの知覚を像として意識し、像として記憶し、像として予測しているとは限らない。動物が知覚することは、感覚器官をもつことを確認することで知ることができるが、知覚像を持つことは直接的に知ることができない。

 たとえば、魚を取るための定置網は、垣網に導かれて囲網の中に入った魚が外にでられず、さらに箱網の中に入るとますます出られなくなるという仕組みです。

  (参照:https://trevally.jp/2018/04/15/machibusegatagyohoutetiami/)

魚は、網を知覚してそれにぶつからないように泳ぐことができます。しかし、網全体のイメージを描くことができないので、そこから抜けられないのです。つまり、魚には視覚はあっても、視覚イメージはないということになります。もし魚が上記の定置網の配置全体のイメージを持っているならば、魚は網が開いているところから逃げていくはずですが、そうしないということは、定置網の配置全体のイメージを持っていないということです。魚は、対象を知覚しても、その知覚像を持たない

#知覚イメージを持つことの有用性

 もし動物が進化の過程で知覚像(知覚イメージ)を持つことになったとすれば、①そのようなイメージを持つことは生存に有利であること、あるいは、②そのようなイメージを持たないことで危険に直面するということ、によって知覚イメージを持つことになったのだろう。

 幼児の場合を例に挙げると、次のように言えるだろう。幼稚園児が、ひとりで幼稚園に行くことはできるが、家から幼稚園までの地図を描くことができないとき、次のような危険に直面するする可能性がある。幼稚園児が何かに気を取られて、道を間違えたときに、迷子になってしまうという危険がある(②の例)。逆に、地図をかければ、幼稚園児は、道に迷っても、家が大体どの方向にあるかがわかり、家に帰れる可能性が高くなるというメリットがある(①の例)。

 同様のことは、動物でもいえるだろう。縄張りを持つ動物は、縄張りの空間についてのイメージを持っているのではないだろうか。

 次に、知覚を意識すること、知覚イメージを持つことが、どのようにして生じるのかを考えてみたい。




27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)

ダマシオを少し離れて、意識ないしイメージの発生について考えてみよう。

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、問いの意識の答えの意識について考えてみよう。

#問いを意識するとき

私たちは、意識せずに何かを問うていることがある。例えば、自分のコーヒーカップをつかおうとするとき、「私のコーヒーカップはどこかな?」と問いながら、食器棚を探す。あるいは、「コーヒーカップは机の上にあったかな?」と問いながら、机の上を探す。このときに、コーヒーカップがすぐに見つかれば、私は、その問いを問うたことを意識することはなく、またその答えも意識しないということがあるだろう。

#では、問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。

#では、問いの答えを意識するのは、どのような場合だろうか。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

26 情動と感情  (20210119)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回の発言の後、ダマシオの「感情」についての説明を理解しようとしてきましたが、彼の議論は大変わかりにくく、すこしお手上げ状態です。(なお、訳者の田中三彦氏が、ダマシオのemotion を「情動」、 feelingを「感情」と訳しているので、この訳語を踏襲しますが、これらは、ダマシオが専門用語として導入しているものなので、日本語の「情動」や「感情」の通常の意味とも、また英語のemotionとfeelingの通常の意味ともズレることをお断りしておきます。)

 前述のように、ダマシオは、「情動」を「遺伝的に決定した化学的、神経的反応」ととらえていました。これに対して、「感情」とは「情動を感じる」こと、あるいは情動についての「心的イメージ」であると言われます。

 ダマシオは、単細胞生物の動物を含めて、全ての動物が情動を持つと考えていますが、しかし、感情については、情動を持つすべての動物が、情動の感情を持つとは考えていないと思います。進化のあるレベルで感情が発生したと考えていると思われる。ネコやイヌなどのペットは感情を持つと述べている(ダマシオ、前掲訳96)ので、少なくとも哺乳類は感情を持つのだと思われます。しかし、魚などの脊椎動物も感情を持つと考えているかどうかはわかりません。

 情動についての心的イメージ(感情)が生じる時、感情は情動についての何らかの表象である。その感情に対応する脳のニューロン・パターンと心的イメージの関係について、ダマシオは、二元論を拒否している。

「イメージは、ニューラル・パターンから生じる。しかし、イメージがニューラル・パターンから「どのようにして」出現するかに関しては謎がある。一つのニューラル・パターンがどうやって一つのイメージに「なる」のかは、いまだに神経生物学が解決できていない問題だ。」420

「イメージはニューラル・パターンそのものではなく、ニューラル・パターンに「依存し」そこから「生じる」もの、と言うとき、私は一方にニューラル・パターン、他方に非物質的思考という、不用な二元論を述べ立てているわけではない。」420

ダマシオは、「イメージ」もまた「生物学的実在物」であり、しかもそれはニューラル・パターンに後続して生じるものだと述べている。

「私が明確にしておきたいのは、ニューラル・パターンは、私がイメージと呼んでいる生物学的実在物の前兆であるということ。」421

しかし、ここでいう「生物学的実在物」がニューラル・パターンでないとしたら、それはいったい何だろうか。感情が、心的イメージであり、かつ生物学的実在であるとしたら、それはどういうことになるのだろうか。

 ちなみに、ダマシオは、この感情は、また無意識的であり、この感情が認識されたときに、意識が生じると考える。彼は、この意識を、中核意識と拡張意識に分ける。これらは、おそくらく次のような対応関係を持っている。

  感情――原自己

  中核意識――中核自己

  拡張意識――自伝的自己

ダマシオは、『意識と自己』が取り組む二つの問題を次のように説明している。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(前掲訳18

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(前掲訳19

「対象のイメージ」や「認識のさなかの自己の感覚」を扱う時、これらの心的現象に関する諸概念(感情、意識、自己、表象、イメージ、など)と生物学ないし脳科学や神経科学の諸概念の関係が私には曖昧であるように思われる。その曖昧さの理由の一つは、心的現象に関する概念の曖昧さにある。

 ダマシオは、次のような方法論を述べる。

「以下の三つの関係を確立することは可能だ。

(1)いくつかの外的発現。たとえば、覚醒状態、背景的情動、注意、特定の行動。

(2)そうした行動を有する人間の、それらの行動に対する内的発現。これはその人間の報告による。

(3)観察者である我々が被観察者と同等の状況に置かれたとき、我われが自分自身の中で検証できる内的発現。

 我々はこの三つの関係によって、外的な行動にもとづいて人間の私的な状態を合理的に推測することができる。」(前掲訳115)

たとえば、ノエの知覚のエナクティヴィズムでも、ギブソンのアフォーダンス論でも、「視覚像」や「知覚像」を認めることに慎重であり、たとえそれらを認めても、認識におけるその重要性に関しては懐疑的である。また「意識」(consciousness)という語は、ロックがconsciousから作った新しい語であり、それ以前には人々はconsciousnessという語で心を理解してはいなかった。「自己」という語もまた多義的であり、時代や社会によって異なる意味をもつ語である。そう考える時、上記の方法論の(2)の部分は、心についての一人称の報告文として明確なものになりうるとしても、その報告文の意味内容については、曖昧なままである。それゆえに、上記のダマシオの方法論は、少し素朴すぎるように思われる。

 さて、どうしたものだろうか。

25 快苦と情動と探索 (20210115)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、情動についての二つの補足説明をします。

1,肉体的快苦は、情動ではない。

 たとえば、肉体的苦痛である痛みは、さまざまな無条件反射を引き起こす。昏睡状態の人もまたそのような無条件反射を行うので、意識がなくても肉体的苦痛は成立する(cf. ダマシオ、前掲訳102)。(逆に言うと、全ての脊椎動物は、脊椎反射をするだろうが、それだけでは意識を持つとは言えないことになるので、全ての脊椎動物が意識を持つとは言えない。)

 痛みと痛みの情動的反応は、異なる。ダマシオはそれについての3つの証拠を挙げている。一つは、「有痛性チック」としても知られる難治性三叉神経痛の重い症状の患者の例である。その人は、顔にそよ風が当たるだけでも激痛を感じるそうだ。その患者の前頭葉の特定の部位に小さな傷をつける手術をする。「手術では、局部的な組織の機能障害に応じて三叉神経系から出されている感覚パターンには、ほとんど何も手をつけなかった。つまり、組織の機能障害の心的イメージは変わっていなかった。だから患者は「痛みは同じ」と言う。しかし「手術によって組織の機能障害の感覚パターンが生み出していた情動反応はなくなっていた。苦しみは消えていた。男性の顔の表情、声、全般的な振る舞いは、痛みと関係しるようなそれではなかった。」(同訳104)

 後の二つの証明は、催眠暗示や特殊な薬(β-ブロッカーやベイリウム)を飲むことによって、同じように「痛みはあっても、痛みによって引き起こされる情動は減じられる」(同訳105)というこが生

じるという例である。

 ダマシオは、肉体的快についても、それは情動ではないと述べている。おそらくは、催眠術や薬物を用いた例を挙げるができるだろう。しかし残念ながら、痛みの場合とはちがって、その具体的例証をあげてはいない。

2,快と苦のメカニズムの違いと、情動としての探求

苦痛と快の説明は興味深いのでそれを引用しておきたい。

「肉体的苦痛は、怒り、怖れ、悲しみ、嫌悪といった否定的な情動と結びつき、それらの組み合わせが「苦しみ」を構成するが、快は、喜び、優越感、そして肯定的な背景的情動と結びついている。」(同訳106)

ただし、この二つのメカニズムは、大きく異なるという。

「肉体的苦痛は、生体組織の局所的機能障害に対する感覚的表象の知覚である」(同訳106)

「有機体は特定のタイプの信号を使って、現実の、ありは潜在的な有機体の組織の健全性喪失に反応するようになっている。その信号伝達では、白血球細胞の局所的な反応から、手足の反射作用、具体的な情動反応にいたるまで、多くの化学的、神経的反応が動員される。」(同訳106

これに対して、

「快の場合、問題は有機体をホメオスタシスの維持に通じるような態度や行動へと向けることである。」(同訳107)

「苦は、少なくともすぐには他の損傷の防止にはつながらないものの、損傷組織の保護、組織修復の促進、傷の感染防止になっている。これに対して快は先見に関するものである。快は、問題が生じ「ない」ようにするためにできることは何かという、賢明な予測に関することである。」(同訳108)

ここで注目したいことは、快と探求との結びつきである。

「快は報酬と連携し、探求、接近といった行動と結びついている。」(同訳108)

「ふつう快は、たとえば低血糖や高オスモル濃度のような不均衡の検出からはじまる。そうした不均衡が空腹や渇きという状態を生み(これは動機的・欲求的状態としてしられている)、今度はそれが食べ物は水の探索と関係する行動(これもまた動機的欲求的状態の重要な一部)をもたらし、そしてそれが食や飲という最終行動をもたらす。…快の状態は、現実的な目標を期待するその探索プロセスの中で始まり目標が達成されると高まる。」(同訳106)

つまり、快は、ホメオスタシスの棄損という否定的な状態が、飢えや渇きという苦痛の状態を生みだすことを予見し、それを予防するために、餌や水の探索行動を生み出し、それを摂取してホメオスタシスの回復を生み出す、あるいはい棄損を予防するというプロセスの中で、快は、ホメオスタシスの維持に役立っている。快は、それを報酬とするオペラント行動を引き出し、その行動の中に探求も含まれるということである。

 「探求」は、肉体的快への反応(オペラント反応)であり、(ダマシオは明言してはいないが)探求は情動の一種とみなされている。

 次回は、情動と感覚の関係について説明する。(議論の紹介の都合上、しばらく引用が多くなりますが、ご容赦ください。)

24 人間の探索行動の考察に向けて   (20210114)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 ここからは、動物の探索行動の考察を中断して、人間の探索行動を論じたい。

ダマシオの『意識と自己』(The Feeling of What Happens Body and Emotion in the Making of Consciousness田中三彦訳、講談社学術文庫、2018年、原書1999)を紹介しつつ、そこに問答の観点からの考察を加えることにしたい。

 この本でダマシオが説明しようとするのは、次の二つの問題である。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(同訳18)

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(同訳19)

この二つの問題を解くために、ダマシオは、情動、感情、意識(中核意識、拡張意識)を順番に論じていくので、これを紹介しよう。

#情動について

ダマシオは、情動と呼ばれているものを次の3つに分類する。

「一次の情動」あるいは「普遍的情動」6つ。

  喜び、悲しみ、怒り、驚き、嫌悪

「二次の情動」あるいは「社会的情動」

  当惑、嫉妬、罪悪感、優越感、

「背景的情動」 

  優れた気分、不快な気分、平静、緊張

これらの情動に共通する「中核」を次のように説明する。

(1)「情働は、一つのパターンを形成する一連の複雑な化学的、神経的反応である。」

「その役割は有機体の命の維持を手助けすることである」(同訳72)

(2)「情動は生物学的に決定されたプロセスであり、…生得的にセットされた脳の諸装置に依存している。」(同訳72f)

(3)「情動を生み出すこれらの装置は、脳幹のレベルからはじまって、上位の脳へと昇っていく、かなり範囲の限定されたさまざまな皮質下部位にある。」(同訳73)

(4)「そのすべての装置が、意識的な熟考なしに作動する。」(同訳73)

(5)「すべての情動は身体(内部環境、内臓システム、前庭システム、筋骨格システム)を劇場として使っているが、情動はまた多数の脳回路の作動様式にも影響を与える。」(同訳73)

一言で言えば、情動は、(ダマシオによれば)遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」である。

ダマシオは、単細胞生物もこのような情動を持つという。

「情動の基本的な形態は単純な有機体に、いや単細胞生物にさえ見ることができるから、喜び、恐れ、怒りといった情動の起源を、そうした単純な生物に求めることもできるかもしれない。もちろん、どう見てもそうした生物にはわれわれが持っているような情動の感覚はない。」96f

ダマシオは、PC上にも類似のものを見る。

「同じことは、コンピュータの画面の上を動き回る単純な小片についても言える。速いジグザグ運動は「怒り」のように見えることもあるし、調和のとれた、しかし爆発的なジャンプは「歓喜」のようにも見える。また、はっと飛びのくような動きは「恐れ」のように見えるだろう。われわれが動物やコンピュータ画面上の小片を心ならずも擬人化してしまう理由は単純だ。情動とは、その言葉が示しているように、ある特定の環境での、ある特定の状況に対する「動き」に関すること、外面化した行動に関すること、ある原因に対するいくつかの統合的反応に関することであるからだ。」(同訳97)

この引用箇所によると、PC上の小片と同じく、単細胞生物に見ることができる情動もまた、擬人化であり、本当には存在しない「見かけ上の情動」であることになるのかもしれない。

ダマシオは、この単細胞生物とジャンボアメフラシと犬の情動についてつぎのように語る。

「アメフラシのえらに触れると、えらは完全に引っ込んでしまう。そのとき、アメフラシの心拍数は上昇し、敵を欺かんとまわりに墨を放つ」(同訳97)

「アメフラシは、似たような状況でわれわれ人間が示す反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示す。」(同訳97)

「神経系に情動的状態を表象できる程度には、アメフラシも感情の素材を持っているかもしれない。アメフラシが感情を持っているかどうかは、われわれにはわからないが、たとえ感情をもっているとしても、そういった感情を認識できるとはとても想像しがたい。」(同訳98)

(ジャンボアメフラシは、神経の実験による使われる動物である。ちなにみ、2018年に、ジャンボアメフラシによる実験で、RNAを移植することによって、記憶を移植することができること、つまり記憶が(少なくともある種の記憶は)、RNAに蓄積されることが証明された。記憶の移植が原理的に可能であるということになりそうだ。)

これらをまとめると次のようになる。

1、単細胞生物:<見かけ上の情動>をもつ。

2,アメフラシ:情動を持つ。アメフラシが「神経系に情動的状態を表象できるかどうか、感情を持つかどうかは、わからない。しかし感情を認識することはできない。

3,犬:情動を持つ。情動によって引き起こされる感情を認識できる。意識を持つ。

ダマシオは、「情動」と「感情」と「意識」の関係について次のように述べている。

「有機体は情動を経験し、それを提示し、それをイメージ化する(つまり、情動を感じる)。」(同訳111)

「有機体自身がいま感情を持っていることを知るには、情動と感情のプロセスの後に意識のプロセスを加えることが必要だ。以下の章で、意識とは何かについて、そしてそれがあるとどうやってわれわれは「感情を感じる」のかについて、私の意見を述べる」(同訳111)

これをまとめると次のようになるだろう。

情動(emotion):遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」

感情(feeling):情動のイメージ

意識(consciousness):感情のイメージ

この本では、「意識」と「自己」の発生が問題になっているので、感覚や対象の知覚についてはあまり語られない。

 次に探索と情動の関係、情動と感情の関係の説明を紹介しよう。

23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)