27 意識的問いと無意識的問い  (20210120)

ダマシオを少し離れて、意識ないしイメージの発生について考えてみよう。

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、問いの意識の答えの意識について考えてみよう。

#問いを意識するとき

私たちは、意識せずに何かを問うていることがある。例えば、自分のコーヒーカップをつかおうとするとき、「私のコーヒーカップはどこかな?」と問いながら、食器棚を探す。あるいは、「コーヒーカップは机の上にあったかな?」と問いながら、机の上を探す。このときに、コーヒーカップがすぐに見つかれば、私は、その問いを問うたことを意識することはなく、またその答えも意識しないということがあるだろう。

#では、問いを意識するのはどのような場合だろうか。

①問いを意識する一つの場合は、問いに答えることができないときである。問いに答えることができないとき、問うていることを意識する。これは、<行為がうまくいかないときに、行為していることを意識する>という一般的な事柄の、特殊ケースである。

②問いを意識するもう一つの場合は、ある問いに答えようとして答えることができないので、それの答えを見つけるために、別の問いを立てるときである。このときこの「別の問い」を私たちは意識する。

#では、問いの答えを意識するのは、どのような場合だろうか。

①意識的に立てた問いの答えを得たときには、私たちは、その答えを常に意識している。

②無意識的に立てた問いの答えを得たときには、大抵は、それを意識しない。

③しかし、その答えが、他の意識している命題と衝突するとき、私たちは、その答えを意識するだろう。

26 情動と感情  (20210119)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 前回の発言の後、ダマシオの「感情」についての説明を理解しようとしてきましたが、彼の議論は大変わかりにくく、すこしお手上げ状態です。(なお、訳者の田中三彦氏が、ダマシオのemotion を「情動」、 feelingを「感情」と訳しているので、この訳語を踏襲しますが、これらは、ダマシオが専門用語として導入しているものなので、日本語の「情動」や「感情」の通常の意味とも、また英語のemotionとfeelingの通常の意味ともズレることをお断りしておきます。)

 前述のように、ダマシオは、「情動」を「遺伝的に決定した化学的、神経的反応」ととらえていました。これに対して、「感情」とは「情動を感じる」こと、あるいは情動についての「心的イメージ」であると言われます。

 ダマシオは、単細胞生物の動物を含めて、全ての動物が情動を持つと考えていますが、しかし、感情については、情動を持つすべての動物が、情動の感情を持つとは考えていないと思います。進化のあるレベルで感情が発生したと考えていると思われる。ネコやイヌなどのペットは感情を持つと述べている(ダマシオ、前掲訳96)ので、少なくとも哺乳類は感情を持つのだと思われます。しかし、魚などの脊椎動物も感情を持つと考えているかどうかはわかりません。

 情動についての心的イメージ(感情)が生じる時、感情は情動についての何らかの表象である。その感情に対応する脳のニューロン・パターンと心的イメージの関係について、ダマシオは、二元論を拒否している。

「イメージは、ニューラル・パターンから生じる。しかし、イメージがニューラル・パターンから「どのようにして」出現するかに関しては謎がある。一つのニューラル・パターンがどうやって一つのイメージに「なる」のかは、いまだに神経生物学が解決できていない問題だ。」420

「イメージはニューラル・パターンそのものではなく、ニューラル・パターンに「依存し」そこから「生じる」もの、と言うとき、私は一方にニューラル・パターン、他方に非物質的思考という、不用な二元論を述べ立てているわけではない。」420

ダマシオは、「イメージ」もまた「生物学的実在物」であり、しかもそれはニューラル・パターンに後続して生じるものだと述べている。

「私が明確にしておきたいのは、ニューラル・パターンは、私がイメージと呼んでいる生物学的実在物の前兆であるということ。」421

しかし、ここでいう「生物学的実在物」がニューラル・パターンでないとしたら、それはいったい何だろうか。感情が、心的イメージであり、かつ生物学的実在であるとしたら、それはどういうことになるのだろうか。

 ちなみに、ダマシオは、この感情は、また無意識的であり、この感情が認識されたときに、意識が生じると考える。彼は、この意識を、中核意識と拡張意識に分ける。これらは、おそくらく次のような対応関係を持っている。

  感情――原自己

  中核意識――中核自己

  拡張意識――自伝的自己

ダマシオは、『意識と自己』が取り組む二つの問題を次のように説明している。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(前掲訳18

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(前掲訳19

「対象のイメージ」や「認識のさなかの自己の感覚」を扱う時、これらの心的現象に関する諸概念(感情、意識、自己、表象、イメージ、など)と生物学ないし脳科学や神経科学の諸概念の関係が私には曖昧であるように思われる。その曖昧さの理由の一つは、心的現象に関する概念の曖昧さにある。

 ダマシオは、次のような方法論を述べる。

「以下の三つの関係を確立することは可能だ。

(1)いくつかの外的発現。たとえば、覚醒状態、背景的情動、注意、特定の行動。

(2)そうした行動を有する人間の、それらの行動に対する内的発現。これはその人間の報告による。

(3)観察者である我々が被観察者と同等の状況に置かれたとき、我われが自分自身の中で検証できる内的発現。

 我々はこの三つの関係によって、外的な行動にもとづいて人間の私的な状態を合理的に推測することができる。」(前掲訳115)

たとえば、ノエの知覚のエナクティヴィズムでも、ギブソンのアフォーダンス論でも、「視覚像」や「知覚像」を認めることに慎重であり、たとえそれらを認めても、認識におけるその重要性に関しては懐疑的である。また「意識」(consciousness)という語は、ロックがconsciousから作った新しい語であり、それ以前には人々はconsciousnessという語で心を理解してはいなかった。「自己」という語もまた多義的であり、時代や社会によって異なる意味をもつ語である。そう考える時、上記の方法論の(2)の部分は、心についての一人称の報告文として明確なものになりうるとしても、その報告文の意味内容については、曖昧なままである。それゆえに、上記のダマシオの方法論は、少し素朴すぎるように思われる。

 さて、どうしたものだろうか。

25 快苦と情動と探索 (20210115)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

まず、情動についての二つの補足説明をします。

1,肉体的快苦は、情動ではない。

 たとえば、肉体的苦痛である痛みは、さまざまな無条件反射を引き起こす。昏睡状態の人もまたそのような無条件反射を行うので、意識がなくても肉体的苦痛は成立する(cf. ダマシオ、前掲訳102)。(逆に言うと、全ての脊椎動物は、脊椎反射をするだろうが、それだけでは意識を持つとは言えないことになるので、全ての脊椎動物が意識を持つとは言えない。)

 痛みと痛みの情動的反応は、異なる。ダマシオはそれについての3つの証拠を挙げている。一つは、「有痛性チック」としても知られる難治性三叉神経痛の重い症状の患者の例である。その人は、顔にそよ風が当たるだけでも激痛を感じるそうだ。その患者の前頭葉の特定の部位に小さな傷をつける手術をする。「手術では、局部的な組織の機能障害に応じて三叉神経系から出されている感覚パターンには、ほとんど何も手をつけなかった。つまり、組織の機能障害の心的イメージは変わっていなかった。だから患者は「痛みは同じ」と言う。しかし「手術によって組織の機能障害の感覚パターンが生み出していた情動反応はなくなっていた。苦しみは消えていた。男性の顔の表情、声、全般的な振る舞いは、痛みと関係しるようなそれではなかった。」(同訳104)

 後の二つの証明は、催眠暗示や特殊な薬(β-ブロッカーやベイリウム)を飲むことによって、同じように「痛みはあっても、痛みによって引き起こされる情動は減じられる」(同訳105)というこが生

じるという例である。

 ダマシオは、肉体的快についても、それは情動ではないと述べている。おそらくは、催眠術や薬物を用いた例を挙げるができるだろう。しかし残念ながら、痛みの場合とはちがって、その具体的例証をあげてはいない。

2,快と苦のメカニズムの違いと、情動としての探求

苦痛と快の説明は興味深いのでそれを引用しておきたい。

「肉体的苦痛は、怒り、怖れ、悲しみ、嫌悪といった否定的な情動と結びつき、それらの組み合わせが「苦しみ」を構成するが、快は、喜び、優越感、そして肯定的な背景的情動と結びついている。」(同訳106)

ただし、この二つのメカニズムは、大きく異なるという。

「肉体的苦痛は、生体組織の局所的機能障害に対する感覚的表象の知覚である」(同訳106)

「有機体は特定のタイプの信号を使って、現実の、ありは潜在的な有機体の組織の健全性喪失に反応するようになっている。その信号伝達では、白血球細胞の局所的な反応から、手足の反射作用、具体的な情動反応にいたるまで、多くの化学的、神経的反応が動員される。」(同訳106

これに対して、

「快の場合、問題は有機体をホメオスタシスの維持に通じるような態度や行動へと向けることである。」(同訳107)

「苦は、少なくともすぐには他の損傷の防止にはつながらないものの、損傷組織の保護、組織修復の促進、傷の感染防止になっている。これに対して快は先見に関するものである。快は、問題が生じ「ない」ようにするためにできることは何かという、賢明な予測に関することである。」(同訳108)

ここで注目したいことは、快と探求との結びつきである。

「快は報酬と連携し、探求、接近といった行動と結びついている。」(同訳108)

「ふつう快は、たとえば低血糖や高オスモル濃度のような不均衡の検出からはじまる。そうした不均衡が空腹や渇きという状態を生み(これは動機的・欲求的状態としてしられている)、今度はそれが食べ物は水の探索と関係する行動(これもまた動機的欲求的状態の重要な一部)をもたらし、そしてそれが食や飲という最終行動をもたらす。…快の状態は、現実的な目標を期待するその探索プロセスの中で始まり目標が達成されると高まる。」(同訳106)

つまり、快は、ホメオスタシスの棄損という否定的な状態が、飢えや渇きという苦痛の状態を生みだすことを予見し、それを予防するために、餌や水の探索行動を生み出し、それを摂取してホメオスタシスの回復を生み出す、あるいはい棄損を予防するというプロセスの中で、快は、ホメオスタシスの維持に役立っている。快は、それを報酬とするオペラント行動を引き出し、その行動の中に探求も含まれるということである。

 「探求」は、肉体的快への反応(オペラント反応)であり、(ダマシオは明言してはいないが)探求は情動の一種とみなされている。

 次回は、情動と感覚の関係について説明する。(議論の紹介の都合上、しばらく引用が多くなりますが、ご容赦ください。)

24 人間の探索行動の考察に向けて   (20210114)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

 ここからは、動物の探索行動の考察を中断して、人間の探索行動を論じたい。

ダマシオの『意識と自己』(The Feeling of What Happens Body and Emotion in the Making of Consciousness田中三彦訳、講談社学術文庫、2018年、原書1999)を紹介しつつ、そこに問答の観点からの考察を加えることにしたい。

 この本でダマシオが説明しようとするのは、次の二つの問題である。

「第一の問題は、ぴったりした言葉がないからわれわれがふつう「対象のイメージ」と呼ぶ心的パターンを、人間の有機体の内側にある脳がどのようにして生み出しているのかを理解する問題である。」(同訳18)

「意識の第二の問題、それは…、脳がどのように「認識のさなかの自己の感覚」をも産み出すのかという問題である」(同訳19)

この二つの問題を解くために、ダマシオは、情動、感情、意識(中核意識、拡張意識)を順番に論じていくので、これを紹介しよう。

#情動について

ダマシオは、情動と呼ばれているものを次の3つに分類する。

「一次の情動」あるいは「普遍的情動」6つ。

  喜び、悲しみ、怒り、驚き、嫌悪

「二次の情動」あるいは「社会的情動」

  当惑、嫉妬、罪悪感、優越感、

「背景的情動」 

  優れた気分、不快な気分、平静、緊張

これらの情動に共通する「中核」を次のように説明する。

(1)「情働は、一つのパターンを形成する一連の複雑な化学的、神経的反応である。」

「その役割は有機体の命の維持を手助けすることである」(同訳72)

(2)「情動は生物学的に決定されたプロセスであり、…生得的にセットされた脳の諸装置に依存している。」(同訳72f)

(3)「情動を生み出すこれらの装置は、脳幹のレベルからはじまって、上位の脳へと昇っていく、かなり範囲の限定されたさまざまな皮質下部位にある。」(同訳73)

(4)「そのすべての装置が、意識的な熟考なしに作動する。」(同訳73)

(5)「すべての情動は身体(内部環境、内臓システム、前庭システム、筋骨格システム)を劇場として使っているが、情動はまた多数の脳回路の作動様式にも影響を与える。」(同訳73)

一言で言えば、情動は、(ダマシオによれば)遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」である。

ダマシオは、単細胞生物もこのような情動を持つという。

「情動の基本的な形態は単純な有機体に、いや単細胞生物にさえ見ることができるから、喜び、恐れ、怒りといった情動の起源を、そうした単純な生物に求めることもできるかもしれない。もちろん、どう見てもそうした生物にはわれわれが持っているような情動の感覚はない。」96f

ダマシオは、PC上にも類似のものを見る。

「同じことは、コンピュータの画面の上を動き回る単純な小片についても言える。速いジグザグ運動は「怒り」のように見えることもあるし、調和のとれた、しかし爆発的なジャンプは「歓喜」のようにも見える。また、はっと飛びのくような動きは「恐れ」のように見えるだろう。われわれが動物やコンピュータ画面上の小片を心ならずも擬人化してしまう理由は単純だ。情動とは、その言葉が示しているように、ある特定の環境での、ある特定の状況に対する「動き」に関すること、外面化した行動に関すること、ある原因に対するいくつかの統合的反応に関することであるからだ。」(同訳97)

この引用箇所によると、PC上の小片と同じく、単細胞生物に見ることができる情動もまた、擬人化であり、本当には存在しない「見かけ上の情動」であることになるのかもしれない。

ダマシオは、この単細胞生物とジャンボアメフラシと犬の情動についてつぎのように語る。

「アメフラシのえらに触れると、えらは完全に引っ込んでしまう。そのとき、アメフラシの心拍数は上昇し、敵を欺かんとまわりに墨を放つ」(同訳97)

「アメフラシは、似たような状況でわれわれ人間が示す反応と、ただ単純なだけで形式的には少しも変わらない反応を示す。」(同訳97)

「神経系に情動的状態を表象できる程度には、アメフラシも感情の素材を持っているかもしれない。アメフラシが感情を持っているかどうかは、われわれにはわからないが、たとえ感情をもっているとしても、そういった感情を認識できるとはとても想像しがたい。」(同訳98)

(ジャンボアメフラシは、神経の実験による使われる動物である。ちなにみ、2018年に、ジャンボアメフラシによる実験で、RNAを移植することによって、記憶を移植することができること、つまり記憶が(少なくともある種の記憶は)、RNAに蓄積されることが証明された。記憶の移植が原理的に可能であるということになりそうだ。)

これらをまとめると次のようになる。

1、単細胞生物:<見かけ上の情動>をもつ。

2,アメフラシ:情動を持つ。アメフラシが「神経系に情動的状態を表象できるかどうか、感情を持つかどうかは、わからない。しかし感情を認識することはできない。

3,犬:情動を持つ。情動によって引き起こされる感情を認識できる。意識を持つ。

ダマシオは、「情動」と「感情」と「意識」の関係について次のように述べている。

「有機体は情動を経験し、それを提示し、それをイメージ化する(つまり、情動を感じる)。」(同訳111)

「有機体自身がいま感情を持っていることを知るには、情動と感情のプロセスの後に意識のプロセスを加えることが必要だ。以下の章で、意識とは何かについて、そしてそれがあるとどうやってわれわれは「感情を感じる」のかについて、私の意見を述べる」(同訳111)

これをまとめると次のようになるだろう。

情動(emotion):遺伝的に決定された「化学的、神経的反応」

感情(feeling):情動のイメージ

意識(consciousness):感情のイメージ

この本では、「意識」と「自己」の発生が問題になっているので、感覚や対象の知覚についてはあまり語られない。

 次に探索と情動の関係、情動と感情の関係の説明を紹介しよう。

23 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(3)(20210109)

[カテゴリー:日々是哲学]

 「クワインは「認識論の自然化」で何をしようとしたのか?」と問う時、その答えはどうなるのでしょうか。クワインはつぎのように述べていました。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

「翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

以上からすると、認識論が心理学の一章として行おうとすることは「観察と科学の結びつきを理解する」と言うことですが、しかしそれは「顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成」ではないということ、それは、科学的言明を観察用語と論理学数学の用語で説明するのではない、ということでしょう。

 カルナップが考えている「弱い合理的再構成」はそのようなものであり、それは「合理的意味論的再構成」だと言えるでしょう。これに対して、心理学は意味論ではありません。つまり心理学は、科学的言明の意味を説明するのではなく、科学的言明の成立という心的現象を因果的に説明しようとすることになるでしょう。つまり心理学としての認識論は、科学的言明の「因果的再構成」を目指すと言えそうです。

 ところで、自然化された認識論が、科学的言明の「因果的再構成」を目指すのだとするとき、ここに循環の怖れはないのだろうか、と心配になります。クワインもここに「相互包摂」(「自然科学のうちへの認識論の包摂であり、認識論への自然科学の包摂である」(第36段落))が生じると述べていますが、心配ないといいます。

「科学を感覚与件から演繹する夢を棄てた今ではその心配はまったくない。われわれは科学を世界における制度ないしは過程として理解したいのであるが、この理解が、その対象である科学以上のものであると主張するつもりはない。」(第37段落)

私たちは、これだけではまだ納得できないでしょう。この循環の問題は、現代のプラグマティストであるプライスの言う「位置づけ問題」と関係しているように思います。この問題については、機会を改めて論じることにしたいとおもいます(多くのカテゴリーが書きかけになっているので)。

(位置づけ問題に興味のある方は、ブランダム著『プラグマティズムはどこから来てどこへ行くのか』(加藤隆文、田中凌、朱喜哲、三木那由他訳、下巻、勁草書房)特に第7章、をご覧ください。)

22 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(2)(20210108)

[カテゴリー:日々是哲学]

前回の引用部分で訂正が必要なのは、次の箇所です。

「認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。」

この中に「科学の「合理的再構成」」という表現があるのですが、その意味(使用法)が曖昧でした。さらに「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 カルナップの「合理的再構成」は、当初は、科学的言明を「観察用語と論理-数学的な補助手段を用いて翻訳すること」を意味していたと思われます。しかし、観察用語と論理学数学の用語だけで、科学的言明の一意的な翻訳を与えることはできないことが明らかになりました。

 例えば「水溶性」という科学用語を、観察用語と論理学数学の用語だけで定義することができないのです。ただし、「水溶性」について次のように説明することはできます。

Aを水に入れる⊃(Aは水に溶ける⊃Aは水溶性である)

これは、ベンサムに始まるとされる文脈的定義とは異なります。文脈的定義は、或る用語を含む文に対して、それと同値な文を与えることです。例えば、

  AはBより硬い≡AとBをこすり合わせれば、Bに傷がつくが、Aには傷がつかない。

このような同値文があれば、私たちは「より硬い」という語を消去することができます。しかし、「水溶性については、そのような同値文を示すことができないので、文脈的定義で消去できないのです。そこでクワインは次のように述べています。

「カルナップの緩やかな還元形式は一般には等価な文を与えない。それが与えるのは含意文である。それは新しい用語を部分的にではあるにしろ説明する。すなわち、当の用語を含んだ文によって含意されるいくつかの文を特定し、その用語を含んだ文を含意する別の文を特定することによって、その用語を説明するのだ。」(第20段落)

この説明方法は、ブランダムの推論的意味論に非常に近い考えになるように思います。例えば、新しい科学用語をXとし、Xを含む文をpとするとき、pを結論とする上流推論とpを前提とする下流推論を特定することによって、その用語Xを説明するということです。

 このような緩やかな形式による科学的言明の説明も、おそらく緩やかな意味で、「合理的再構成」であると、カルナップとクワインによって考えられているようです(参照、「定義するは消去するなりである。しかしカルナップの還元形式に基づく合理的再構成にはこのようなことはまったく思いもよらない。」(第23段落) )。

「唯一我々の求めているものが、翻訳とまではいかないにしろ顕示的な手段を用いて科学を経験に結びつけるような再構成であるならば、心理学で満足するほうがはるかに理にかなってみえよう。」(第24段落)

「あらゆる文を観察用語と論理-数学用語からなる文に等しいと見なせるような認識論的還元が不可能である」「この種の認識論的還元の不可能性は、心理学に対して合理的再構成が持っているとおもわれていた優位性を最終的に打ち砕いた。」(第32段落)

以上を踏まえて、認識論的還元を「強い合理的再構成」とよび、緩やかな還元形式による科学的言明の説明を「弱い合理的再構成」と呼ぶことにしたいとおもいます。そうすると、カルナップは、「強い合理的再構成」を放棄し、「弱い合理的再構成」を追求していたと言えるでしょう。

 それに対して、クワインは、「弱い合理的再構成」は可能であるが、それよりも心理学による科学論の探究のほうが有効である、と考えていたと思われます。つまり、クワインは心理学によって科学の心理学によって科学の「合理的再構成」を目指したのではありません。「心理学によって科学の「合理的再構成」を目指す」という箇所が間違いでした。

 では、「クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?」これを次に考えたいと思います。

21 クワインは「認識論の自然化」によって何をしようとしたのか?(20210106)

[カテゴリー:日々是哲学]

(以下は2020年11月19日「世界哲学の日」記念討論会での発表原稿の一部抜粋です。当日の発表原稿の全体はこちらにあります

(https://irieyukio.net/ronbunlist/presentations/20201123%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%80%8C%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%93%B2%E5%AD%A6%E3%81%AE%E6%97%A5%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A8%8E%E8%AB%96%E4%BC%9A%E3%80%8D.pdf)。

 以下では、クワインの論文 ‘Epistemology Naturalized’, in Ontological Relativity and Other Essays, 1969「自然化された認識論」(伊藤春樹訳、『現代思想』1988年7月号)を参照しています。)

――――以下抜粋

・論理実証主義(カルナップ)の認識論は、科学を基礎づけようとするものでした。しかし、それを、論理学と集合論と観察文から基礎づけられないことが明らかになりました。(全称文や反事実的条件文を証明できません)。

・そこで、認識論は、科学的言明の真理性ではなく、その意味を、論理学と集合論と観察文によって説明すること(「合理的再構成」(カルナップ))を目指すようになりました。しかし、理論的用語の意味をそれらでは定義できないことが明らかになったので、この試みも挫折しました。(「水溶性」を定義できません)。

・そこで、クワインは認識論を心理学やその他の科学に置き換えることを提案します。

「感覚受容器における刺激が、世界の描像を獲得する際にだれもが最終的に受け入れざるを得ない証拠のすべてである。ならば、この世界像が実際どのように構成されるのか、それをみてみようとなぜしないのか。どうして心理学で満足できないのか。」(第19段落)

しかし、「心理学やその他の経験科学」で、科学の基礎づけを目指すとすれば、循環論法になります。

「認識論の課題を心理学にゆずり渡してしまうのは、最初のころは循環論法だとして許されなかった。経験科学の基礎の確実性を示すところに認識論者の目標があるとするならば、その証明にあたって心理学やその他の経験科学を援用すれば、彼は目的に背くことになる。」(第19段落)

しかし、これに続けて彼は次のように言います。

「しかしながら、循環に対するそのような後ろめたさは、科学を観察から演繹しようという夢をひとたび放棄するならば大して意味がない。」(第19段落)

認識論が科学の基礎づけをあきらめて、科学の「合理的再構成」を意図しているのであるから、心理学によって科学の「合理的再構成」を目指すことにしても、循環論証にはならないというわけです。クワインの「認識論の自然化」は、認識論では科学の基礎づけができないので、「心理学」でそれに取組もう、ということではありません。

「われわれが躍起になっているのはただ観察と科学との結びつきを理解したいがためであるとすれば、利用できる情報はどんなものでも利用するのが分別というものだろう」(第19段落)

この状況をクワインはしばしば「ノイラートの船」に例えます(「経験論の2つのドグマ」「自然化された認識論」「経験論の5つの里程標」)。これは、ドックに入らないで航海しながら修理するという船ですが、この比喩に次の3つを付け加えたいとおもいます。

・ノイラートの船は、一人乗りではない。

・ノイラートの船は、底割れしない。

・ノイラートの船は、一艘とは限らなない。

――――――――― 以上

お正月にこの個所を読み直していて、一部訂正したくなりましたので、次回それを説明します。

20 問答の観点から哲学を改造すること(20210103)

[カテゴリー:日々是哲学]

明けましておめでとうございます。

今年も問答の考察を進めたいと思います。よろしくお付き合いください。

<問答の観点から哲学を改造すること>、これが私の目標です。

(問答の重要性が分かれば、おのずから哲学のあり方は変わるだろうと予測しています。)

現在次のようなことを考えています、あるいは、考えたいと考えています。

・哲学は、普通よりもより深くより広く問うことである。哲学では、通常は問いの対象の方に関心が向かっているが、哲学研究は、問答で出来ている。

・哲学研究の対象(世界)もまた問答で出来ている。

 言語、認識、行為、主体、社会などが問答で構成されていることを示すこと。

・言語について言えば

 語、文法、言語行為。

 構文論的諸概念、意味論的諸概念、語用論的諸概念が、問答関係によって成立すること

・論理学について、

 論理学的諸概念、論理法則が、問答関係によって成立すること

・認識論について

 信念、知識、主張は、問いに対する答えであること

 認識を問いへの答えとみなすこと、真理を問いに対する答えの関係とみなすこと。

・行為は問いに対する答えであること

 行為主体は、問いで構成されていること

・社会制度は、社会問題への答えであること

 法は、関数である

 法は、社会問題への答えである

 権利は、問答の権利である

 お金は、負債証明書である。

 負債があるとは、返済義務があるということである

・歴史は物語である

 物語は、物語的問いへの答えである

・人生の意味について

人生の意味は、人生の上流推論と下流推論である

22 アフォーダンスの選択(抽出)  (20210101)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(明けましておめでとうございます。今年も、問答の考察に取組んでゆきたいと思いますので、よろしくお付き合いください。)

 レヴィンやコフカは、事物の価値や効用は、直接に知覚されると考えていたが、しかしそれらが物理的な実在性を持つのではなく、「現象的な「場」において、事物と自我との間に何らかの力が働くためであると考えていた。つまり、要求や動機が働いていると考えていた。(参照、エドワード・リーチ、レベッカ・ジョーンズ編『直接知覚論の根拠』境淳史、河野哲也訳、勁草書房、350f)

 しかし、ギブソンはそれら事物の価値や効用は、直接に知覚されるだけでなく、客観的に実在すると考えていた。つまり、「事物のアフォーダンスは、観察者の要求の変化に関わりなく、変化しないと考えられている。例えば、ある物質がある動物にとって食べられるか否かは、その動物が、空腹か否かとは無関係である。ある動物がある面の上を歩けるという事実は、(どの動物の移動能力やその動物の行為システムと関連してはいるが、)実際にその動物がその上を歩くか否かに関わりなく存在する。」(前掲訳、350)。

 このことは「負のアフォーダンス」にも成り立つ。「対象・場所・動物が観察者を傷つける力、すなわち、それらの負のアフォーダンス《negative affordance》も、観察者がそれらを恐れるか否か、嫌悪するかいないか、回避するか否かと言ったこととは無関係である。」(前掲訳、350)

 問題は、アフォーダンスが一つの事物について無数にあるということである。なぜそれが問題になるかというと、アフォーダンスは無数にあるが、そこにいる動物に知覚されるアフォーダンスはそれらの一つにすぎない(場合によっては複数のアフォーダンスが同時に知覚されるかもしれないが、全てのアフォーダンスが知覚されるのではない)ということである。そうすると、そこでのアフォーダンスの知覚(選択、抽出)はどのように行われるのか、を説明する必要が生じる。

 これを説明するのは、一つには、動物の環境の中での位置、動物の内的要因、などであろう。これらによって、知覚されるアフォーダンスは限定されるだろう。ギブソンは「要求は、アフォーダンスの知覚を制御し(選択的注意)、行動を開始させる」(前掲訳、350)と述べているが、この「要求」は、動物の内的要因の一種であろう。

 ギブソンは、ゲシュタルト心理学が、心理と物理の二元論(前掲書、349)を前提していることを批判するのだが、アフォーダンスの中のどれを知覚するのか(選択するのか、抽出するのか)ということを説明しようとすると、動物の内的要因を考慮する必要が生じ、探索行動を考慮する必要が生じるだろう。そうすると、アフォーダンスの知覚の説明は、ゲシュタルトの知覚の説明とあまり違わないものになるのではないだろうか。

 ゲシュタルトの知覚も、アフォーダンスの知覚も、動物の探索行動によって規定されている、と言えそうである。しかし、今の私にはこれ以上の解明ができないので、一旦動物の探索行動の考察を中断し、人間の問いに考察に向かいたい。

 (ただし、次にこの問題に戻ってくるときのために、もう一つの難題をここに書き留めておきたい。それは次のようなことである。無脊椎動物が、方向性を持つ刺激に対して走性反応をするとき、その行動の全体は、動物が探索しているように見える(たとえば、餌を探索しているようにみえる)ものであっても、その行動は遺伝的に決定した行動であって、その動物が個体として探索しているということは、そう見えるというだけの<見かけ上の探索>である。このとき、走性を引き起こする「方向性を持った刺激」はゲシュタルト構造を持つ知覚だと言えるだろう。そして、対象がどのようなゲシュタルトで知覚されるかは、動物がどのような探索行動をしているかによって規定されている、と想定してきた。しかし、探索が<見かけ上の探索>ならば、ゲシュタルトの方も観察者にそう見えるだけの<見かけ上のゲシュタルト>であることになりそうである。しかし、もしそうだとすると、観察者からみての<見かけ上のゲシュタルト>をもつ刺激に、動物が走性反応をするということになってしまう。これをどう説明したらよいのだろうか? もし知覚と探索(問い)行動の対応関係を主張しようとするならば、この問題に答える必要がのこる。)

 次回からは、人間の問いの起源に取り組みたいと思います。