自分の死という問題

urbeさん、遠い国からコメントありがとうございます。
功利主義者は、以下に述べるような、自分の死に対する態度を、どのように考えるようになるのでしょうか。功利主義者ならば、(c)「せめて、生きている間の快楽を最大にしよう」というのが、答えになりそうです。ピーター・シンガーがどのように考えるか、たずねてみたいところですね。

1、第一の問題:自分の死という問題
人生論の課題のなかでも特に重要な課題は、
  「自分の死についてどのように考えたらよいのか」あるいは
  「自分の死に対してどのような態度を採るべきか」
という問題に答えることであろう。

このような問題は、私達がおかれている次の問題状況から生まれてくる。
  「自分の死は確実にやってくる」という現実認識
  「私は死にたくない」という意図ないし願望
この二つの矛盾が、我々にとっての問題状況である。(一般的に、問題は、現実認識と意図との矛盾から生じると考えられる。ここでの問題を構成する矛盾は上述のようになるだろう。これについては、拙論「問題の分類」(http://www.let.osaka-u.ac.jp/%7Eirie/ronbunlist/paper18.htm)の参照をこう。)
人間は、このような矛盾を解消しようとするものである。

A この問題を解決する一つの方法は、後者の意図を変更すること、つまり「死んでもいい」と思うこと、つまり死を受容することである。
  (a)死の積極的な受容「それなりに幸せな人生で、満足しているので、死んでもいい」
  (b)死の消極的な受容「どう考えても、死を受け入れられないが、死がやってくることは確実で仕
方が無い」(諦念)
  (c)妥協(あるいは、条件闘争)「どうせ死を免れないのなら、せめて・・・したい」という条件闘
争を始める。例えば「せめて、それまでの間、楽しく過ごそう(苦痛なしに過ごそう。やりたかっ
たことをしよう。家族や友人に言葉を残そう。財産をどこかに寄付しよう。などなど。)」と考え
る。

(a)のためには、「生きる意味」の理解と、それの実現が必要である。
(c)のためには、「生きる意味」の理解と、それの部分的な実現が必要である。
(b)は、「生きる意味」の理解を必要としない。(ひょっとすると、その積極的な否定を必要とするかもしれない。)
これら3つは((c)も含めて)「死を受容する」ときの仕方である。
しかし、我々は多くの場合完全に死を受容できるわけではない。そこで、次のような解決方法が考えられる。

B この問題を解決するもう一つの方法は、「死が避けられない」という現実を変えることである。が、これは現在のところ困難である。

C この問題を解決するもう一つの方法は、「死が避けられない」という現実を忘れることである。実際私達は、日常生活において、このことを忘れている。また、逆に言えば、私達は、この問題(に限らず、哲学的な問題)を考え続けることはできない。(たとえば、空腹になれば、何かを食べなければならないし、家の中に食べ物がなければ、買いに行かなければならないし、財布の中にお金がなければ、銀行にお金を下ろしに行かなければならないし、口座のお金が少なければ、働かなければならない。働くためには、就職しなければならず、就職するためには、資格を取らなければならず、資格を取るためには勉強しなければならず、勉強するには、この問題をしばらく後回しにしなければならない。そのうち、この問題を後回しにしていることも忘れてしまう。)ただし、私達は死を忘れて生活できるとしても、どんな人も時々はそのことを思い出すだろう。そのとき、「<死が避けられない>という現実を忘れよう」というのが、この解決法である。これは、「memento mori(死を銘記せよ)」の反対である。

ここでの問題を解決する方法は、論理的にこの3通りだと思うのだが、どうだろうか。
このAとCについては、さらに考えるべきことが沢山あるが、さしあたりここでは、もう一つの人生論の問題を次にとりあげたい。

<哲学的人生論>は新しい学問である?

 「人生論」と呼ばれる書物は多い。それらは、「人生とは何か」とか「人生をいかにいきるべきか」とかの問題に答えてきた。しかし、その多くは、宗教に基づくものである。宗教に基づかない人生論、宗教批判を前提とした人生論は、むしろ新しい哲学分野である。
(このことは、パーフィットという哲学者が、非宗教的倫理学に関して、「他の学問と比べると非宗教的倫理学は最も新しく最も進歩していないものである」(パーフィット『理由と人格』森村進訳、勁草書房、154節)と述べているのと同じ事情である。)

 「哲学的人生論」の課題は、通常の人生論と同じく「人生とは何か」とか「人生をいかにいきるべきか」などの問題に、哲学の立場で取り組むことである。しかし、この問いに哲学の立場で答えが提供できるとは限らない。まずは、これらの問いそのものの分析が必要である。
 哲学の立場で、人生について、何をどこまで、語ることが出来るのか、あるいは何を語ることができないのか、あるいは何を語るべきではないのか、それは探求の最後に、結論として明らかになるだろう。

 さっそく、問題に取り掛かることにしよう。