48 <見かけ上の予測>と<問答としての予測> (20221007)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

知覚と行為を統一的に説明する理論として、フリストンの「能動推論」が注目を集めています。

(ここでは、トーマス・パー、ジョバンニ・ペッツーロ、カール・フリストン『能動的推論』乾敏郎訳、ミネルヴァ書房、を参照します。以下の引用のページ数は、とくに断らないか限り、この翻訳のものです。)

フリストン達は、「脳は基本的に予測機械であり、入ってくる刺激を受動的に待つのではなく常に予測している」(11)と考えます。知覚や行為において行われている予測を、ベイズ推論として説明します。つまり、脳は、ベイズ推論を行う機械であるということです。ベイズ推論を行っているものとしては、人間の脳だけでなく、おそらく脳をもつすべての動物の脳が含まれていると思われます。コンピュータによる機械学習も同じ仕方でプログラムされています。この意味の予測機械は、意識をもちませし、(人間が「言語を持つ」というのと同じ意味では)言語を持ちません。

したがって、この能動推論を行う機械は、予測しているように見えますが、人間が「予測する」という意味では予測していません。ですからこれは、<見かけ上の予測>です。

 では、<見かけ上の予測>としての能動推論は、<問答としての予測>である問答推論とどこが違うのでしょうか。以下では、<見かけ上の予測>と<問答としての予測>の違いを、能動推論と問答推論の違いとして考えて、この違いについて考え、どのようにして問答推論が始まるのかを考えたいと思います。

まずは「能動的推論とはどのようなものか」を確認しておきたいと思います。

47 <最初の意識は、問答によって、あるいは問答として成立する>の証明 (20221001)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(しばらく更新できずすみません。11月のフィヒテ協会大会のシンポでの発表要旨の締め切りがあり、それに時間をとられていました。そこでは自由意志の問題を論じる予定です。実は、このカテゴリーの45回から始めたアプローチ、つまり「人はなぜ問うのか」へのトップダウンのアプローチを始めるにあたって、フィヒテによる自己意識の発生論を利用できないかと考えています。しかし、フィヒテの観念論は、現代哲学とは前提が非常に異なるので、フィヒテの議論から始めることはできません。私が利用したいと思っているフィヒテのアイデアは、<自己意識は無前提な自己定立として成立する>ということであり、このアイデアを、現代の認知科学とリンクさせて生かせるようにしたいと思ってます。)

K. J. フリストン、J. ホーウィ、A.クラークなどの近年の認知科学の知見によるならば、<最初の意識は予測として成立する>と思われる。そして「p」を予測し、それが正しいかどうかを確認することは、「pであるか」と問い、それに答えることに他ならないと考えます。つまり、「予測する」とは、問答することなのです。また逆に、問うことは、予測することです。なぜなら、私たちが問うとき、多くの場合には答えについての一定の予測があり、また答えについての予測が全くないときにも、問いの前提についての予測があるからです。

したがって、<最初の意識は予測として成立する>と言えるならば、<最初の意識は、問答によって、あるいは問答として成立する>と言えるでしょう。

<予測から問答へ>

#中枢神経システムは、環境から感覚刺激を受け、その刺激によって走性や無条件反射として行動します。この行動は遺伝子によって決定された行動です。。

#条件反射やオペラント反応は、<環境からの感覚刺激とそれに対する無条件反射行動とその結果についての痕跡記憶>と、環境からの感覚刺激によって、引き起こされた行動です。この条件反射やオペラント反応の結果(つまり反応が引き起こした環境変化からの感覚刺激)は、同様の感覚刺激あったときに、その条件反射やオペラント反応を強化したり弱化したりします。この過程は、経験による学習過程です。

#行動がもたらす結果によって行動を調整するというメカニズムが発達するとき、動物は、行動がもたらす結果を予測するようになるでしょう。予測は外れることがあり、予測と現実の区別が生じます。これが、意識の始まりである可能性があるでしょう。しかし、予測にも様々なレベルのものがあります。では識の始まりと言える予測はどのようなものでなければならないでしょうか。

#探索は、予測をともなうでしょう。ランダムな探索もありえますが、しかしそれですら何らかの予測をともないます。蛆が、頭を振って、どちらの方向に暗いところがあるかを探るとき、頭を振ることは暗さの探索をおこなうことです。この探索は、暗いところと明るいところという違いがあることを前提とします。もちろんこの探索は、探索しているように見えるという<見かけ上の探索>です。<暗いところと明かるところという違いがある>ということは、この<見かけ上の探索>の前提です。探索は、その前提が成り立つことこともまた予想しています。これは<こちらが暗いだろう>というような探索によって真であることが発見される予想ではなく、探索の前提となるより確実なものですが、これまた予測であるには違いりません。

#予測することは、未来のある状態を信じることではなく、未来のある状態を考え、それが真となる可能性が高いと考えることです。もしこれだけにとどまらず、予測が真となるかどうか確かめようとすることを伴うならば、それは未来の状態について「pであるか」と問うことです。

(これらのステップは、まだ大まかな道筋を示したにすぎません。)

次に、<見かけ上の予測>と<問答としての予測>の違いについて考えたいと思います。

46 「何をしようか」 (20220926)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」という問いは、二つの意味で理解できます。一つは、前回触れたように、「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解することです(これを問うことは、意識や問答の発生についてのボトムアップのアプローチになります)。前回触れなかったもう一つの理解は、「人はなぜ問うのか」という問いを、問うという行為の理由を問う問いとして理解することです。この問いの理由を問うことは、その問いと答えからなる問答をおこなう理由を問うことでもあります。

 さて、理論的問いについても実践的問いについても、この二つの理解が可能ですが、ここでは、実践的問いを最初の意識であると仮定して、その問いの理由を問いたいと思います。進化史上の最初の意識が、行為の意識だとすると、その行為の意識は、(それを言語化すると)、「何をしようか」や「pしようか」という問いとそれに対する答えとして生じるでしょう(ただし最初の意識は、非言語的な探索発見であるかもしれません)。

ところで、進化史上は、認識が発生したのは、行為のためであったといえでしょうが、その反面、行動は、外界の刺激・感覚・知覚なしには不可能です。意識的な行為が問答によって成立するとき、この問答は認識なしには不可能です。「何をしようか」という問いは、これを詳しくいえば、「私は今から何をしようか」という問いになるでしょう。この問いには「私」と「今から」が潜在的に含まれています。これらが省略されるのは、これを問うときの関心(疑問文の焦点)が行為の内容に向かっているからです。この問いないし探索には、「私」や「今から」の潜在的な意識ないし理解を伴っています。この「私」は認識主体ではなく行為主体です。行為主体としての「私」は身体を持つものです。。私の身体の意識、姿勢の意識、行為能力の意識(右を向いたり左を向いたりできる。腕を動かせる。立てる。歩ける、などの意識)が「私」の意識の中身になるでしょう。

これは、「何をしようか」という問いの前提であり、この前提を受け入れ、それにコミットすることで、問うことが可能になります。これらの前提をただ受け入れているだけならば、これらは与えられている客観的なものにすぎません。しかし、これらにコミットすることによって、これらは客観的に与えられるものから、問うこと(主体)を構成するものに変化します。

問うことが、あることを、問いの一部(問いの前提)にするのです。問いの前提は、問うことによって問いの前提として成立します。例えば、「pしようか」と問うことによって、「pすることもpしないこともできること」が問いの前提となり、問いを構成するものの一部となる。

(日常的な例でいえば次のようなことです。ある会社に就職して、その会社の業務をこなし、業務のための問答を行うとき、会社(に関する多くの命題)は、その問いの前提となっています。それらは、会社員として問うことを構成するもの(の一部)となっています。私がここで考えたいことは、最初の問いが発生する場面ですが、しかしそれは上記のような日常的な問いの発生の場面でも、同じようなことが起こっているだろうと推測します。)

上記の考察は、意識哲学的な内省による考察になってしまっています。言語や問答の分析によって、これについて、もう少し明晰な分析をしたいと考えています。

45 ボトムアップのアプローチとトップダウンのアプローチ (20220921)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」に答えるのが、このカテゴリーの課題ですが、この問いは、二つの意味で理解できます。

一つは「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解し、「人が問う原因は何か」という問い

として理解することです。この問いは、問うことが何らかの原因を持つことを前提しています。その原因が自然的なものであれば、それは人が問うことの自然主義的な説明になります。これまで試みてきたのは、このようなボトムアップのアプローチでした。(このカテゴリーのここまでの議論については、このカテゴリーの説明文に書き込みました。なお、ボトムアップのアプローチとしては、カール・フリストンの「大統一理論」と「能動的推論」を検討したいと思うのですが、それについてはカテゴリー「問答推論主義へ」で問答推論の観点から考察する予定です。)

ここからしばらく、トップダウンのアプローチを試みたいと思います。ただし「トップダウンのアプローチ」がどのようなものになるのかは、私にはまだよくわかっていません。それも含めて、しばらく試行錯誤が続くとおもいます。

今仮に、<問うことは、自然的条件を必要条件として持つが、それだけでは問うことの成立には不十分である>と仮定してみましょう。この場合には、何かが加わって、問うことが成立したとしても、その何かは自然的条件ではないので、問うことは自然的原因なく生じることになります。

ところで、今まで意識の発生を考えるときに、このカテゴリーでもカテゴリー「問答の観点からの認識」でも、意識的な認識の発生を念頭に考えてきました。しかし、進化史上は、認識の発生はおそらく行為のためであったでしょうし、意識の始まりも行為のためであっただろうと思われます。したがって、意識的な行為の発生が、意識的な認識の発生に先行するだろうと思われます。

そこで次回から、意識的な行為の発生、つまり意識的な意図の発生について、どのような説明が可能であるかを考えてみたいと思います。

51 3つの問題の同型性  (20220913)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。

知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。

・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)

・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)

・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)

そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。

・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること

・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること

・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること

私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。

「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」

「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」

次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」

「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」

「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」

このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。

このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。

ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。

「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)

私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。

たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。

50 規約主義の問題に答える  (20220907)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前回述べた第一の問題の解決について、補足しておきます。

前回は、第一の問題「われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである」を、<前提がその結論を導くことを可能にしているのは、問答関係である>と考えて、第一の問題への解決と考えました。

しかし、デイヴィドソンが考えていたのは、もっと単純なこと、つまり<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則である>ということを、第一の問題の解決と考えていたのかもしれません。

この二つの解釈を合わせたものとして、第一の問題を理解するときには、<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則と問答関係である>と答えることで解決できます。

さて、第二の問題は、<推論が推論規則の適用によって可能になるとき、さらにその適用の規則が求められ、その場合、適用の規則の適用の規則の適用の規則の … というように無限に反復してしまい、推論の正当化ができなくなる>という問題です。これは「規約主義のパラドクス」と呼ばれているものです。(これを指摘していたのは、クワインの論文 ’Truth by Convention’ (1936)であり、飯田隆の『言語哲学大全II』にこの論文の紹介があります。)

たとえば、<pとp→rからrを導出する>推論は、∀x∀y((x∧(x→y))→y)という推論規則に基づいていることになります[p、rを命題定項とし、xとyを命題変数とします]。そしてさらに、<<pとp→rと∀x∀y((x∧(x→y))→y)からrを導出する>推論は、

∀s∀t(s∧s→t∧∀x∀y((x∧(x→y))→y))→tという推論規則に基づいています[s, t, x, yは命題変数とします]、というように無限に反復します。

この反復を避けるためには、pとp→rからrを導出するときに、「pとp→rからrが導出できますか」という問いに「はい、rを導出できます」と答える、という問答が行われていると考えることができます。この答えは、次のように正当化できます。もし「いいえ、rを導出できません」と答えるならば、pからrは導出できないということになり、それはp→rという前提を認めること矛盾します。したがって、この矛盾を避けるためには、「はい、rを導出できます」と答えることが必要になります。こうして「はい、rを導出できます」と答えることを正当化できます。規約主義のパラドクスは、推論「p、p→r┣r」を次の問答推論としてとらえ返すことによって、回避できるのではないでしょうか。

  Q「pとp→rからrが導出できますか」、p、p→r┣r

<規約主義のパラドクスを、推論を問答推論としてとらえ返すことによって解決する>ということが、ここでの提案です。

 

デイヴィドソンは、以上の3つの問題(知覚、行為、推論の説明の問題)が同じタイプの属する問題だと考えています。その点を次に確認したいと思います。

49 第三の問題、推論の説明の困難 (20220904)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが指摘したこれまでの二つの問題、知覚の説明の問題と行為の説明の問題は、どちらも心的な要素と物的な要素の両方を含んでいましたが、同じようなタイプの問題であって、この両方を含んでいないものがある、と彼は言います。それが「推論する」ことの説明の問題です。そして、デイヴィドソンは、ここにも二つの問題があると言います。

第一の問題は次です。

「われわれは推論を完全に心的な過程と見なすことができる。…しかしながら、論理的に関係しあう命題が単に心の中に生起したというだけでは、それ自体、推論であるのに十分ではない。、特定の思想に対する熟慮や是認が、他の思想を生み出して(つまり引き起こして)いなければならないのである。だがここでまた繰り返すことになるが、いかなる因果関係も十分ではない。われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、461)

第二の問題は次です。

「ところがそれでもまだ十分でないだろう。というのも、aとbからcが導かれると信じており、かつ、aを信じ、bを信じていることは、われわれが当のそのケースにさらに論理的導出性を結びつけないかぎり、適切な推論を通じて、われわれがcを信じているということを保証するのに十分でないからである。以上はルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」の心理的類比物である。われわれに必要なのは、前提への信念が推論においてどのように結論への信念を引き起こすのかについての、正しい説明である。」(同所)

私が、問答推論主義を主張するときに出発点としているのは、次のことです。<推論において、前提から論理的に導出可能な命題は常に複数あり、それからどれを選択して結論とするかは、前提だけから決定できないと指摘しました。私たちが推論するのは、問いに答えるためであり、その問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのだと思われます。>この推論の説明によって、上記の第一の問題を解決できていると思います。つまり、<前提だけが結論を導くのではなく、問いと前提が結論を導く>ということがが、デイヴィドソンへの答えになるでしょう。

では、第二の問題については、どう考えたらよいでしょうか。それを次に説明します。

48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。

47 デイヴィドソンの第二の問題:行為の説明の問題 (20220830)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが挙げている第二の問題は、行為の説明の問題です。

意図的な行為は、「なぜそうするの」という問いへの答え(行為の理由)によって説明されます。行為を説明するとは、行為を合理化することであり、行為の理由が行為を合理化します。

「行為の理由は以下の意味で行為を合理化する。すなわち、それらの理由に照らせば、その行為が他の人々にも理解可能になるという意味で。「理由は、行為者が自身の行為のなかに何を見ているか、行為者の目的や狙いが何であるかを、明らかにしてくれる。」(「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳、459)

デイヴィドソンは、「行為の理由」を二種類に分けます。

「理由には二つの主要なカテゴリーがある。認知的なもの(cognitive)と、動能的なもの(conative)の二つである。後者[動能的なもの]は、行為者にとっての価値や目的、到達点であり、問いの行為を行為者から見て実行する価値のあるものにする目標のことである。他方、前者[認知的なもの]は、行為者の信念であり、行為者が目標に置いている価値から、手段、すなわち終極的には、それによって目標が達成されると行為者が考えているところの行為へと移行するよう行為者に促す信念である。」(同訳、459)

この二種類の理由は、「なぜ、そうするのか」という問いに対する二種類の答え方になっています。

「動能的理由」とは、「なぜそうするのか」に行為の目標で答えたものです。「認知的理由」とは、「なぜそうするのか」にその行為(の事前意図)を結論とする実践的三段論法で答えたものです。この実践的三段論法の大前提には、行為の意図ないし目標設定が述べられているので、能動的理由と認知的理由は、密接に結合しています。一方だけでは、行為を合理化するには不十分です。

以上の分析を踏まえて、デイヴィドソンは、「なぜそうするのか」という問いへの答え(行為の理由)による行為の説明(合理化)には、二つの問題があることを指摘します。

「ところが、ある個別的な理由に基づいて行為することを、「行為者の信念と価値によって合理化される仕方で行為すること」と単純に定義することはできない。というのも、人は、自分の信念と価値のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも、しかしまったく別の理由のために、その行為をなすことがあるからである。」(同訳、459)

これについて、デイヴィドソンは次の例を挙げています。

「私はある一人の老人を助けることを欲するかもしれない。しかも私は、その老人に傘を直してもらい修理代を払うことによってその老人を助けられるだろうと信じるかもしれない。」((同訳、459)

ここでは次の実践的三段論法が行われています。

「老人を助けたい」「老人に傘を直してもらって、修理代をはらえば、老人を助けられる」┣「老人に傘を直してもらおう」

「にもかかわらず、それらの理由は、私が傘を彼に修理してもらい代金を支払ったことと無関係でありうる。というのも、私はただ、自分の傘を直したかっただけかもしれないからだ。」

この場合には次の実践的三段論法が行われています。

「傘を直したい」「老人に修理代をはらって傘を直してもらえば、傘を直せる」┣老人に修理代を払って傘を直してもらおう」

この例が示すのは、「老人を助けたい」が行為の理由であると考えるためには、単に「行為の理由」を述べるだけでは不十分であるということです。そこで、デイヴィドソンは次のように言います。

「明らかにわれわれは、理由に基づく行為の分析に、さらなる何かを加えなければならない。つまり、行為を実行するための理由になるものが、行為者による当の実行を説明する理由でもあることを、保証しなければならない。それに対しさしあたり私が正しいと信じる一つの提案は、「理由は、行為を引き起こしたときにかぎり、その行為を説明する」と述べることである」(同訳460)

しかし、「老人を助けたい」という目的と「傘を直したい」という目的のどちらが、行為を引き起こしているのかを、どうやって確認したらよいでしょうか。これが、私が理解する、デイヴィドソンが挙げている行為の説明の問題の一つ目です。これは、行為の動能的理由の特定が困難であるという問題です。

デイヴィドソンはこの特定ができても、別の困難があるといいます。

「とはいえそれではまだ十分条件にならない。なぜなら因果は逸脱した仕方で働きうるからである。いやしくも理由が、行為において行為者がもつ理由たりうるならば、その理由はまさに正しい仕方で当の行為を引き起こすのでなければならない。だが私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」460

この「逸脱」した因果の例について、訳注2で柏端さんは、デイヴィドソンの他の論文‘Freedom to Act’から、逸脱因果の例をふたつ示しています。一つは、ある人Aが別の人Bをライフルで殺そうと意図して、引き金を引いたが、打ち損じてしまし、その銃声に驚いたイノシシの群れが暴走してBを踏み殺した、という例です。もう一つは、仲間のつかまるロープを握っている登山家が、そのロープの重みから解放されたいと思い、ロープを持つ手を緩めれば重みから解放されると考えた瞬間、そのおそろしい考えに狼狽し、手の力が抜けてロープを放してしまう、という例です。

この逸脱因果の例は、「認知的理由」の適切性の条件を定式化する困難を示しています。

「私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」(同訳、460)

行為の合理性の説明に関するこの二つの困難を、問答の観点から考察するとどうなるかを次に論じたいと思います。

46 知識の因果関係と逸脱因果の問題 (20220824)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#原因を誤解する場合

一般的に原因と結果の関係を考えるとき、一つの結果は常に複数の原因を持ちえます。したがって、信念についても、ある信念を引き起こす原因には、常に複数のものがありえます。したがって、信念の原因だと思っている事実が、本当の原因であるとは限りません。このように原因を誤解するとき、その信念がたまたま真であるだけでは、知識を正当化できていません。

例1:時計が3時を指して止まっているのだが、ある人が、たまたまその時計を3時に見て、「今は時だ」と思ったとしよう。このとき、それは真であるが、しかし、時計が3時を指していることの原因は、時刻が3時であることではなく、時計が壊れていてたまたまその針が3時を指していたことである。

この場合、信念はたまたま真ですが、信念が表現している事実がその信念の原因になっていません。これは伝統的な知識の定義「知識=正当化された真なる信念」をみたすが、知識とは言えないという反例です。これを避けるために、Alvin Goldmannは論文A Causal Theory of Knowingで「知識の因果説」を主張しました。

#原因の誤解の可能性に気づいていない場合(逸脱因果の場合)

ある地域には、偽の納屋がたくさんあります。しかしそのことを知らない旅行者が、たまたま本物の納屋を見て、「納屋がある」と考えたとき、その考えは、本物の納屋があるという事実を原因として成立しています。しかしそれが偽物の納屋である可能性に気づいていないので、「納屋がある」という信念は、知識とは言えないと思われます。(これは「知識の因果説」への反例であり、「逸脱因果」と呼ばれます。これは、Alvin Goldmannが論文Discrimination and Perceptual Knowledge指摘しまた。)

#このどちらの場合も、原因と結果の関係が、1対1ではなく、多対1であることによって生じています。因果関係をもとに結果からその原因を推理するとき、原因と結果が、多対1であるために、間違った事実を原因と見なすことがありえますし、また、ある事実を正しく原因と見なしても、偶然にそうなっているだけのことがあり得ます。このような原因の複数性は原理的なものです。では、<私たちはどのようにして、ある事実を原因として想定するのでしょうか>。この場合、原因の特定は、問いに対する答えを求めることとして成立するのだと思われます。

上の例では、その地域に、偽の納屋があることを知っていれば、その人は「あれは本物の納屋だろうか」と問い、仮に本物の納屋を見ていても、それが本物の納屋だと判断できなければ。「あれは納屋だ」とは答えないでしょう。本物の納屋だと判断するには、根拠が必要です。つまり、知識であるためには、対象との間に因果関係が成立しているだけでなく、そのことを知っていなければなりません。そして、その場合に、対象(納屋)との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、偽物の納屋の可能性を排除しなければなりません。本物の納屋との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、対象が偽物の納屋ではないことを知っている必要があります。そのためには、それを確認できるところまで、対象に近づいて見ること、あるいは近づいて触ってみることなどが必要です。

しかし、偽物の納屋の可能性があると思っていないならば、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは、人が住む家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクター、などでなく、納屋だろうか」という問いであり、その対象が、家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクターなどでないことを確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。つまり、「あれは納屋か」と問い、通常の納屋の特徴が見えた時に、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。

それに対して、偽物の納屋の可能性があると思っているときには、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは本物の納屋だろうか、それとも偽物の納屋だろうか」という意味で問われ、偽物の納屋でなく、本物の納屋である特徴を確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。二つの場合では、「あれは納屋だろうか」と問うときの注目点が異なります。それに応じて、答えの「あれは納屋だ」の意味も異なります。一方では、「あれは納屋だ」は、「納屋の特徴を持つ建物だ」という意味であり、他方では、「あれは偽物のなやではなく、本物の納屋だ」という意味になります。

偽物の納屋がある地域で、そのことを知らずに「あれは納屋だろうか」と自問し「あれは納屋だ」と答える者は、間違っているのでしょうか。「あれは納屋だ」が、「あれは納屋の特徴を持つ建物だ」という意味で問われているのならば、それが偽の納屋であったとしても、本物の納屋であったとしても、それは正しい、と言えるかもしれません。

逸脱因果の場合であっても、その問いに対する答えとしては、その答えはある意味では正しい、と言えるのではないでしょうか。人は、問いに応じた厳密さで答えるのあり、偽物の納屋のある地域でそれを知らずに、「あれは納屋だろうか」という問いに、「あれは納屋だ」と答えることは、問いに応じた厳密さを満たした正しい答えであるのではないでしょうか。

逸脱因果の事例は、知識とは言えない、という主張も理解できます。知識を問答ではなく、命題として考えるとき、逸脱因果事例は、知識ではないと言えますが、厳密にいえば、<逸脱因果の可能性をとりのぞくことはおそらく不可能なので、知識は不可能である>ことになります。これを回避するには、<単独の命題ではなく問答のペアを知識としてとらえる>ことが重要です。<逸脱因果の可能性に気づくとき、その問いの意味は変化し、それに対する答えの求め方も変化します>