115 形式推論と実質推論の区別(distinction between formal and material inferences) (20240405)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「実質推論」という語が最初につかわれたのは、おそらくセラーズの論文「推論と意味」(1953)だろうと思います。ブランダムが「実質推論」について語るとき、依拠しているのはセラーズのこの論文です。ただし、セラーズはこの論文で推論を「形式推論」と「実質推論」に区別して、二種類の推理があることを認めているのですが、ブランダムは、この二つを区別するものの、厳密にいえば「形式推論」も「実質推論」であると考えています。これがセラーズとブランダムの異なるところです。ここでは、セラーズやブランダムの議論に学びながらも、現在のところ私が、「形式推論」と「実質推論」の区別をどのように設定しようとしているのかを説明します(その結果として、語や文の意味を実質推論によって与えられるものとして考える問答推論的意味論が、真理の定義依拠説と両立することを示したいと思います。)

まずヒルベルトが『幾何学基礎論』でしようとしたことの説明から始めたいと思います。ヒルベルトは、『幾何学基礎論』で、幾何学の公理系を提示しましたが、そのとき、幾何学的語(点、直線、平面、など)を定義せず無定義術語として導入しました。それらの語の意味(使用法)は、公理によって示されます。公理に示されていない意味(使用法)を持つことはありません(もしそのようなことがあれば、公理やその定理によって記述できない、幾何学的命題があることになるでしょう。もちろん、そのようなものはありません。推論的意味論は、この無定義術語の導入に始まると言えそうです)。

 幾何学の定理はその公理から論理学によって導出されますが、論理学についても、論理的語彙を、無定義術語として導入し、その使用法を公理によって記述し、論理学の定理は、公理から推論規則によって導出することができます。そうすると、論理的語彙についてもその意味を、公理と推論規則によって与えることができます(ヒルベルト自身が論理学についてどう考えていたかについては、彼とアッカーマンの共著『記号論理学の基礎』を確認する必要がありますが、今手もとにないので後日)。

#原子論的意味論での「形式的推論」と非原子論的意味論での「実質的推論」

まず、<語は文の中で使用され、文の意味(使用法)はそれを結論とする上流問答推論とそれを前提とする下流問答推論によって与えられる>と考えます(これが推論的意味論です)。この場合、推論の理解は、語や文の理解を前提することができません。このように理解される推論を、「実質推論」と呼びます。それに対して、原子論的意味論の立場で、語の理解から文の理解が構成され、文の理解から推論の理解が構成されると考えるとき、これを「形式推論」と呼ぶことができます。

 これを「形式推論」と呼ぶのは、カルナップに従ってものです。カルナップは「言語の論理的構文論」を構想しましたが、そこで彼は、「意義や意味にどんな言及もしないような言語的表現に関する考察や立言を「形式的」とよぶ」(カルナップ『論理的構文論:哲学する方法』(吉田謙二訳、晃洋書房、34))のです。

 通常の論理学の教科書では、原子論的意味論の立場から、推論についての形式的に説明します。まず、命題記号や論理結合子を定義によって導入し、論理結合子の意味を真理表によって示します。次に公理を提示しますが、その公理が真であることは、論理結合子の意味にもとづくとされます。つまり、真理表を用いて公理が恒真式であることを示します。次に推論規則、分離則(MP)を導入し、MPにおいて、前提が真であれば、結論が真となることを真理表によって示します。そうすると、公理と推論規則を用いて証明されるすべての定理は、恒真式であることを証明できます。したがって、その公理体系は無矛盾です。

 しかし、推論的意味論を採用すると、このような原子論的意味論を取れません。それは非原子論的(分子論的か全体論的)意味論になります。論理学の同一の推論が、原子論的に理解されたときには「形式推論」となり、非原子論的に理解されたときには「実質推論」になると考えます。私は、形式推論と実質推論の区別は、推論の解釈の仕方の違いであり、構文論的には同一の推論であると考えます。  このように論理学もまた実質推論からなると考えるとき、その公理や推論規則の設定はどのように行われ、どのように正当化されるのかを次に説明します。

114 概念が語に付随する (Concepts supervene on words) (20240404)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「ナイフ」「フォーク」「スプーン」「皿」これらの文字列は、概念<ナイフ><フォーク><スプーン><皿>を付帯しています。これらの文字列は、他の文字列と関係なく、またそれが付帯している概念と関係なく同定可能です。その点で、これらの文字列は原子論的です。他方、これらの概念は、互いの関係の中で一定の内容を持つものになっています。その点で、これらの概念は全体論的であるように見えます。

これは、野球の例がもっとわかりやすいかもしれません。野球しているとき、球場にはピッチャー、キャッチャー、一塁手、などがいます。彼らのその役割は、他の役割との関係の中で一定の内容を持ちます。しかし、彼らは野球が終わった後も存在しています。彼らは個人として、野球のゲームから独立に存在します。しかし、野球するときには、それらの役割として、つまりチーム全体の一員として行動します。役割は、全体論的に存在します。

(意味全体論の用語としてこれで十分でしょうか。意味の原子論を批判するために、これ以上何をいえばよいのかよくわからないので、原子論者の議論を調べてから、再度論じることにします。今言えることは、構文論的原子論と意味論的全体論を区別することによって、意味の全体論の擁護がより説得的なものになるということです。)

真理定義依拠説は、語や文の意味は実質推論によって与えられるとする推論的意味論と矛盾するように見えます。私は、この二つを調停したいのですが、そのために次回から、まずは実質推論とは何か、を確認しておきたいと思ます。

113 意味の原子論はなぜ強固なのか? (Why is the atomic theory of meaning so strong?) (20240331)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「真理の定義依拠説」を主張したいので、そのために、これが「問答推論的意味論」(発話の意味は、その上流問答推論関係および加入問答推論関係として成立するという主張)と結びついていることを示したいと思います。そのために、セラーズとブランダムが展開した「実質推論」についての議論を問答の観点からとらえ直したいと思います。

「実質推論」とは、それが含む語や文の意味や真理性から妥当なものと見なされる推論(これは通常の推論であり、「形式推論」と呼ばれています)ではなく、その推論によって、それに含まれる語や文の意味が与えられる推論です。

実質推論を認めることは、意味の全体論ととることであり、意味の原子論に反対することになります。しかし、意味の原子論はダイハードであり、私たちは、言語表現の意味についてついつい原子論的に考えてしまう傾向があります。では意味の原子論は、なぜこれほど強固なのでしょうか。それを考えてみたいと思います。

#意味の原子論はなぜ強固なのか? 構文論的原子論

 意味の原子論は、<文字を並べて語を作り、語を並べて文を作り、文を並べて理論を作る>ということに由来します。私たちは、理論を分割して文を作るのではないし、文を分割して語を作るのではないし、語を分割して文字を作るのではありません。同じことは話し言葉でもいえます。音を並べて語の音声を作り、語の音声を並べて文の音声を作り、文の音声を並べて理論の音声を作ります。この逆ではありません。したがって、音や文字についていえば、言語の原子論は正しいのです。これを「構文論的原子論」と呼びたいとおもいます。

 ただし、このことと、言語の「意味論的全体論」とは、両立可能です。この「構文論的原子論」と「意味論的全体論」を明確に区別しないことによって、上記の「構文論的原子論」から、「意味論的原子論」を誤って支持してしまうことになっているのではないでしょうか。

 

私たちは例えば次のように意味の原子論を批判できます。

#意味の原子論への批判

・意味の原子論への批判1:「sunburn」には、sunの意味もburnの意味も含まれていません。「茶色の牛」は危険な牛と言う意味をもつらしいが、「茶色」にも「牛」にも危険という意味はありません。つまり、表現の意味は、要素の意味から合成できない場合があるのです。

・批判2:語の使用は(一語文を含めて)文によって行われる。語の意味は定義文によって行われます。また語の意味の説明は文によって行われます。ゆえに、語の意味は文の意味に依存しているのです。したがって、文の意味は語の意味から構成されるのではありませんし、少なくとも文の意味は語の意味から構成されない場合があるのです。

・批判3:文の意味は、文の使用法に尽くされています。そして文は、問答や推論において使用されます。問答と推論が問答推論として統一的に理解できるのならば、文の意味(使用法)は問答推論関係です。

・批判4:解釈学的循環として指摘されるように、文の意味は、それを含む文章全体に依存します。

それでもなお、意味の原子論は強固に生き続けています。それはなぜでしょうか。それは概念や命題などの言語的な意味は、常に語や文に付帯しているからです。語や文が原子論的ならば、それに付帯する意味もまた原子論的であると考えてしまうのではないでしょうか。

 そこで、語(概念の依り代)と概念(語の意味)の結合関係、文(命題の依り代)と命題(文の意味)の結合関係について、次に考えたいと思います。

112 真理の定義依拠説への予想される批判 (Anticipated criticisms of the definition-dependent theory of truth) (20240320)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

「理論的問いへの答えが真であることは、その問答で用いられる語の定義に依拠する」という主張を「真理の定義依拠説」(the definition-dependent theory of truth)と呼ぶことにします。この主張に対して、どのような批判を予想できます。

<批判1:真理の定義依拠説は、原子論的意味のように見える>

批判の説明:真理の定義依拠説は、観察報告の真理性を説明するために考えたものです。「これは赤い」が真であるとは、「これ」が指示する対象が、「赤い」が表示する性質を持つことであると考えました。。これは、語の意味は、語の指示対象や表示対象であり、語の意味から文の意味が合成される、と考えているように見えます。このような立場は、「原子論的意味論」と呼ばれています。しかし、語が対象を指示したり表示したりすることがいかにして可能であるのかを説明することは困難であるという理由で、これは批判されます。原子論的意味論へのこの批判が、定義依拠説にもあてはまります。

応答:真理の定義依拠説は、語が対象を指示したり表示したりすることを、定義に遡ることによって説明しようとするものです。「これ」が対象を指示するとは、どういうことか。「赤い」が性質を表示するとは、どういうことか。これらの問いに対して、これらの語の学習、さらに定義に遡って答えようとするものです。それらの学習や定義は、問いに対する答えとして成立します。

 ところで、語の意味と文の意味は、どちらも問答によって/おいて成立するので、どちらかが優先するのではありません。それゆえに、語と文の一方を他方に対する基礎とすることはできません。したがって、真理の定義依拠説は、原子論的意味論を採用するものではありません。

 確かに、問いが成立するには、語が必要です。ただし、語の意味が完成している必要はありません。例えば「水とは何か」が「水」の定義を求める問いであるとするとき、この問いは「水」の定義を前提としません。つまり「水」について断片的で暫定的な理解であっても、あるいはそれが何らかの語であると想定しているだけであっても、それについて問うことができます。また他の試行的な使用を行うことができます。語の意味は、それを用いた問答の中で次第に規定されるのです。私たちは、語を使用しながらその意味を学習していきます。

<批判2:定義に遡ることの困難> 

批判の説明:多くの語について、その定義に遡ることは困難です。例えば、「赤い」という日本語がいつどのように使われ始めたのか、つまりどのように定義されたのか、という問いに答えることは困難です。また、多くの語については、それをどのように学習したのかを想起することも難しいかもしれません。例えば、私は「赤い」という語をどのように学習したのかを憶えていません。

応答:ただし、多くの語については、その使用法をどのように教えたらよいのかはわかります。例えば、私は幼児に「赤い」を教えることができるでしょう。私はそれと同じようにして教えられたのだろうと推測できます。それと同じように、ある語を持たない言語共同体に入って、その語を教える、つまりその語の定義を与えることはできるだろうと推測します。例えば、「赤い」にあたる語を持たない共同体に入って、「赤い」を定義してその共同体の語に加えることはできるだろうと推測します。

 もし語の定義やその仕方が不明ならば、語の定義を自分であらたに行えばよいのです。そして、その定義が流通している語の意味と食い違うならば、どちらかを修正して、両者が適合するにすればよいのです。その場合も、理論的な問いの答えの真理性は、(その新しく設定された)定義に依拠することになるでしょう。

<批判3:明示的定義ではなく、文脈的定義や還元文による定義が行われる時、真理の正当化は、どのように定義に依拠するのか曖昧である>

応答:理論的問いやその答えの中の語が、例えば「水溶性」のように還元文によって定義されるのだとしましょう。このとき、「水溶性」の使い方を、この定義から正当化できるならば、その答えの真理性は、定義に依拠すると言えます。

<批判4:真理のデフレ主義からの批判>

批判の説明:真理のデフレ主義とは、真理を命題の性質(事実との対応や、他の真理との整合性、など)と考えません。「…真である」の意味は、「p≡「p」は真である」という同値原理に尽きているというのが真理のミニマリズム(デフレ主義の一種)の主張です。デフレ主義の中には、真理述語には、引用符解除機能、文代用機能があるが、それを除けば余剰である、という立場もあります。

 これに対して、真理の定義依拠説は、問いの答えが真であるのは、そこに使用される語の定義と一致することだと考えるので、整合説の一種(真理のインフレ主義の一種)だと言えそうです。しかし、整合説に対しては、整合性だけでは真とするには不十分であるという批判があります。なぜなら、ある真なる命題の集合(たとえば観察報告の集合)と整合的な命題の体系(理論)は、複数ありうるからです。

応答:確かに、問いに対する答えは、それが定義に依拠するというだけでは、一意的に決定しない可能性があります。そうすると、定義に依拠する原初命題から理論を構成する仕方の正当化が必要になります。原初命題から理論を構成するのは、原初命題から、理論を仮定して、それを別の原初命題でチェックすることです。このとき、複数の理論を仮定することが可能です。ところで、理論もまた相関質問を持ちます。そして理論の相関質問のより上位の目的の実現に役立つ理論が、適切な理論として選択されることになります。

 ところで、理論を構成するには理論的語彙の定義が必要です。なぜなら、理論を観察報告に還元できないということは、理論的語彙を観察語彙に還元できないということだからです。理論の選択と理論的語彙の定義は宣言によって行われ、宣言は問いに対する答えとして成立するでしょう。

まとめると次のようになります。<理論的問いに対する答えの真理性は、定義との整合性に依拠する。ただし、それだけで真理値が決定するとは限らない。他の観察報告との整合性、理論との整合性、にも依拠する場合がある。他の観察報告の真理性は、それに用いられる他の観察語の定義に依拠し、理論の真理性は、それに用いられる理論語の定義に依拠する。もし答えの候補がまだ複数あるならば、これらの定義宣言の相関質問のより上位の問いに答えるのに役立つこと、つまり答えの適切性によって、複数の答えの候補をさらに絞り込むことができる。>

 このように考えるとき、理論的な問いの答えの真理性は、これらの定義との整合に依拠するという意味で、「真理の整合説」を主張してもよいかもしれません。ただし、これは、整合性だけで答えを一つに決定することができるという主張ではなく、定義との整合性によって、答えの候補を制限できるという主張です。(以上の応答がしめすように、私は今のところ、真理のデフレ主義に対して少し否定的です。)

111 問答関係に基づいて推論規則を正当化する(Justifying inference rules based on question-answer relations)(20240309)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

私たちは、論理的語彙の定義に依拠して、推論や推論規則を正当化することができます。論理結合子(¬、∨、∧、→)の意味を真理表で定義して、それによって、推論規則が恒真であることを証明できます。また、これらの導入規則と除去規則を定義して、それによって、推論規則を導出することもできます。通常はこのようにして推論規則の正当化がおこわわれているので、それを、推論の妥当性の定義依拠説と呼ぶこともできるでしょう。

 この場合の問題は、論理的語彙の使用法のこの定義の適切性です。導入規則と除去規則を定義して論理体系を作るときに問題になるのは、Priorが指摘したように、その定義の恣意性を制約しなければ、役に立たない体系になってしまうのです。そこでN.Bernapが提案したように、論理的語彙の導入規則と除去規則は、保存拡大性をみたす必要があります(これについては、これまで講義ノートや『問答の言語哲学』で何度か説明してきました)。ただしこれ以外の制約はなく、保存拡大性を充たせば、後は自由に恣意的に偶然的に定義できることになります。どうして私たちは、現在使っているような論理的語彙をつかうのか、説明できません。例えば、私たちが日常生活では、シェーファーの棒記号(nand、nor)を私たちが使っていないことの説明ができません。

 そこで、以下では、<問答を行うときに私たちが暗黙的にある推論規則を前提としていること>を示すことによって、<問答関係に基づいて推論規則を正当化する>こと、さらに<私たちが日常の思考、問答において使っている推論規則の必然性を示す>ことを試みたいと思います。

・問答における暗黙的な同一律と矛盾律

  同一律「pならばp」

  矛盾律「pであり、かつpでないことはない」

この二つは、「pですか」と問うことが、暗黙的に前提としている規則です。なぜなら「pですか」と問うことは、答えとして「はい、pです」と「いいえ、pではないです」の二つが可能であることを暗黙的に前提としており、そのことは同時に、答えの中の「p」が問いの中の「p」と同一であることと、「pであり、かつpでないことはない」を暗黙的に前提としているからです。

・MPもまた問答関係の中に暗黙的に前提されています。

  「rですか」「はい、rです」

という問答があるとしましょう。すべての問いは何らかの前提をもちます。そこでこの問いがpを前提としているとします。この前提pを明示化すれば、上の問いは「pのとき、rですか」となり、上の答えは「はい、pのとき、rです」(p→r)となります。

 「rですか」という問いに、「はい、rです」と答えるときには、問いの前提「p」と暗黙的に成立する「p→r」から、答え「r」を導出しています。つまり、p、p→r┣rという推論を行っています。問答が成立するときには、この形式の推論(つまりMP)を暗黙的に前提としているのです。

以上のように、<問答が暗黙的に基本的な推論規則(同一律、矛盾律、MP)を前提としている>とするとき、その暗黙的な推論規則を明示化した推論規則を否定することは、問答を不可能にするでしょう。したがって問答をおこなうためためには、これらの推論規則を認めることが必然的です。このようにして、私たちは、これらの推論規則を、問答関係の超越論的条件として正当化できるのです。

次回からは、このような「真理の定義依拠説」(命題の真理を定義に依拠して正当化するという主張)について吟味するために、予想される反論について検討したいと思います。

110 統制規則の適切性と構成規則の適切性(Appropriateness of regulative rules and appropriateness of constitutive rules) (20240307)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

今のところ次のように考えています。

 理論的問答の答え:主張型発話:真理値をもつ。

 実践的問答の答え:行為指示型と行為拘束型:適切性(適/不適の区別や程度)をもつ。

 宣言的問答の答え:宣言型(行為宣言型、主張宣言型、定義型(命名を含む)、表現型):適切性をもつ。

 今回説明したいのは、実践的問答の答えの適切性と宣言的問答の答えの適切性の違いです。

以前(107回)に次のように書きました。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。」

そこでは、主張型以外の発話の「適切性」を、「より上位の問いに答えるのに役立つこと」あるいは「より上位の目的の実現にとって役立つこと」と考えましたが、これを次のように修正したいと思います。宣言的問答の答えの適切性は、この通りだと考えますが、実践的問答の答えの適切性は、「実践的問いの目的の実現そのものに役立つこと」だと考えます。実践的問いは、「ある意図を実現するにはどうすればよいか」という形式をとります。その意図の実現に役立つ答えが、適切な答えであり、役立たない答えが不適切な答えです。

 適切性についてこのような違いが生じる理由は、実践的問答の答えは統制規則であり、宣言的問答の答えは構成規則であるという違いにあります。

 

#構成規則と統制規則の区別

この区別は、サールの「構成規則」と「統制規則」の区別や、カントの「構成原理」と「統制原理」の区別に由来するものです。

例えば、自然法則は、自然を構成する構成規則です。ゲームの規則は、ゲームの構成規則です。憲法は、国家体制の構成規則です。自然の構成規則を破ることはできないし、変更することもできませんが、人為的社会的構成規則は、破ることも変更することも可能です。

 ところで、組織の構成規則は破るべきではないものでしょうか、つまり規範性をもつのでしょうか。もしその組織を維持しようとするのならば、組織の構成規則を破るべきではなく、それに従うことは義務となり、それは統制規則となります。もしその組織を維持することを目的としないのであれば、その組織の構成規則を守ることは義務ではありません。

 この場合、統制規則とは、構成規則の一部になります。では、<統制規則であるが、何かの構成規則ではないもの>はあるのでしょうか。おそらくすべての規範的規則は、何らかのものの構成規則であると考えます。なぜなら非常に緩い規範的規則「人に会ったら挨拶しましょう」というような規範であったとしても、それが常に守られたら実現するであろう社会の構成原理となるからです。

(構成規則と統制規則の関係をこのように考えることは、従来の理解と異なる新しい試みと思いますので、注意してください。)

#構成規則の適切性

 構成規則の適切性とは、構成規則の設定が、あるいはその構成規則が、より上位の目的にとって有用であるということです。構成規則の目的とは、何かを構成することです。より上位の目的とは、構成規則が構成するもののより上位の目的です。

#構成規則と統制規則の区別と問答

二つの規則の区別と、3種類の問いの区別は、次のように関係します。

・理論的問い「自然はどうなっているのか」の答えは、構成規則です。

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。                                                                                                                                                                                                                                

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答えは、オセロゲームの規則であり、構成規則です。

 

・実践的問い「オセロのゲームに勝つには、どうすればよいのか」の答えは、統制規則です。その答えが、オセロのゲームを勝つために役立つのならば、それは適切です。実践的問いは、実現したい意図を前提としますが、その意図の実現に成功するならば、あるいは役立つならば、答えは適切です。

・宣言的問い「オセロのゲームはどのようなものか」の答え(オセロゲームの規則の設定)に真偽はありませんが、適切性はあります。それが適切であるために満たすべき諸条件として、例えば次のような諸条件を挙げることができるかもしれません。

  勝ち負けが明確でなければならない。

  ゲーム規則はあまり複雑すぎない方がよい。

  ゲームの規則は単純であるほうがよい。

  ゲームは簡単すぎていけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームは難しすぎてもいけない、なぜなら楽しくないから。

  ゲームの勝負に時間がかかりすぎてもいけない。

これらの諸条件を満たすゲームの規則(構成規則)が適切です。その規則は、楽しいゲームを作るという目的の実現に役立つからです。構成規則は、それが構成するものが、より上位の目的の実現に役立つならば、適切です。つまり、宣言的問いの答えは、より上位の目的の実現に役立つとき、適切です。

 次に宣言型発話の4種類の下位区分のそれぞれの適切性についての説明します。

*行為宣言の適切性

 例えば、「君は馘だ」と言う宣言が適切であるとは、相手を馘にすることが、会社にとって有用であるということでしょう。つまり、その宣言はより上位の目的(会社の存続や利益の獲得)の実現に役立つということです。

*主張宣言の適切性

 例えば、「アウト」という宣言が適切であるとは、実際にそれがアウトであることです。「アウト」の宣言が適切であるとき、それが構成するゲームのより上位の目的の実現に役立ちます。ゲームのより上位の目的とは、ゲームによって参加者が楽しむことや、観客が楽しむことです。審判が間違っていれば、私たちはそのゲームを楽しめません。

*定義宣言の適切性

 例えば、「水をHOと定義する」という宣言が適切であるとは、その行為がより上位の目的(その対象を他の物から区別すること)に役立つということでしょう。もし定義の目的が他にあれば、その目的の実現に役立つということでしょう。

*表現宣言の適切性

 「合格おめでとう」という発話は、相手が合格したという事実に対する話し手の態度を構成します。聞き手の出来事や状態に対する話し手のこの態度の構成は、聞き手と話し手の関係に関するより上位の目的の実現に役立つとき適切であり、その目的の実現を妨げたり、役立たなかったりするとき、不適切です。例えば、「不合格おめでとう」と言う発話は、相手と喧嘩しようと思っているのでないならば、不適切です。

前回の末尾で、このあと「真理の定義依拠説」への予想される反論を論じると予告しましたが、その前に、真理の定義依拠説から、推論の正当化について考えたいと思います。

109 理論的問答と実践的問答と宣言的問答の区別について(Regarding the distinction between theoretical questions and answers, practical questions and answers, and declarative questions and answers) (20240305)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

理論的問いの答は、記述であり真理値を持ちます。それに対して実践的問いの答えは、意志決定であり真理値を持たず、適/不適の区別を持ちます。宣言的問いの答えもまた真理値をもたず、適/不適の区別を持ちます。この点で、実戦的問答と宣言的問答は同じです。ただし、宣言は、意志決定ではなく、事実を設定すること、ないし事実を構成することです。つまり、宣言的問いの答えは、構成規則です。それに対して、実践的問いの答えは、意志決定であり、これは行為の統制規則です。この違いを重視して、問答全体を、理論的問答、実践的問答、宣言的問答の3つに区別することができます。

 この区別について、もう少し説明を加えます。

*宣言型発話は、事実を設定する、あるいは事実を構成する発話であり、それは構成的規則となります。以前(99回)に、宣言型発話を、行為宣言型、主張宣言型、命名型、定義型の4つに区別しました。この中で、命名型と定義型が語の意味を構成する構成的規則になることは理解できるでしょうが、行為宣言型と主張宣言型については、説明が必要かもしれません。

 例えば、行為宣言型発話である「開会します」は、これによって、会議が開会され、これによってその後の発言や行為は会議を構成します。この宣言は、会議を構成する規則として機能します。また例えば、主張宣言である審判による「アウト」という発話は、野球の規則そのものではなく、野球の規則にしたがった「アウト」の使用例であるかもしれませんが、他方で、その審判が「アウト」と宣言することによって、その後の試合の進行、選手たちの行動の意味が規定され、行動が規定されます。つまり、「アウト」の宣言は、その試合を構成し、宣言後も、その試合が終わるまで、試合を構成し続けます。それはその試合において構成規則として機能し続けます。

*宣言型発話の区別の修正

 ここで、宣言型発話の区別について二点修正しておきたいとおもいます。

 一つは、<命名型と定義型を区別せず、二つを合わせて定義型とする>ということです。。命名は、ある対象に固有名を割り当てることです。それは固有名の定義であり、定義の一種であるとみなせるでしょう。定義には、固有名の定義だけでなく、一般名、形容詞、動詞、副詞などの定義もあります。(ただし、命名は、一つの新し名前をつくることですが、その他の定義の場合には、既に使用されている語に、新しい意味を与えたり、明確な意味を与えたりすることである、という違いがあります。)

 もう一つは、<表現型発話を宣言型発話の一種と考え、「表現型宣言」と呼ぶ>という修正です。サールの説明では、宣言型発話の適合の方向は両方向ですが、表現型発話は、適合の方向をもたない、という違いがあります。表現型発話は、語と世界の関係を述べていないということになります。しかし、そうでしょうか。表現型発話は、<世界(世界の出来事、状態)についての話し手の態度>を表現しています。例えば、「合格おめでとう」は(主張とは違って)真理値を持たず、(命令や約束とは違って)世界を変えようとするものでもありません。むしろ世界に対する話し手の態度を設定するものです。相手が合格していなければ無効ですが、合格していれば、その意味で両方向の適合の方向を持つと考えることができます。

 このような表現型宣言もまた構成規則であると言えます。「合格おめでとう」と言うことによって、相手が合格したという事実についての話し手の態度を設定し構成します。それは構成規則として機能します。他者の資格や尊厳を承認する発話が、もし社会制度を前提としているならば、それは主張型宣言であると言えるでしょうが、もし社会制度を前提としないならば、それは表現型宣言だといえるでしょう。

ところえ、理論的問いの答えは真理値を持ち、実践的問いと宣言的問いの答えは適切性を持ちますが、実践的問いの答えは統制的規則であり、宣言的問いの答えは構成的規則です。したがって、それらの適切性は異なっていると推測します。これについて、次に考えたいと思います。

(その後で、理論的な問いに対する答えの真理性を、定義に依拠して説明すること(「真理の定義依拠説」)への予想される批判を検討したいと思います。)

108 非主張型発話の相関質問について(Regarding correlative questions for non-assertive utterances) (20240302)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

見出しのテーマに入る前に、前回の説明で抜けていた、表現型発話の前提と適切性の区別についての説明をしたいと思います。

「合格おめでとう」という表現型発話は、相手が合格したということが事実であることを、前提としています。もし相手が合格していなかったとすると、この発話は、不適切なものになるのでしょうか

それとも、適切でも不適切でもなく、無効になるのでしょうか。「合格おめでとう」は、相手が合格したということを意味論的に前提していると言えるでしょう。したがって、もし合格していなければ、この命題は偽なる命題を前提としており、発話は「無効」になると考えます。それに対して、もし相手が不合格であることが事実であるとき、「不合格おめでとうございます」と言えは、その発話の意味論的前提は成り立ちますが、その発話は不適切な発話だと言えます。

 発話の満たすべき意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を「有効」な発話と呼び、充たしていない発話を「無効」な発話と呼びたいと思います。(この場合、もし「誠実性」を語用論的前提とみなすと、不誠実な発話は、無効になります。しかし、それでは嘘をつくことが不可能になります。不誠実な発話であっても、発語内行為は成立するのです。「誠実性」をどう扱うべきか、別途検討の必要があります。)

#本題に戻ります。非主張型発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。

 約束発話は、「…してくれますか」という問い(これは依頼の発話でいいか可能です)に対する「…します」という返答として成立するでしょう。命令発話は、「…しましょうか」という問い(これは約束の発話で言い換え可能です)に対する「…してください」という返答として成立するでしょう。

 では、「合格おめでとうございます」の相関質問は何でしょうか。「合格しましたよ。どう思いますか(感想はいかがですか)」という問いへの答えだと言えそうです。もちろんこのような問いが明示的に行われる必要はなく、「合格しました」という報告に暗黙的に含まれる場合が多いでしょう。しかし、合格した人を目の前にするとき、「どう思いますか」という問いかけに答えることが求められていると暗黙的に感じるのではないでしょうか。

#宣言型発話の相関質問は、次のようなものになるでしょう。

行為宣言型:「開会します」「賞を授与する」

  「そろそろ会議を始めませんか」「はい、開会します」

  「だれに賞を授与しますか」「Xさんに賞を授与します」

これらの問答は、場合によっては(まだ開会の宣言を行っていないときには)、この問いは答えとして約束の発話を求める問いと、約束発話の答えとなります。場合によっては、この問答は、宣言を求める問いと、宣言する答えとなります。

主張宣言型:「アウト」「有罪とする」など審判、判決の発話

  「彼はアウトですか、セーフですか」「アウト」

という問答は、場合によっては、真理値を持つ命題を答えとする理論的問いと、事実の記述であり真理値を持つ答えであることが可能です。ある場合には、宣言を求める問いと、真理値を持たない宣言発話の答えであることが可能です。

命名宣言型:名づけの発話

  「この子の名前は何ですか」「この子の名前はソクラテスです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(その子の命名がまだ行われていない時には)、命名を問う問いと、命名の答えであり、ある場合には(命名が行われた後では)、理論的問いとそれに対する記述の答えです。

・定義宣言型:語や対象の定義を与える宣言。

「水とは何ですか」「水とはH2Oです」

この問答も、主張宣言型の場合と同様に、ある場合には(「水」の定義がまだ行われていないときには)、定義を求める問いと、定義を与える答えであり、ある場合には(「水」の定義が行われた後では)理論的問いとそれに対する記述の答えである。

では、これらの宣言発話の適切/不適切の区別は、どのようなものになるでしょうか。これまで、宣言型発話を答えとする問答を実践的問答に含めて論じた個所もあったと思いますが、宣言的問答を実践的問答から区別すること、つまり問答全体を理論的問答、実践的問答、宣言的問答、の3つに区別した方がよいのではないかと考え始めています。これを次に検討したいと思います。

107 発話の前提と適切性について(the presuppositions and appropriateness of utterance) (20240301)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前々回(105回)に依頼の発話の適切性を、前回106回に表現型発話の適切性を、それぞれ命令ないし定義に依拠するものとして説明しました。そこで今回は、宣言の適切性について説明すると予告しました。しかし、これまでの記述では、発話の前提と適切性の区別が曖昧でした。そこで、発話の前提と適切性の区別から論じ直したいと思います。

#発話の意味論的前提と語用論的前提について

発話の前提は、意味論的前提と語用論的前提に分けることができます。

問いに対する答えは、正誤の区別を持ちます。発話が、正しいかあるいは誤りであるかの、どちらかでありうるための、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。そして、発話行為が成り立つための語用論的必要条件を、発話の「語用論的前提」と呼ぶことにします。

主張型発話の場合、正誤の区別は、真偽の区別となります。それゆえに、主張型発話が真理値を持つための意味論的必要条件が、主張型発話の「意味論的前提」となります。

主張型以外の発話は真理値を持ちません。そこで、それらの発話の正誤の区別を、適不適(適切と不適切)の区別と呼ぶことにします。そして、発話が適切ないし不適切であるための意味論的必要条件を、発話の「意味論的前提」と呼ぶことにします。

(紛らわしくて申し訳ないのですが、J. L. オースティンは、この意味論的前提と語用論的前提を充たす発話を’felicity’と呼び、これが「適切」と翻訳されています。用語については、工夫の余地があるかもしれませんが、上述の区別は明確だと思います。)

主として論じてきたのは、主張型発話の真理値が、遡るならば、命名や定義の宣言発話に基づくということでした。次にそれの拡張として、主張型以外の発話、行為指示型発話(命令や依頼)、行為拘束型発話(約束)、表現型発話の適切性(適切であるか、不適切であるか)が、命名や定義の宣言発話に基づくということを証明しようとしました。

 ただし、主張型以外の発話についての説明では、<発話の意味論的前提が命名や定義の宣言に依拠すること>と<発話の適切性が命名や定義の宣言に依拠すること>の区別があいまいでしたので、その点に注意して、論じ直したいと思います。

 前回(106回)に依頼の発話の適切性について、次のように述べました。

「#依頼の発話の適切性

依頼の発話が適切であるとは、次の条件を満たすことだと思われます。

  ・依頼の内容が実現可能であること

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)」

しかし、これらは依頼の発話の適切性の条件ではなく、むしろ依頼の発話の意味論的前提と語用論的前提の一部です。次のように言えます。

  ・依頼の内容が実現可能であること(これは意味論的前提)

  ・発話者が発話相手に依頼する資格があること(これは語用論的前提)

  ・発話が誠実なものであること(発話者が、依頼内容が実現可能であると信じていること)(これも語用論的前提)

では、依頼の発話「水を持ってきてください」の適切性は、どのように説明されるのでしょうか。

主張型以外の発話が「適切である」とは、その発話が「より上位の目的の実現にとって役立つ」ということだろうと思います。その「より上位の目的」とは、答える者にとってのより上位の目的でしょうか、それとも問うた者にとってのより上位の目的でしょうか。

 その発話が「適切である」とは、問いに対する答えとして「適切である」ということだとすると、それは問うた者についてのより上位の目的の実現に役立つということでしょう。  では、主張型以外の発話の相関質問は、どのようなものになるでしょうか。これを次に考え、(今回考える予定であった)宣言発話の適切性についても考えたいと思います。

18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。