近代文学と感情の共同体

 
12 近代文学と感情の共同体 (20121122)
 
前回の引用を再説します。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」(柄谷行人『近代文学の終わり』p.173)。
 
 この主張は、次のように証明できるのではないでしょうか。
 共通語としての日本語は、新聞や本などのメディアと学校教育によって成立したと思われます。(共通語としての日本語は、現在ではこれらに加えて、ラジオやテレビやインターネットをとおして、常に再構築されています。)これらのメディアによって、知識や情報を共有する同質的な日本社会が成立します。新聞で共有されるのは、社会問題や社会制度や社会的な出来事についての認識です。これによって、ナショナル・インタレストの共有が生まれるでしょう。
 メディアの中で、近代文学に特徴的な機能は、感情表現の共有であり、それによる感情の共有でしょう。文学が語る特徴的な内容は、感情です。主として、登場人物の個人の欲望、悩み、です。それらを語る言葉を共有することによって、私たちは似たような感情を共有するようになります。自分の知らない方言で表現された感情は、その意味を説明されても、共感することが難しいのですが、自分の知っている方言で表現された感情は、よく理解できます。それは、自分の感情そのものが自分の方言で構成されているからです。感情表現に用いる日本語を共有することによって、私たちは感情を共有するようになります。近代文学によって、感情の共同体が可能になるのです。ところで、ネーションは(幻想であるにせよ)感情の共同体であることを必要とします(なぜ?)。従って、「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠である」と言えます。
 
 

 

「近代文学の終り」

                hervestの秋からfallの秋へ
 
11 「近代文学の終わり」 (20121113
 
柄谷行人は、次のように述べています。
「近代文学がネーションを構成するにあたって不可欠であること、「言文一致」や「風景」もまたその一環であること」(『近代文学の終わり』p.173)、
「近代文学は一九八〇年代に終わったという実感があります。いわゆるバブル、消費社会、ポストモダンと言われた時期です。」(同書39
「私が「近代文学の終わり」というときには、それを批判するかたちであらわれたエクリチュールやディコンストラクティヴな批評や哲学も含まれています。そのことがはっきりしたのが一九九〇年代ですね」(同書39
「日本のバブル的経済はまもなく壊れましたが、むしろそれ以後にこのような大衆文化がグローバルに普及し始めた。その意味で、世界はまさに「日本化」し始めたように見えます。グローバルな資本主義経済が、旧来の伝統指向と内部指向を根こそぎ一掃し、グローバルに「他人指向」をもたらしていることを意味するにすぎません。近代と近代文学は、このようにして終わったのです。」(同書、69
 
これ以上に述べるべきことを思いつきません。
 
 

ナショナリズムとグローバル化

                                   アムステルダムで一番有名なビールは?と尋ねるとハイネケンだ
                という答だったので、二番目に有名なビールを頼みました。
 

10 ナショナリズムとグローバル化 (20121101)

 

「文化をグローバル化するとはどういうことか」という問いに答えようとして、

 

  ・政治経済的な要因

  ・有用性という要因

  ・翻訳という要因

 

に言及してきました。この先が見えなくなってきたので、最初の問いに戻ります。

この書庫の問いは、次の二つの問いでした。

 「グローバル化とは何か」

 「グローバル化にどう対応すべきか」

 

とりあえず、文化について、これらの問いの答えようとしてきました。

そこで次のような問いを立てました。

 「文化はグローバル化によって、どのように変容するのか」
 

この問いに答えるために、次の問いを立てたいと思います。

 「グローバル化によって、文化において失われていくものは何か」
 

これへの簡単な答えは、「伝統的なローカルな文化」です。これには、つぎのように答えることもできます。「ナショナリスティックな文化が失われていく」
 

 例えば、日本史研究、日本文学研究、日本思想史研究、これらはナショナリズムと結びついています。あるいはドイツ史研究、ドイツ文学研究、ドイツ思想史研究出会っても同じです。歴史意識は、ナショナリズムと共に民族共同体のアイデンティティを求める動機で生まれたものです。民族言語による文学も同様でしょう。思想も、ドイツ哲学、フランス哲学、イギリス哲学などと国名をつけて呼ばれるときには、ナショナルな文化です。
 

 ナショナルな文化の後退を惜しむ人たちがいますが、しかし他方ではナショナルな文化からの精神的な解放を喜ぶ人たちもいます。異文化理解の意義として、自己文化をより知ることになる、ということがあげられることがありますが、しかし、自国文化から解放されるということもあるのではないでしょうか。

 外国で生活すると、外国かぶれになるか、日本回帰するか、どちらかになりがちであるとすると、それはナショナリズム、ナショナルな文化の拘束がきついことの裏返しではないでしょうか。グローバリズムは、このような文化的な拘束から我々を解放してくれるのではないでしょうか。それは外国かぶれになることとは別のことです。
 

 

 というわけで、ナショナリズムとグローバリズムの関係を考えてみたいとおもいます。