二種類の「返答」

森の中は落ち着きます。人類のふるさと?

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑤「それは言葉では表現できない花です」
と応えることが、問いの返答になっているのかいないのか、これが問題でした。

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑥「その問いに言葉では答えられません」
と答えるとすると、これは明らかに通常の意味の返答ではありません。しかも、この返答は一見矛盾しているようにみえます。なぜなら、この返答は言葉による返答だからです。この矛盾を解消するために詳しく言い換えると⑥は次ぎのようになるでしょう。
   ⑦「通常の意味での返答ならば、その問いに言葉で返答することはできません」
という意味なのです。この発言⑦そのものが返答になっているのですが、この⑦は、<通常の意味でなく特殊な意味での返答>であると理解すれば、矛盾は解消します。

もし、⑤と⑥が同じ意味であるとすると、⑤は「それはどんな花ですか」という問いへの返答ではないことになります。しかし、この場合は、⑤は⑦と同じ意味であり、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。
もし、⑤が「それはどんな花ですか」という問いへの返答であるとすれば、「言葉では表現できない花」は、その花についての言葉による表現であることになり、<言葉>を対象言語とメタ言語に区別しなければ矛盾するということになります。

ところで、次ぎのケースでは、対象言語とメタ言語の区別が不可能でした。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この④が矛盾しないためには、これを次ぎの返答と同じ意味であると理解する必要があります。
   ⑧「このときの白樺湖の美しさについては、言葉では答えられません」
そして、この⑧が矛盾しないためには、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。

さて、これで本当に矛盾はなくなったのでしょうか。同様の仕方で、形而上学的実在論の主張も、矛盾を回避できるのでしょうか。

東アジア共同体と日米同盟

「東アジア共同体」構想に対して、USA高官が反対していると言うニュースがYahooにありました。
今後数十年は、日本の外交は、この二つをどう調和させるかという問題にとりくむことになりそうです。この外交課題は、日本に限らず、韓国、台湾、フィリピンでも同様の問題になるはずです。

中国の経済発展が続いて、1,2年のうちに日本を抜き、2,30年後にアメリカを抜くとすれば、経済的には「東アジア共同体」が生まれてくるでしょう。これは、日本の経済を考えるときに必要になってくる選択肢です。そのときの危惧は、中国の政治体制が民主的ではないということです。現在の共産主義体制のままの中国とともに共同体を形成することは、東アジアの民主化にとって、好ましいことではないと思います。アジアの民主化、中国の民主化のためには、日米同盟を含めて、東アジアの国のアメリカとの同盟関係が重要になってくるとおもわれます。経済発展を取るか、社会の民主化をとるか、ととわれれば、私は民主化をとります。

人々の権利を守ることは、人々の利益をまもることより重要です。中国が緩やかに民主化することを願います。

対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避

Passau, die schoenste Stadt, die ich bisher besucht habe.
パッサウ、私が行ったことのある最も美しい町でした。

①「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」

この文が矛盾しているとすれば、それはどのような矛盾でしょうか。
②「このときの白樺湖は、英語では言えない美しさでした」
これは矛盾していません。なぜなら、「英語」は日本語ですが、英語は日本語ではないからです。
つまり、この文章は英語という対象言語に言及しているメタ言語としての日本語で書かれているのです。冒頭の文も、これと同様の仕方で対象言語とメタ言語の区別を導入すると矛盾は生じません。
つまり、次のようになります。
③「このときの白樺湖は、言葉1では言えない美しさでした」
この文が言葉2というメタ言語で書かれていると考えると、「言葉1」は言葉2の表現ですが、言葉1は言葉2ではありません。したがって、②と同様に③には矛盾はありません。
①が矛盾しているとすると、それは①の文の言葉と、①の中に登場する「言葉」が指示する言葉が同一の言葉であるときです。

繰り返しになりますが、もし我々が対象言語とメタ言語区別をしないのならば、①は矛盾します。
したがって、次ぎの文は、矛盾します。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この文では「どんな言葉」の中に、④の文で使用されている言葉も含まれるから、対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避が不可能になります。

しかし、おそらく別の反論があるでしょう。
それは<「言葉では言えない美しさ」というのは、美しさについての言葉による説明ではない>という反論です。
たとえば、「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」というのは、返答になっていないのではないでしょうか。もし「言葉では表現できない花」が、花についての言葉による表現であるなら、⑤は返答になっているはずです。逆にもし⑤が返答になっていないとすると、「言葉では表現できない花」は、花についての言葉による表現ではないことになります。そうすると、⑤は矛盾していないことになります。同様に①も矛盾していないことになります。

「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」と応えることが、
問いの返答になっているのかいないのか、これが問題です。

言葉では言えない美しさ

今年の夏は忙しくて美しい写真がないので、昨年の9月の白樺湖です。

さてこの写真がどれだけ美しいかわかりませんが、このときの白樺湖は、とにかく静かで
言葉ではいえない美しさでした。

さて「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」というのは、日本語の文章です。
この文章を文字通りに理解しようとすると、なんだか少し変な気がします。なぜなら、この文章は、つぎのような文章とは、大きく異なっているからです。
「このときの白樺湖は、写真では表わせない美しさでした」
この文章にはおかしいところはありません。なぜなら、「写真では表せない美しさ」というのは言葉であって、写真ではないからです。
それに対して「言葉では言えない美しさ」というのは、言葉です。
もしこれが 「このときの白樺湖は、私の英語力では表現できない写しさでした」というのならば、問題ありません。「私の英語力では表現できない美しさ」という表現は日本語だからです。
もしこれが"beauty which is not able to be expressed in English"ならば、変です。
どうように、もしこれが「このときの白樺湖は、私の日本語力では表現できない写しさでした」
と言うのならば変です。なぜなら「私の日本語力では表現できない写しさ」というのは、話者の日本語力による表現だからです。
もしこれが「このときの白樺湖は、あなたの日本語力では表現できない美しさでした」というのならば、この表現自体に矛盾はありません。
(しかし、この場合でも、相手の日本語力で、この文章を理解できたとしたら、そして表現できない文は理解できない文でもある、と言えるとしたら、そこには矛盾が生まれるように思います。)

ところで「言葉では言えない美しさ」という表現は、どのような意味で矛盾しているのでしょうか。
まず、これを確認しましょう。

ご無沙汰してしまいました

すっかりご無沙汰してしまいました。
前回の発言は、4月27日でしたので、4ヶ月余りのご無沙汰です。
授業の準備とか、学会発表とか、学内の雑用とか、忙しかったことと、
「一つの脳に一つの心?」という書庫を立ち上げたものの、それを展開することができなかったこと
などもあって、ついついご無沙汰してしまいました。

ぼちぼち再開します。
ところで、民主党が政権をとりました。
オバマがアメリカ大統領になったことは、世界史的な出来事だとおもいますが、
民主党政権の誕生は、日本の政治にとって大変大きな意味を持つことになるだろう思います。
まずは、民主党の主張のとおり、官僚政治を打破して、政治家主導の政治にしてほしいと思います。
そうでなければ、何のための選挙なのかわかりません。
今後しばらくは、マスコミは、
自民党からの政権移譲が適切に行われるかどうか、
民主党が官僚政治を打破できるかどうか、
という二点に絞って、現状を報道してほしいものです。
日本は、経済では、もはや世界もアジアもリードできませんが、
日本は、民主主義では、アジアをリードできる可能性が見えてきたとおもいます。
民主的な政治、民主的な社会の実現は、日本にとって、アジアに貢献できる目標になるのではないでしょうか。

話は、ずいぶん飛びますが、民主党政権にまず取り締まってほしいのは、サービス残業です。
サービス残業がなくなるだけでも、日本はずいぶん住みやすい社会になるだろうと思います。
しかも、それは当たり前の労働者の権利です。