46 「何をしようか」 (20220926)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」という問いは、二つの意味で理解できます。一つは、前回触れたように、「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解することです(これを問うことは、意識や問答の発生についてのボトムアップのアプローチになります)。前回触れなかったもう一つの理解は、「人はなぜ問うのか」という問いを、問うという行為の理由を問う問いとして理解することです。この問いの理由を問うことは、その問いと答えからなる問答をおこなう理由を問うことでもあります。

 さて、理論的問いについても実践的問いについても、この二つの理解が可能ですが、ここでは、実践的問いを最初の意識であると仮定して、その問いの理由を問いたいと思います。進化史上の最初の意識が、行為の意識だとすると、その行為の意識は、(それを言語化すると)、「何をしようか」や「pしようか」という問いとそれに対する答えとして生じるでしょう(ただし最初の意識は、非言語的な探索発見であるかもしれません)。

ところで、進化史上は、認識が発生したのは、行為のためであったといえでしょうが、その反面、行動は、外界の刺激・感覚・知覚なしには不可能です。意識的な行為が問答によって成立するとき、この問答は認識なしには不可能です。「何をしようか」という問いは、これを詳しくいえば、「私は今から何をしようか」という問いになるでしょう。この問いには「私」と「今から」が潜在的に含まれています。これらが省略されるのは、これを問うときの関心(疑問文の焦点)が行為の内容に向かっているからです。この問いないし探索には、「私」や「今から」の潜在的な意識ないし理解を伴っています。この「私」は認識主体ではなく行為主体です。行為主体としての「私」は身体を持つものです。。私の身体の意識、姿勢の意識、行為能力の意識(右を向いたり左を向いたりできる。腕を動かせる。立てる。歩ける、などの意識)が「私」の意識の中身になるでしょう。

これは、「何をしようか」という問いの前提であり、この前提を受け入れ、それにコミットすることで、問うことが可能になります。これらの前提をただ受け入れているだけならば、これらは与えられている客観的なものにすぎません。しかし、これらにコミットすることによって、これらは客観的に与えられるものから、問うこと(主体)を構成するものに変化します。

問うことが、あることを、問いの一部(問いの前提)にするのです。問いの前提は、問うことによって問いの前提として成立します。例えば、「pしようか」と問うことによって、「pすることもpしないこともできること」が問いの前提となり、問いを構成するものの一部となる。

(日常的な例でいえば次のようなことです。ある会社に就職して、その会社の業務をこなし、業務のための問答を行うとき、会社(に関する多くの命題)は、その問いの前提となっています。それらは、会社員として問うことを構成するもの(の一部)となっています。私がここで考えたいことは、最初の問いが発生する場面ですが、しかしそれは上記のような日常的な問いの発生の場面でも、同じようなことが起こっているだろうと推測します。)

上記の考察は、意識哲学的な内省による考察になってしまっています。言語や問答の分析によって、これについて、もう少し明晰な分析をしたいと考えています。

45 ボトムアップのアプローチとトップダウンのアプローチ (20220921)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「人はなぜ問うのか」に答えるのが、このカテゴリーの課題ですが、この問いは、二つの意味で理解できます。

一つは「なぜ」の問いを、原因を問うこととして理解し、「人が問う原因は何か」という問い

として理解することです。この問いは、問うことが何らかの原因を持つことを前提しています。その原因が自然的なものであれば、それは人が問うことの自然主義的な説明になります。これまで試みてきたのは、このようなボトムアップのアプローチでした。(このカテゴリーのここまでの議論については、このカテゴリーの説明文に書き込みました。なお、ボトムアップのアプローチとしては、カール・フリストンの「大統一理論」と「能動的推論」を検討したいと思うのですが、それについてはカテゴリー「問答推論主義へ」で問答推論の観点から考察する予定です。)

ここからしばらく、トップダウンのアプローチを試みたいと思います。ただし「トップダウンのアプローチ」がどのようなものになるのかは、私にはまだよくわかっていません。それも含めて、しばらく試行錯誤が続くとおもいます。

今仮に、<問うことは、自然的条件を必要条件として持つが、それだけでは問うことの成立には不十分である>と仮定してみましょう。この場合には、何かが加わって、問うことが成立したとしても、その何かは自然的条件ではないので、問うことは自然的原因なく生じることになります。

ところで、今まで意識の発生を考えるときに、このカテゴリーでもカテゴリー「問答の観点からの認識」でも、意識的な認識の発生を念頭に考えてきました。しかし、進化史上は、認識の発生はおそらく行為のためであったでしょうし、意識の始まりも行為のためであっただろうと思われます。したがって、意識的な行為の発生が、意識的な認識の発生に先行するだろうと思われます。

そこで次回から、意識的な行為の発生、つまり意識的な意図の発生について、どのような説明が可能であるかを考えてみたいと思います。

51 3つの問題の同型性  (20220913)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンは、これらの3つの問題(デイヴィドソンは、記憶についても同様の問題を述べていますが、これは知覚の問題と同型なので、ここでは知覚と記憶を一つ問題と考えます)を説明した後に次のよう言います。

知覚と行為と推論についてのこれらの問題の同型性が明確になるように、表現しなおしたいとおもいます。デイヴィドソンは、これら3つの各々について、それぞれ2つの問題を指摘していました。最初の問題は次のような問題です。

・事実が知覚の原因となって、知覚が生じていること(原因と結果の関係)

・意図が行為の原因(理由)となって、行為が行われていること(理由と行為の関係)

・推論規則が原因(根拠)となって、他の前提から結論が導出されていること(根拠と結論の関係)

そして、これらの問題が解決されてもまだ不十分であり、次の問題が解決されなければならないといわれます。

・事実が知覚の原因となっているだけでなく、それが知覚の十分な条件になっていること

・意図が行為の原因(理由)となっているだけでなく、それが行為の十分な条件になっていること

・推論規則が推論の原因(根拠)となっているだけでなく、それが推論の十分条件になっていること

私は、これらの最初の問題を次のような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「なぜ、その知覚が生じるのか」「なぜなら、あの事実が原因となってその知覚が生じるから。

「なぜ、その行為を行うのか」「なぜなら、あの意図が理由となって、その行為を行うから」

「なぜ、その主張を行うのか」「なぜなら、あの推論規則が根拠となって、その結論を主張するから。」

次に第二の問題をつぎのような問答関係に注目することで解決しようとしました。

「あの事実は、その知覚が生じるための十分な原因になっていますか?」

「あの意図は、その行為が生じるための、十分な理由になっていますか?」

「あの推論規則は、その結論が生じるための十分な根拠になっていますか?」

このとき、原因や理由や根拠が十分なものであるための条件を一般的な仕方で明示することはできないと、デイヴィドソンはいいます。私もその通りだと思います。しかし、時々の文脈の中では、私たちは、何が十分であるかについての暗黙的な想定をしていると思います。

このブログでの45回からこの回(51回)まで、知覚と行為と推論を正当化する難しさについてのドナルド・デイヴィドソンによる指摘を検討し、問答関係に注目することによってその困難を克服することを提案してきました。

ちなみに、これらの問題の根っこについて、デイヴィドソンは次のように説明しています。

「これらの難問はすべて、思考の因果関係に関わっている。行為の原因としての思考に、知覚の結果としての思考に、そして、他の思考の原因としての思考に関わっている。それらの関係があまりにも多くの難問をはらむという事実は、因果の概念と思考の概念との間に何らかの種類の不和があることを示唆している。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、465)

私の理解は、これとは少し異なります。この分析は、知覚と行為の説明についてはあてはまります。なぜなら、知覚と行為の説明では、心的要素と物的要素の間の因果関係が関わるからです。しかし、推論の説明の困難は、前提と結論の関係の説明の困難であって、これには因果関係は関係しません。

たしかに、因果の概念と思考の概念との間には不和があるとおもいますが、それについては、別の機会に考えたいと思います。

50 規約主義の問題に答える  (20220907)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

まず、前回述べた第一の問題の解決について、補足しておきます。

前回は、第一の問題「われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである」を、<前提がその結論を導くことを可能にしているのは、問答関係である>と考えて、第一の問題への解決と考えました。

しかし、デイヴィドソンが考えていたのは、もっと単純なこと、つまり<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則である>ということを、第一の問題の解決と考えていたのかもしれません。

この二つの解釈を合わせたものとして、第一の問題を理解するときには、<前提を認めることから、結論を認めることを可能にしているのは、推論規則と問答関係である>と答えることで解決できます。

さて、第二の問題は、<推論が推論規則の適用によって可能になるとき、さらにその適用の規則が求められ、その場合、適用の規則の適用の規則の適用の規則の … というように無限に反復してしまい、推論の正当化ができなくなる>という問題です。これは「規約主義のパラドクス」と呼ばれているものです。(これを指摘していたのは、クワインの論文 ’Truth by Convention’ (1936)であり、飯田隆の『言語哲学大全II』にこの論文の紹介があります。)

たとえば、<pとp→rからrを導出する>推論は、∀x∀y((x∧(x→y))→y)という推論規則に基づいていることになります[p、rを命題定項とし、xとyを命題変数とします]。そしてさらに、<<pとp→rと∀x∀y((x∧(x→y))→y)からrを導出する>推論は、

∀s∀t(s∧s→t∧∀x∀y((x∧(x→y))→y))→tという推論規則に基づいています[s, t, x, yは命題変数とします]、というように無限に反復します。

この反復を避けるためには、pとp→rからrを導出するときに、「pとp→rからrが導出できますか」という問いに「はい、rを導出できます」と答える、という問答が行われていると考えることができます。この答えは、次のように正当化できます。もし「いいえ、rを導出できません」と答えるならば、pからrは導出できないということになり、それはp→rという前提を認めること矛盾します。したがって、この矛盾を避けるためには、「はい、rを導出できます」と答えることが必要になります。こうして「はい、rを導出できます」と答えることを正当化できます。規約主義のパラドクスは、推論「p、p→r┣r」を次の問答推論としてとらえ返すことによって、回避できるのではないでしょうか。

  Q「pとp→rからrが導出できますか」、p、p→r┣r

<規約主義のパラドクスを、推論を問答推論としてとらえ返すことによって解決する>ということが、ここでの提案です。

 

デイヴィドソンは、以上の3つの問題(知覚、行為、推論の説明の問題)が同じタイプの属する問題だと考えています。その点を次に確認したいと思います。

49 第三の問題、推論の説明の困難 (20220904)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが指摘したこれまでの二つの問題、知覚の説明の問題と行為の説明の問題は、どちらも心的な要素と物的な要素の両方を含んでいましたが、同じようなタイプの問題であって、この両方を含んでいないものがある、と彼は言います。それが「推論する」ことの説明の問題です。そして、デイヴィドソンは、ここにも二つの問題があると言います。

第一の問題は次です。

「われわれは推論を完全に心的な過程と見なすことができる。…しかしながら、論理的に関係しあう命題が単に心の中に生起したというだけでは、それ自体、推論であるのに十分ではない。、特定の思想に対する熟慮や是認が、他の思想を生み出して(つまり引き起こして)いなければならないのである。だがここでまた繰り返すことになるが、いかなる因果関係も十分ではない。われわれは、単に前提を認めるからというだけで、結論を認めるわけではない。結論を認めるのは、前提がその結論を導くということをも認めるからである。」(柏端達也訳)(原文1993)、デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010、所収、461)

第二の問題は次です。

「ところがそれでもまだ十分でないだろう。というのも、aとbからcが導かれると信じており、かつ、aを信じ、bを信じていることは、われわれが当のそのケースにさらに論理的導出性を結びつけないかぎり、適切な推論を通じて、われわれがcを信じているということを保証するのに十分でないからである。以上はルイス・キャロルの「亀がアキレスに言ったこと」の心理的類比物である。われわれに必要なのは、前提への信念が推論においてどのように結論への信念を引き起こすのかについての、正しい説明である。」(同所)

私が、問答推論主義を主張するときに出発点としているのは、次のことです。<推論において、前提から論理的に導出可能な命題は常に複数あり、それからどれを選択して結論とするかは、前提だけから決定できないと指摘しました。私たちが推論するのは、問いに答えるためであり、その問いの答えとなりうる命題が、結論として選択されるのだと思われます。>この推論の説明によって、上記の第一の問題を解決できていると思います。つまり、<前提だけが結論を導くのではなく、問いと前提が結論を導く>ということがが、デイヴィドソンへの答えになるでしょう。

では、第二の問題については、どう考えたらよいでしょうか。それを次に説明します。

48 <問答としての行為>による<行為の合理性>の説明 (20220902)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

「なぜそうするのか」という問いに対する「なぜなら、…するためです」という答えは、行為の目的(動能的理由)を説明するものです。そして、本人が目的だと思っている理由が本当の理由ではなく、別の理由が行為の本当の理由、つまり行為を引き起こしているものである可能性があります。

以上は、前回引用したデイヴィドソンが言う通りです。そして、この時点では、行為の正当化が正しく行われているかどうかは、本人にも決定できません。

では、このような間違った行為の正当化(説明)をどうしたら排除できるでしょうか。実は、その行為によって目的が実現されるとき、その目的にはさらにより上位の目的を持つはずです。したがって、もし<本人が行為の動能的理由だと思っている目的1と、本当の動能的理由である目的2が異なっており、当の行為によって、どちらも実現されており、どちらの目的が本当の目的であったがわからない>としても、それに続く行為が異なってきます。したがって、それに続く行為を考察すれば、どちらの目的が本当の能動的理由であったかを知ることができるでしょう。

つまり、動能的理由による行為の説明(合理化、正当化)は、その行為に続く諸行為について「なぜそうするのか」と問うことによって、あるいは、そのような問答を反復することによって、解決できると思われます。

しかし、ここで生じていることを、行為の説明(正当化、合理化)の変化として捉えることは、間違いだとは言えないのとしも、不十分です。なぜなら、ここでは行為(の意味)が変化しているからです。

「なぜそうするのか」と問われて「なぜなら、目的1のためです」と答えた時には、その行為は「目的1を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されていたのです。その後「なぜそうしたのか」と問われて「なぜなら、目的2のためであった」と答えた時には、その行為は「目的2を実現するためにどうすればよいのか」という問いと「…すればよい」という答えからなる問答によって構成されているものとして理解されています。つまり、行為(の意味)が変化しているのです。

行為の説明に関するもう一つの問題、つまり認知的理由による行為の説明(合理化、正当化)が逸脱因果の可能性によって不可能になるという問題については、どう考えたらよいでしょうか。

前回述べた二つの例は、行為者の意図から始まる、当初想定していた因果連鎖によって、意図が実現するのではなく、その意図から始まる逸脱因果連鎖によって、意図していたことが偶然に実現する事例です。確かにこのような場合には、当初想定してた認知的理由(ある因果連鎖)はそこでの出来事の正しい説明にはなりません。その出来事を、その人の「行為」とか「行為したこと」と呼ぶこともできないように思われます。その「出来事の説明」は、その人の「行為の説明」にはなりません。「逸脱因果連鎖」の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

前回述べたデイヴィドソンが挙げていた例は、行為者が、逸脱因果連鎖が生じたことに気づいている場合ですが、行為者が逸脱因果連鎖に気づいていない場合もあります。たとえば、AさんがBさんを毒薬Cで殺そうとしたが、実際には毒薬Cだと思っていたものは毒薬Dであり、それによってBさんは死んだとしよう。このような場合にも、逸脱因果連鎖の説明は、「行為の認知的理由」の説明ではなく、「出来事の原因」の説明になっています。

 

以上の説明から言いたいことは、行為の説明の第一の問題、行為の動能的理由の説明の困難は、行為を「その目的を実現するためにどうするのか」と「…しよう」という問答によって構成されたものとしてとらえることによって、解決することです。つまり、行為の本当の目的が隠されていたことがわかるとき、行為の説明が変化するのではなく、行為が変化するということです。

もう一つは、行為の説明の第二の問題、行為の認知的理由の説明の困難については、それを引き起こす逸脱因果連鎖が生じているときには、行為の説明ではなく、出来事の説明が求められる、ということ、つまり、それは、行為の認知的理由の説明の困難ではない、ということです。

以上の議論が、デイヴィドソンが考えていた行為の説明の困難を正しくとらえて、答えているかどうか自信がありません。私は問題を誤解しているかもしれません。次に、三つ目の問題、推論の説明の問題を取り上げたいと思います。