02 価値尺度としての貨幣

 
                               3個の10円玉硬貨と3本の商品(その心は?)
 
02 価値尺度としての貨幣 (20130526)
 
[しなければならないことと考えなければならないことが、色々とあって、ブログのupができず失礼しました。この書庫にようやく戻って来ました。
 この書庫を開いたのは書庫「問答としての社会」の中で、会社を社会の中でどう位置づければ良いのか困ったために、経済について考えたいと思ったからです。私が考えたいのは資本主義経済なので、まずは貨幣について考えたいと思います。貨幣の登場によって、様々な経済活動とその活動体が成立するようになったといえるでしょう。その一つが会社ですが、個人もまた貨幣が生み出した活動体なのではないかと推測します。できれば、これを論証したいです。社会問題や個人的な問題を解決するために構成される活動体は、問題、言い換えるとコンフリクトによって駆動するのですが、そのコンフリクトのあり方が、貨幣というコミュニケーション媒体の登場によってどのように変化したのかを突き止めたいと思います。]
 
果物屋さんの店に、カゴに入れたリンゴが並んでいて、そのカゴに「1個100円」と書いた紙が貼ってあるとしましょう。
 
「一個」はそのカゴの中のリンゴ一個のことでしょう。(私たちは状況からそのように判断します。例えば隣のカゴのリンゴには「1個200円」と書いた紙が貼ってあったりするからです。)もしそのカゴのなかに5個のリンゴがはいているとすると、その中のどれでも「一個100円」なのです。そのカゴの中のリンゴの個体差は無視しされています。
 
「100円」とは、何を指すのでしょうか。私がポケットの中に100円玉を3個持っているとして、私は、そのなかのどの百円玉でも、カゴの中のリンゴ1個と交換できるでしょう。百円玉でなくても、10円玉10個でもよいでしょう。あるは千円札を出して900円のお釣りをもらうこともできるでしょう。100円とは、リンゴ一個の価値の大きさを表現しているのです。
 
この場合には、カゴの中のリンゴの個体差は無視されていますが、世界で一つしか無いものが商品になる場合もあります。ある土地とか、ある絵画とか、ある中古車とか、これらが商品になるときには、それは世界で一つしか無いものです。
 
工場で大量につくられた製品が商品になるようになって、多くの商品は、商品は個体としてのかけがえのなさ(とりあえず個性と呼ぶことにします)を失いました。そして、貨幣もまた、そのような意味で個性のない物として作られたものです。貨幣が善い貨幣として流通するためには、同じように作られていることが必要だからです。あるいは、貨幣はそのような意味で個性のない最初のものであるかもしれません。
 
私たちは貨幣で、リンゴや、自動車や、土地や、観劇や、電車の利用に、多くの財やサービスの購入に使用することができるので、それらの価値の共通の尺度になります。
 
では、貨幣が価値尺度であるというというときの貨幣とは何でしょうか。私のポケットに入っている100円玉でしょうか。すべての日本円の硬貨と紙幣の全体でしょうか。