証明の検討

前回の証明を検討しよう。
証明は、次のように整理できるだろう。

テーゼ「労働力は商品ではない」
証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、したがって、人間の労働力は商品ではない。

仮に1を認めることにしよう。このとき、1と2から、なぜ3が帰結するのだろうか。その説明を書き込めば次のようになる。

証明
1、人間の肉体は商品ではない。
2、肉体と労働力は不可分である。
3、人間の労働力が商品であるならば、人間の肉体も商品である。
4、したがって、人間の労働力は商品ではない。

この推論は、妥当である。1と3からは論理的に4が帰結する。

この証明でなお吟味すべき点があるとすれば、2から3を導出する点である。
我々が労働力を商品として売っているとすると、我々は肉体も商品として売っているのだろうか。
例えば、8時間肉体を売ることはできない。できそうなのは、8時間肉体を貸すことである。
<肉体を貸すことはできるが、肉体を売ることはできない>とすると、肉体と労働力が不可分なのだから、<労働力を貸すことはできるが、労働力を売ることはできない>ということになる。

しかし、DVDを売るのではなくて貸しているレンタルビデオ店にとって、DVDははやり商品なのではないか。肉体や労働力を貸すのだとしても、それらはやはり商品なのではないか。

ここで生じているのは、1に対する疑念である。
「人間の肉体は、商品ではない」は正しいのだろうか?
人間の肉体は、レンタル商品になりえないのか?

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。
違いはなにだろうか?

証明

「労働力は、商品ではない」の証明

牛を購入した者は、牛を使って農作業をするとき、牛の労働力を買ったのではなくて、牛を買ったのであり、賃金を牛には、支払わない。しかし、牛に餌をやり、牛小屋を作り、牛の世話をするだろう。そうしなければ、牛が死んでしまい、農作業に使えなくなるからである。奴隷は、この牛のようなものであるが、しかし賃金労働者は、奴隷とは異なる。

牛を3日借りて牛を使って農作業をするとき、借りたものは、牛の持ち主に、借り賃を支払う。このとき、借りた者は、牛の労働力3日分を購入したと考えることができる。もし牛の持ち主が、毎朝牛を農場まで連れてきて、お昼にはその牛に餌をやり、夕方には牛を家に連れて帰り、牛に餌をやり牛小屋で眠らせ、翌朝にはまた農場まで牛を連れてゆくのだとしよう。このとき、牛の持ち主は、牛の労働力を売っているといえるだろう。労働者が労働力を売ることは、これと同じだろうか。

二つの間には、大きな違いがある。牛の持ち主は、牛の労働力ではなくて、牛そのものを売ることができるし、牛が死んでも牛の持ち主は死なない。しかし、労働者は、彼の労働力ではなくて、彼そのもの(あるいは彼の肉体そのものを)を売ることができない。彼の肉体が死ねば、労働者も死ぬ。
人間の労働力が、牛の労働力のような商品であると言うためには、少なくとも労働者の肉体が商品でなければならない。しかし、労働者の肉体は商品ではない。なぜなら、人間は、その肉体を商品のような仕方で所有しているのではないからである。したがって、人間の労働力は、牛の労働力のような商品ではない。QED.

 これで、証明は完璧でしょうか?

資本主義に内在する不当性

人はパンのみにて生きるにあらず、されどパンなしで生きるにあらず。
アントワープの市場にうっていたパンです。
ネロもこれを食べたのでしょうか?

資本主義社会の経済格差を制限するには、その格差が不当なものであることを示す必要があります。
その論証の仕方には次ぎの二つが考えられます。

パターン1<資本主義経済システム自体は正当であり、その限りでそこから生まれる格差も正当である。しかし、大きな格差は、別の規準からすると不当である。そこで、二つの規範の衝突が生じる。そこでこの衝突をどのように回避するかが問題となる。そして結果として、格差の制限が持ち込まれる。>

パターン2<資本主義経済システム自体が、完全に正当なものではない。これに内在する不当性を取り除くないし補償するないし緩和するために、格差が大きくなりすぎないように経済システムを規制する、あるいは税による所得の再分配をおこなう。>

資本主義は、労働力を商品と見なします。しかし、果たしてそうでしょうか。もしこれが間違いであれば、それは資本主義に内在する不当性の一つです。そこで、この書庫では、「労働力は商品ではない」というテーゼの証明をしたいとおもいます。

土地と労働力が商品になったことで、産業資本主義社会が成立しました。現実には、これらは商品として扱われています。しかし、土地も労働力も、他の商品とは異質です。もちろん、これらにかぎらず、食品も、通常の商品とは異質であり、文化的な価値のある絵画も通常の商品とは異質です。このようなさまざまな異質なものを、商品として一括して扱うことで、資本主義が成立し、それが経済活動の駆動力となってきました。多くの資本主義に対する批判は、このことに対する批判です。資源が商品として乱獲され、非経済財とされてきた環境が汚染されてきました。

「会社は、株主のものである」という考えは、「労働力は商品である」という考えを前提しています。もし労働力は商品ではない、と言えれば、会社は株主のものではない、といえるかもしれません。

さて、「労働力は、商品ではない」をどうやって証明しましょうか?

偽であるのか、無意味であるのか?

  Antwerp駅の天井ドームです。

形而上学的実在論の主張を次のようなものだとしよう。
MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在する」
この発話が自己矛盾していることをこれまでの議論で証明できたとしよう。
つまり、我々は、MRは真でない、といえるだろう。

問1「我々はMRは偽であるというべきなのだろうか。それとも、MRは無意味だと言うべきなのだろうか」

問2「もしMRが偽であるなら、その否定、~MRが真であることになるのだろうか」

  ~MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在することはない」

問3「もしMRが無意味であるなら、どうようにして、~MRも無意味だというべきだろうか?」

問1の答えは、MRは無意味であり、問3の答えは、~MRも無意味だ、ということになりそうだ、
と思うのですが、もうひとつ自信が持てないでいます。
なにか、助言がありましたら、お願いします。