格差の限界について

貧富の格差は、何処まで容認されるのか?
この問いをつぎのように言い換えてみることができるかもしれません。
相続税率、贈与税率、と所得税率の累進性を何処まで上げるべきか?

さて、この書庫で、所得税の累進税率は、どこまで上げるべきか?
を考えようとして、以前には明確な基準を示せませんでした。
その後、アメリカ発の金融危機が起こりました。我々は、最近の歴史で、日本のバブルの崩壊と、アメリカのバブルの崩壊を経験しました。このようなバブルの崩壊は、社会の存続にとっての深刻な問題となります。
したがって、「このようなバブルの崩壊は、避けるべきだ」といえるとしましょう。

次に、このようなバブルの崩壊は、ある程度の富の偏在を前提しているでしょう。その富の偏在は、所得の累進税率を上げることによって、調整できるのだとしましょう。
そのとき、もし経済学者が、どの程度の累進税の場合に、富の偏在が強くなって、彼らの投資がバブルを生み出す、ということを、理論的経験的に主張できるようになったとすると、そのときには、バブルとその崩壊を繰り返さないために、必要な累進税率、というものが計算できることになります。
もし「我々が二度経験したようなバブルの崩壊を避けるべきだ」と言うのならば、そこから一定の累進税率を算定できるはずです。

累進税率、富の偏在、バブルの発生、この間の関係を実証的に論証してくれる経済研究を待ちたいと思います。現在の累進税率は、すでに低すぎるのではないか、というのが、私の素人予想です。
つまり、現在の累進税率は、現在の財政赤字の原因であるだけでなく、バブルの原因であった可能性もあるということです。

ホネット対スローターダイク

ホネットとスローターダイクが
FAZ(Frankfurter Argemeine Zeitung)とZeitで
で論争しているのを、みつけました。
とりあえず、以下をご覧下さい。
http://www.faz.net/s/Rub5C2BFD49230B472BA96E0B2CF9FAB88C/Doc~E8DF1B2E5D29642DEB6C55CFE501EC71D~ATpl~Ecommon~Scontent.html

論争は、現代社会の理解の違いにありますが、とあえずは、累進課税制度にあるようです。

以前の繰り返しですが、先進国は揃って下げてきた、富裕層の所得税率を2,30年前に戻すべきです。

今後の展開が楽しみです。

証明のやり直し

Antwerpの駅構内です

前回の証明には、あいまいなところがあるので、やり直します。
  ①「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところがあるでしょうか? 
一般に「pである」と言えたら「「pである」と我々は言えます」と言えます。それゆえに、①が言えたら、②が言えます。
  ②「「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」と我々は言えます」
②に、おかしいところがあるでしょうか。②に、おかしいところがあるとしても、それは前回書いた説明では、不十分だとおもいます。そこで、やり直しです。

おかしいのは、むしろ①そのものではないでしょうか。
①の中で「その宮殿についての我々の言葉がなくても」と仮定するときに、すでにその宮殿を言葉で指示しています。この仮定は、矛盾しているのではないでしょうか。
これが、矛盾だとすると、次ぎの仮定法の仮定部分も矛盾しています。
  ③「実在についての我々の言葉がなくても、実在は存在します」
③が矛盾しているとすれば、形而上学的実在論は、矛盾しています。

さて、今度は、完璧な証明でしょうか。

形而上学的実在論の批判

10月はじめにベルギーでの学会に参加しました。
会の後で、Antowerpに行きました。私が見た中で一番美しい駅でした。
ひょっとすると、世界でもっとも美しい駅かもしれません。

「その花はどんな花ですか」
と問われて
 「その花は、言葉では言えない美しさでした」
という返答が矛盾しないためには、言葉を対象言語とメタ言語に分けるか、
返答を通常の返答と通常でない返答に分けるか、いずれかをしなければなりませんでした。
 「その花は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
という返答の場合には、返答を通常の返答と通常でない返答に分けるしか、矛盾を回避する方法はありませんでした。
さて形而上学的実在論は、次の問いに対する次の答えである。
  ①「実在は、どんなものですか」
  ②「実在は、我々の表象から独立に存在しています」
この「我々の表象」の中に、言葉が含まれるとすると、ここから次が帰結する。
  ③「実在は、我々の言葉から独立に存在しています」
この③にはおかしいところはないだろうか?

  ④「その宮殿は、その写真から独立に存在しています」
これにはおかしいところはないだろう。これは次の意味である。
  ⑤「その写真があっても、なくても、その宮殿は存在します」
では、つぎはどうだろうか。
  ⑥「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところはないのだろうか?
我々に言葉がなければ、我々は「その宮殿は存在します」とは言えない。したがって、次はおかしい。
  ⑦「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在する、と我々はいえます」
もちろん、⑥と⑦はおなじではない。しかし、⑥がいえたら、⑦もいえるのではないか。
(なぜなら、一般に「pである」と言えたら「pである、と我々はいえます」と言えるように思われるからである。)ところで、⑦はおかしいので言えない、とすると、⑥もいえないことになるだろう。②から③が帰結し、③から次の⑧が帰結するだろう。
  ⑧「我々の言葉あっても、なくても、実在は存在します」
上の⑥が成立しないのならば、⑧も成立しないだろう。したがってまた、②も成立しないだろう。

 さて、形而上学的実在論に対するこの批判は、完璧でしょうか。