自由なき道徳が可能なら自由なき責任が可能でなければならない

「駒の温」の横の川です。温泉帰りにとりました。
 
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 同様に、<「かわいそうだから」とか「残酷だから」という(道徳的な?)理由にしたがって、行為する>ということもありそうです。
 
<おいしそうな肉じゃがを食べようとすること>は、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思われます。それと同じように、<残酷な行為をとめようとすることは>もまた、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思います。
 
しかし<残酷な行為をとめようとした>と考えており、かつ同時に、<それは自由な行為ではなかった>と考えているとき、自分がほめられるべき行為を行ったとは考えられないように思われます。
 
逆に悪い行為をした場合も同様です。
<見栄をはって、うそをついてしまった>としまししょう。そのとき<それは自由な行為ではなかった>と考えているのならば、自分が道徳的に責められてしかたがないとは考えないのではないでしょうか。なぜなら、自由な行為でなかったのなら、私はその行為に責任が取れないからです。
 
行為の「責任」という概念は、自由な行為主体であることを前提しているのではないでしょうか。
 
もし「物理主義の世界」でも法や道徳が可能であるとしたら、そのときには「責任」という概念も有意味であり、それには別の意味が与えられる必要があります。
 
つまり、「自由な行為の結果でないにもかかわらず、ある行為主体にその行為の責任がある」という言い方ができなければなりません。
 
<自由なき道徳>が可能なら、<自由なき責任>が可能でなければなりません(多分)。
 
 
さて、そのような「責任」概念は可能でしょうか。
 
 
 
 
 
 

理由をもつ行為と、物理主義は両立しそうだ

5月の木曾の空です。
 
森田さんのコメントを強引にまとめてみます。
1、自由がないとしても、我々は何か選択せざるを得ないだろう。
2、選択するには、決定のためのガイドが必要であろう。
3、そのガイドは法であろう。
4、「実は」決定されていたとしても).そのときに,抑止効果として刑罰は働くことができるだろう。
5、結論としては,決定論を信じていても,われわれは「じゃあ,その決定された世界がどのような世界なのか」を知るすべがないのですから,結果的に自由意志があると信じている場合と同じように行動するしかないのではないでしょう
 
最終的に私の結論は、森田さんの5と同じになるかもしれません。人間の心や意志に自由があるかどうかは、結局形而上学の問題であり、我々の経験には関わらないのだ、という結論になる可能性があります。しかし、他方で、やはり、自由がないことをみんなが認めている世界で、法や道徳を、現在我々が理解しているような意味(どんな意味?)で、維持することは難しいような気がするのです。
 
 
しばらく検察官との対話を離れて、物理主義の世界で、我々が我々の選択や行為をどのように理解するかを、考えてみることにします。
 
上記の2を考えて見ます。
 
ネコが選択するときに、物理法則や真理法則にしたがっているということはあるでしょう。
物理主義の世界では人間についても、我々は同様に考えます。
さて、我々が選択するとき、ガイド(私が考えているのは選択のための基準や規則や模範です)を必要とするでしょうか。必要とするかもしれません。なぜなら、選択するときには、何らかの理由があるように思われるからです。
 
たとえば、私が肉じゃがにするか、カレーにするかを食堂で選択するとしましょう。
私が、棚に並んで肉じゃがをとろうとしているとします。そのときに「何にするの」と問われたならば、
私は即座に「肉じゃがにします」と答えるでしょう。これはアンスコムのいう実践的知識です。
さて、アンスコムは、このようなときに、「どうしてそうるの」と理由を尋ねられたら、我々は「おいしそうだから」
などと、これまた即座に答えられるといいます。これもまたアンスコムは、実践的知識だといいます。
意図的な行為の場合、「何をしているのか」と「なぜそうするのか」の問に対して、観察によらず即座に答えることができるというのです。アンスコムは、このことを、ある振る舞いが、「意図的な行為」であるかどうかを、「意図」というあいまいな概念の分析によらずに行おうとしているのです。したがって、このような実践的知識があるから、意図があるのだとか、ましてやその意図は自由な意図である、というのではありません。
 
<仮に、自由が無いことを認めるとしても、我々が「何をしているのか」や「なぜそうするのか」の問に即座に答えられることは事実です> (これには矛盾があるかもしれませんが)、とりあえず、これを認めることにしてみます。
 
つまり、行為をするときに、我々は理由をもっていることになります。
その理由は、「この肉じゃがはおいしそうだ」という単称命題(ある一つの対象についての命題)かもしれません。
「この肉じゃがはおいしそうだ」が理由になるには、「おいしそうなものを食べたい」という命題を付け加える必要があるかもしれません。そうすると、これは「私が食べたいと思うすべてのものは、おいしそうなものだ」という全称命題になるかもしれません。基準や規則は全称命題です。
理由の背後には、このようなガイドといえるような全称命題を想定できる、といえそうです。
しかし、そのような全称命題は必ず必要か、といわれると、それを意識していないときが多いのも事実です。
反省してみて、かりにそのような全称命題が見つからないときに、最初の単称命題だけでは理由にならないのか、といえば、そうではないだろうと思います。
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、それ以上余り考えないで、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。そして、これだけのことなら、自由が無いことと両立するでしょう。さらにいうと、理由として、全称命題となるガイドがあってもよいとおもいます(模範の場合には、単称命題になりますが、それは今は考えません)。
理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
それならば、「かわいそうだから」とか「残酷だから」というような道徳的であると思われているような理由にしたがって、行為を決定することもまた、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
さて、このようにして決定された行為の道徳的な責任は、どうなるでしょうか?
 
次回に考えたいとおもいます。