<約束>の前にもう一点

    
                        
 
                                         花を待つ 桜の枝の 頼もしさ
 
 
 <約束>の前にもう一点 (20120227)
 <約束する人格の同一性>を論じる前に、<計画する人格の同一性>についてもう一点検討しておくべきことがあった。
 前回までは、<単に計画する人格の同一性>について説明した。<計画する人格の同一性>を構成しているのは、様々な計画の設定、実行、修正などの調整の<合理性>であり、それは計画の調整のための問答によって保証された。この計画調整のための問答の連鎖が、<計画する人格の同一性>に他ならない。
 以上の説明は、計画と<人格の同一性>の共時的な関係、あるいは構造的な関係である。
 それでは、発生の上で、計画と<人格の同一性>はどのように関係しているのだろうか。(<約束>について考える前に、これを考えておきたい。)
 
 ここでは、計画の設定と実行を分けて考える必要がある。
 計画を実行するためには、実行する期間にわたる人格の同一性が必要である。
 では、単に計画を立てるだけのためなら、実行する期間にわたる人格の同一性は必要ないのだろうか。そうではない。実行する期間にわたる人格の同一性は「計画」そのものの中に組み込まれているはずであるので、計画を立てるときに、すでに実行する期間にわたる人格の同一性が想定されている。そして、計画を立てただけの時点では、計画を実行するための人格の同一性は、未来の事柄である。たとえば「丸太小屋を建てる」という計画を立て時点においては、計画を実行する過程は未来の事柄である。未来にわたる人格の同一性は、現在の私の期待の内容にとどまる。
 計画を立てることは、同時に、実行プロセスにおける人格の同一性を期待ないし想定することでもある。計画を実行することは、その期待した人格の同一性をまさに実現する過程でもある。普通の大人のように、これまでに、計画を立て実行した経験があるならば、その経験によって形成された過去の<人格の持続>を未来に期待して、それを実現することができるだろう。
 では、生まれて初めて計画を立てる場合はどうだろうか。その場合であっても、自覚的に事前に計画したのではないが、結果として振り返ってみれば、時間経過を必要とする仕事を成し遂げた、(たとえば、家から小学校まで歩いて行くというようなこと)という体験がもしあれば、つぎにはそれを事前に意図して、学校に行くこと、あるいは他の場所に行くことを計画することが可能になるだろう。
 計画を立て実行する体験を重ねれば、次第により長期のより困難な計画を立て実行することもできるようになる。こうして私たちは、さまざまなスキルを身に着けるとともに、自分が何者であり、何ができるか、何ができないか、を理解するようになる。
 
 もう一度整理すると、私たちは過去の<人格の持続>の体験をもとに、未来の<人格の持続>を必要とする計画を立てる。そして、それを実行することによって、<人格の持続>を実現する。もちろん、うまくゆかないこともあるし、計画を修正することもあるだろう。しかし、発生の上での、計画と<人格の同一性>の基本的な関係は、このようなものであろう。

 

3.11 空気 同一性

 
 空気読む、春は遠いか まだまだか (へたですみません)
 
3.11 空気 同一性
 
 2011年の3.11のあと、あるパーティの立ち話で、「これからは哲学の時代ですね」と言われた。そのとき、その期待に応えたいとは思ったけれども、かなり難しいことであるとも感じた。そのときには、「心の豊かさ」や「生きる意味」を哲学が語ることが求められているのかと思ったのだが、最近は、哲学に求められていることの中には、社会のあり方、あるいはあるべき姿について、根本的に考え直す、という課題があると考えている。
 今ならそのような哲学に社会の方も耳を傾けてくれるのかもしれないと思う。(これについては、社会問題についての書庫をいずれ立ち上げたい。)
 
 最近3.11に関連して考えることは、3.11によって日本社会が変わった、空気が変わったとしばしば言われることについてである。9.11のときにも、世界が変わったと言われた。その時の私の当初の印象は、「そうかなあ」と言うものだった。しかし、「みんな」が「世界が変わった」と言うものだから、次第に私にも「世界はあまり変わっていない」と考えつづけることが困難になってきた。そのうち私にも9.11前の世界がどんな世界で、どんな気持ちで生きていたのかが、わからなくなってしまった。今回の3.11についても同様だ。「みんな」が「日本社会は変わった」と言うものだから、私も次第に3.11前の日本社会がどんなもので、どんな気持ちで生活していたのかが、わからなくなってしまった。そうなると、3.11は私にとっても、大きな断絶になる。
 
 人格の同一性について、書庫「問答としての人格」で思案中である。そこで確認したことの一つは、<人格の同一性は、他者とのコミュニケーションの中で成立する>ということだ。これと同じことが社会の同一性についても言えるのではないか。社会の同一性にも、客観的な基準があるのではない、日本社会の仕組みのようなものの連続性や同一性を主張しようとしても、それは他者とのコミュニケーションの中で確認される必要がある。その証拠に、戦前に日本社会の本質のように言われた「国体」なるものも、その同一性も、敗戦とともに消えてしまった。
 3.11で日本社会が変わったと「みんな」がいうので、日本社会は変わってしまったのである。「空気」が変わったのだ。
 
「空気」と「世間」
 昔は「世間」と呼んでいたものが、今は「空気」と呼ばれている。「空気」は「世間」と同じく同調圧力をもつが、しかし「世間」が持っていたような規範性をもたない。規範性の有無は、時間的な持続性の有無にかかわっている。「空気」はまさに「その場の」「その時の」ものであるが、「世間」はもう少し持続するものである。「空気」はどんなに変化しても、規範性を持たないので自己矛盾しない。しかし「世間」は変化しないものとして考えられている。両者の間には空間的な広狭の違いもある。「空気」は狭い範囲の人間関係のなかにもあるが、「世間」は公的な一つの社会に存在する。
 廣松渉にならって、「空気」も「世間」も物象化の所産である、といえるだろう。
 
 

合理性と同一性

 
 

 

                寒椿、穏やかな雨に、色を増す
 
 
合理性と同一性
 
 計画したり、計画を変更したりすることが可能なのは、計画が事前意図、行為内意図と変化したり、計画実現のための部分計画を立て、順番に、あるいは、同時に実行したり、必要に応じて計画を変更したりするときに、一つの人格が持続していることを前提する。逆に言うと、非常に複雑に関連している計画の設定、実行、変更において、一つの人格が持続しているといえるのは、計画の設定、実行、変更が、「合理的に」行われているからである。
 「合理的に」というのは、もし「合理的に」行われていなければ、仮に行動するものの身体の持続性があっても、人格の同一性があるとは言えないからである。人格の同一性があるためには、意識内容の単なる連続性だけではおそらく不十分である。意識内容の諸部分が少しずつ連続的に変化していく場合であっても、意識内容全体としては連続的に変化したといえる。しかし、その変化がもし無秩序なものであれば、そこに人格の同一性があるとは言えないだろう。
 その「合理性」は、計画の設定や分割や変更が問答によって行われているということである。それゆえにその変化に理由があり、もしその理由が問われるならば、当の行為者は即座にそれに答えることができる、ということである。
 
 このように考えるとき、<計画する人格の同一性>にとって重要なのは、問答によって構成される「合理性」であって、<計画>はあまり重要ではないと思われるかもしれない。なぜなら、<計画>は問答によって設定される事前意図にすぎず、それをいつでも変更でき、変更しても同一性が損なわれるわけではないのだからである。
 
 すべての事前意図は計画なのだろうか。それとも、計画は単なる事前意図とは異なるのだろうか。
 
 
 
 

計画と問答

宮本武蔵の生家です。昭和17に火災にあって再建されたものです。それ以前には、茅葺だったそうです。
人格の同一性も、家の同一性も、変化を乗り越えて、社会的に構成されます。
 
 
 計画と問答
 
 計画は、問答とどのように関係しているのかを考えよう。
 以前に述べたように、問いは現実認識と意図の矛盾であり、それらの現実認識や意図それ自体も、別の問いの答えとして生じる。計画は、それが最初に設定されるときには、事前意図である。その事前意図は、何らかの問いの答えとして設定されるものである。
 
 では、計画は、どのような問いに対するどのような答えなのだろうか。
 意図は、行為の理由であるが、行為の理由には、大抵より上位の理由(意図y)がある。より上位の意図(y)と現実が矛盾するとき、「yをどのように実現しようか」という問いが生まれ、その答えとして「ある行為xをしよう」という意図が答えとして与えられることになる。これが計画(事前意図)になる。計画である事前意図は、より上位の意図について「それをどのように実現しようか」という問いに対する答えなのである。そのより上位の意図もまた、別の問いへの答えとして得られたものであろう。
 
 ところで、<計画する人格の同一性>において重要なのは、計画の変更である。私たちは、しばしば計画の変更を行う。もし計画の変更が合理的な根拠もなくランダムに生じるのだとすると、そのとき、その人格の連続性を我々は身体にしか見いだせないだろう。計画が変更されたときにも、人格の連続性ないし同一性を確保できるのは、その変更が、より上位の計画に基づいていたり、以前から持っていたその人の欲求や信念に基づいていたりする場合であろう。
 
 では、このような計画の変更は、問答とどのように関係するのだろうか。たとえば、次のように考えて、計画を変更するとしよう。「日曜日に買い物に行こうと計画していたけれども、一週間後の研究発表のことを考えると、そんなことをしている余裕はない。日曜日は、発表の準備を優先した方がよいだろう。」
 この場合に、計画の変更をすることになったのは、次のような理由である。私たちは、たいていは複数の計画を同時にもっている。日曜日に買い物に行くこと、来週の研究発表を行うこと、あと2時間すれば、大学を出て帰宅すること、その途中でコンビニによること、などである。これらの計画は、ある計画とその部分計画という関係の場合もあれば、とりあえず無関係な計画の場合もある。二つの計画の両方を実現することの困難が予測されるとき、「どうしようか」という問いを立て、多くの場合、一方を優先させて、他方の計画を変更する。多くの計画を同時に抱えている以上、しばしば、このような調整のための変更が必要になる。この調整の際には、問答が行われており、計画の変更はそのような問いの答えである。多数の計画の調整統合は問答によって行われており、この問答が人格を構成している。
 
 

<計画する人格>の同一性

 
 
厳寒に ゆっくり動く オブジェかな 
 
 
<計画する人格>の同一性
 
これまでの議論の流れの中で、<人格の長期の同一性>は社会制度に関係するものであり、<人格の中期の同一性>は、<計画する人格の同一性>であるとしたが、前回も触れたように<計画する人格の同一性>の中には社会制度に関係するものもあった。そこで、次のように修正しておきたい。
 
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位分類として次の二つ、
  <社会制度に関わるもの(長期の同一性)>
  <社会制度に関わらないもの(中期の同一性)>
を区別する。
 
ところで、「明日同じ時間同じ場所で会いましょう」という約束をすることは、計画を立てることでもある。そこで、<社会制度に関わらない中期のもの>をさらに次の二つ区別したい。
  <単なる計画によって必要になる人格の同一性>
  <約束によって必要になる人格の同一性>
この二つは異質である。
そこで、もう一度分類を修正しておきたい。
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位区分が
  <単に計画する人格の同一性>
  <約束する人格の同一性>
である。この<約束する人格の同一性>のさらに下位区分が
    <社会制度に関わる同一性(長期の同一性)>
    <社会制度に関わらない同一性>
である。
 
 
まず<約束による計画ではない単に計画する人格の同一性>から考えよう。
 
行為論では、行為内意図(intention in action)と事前意図(prior intention)を分ける。行為内意図とは、「何をしているの?」と問われて、「コーヒーを淹れているんだ」と即座に観察によらずに答えられるのは、「コーヒーを淹れる」という意図をもって私が行為しているからである。このような行為を構成している意図を行為内意図と呼ぶ。それに対して、「お湯が沸いたら、お風呂に入ろう」と意図しているが、まだお湯が沸いていないのでTVを見ながら待っているとき、「お風呂に入ろう」という意図は、「事前意図」である。 
計画は、行為内意図だろうか、事前意図であろうか。普通に考えれば、「今度の日曜日に買い物をしよう」というような計画は、事前意図である。しかし、全ての計画が事前意図であるのではない。上の計画に基づいて、私が今自動車でショッピングセンターに向かっているところだとしよう。私は、すでに計画を実行中である。しかし、まだ買い物は完了していない。この場合には、計画は行為内意図である。
 
今が金曜日で、次のように考えたとしよう。
  ①日曜日に買い物をしよう
これは金曜日と土曜日には、計画であり、かつ事前意図である。
 
さて、日曜日になり、今まさに私は自動車でまさにショッピングセンターに向かっているとしよう。
  ②今日は買い物をしよう
これは、現在進行中の計画である。これは「買い物をする」という行為内意図である。
  ③自動車でショッピングセンターに向かう
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に現在の行為内意図である。
  ④ショッピングセンターについたら4階へ行こう。
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に事前意図である。 
 
整理するとこうなる。ある計画が進行中である時、その計画は行為内意図である。そのとき、その計画のさまざまな部分計画の内のあるものは、行為内意図であり、他のものは、事前意図である。
 
ところで金曜日と土曜日には、①の計画は事前意図である。しかし、事前意図を持つとき、その行為はまだ開始されていないが、私の行為は、計画を立てること(事前意図をもつこと)によって拘束される。つまり①のような計画を立てたならば、(計画を変更する場合を除いて)土曜日に23日の旅行に出発したりしない。つまり、事前意図段階の計画も人の行為を拘束する。その拘束がその間の人格の同一性を必要とするものであり、また人格の同一性を構成するものである。もちろん実行中の計画もまた同様に人格の同一性を要求し、かつ構成する。計画設定から計画完了までの行為の拘束は、このような意味で人格の同一性を構成する。
 
つぎに、このような計画が、問答とどのように関係しているのかを考えよう。