01 貿易と投資の自由化は何故進むのか?

ピークを越えて、夏の空。
 
01 貿易と投資の自由化は何故進むのか?(20130829)
 
現代のグローバル化を駆動している中心は、経済のグローバル化です。そして、経済のグローバル化を引き起こしているのは、「貿易と投資の自由化」だとおもいます。その前は「帝国主義」でした。帝国主義が終わった後、つまり第二次世界大戦後、経済の領域では、常に貿易と投資の自由が進んできました。そしてその流れは、冷戦以後、加速しました。それが現在のグローバル化を生み出しているのです。そして、「貿易と投資の自由化」は、まだまだ途上にあります。(もし帝国主義のように破綻することがなければ)おそらくは、世界全体にわたる「貿易と投資」の完全な自由化が実現するまでこの流れは続くでしょう。
 
では、「なぜ、貿易と投資の自由化は。これまで一貫して推進されてきたのでしょうか?そして、それが今後も進展するように見えるのは何故なのでしょうか?」
 
ある国家が関税をかけたり、投資を制限したりするのは、自国の経済を守るためです。ただし、それは同時に、他国の経済にとっては、マイナスです。つまり貿易や投資の自由化に関しては、それによって得をする国家もあれば、損をする国家もあるはずです。それなのに、なぜこの50年ほど世界の貿易と投資は、絶えず自由化の方向へ進んできたのでしょうか。
 
たとえば、現在日本ではTPP交渉が話題になっています。そこには賛否両論があります。しかし、貿易と投資の自由化は進んでしまうように思えます。何故そうなのでしょうか。日本政府がアメリカの言うがままに動くからでしょうか。しかし、この流れは日本だけのものではありません。この流れは世界的な流れなのです。
 
世界全体は、なぜ貿易と投資の自由化へ向かうのでしょうか。それは資本家がそれを望むからでしょうか。しかし、関税で保護されている産業の資本家もいるのではないでしょうか。
 
国家でみても、資本家で見ても、つねにプラスとマイナスがあるにも関わらず、全体の一般的な傾向として、常に関税の撤廃と投資の自由化に向かうのはなぜでしょうか。思いついたのは、次のような原因です。
 
原因1:関税で守られている業界が、関税を守るためのロビー活動にお金を掛けてもそれによって、利益が増えるわけではない、その活動は投資にはならない。しかし関税廃止で利益が得られる業界が、関税を廃止するために、ロビー活動にお金をかけることは、将来の利益のための投資となる。したがって、後者のロビー活動のほうが常に積極的になる。
 
原因2:関税撤廃と投資の自由化についてある一つのパッケージ化された案があるとしよう。そのパッケージによって利益が上がる業界は、不利益を被る業界よりも、経済力をもつ業界だろう。したがって、その業界のほうが政府を動かすためのより大きな力をもつ。
 
原因3:A国が、B国に対して関税撤廃するとき、それはB国の関連業界にとっては不利益になるが、消費者にとっては利益になる。B国の中には、それに賛成する人がいる。それに対して、B国が、A国に対して、B国への関税撤廃要求をしないように要求しても、それによって、利益を得る人は、A国の中にはいない。その点で、関税を守ろうとするほうが不利である。
 
このような原因が、貿易と投資の自由化の歴史的必然性を構成しているのだろうか?
 
 

27 間話 お盆に考えたこと

                巨大な橋がつなぐ故郷です。
 
27 間話 お盆に考えたこと (20130822)
閑話ではないですよ。間話(intermezzo)です。
 
 久しぶりにこの書庫「問答としての社会」に戻ってきました。
 
 この書庫「問答としての社会」では、 「社会問題」を次のように定義しました。
<一人では解決できない問題があり、それを解決するために複数の人々の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む人々の集団を「社会」と呼ぶ>
 ここでは、家族や部族や国家もまたこのような意味の「社会」の一つだと考えてきました。ここには2つの問題があります。
 
 ①人間は、類人猿の段階から群れで生活していました。従って、個人が登場する前から、人間は集団を作っていたのです。そのことがこの定義には十分反映されていません。もちろん、それは起源についての話なので、それが現在の社会集団を説明するために適切であるとは限りません。そして、起源の説明と、現在の社会の説明の両方を同時に追求することは難しいです。そこで、現代社会の説明を優先しつつ、この定義を改良するという仕方で探究を進めたいと思います。
 
 ②さてこの定義では、家族や部族や会社などの説明ができたとしても、国家の説明はできないということに気づきました。なぜなら、柄谷行人によると、国家は共同体の共同体として誕生したからです。柄谷(あるいはマルクス)のこの指摘は正しいように思われます。このことは、歴史研究によって検証すべき事柄ですが、つぎのように推測して見ることはできます。
 人間は類人猿の段階から集団を形成していたので、国家が出来る前にも集団があった。人間は個人では解決できない問題を集団で解決していました。しかし、既成の集団では解決できない問題が生じてきたために、<既成集団とは別に、あるいは既成集団を解体して>、国家というより大きな集団を作った、と考えることができます。しかし、この後者の可能性は少ないとおもいます。なぜなら、既成集団が解決していた問題があるのですから、その問題解決のために既成集団を残しておくことが合理的だからです(ただし、この選択は新しく登場してきた問題の内容に依存します)。もう一つの可能性は、<既成集団では解決できない問題が生じたために諸集団が集まってより大きな組織を作った>ということです。柄谷(マルクス)はこちらが正しいと考えるのです。もし新しく生じてきた問題が、個人にとっての問題というよりも、共同体の存続に関わる問題であるなら、後者の可能性が高いでしょう。そして、私もまた後者が正しいだろうと推測します。それは新しく生じてきた問題とは、「いかにして他の共同体との戦いを避けて、共同体の存続を確保するか」という問題であっただろうと推測するからです。
 このとき、国家は次のように定義できるでしょう。<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、この問題に取り組む共同体の集団を国家と呼ぶ>
 おそらく、起源の説明としては、共同体の共同体は正しいのです。しかし、近代国家では、この性質が隠されています、あるいは消失したのかもしれません。
 近代の国家契約論は、自然状態にある個人が安全のために契約によって国家を作ると説明します。この定義は、国家が共同体の共同体であることを隠蔽することになりました。近代国家では、国家が主権を持ち、中間共同体が国家に対する自律性を失い、完全に国家の下位集団になり、国家が、共同体の共同体から、諸個人からなる共同体になったのです。
ace=”MS 明朝”> 国家契約論者は、国家の起源は共同体の共同体であるにしても、当時の国家の本質はすでに共同体の共同体ではなく、諸個人からなる共同体にある(あるいは、あるべきだ)と考えたのでしょう。
 これは、時代を先取りしていたとともに、国家の本質を一点において捉え損なったと思われます。まず、これが時代を先取りしていたことを確認しましょう。
 
■個人問題がふえるとき、家族や共同体の問題が減少する。
 ひとが単独で解決できる問題の増加は、個人を作り出します。言い換えると、人が共同体に依存することによって解決した問題が、お金によって一人で解決できる問題になるとき、既成共同体が解決する問題は減少します。米作りのためには、田に水を入れるための共同作業が必要です。しかし、会社に雇用されて、会社で働いてお金を得る場合には、地域共同体との関係は、希薄になります。食事作りや洗濯や風呂を沸かすことが時間のかかる仕事であるなら、家族での分業を必要としますが、機械によって一人で簡単にできるようになると、家族との関係は希薄になります。個人が単独でお金によって解決できる問題が増加すれば、地域共同体や家族の必要性が減少します。貨幣経済によって個人がお金で解決できる問題が増加することによって、「個人」が誕生することによって、中間共同体の弱体化とそれに対応した近代的主権国家の誕生がもたらされたのです。
 中間共同体の弱体化と、近代的主権国家の登場とは、次のように関係しています。土地と労働時間が商品となることによって、封建制は崩壊します(中間共同体は弱体化します)。その代わりに、市場のルールの明確化やそのルールの履行を保証し、貨幣の交換価値を保証する国家権力が必要になります。
 ナショナリズムは、国家内の文化的言語的社会的多様性を無視して、均質的統一性を強調するのですが、国家契約論がすでに、国家内の中間共同体を無視して、均質な統一性を強調する国家論になっています。
 共同体との感情的な結合が、中間共同体の消失とともに失われると、それに変わる同一化の対象が国家に求められるようになり、そこにナショナリズムが生まれてきたと言えるかもしれません。最近の日本で言えば、会社への同一化ができなくなるときに、国家への同一化をもとめ、それが近年のナショナリズムの復活になっているのかもしれません。
 
■次に国家契約論によって隠された点を確認しましょう。
 それは国家の超越性とでも呼ぶべき特徴です。
 もし国家が、諸個人が集まって契約によって作った共同体であるとすると、冒頭に上げた「社会問題」と「社会」の定義が国家にもそのまま当てはまります。しかし、もし国家が共同体の共同体であるとすると、国家の定義は、<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、そのような問題に取り組む諸共同体の集団>となります。この後者の場合には、個人にとっての問題であるが、個人では解決できない問題を解決するために国家を作ったのではなくて、共同体の存続という共同体にとっての問題を解決するために作られたものが国家です。共同体によって個人に関わる問題を解決してきたのですから、共同体の存続問題は、もちろん個人にとっても重大問題です。しかし、それは個人にとっての直接的な問題ではありません。
 個人問題の解決xのために共同体yを作り、共同体yの存続のために国家zを作ったとすると、xという目的の実現手段が、yであり、yの実現手段がzです。個人の生活がyの中にほとんど閉じている時には、zは個人にとっては直接関わることのない遠い存在です。さて、この状態から、貨幣経済によって、個人問題の解決xが(すべてではないにしても、また完全にではないにしても)yに依存しなくても解決できるようになり、yが弱体化し、その代わりにxが直接にzによる働きかけを必要とするように変化したとしましょう。このとき、個人の問題解決のために、国家が必要になっているのです。そして国家は、そのような働きによって個人から正当化されているのです。しかし起源において国家は個人が作ったものではありませんでした。国家は共同体が作ったものであり、個人を超越した存在でした。国家は、個人によって正当化されており、またそのような正当化を必要としているとしても、それ以前の共同体とは異質と言えるほど、個人からは遠いものです。
 
定義を、とりあえず次のように変更したいとおもいます。
<個人あるいは社会組織が単独では解決できない問題があり、それを解決するために複数の個人あるいは社会組織の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む個人ないし社会組織の集団を「社会」と呼ぶ>
 

 

12 貨幣貯蔵と個人

                                   人間もタイルも劣化する暑さかな (ひねりも劣化する還暦かな)
 
12 貨幣貯蔵と個人 (20130813)
 
前の2回で、フランクファートの自由意志の定義をもちいて、お金への欲求と人格論や自由意志論との関係を説明しょうとしました。しかし、次の区別を忘れていたわけではありません。
 
それは、人格や自由意志の成立と、近代的な個人の成立の区別です。前者は、近代以後の人間にかぎらず、人間が言語を話すようになったときに成立していることだろうと思います。しかし、それから近代的な個人が登場するまでには、長い歴史があります。
 
貨幣経済によって、個人によって解決できる問題が増えたことによって、近代的個人が登場したと言うのが、0509で説明してきた仮説でした。個人が解決できる問題が少ないとすると、個人がもつ「欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求も少なかったと予測出来ます。例えば職業選択の自由がないとすると、「ある職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということも無いでしょう。もちろん、親の跡を継いで、ある職業につかなければならないけれども、その職業に付きたくないときに、「其の職業に就きたいという欲求xをもつことを欲する」ということがあるかもしれません。しかし、他の職業を選択する余地がまったくないときに、親の職業に就きたいとか、就きたくないとか考えたりしないのではないでしょうか。二階の欲求は、全く選択の自由のないところには成立しないよう思います。もちろん、近代以前の社会でも、個人には選択の余地はあるでしょう。しかし、それは近代社会においてよりも、狭い範囲にかぎられています。人間は言語を持ってから二階の欲求を持っていたけれども、近代的な個人は、それ以前に比べて非常に多くの二階の欲求をもつようになった、という違いがあるだろうおもいます。
 
 しかしそこにあるのは単に量的な問題だけでしょうか。近代的個人の特徴は、お金でひとが一人で自由に解決できる問題が増えたという事だけでなく、自由そのものを求めるひとが登場したということではないでしょうか。自分の自由そのものを求めるひとの登場が、個人の登場ということではないでしょうか。なぜなら、行動や欲求の自由がなければ、個人というものは成立しないからです。(近代的個人、ないし個人主義を定義する必要がありますね。)これを、この文脈で言い換えると、お金への欲求が自己目的になっている人が登場するということです。
 
貨幣社会では、すべての人はお金への欲求を持っています。なぜなら、お金が無ければ生存できないからです。生存への欲求から「お金への欲求をもつことを欲する」という二階の欲求が発生し、これが実現することによって、お金の欲求をもつことになります。しかし、お金への欲求は単なる生存への欲求や快楽や安全などへの欲求を超えて自己目的化することがあります。それはなぜでしょうか。
 
それは、お金は腐らないので、いくらでも貯めておくことができるからでしょう。貨幣には価値尺度、流通手段、価値貯蔵の3つの機能があると言われています。この最後の価値貯蔵の機能は、お金がいつまでも腐らず錆びずに保存できるということに基づいています。織物やお米とちがって、貨幣は劣化しないので、ほぼ永遠に保存でき、ほぼ無限に貯めることができます。しかし、これはお金への欲求が自己目的化し、無限の欲求となるための、必要条件であっても、十分条件ではないように思います。
 
お金への欲求は、自己目的化したから、無限の欲求になったのでしょうか。それともお金の貯蔵への無限の欲求が可能になったから、自己目的化したのでしょうか。お金への欲求は、なぜ自己目的化したり、無限の欲求になったりしたのでしょうか。これらは、フランクファートのいう二階の欲求とどう関係するのでしょうか。
(お盆の間、田舎で考えてみます。)n>
 
 

 
 
 
 
 
 
 
 

11 二階の欲求による意志の自由の定義

 
 
                 おみやげ京都より来る、また樂しからずや
 
11 二階の欲求による意志の自由の定義 (20130807)
 
前回述べたことを訂正したいと思います。
前回「お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です」と述べましたが、これは、フランクファートが定義する意味での「二階の欲求」ではありませんでした。
 
フランクファートは「二階の欲求」を「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」と定義します。これは、「ある欲求を満たしたいという欲求(ないし欲望)」とは異なります。Aさんが欲求xをもつことを欲するとすれば、Aさんはまだ欲求xを持っていないはずです。しかし、Aさんが例えば欲求x「パンを食べたい」の満足を欲するとすれば、Aさんはすでに欲求xを持っているのです。仮に欲求xを持っていなくても、パンを食べることはできますが、そのときAさんは<欲求xの満足>を得ることはできません。なぜなら、欲求xをそもそも持たないからです。
 
私がつぎのように言うべきでした。
「パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する」ということは、「お金が欲しいという欲求をもちたいと欲する」という二階の欲求が実現することによって成立する事態です。したがって、ここにはもはやこの二階の欲求はありません。
 
以上が訂正です。
 
さて前回の繰り返しになりますが、物への欲求があるなら、それを手に入れるためのお金への欲求は、二階の欲求の実現によって成立します。逆に、もしお金への欲求がすでにあるならば、それを手に入れるための(労働などの)行為への欲求は、二階の欲求の実現によって成立すると言えます。
 
殆どの人は、前者のお金への欲求はすでに持っているので、お金への欲求を持ちたいという欲求は、すでに実現しています。多くの人が、お金に関係して通常持っている二階の欲求は、後者です。ある目的のために、やりたくないことをやらなければならないとき、人は二階の欲求をもつことになります。
 
フランクファートは、行為の自由との類比にもとづいて、意志の自由を定義します。彼によると「行為の自由」とは、「人が欲していることをする自由」である。これと類比的に考えると、「意志の自由」とは、「自分が欲したいと欲していることを欲する自由」であり、「より正確には、彼には自分が意志したいと欲していることを意志する自由があるということ、あるいは、自分の欲する意志をもつ自由があるということ」である。「意志の自由についての問いは、その意志が、彼がもつことを欲している意志であるかどうかに関わる。」(邦訳、116
 
 
フランクファーとの「自由な意志」の定義は、次のように説明できるでしょう。
<「欲求xを持つことを欲する」という二階の欲求があって、それによって(それが原因となって?)欲求xを持つことになったとき、そのような欲求xは、「自由な欲求(意志)」である>
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したがって、お金を稼ぐために、「労働への欲求xをもつことを欲する」という二階の欲求をもつ生真面目な労働者が、実際に労働への欲求xをもつようになったとき、その欲求は自由な欲求(意志)です。
なんだか、悲しい自由です。