クマに罪はあるのか

 
森の中によくある看板です。一句作りたかったけれど、余りに散文的なテーマなので、できませんでした。
 
 
前回の反例3で言及したプラトンの当該箇所を引用します。
少し長いですが、興味深いので引用します。このくらいなら著作権の許容範囲だろうとおもうのですが、もし問題があったらご指摘ください。
 
プラント『法律』第9巻からの引用です。
 
「もし動物が、荷を運ぶ動物でも、その他の動物でも、誰かを殺した場合は、――ただし、公に催される競技において、競技中にそのようなことが起こった場合は別として――、近親者は、その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして近親者から指名された地方保安官が、――誰が指名されても、また何人指名されてもよい――、裁判をおこなって、その動物に罪がある場合は、これを殺して、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。
 また、何か生命をもたない物体が、人間から生命を奪った場合は、――ただし、稲妻とか、天から何かそのような矢が落ちてきて死んだ場合は別として、それ以外のもので、ひとがその上に倒れたために、あるいは、そのものがひとの上に落ちてきたために、その人を殺したというような場合であるが――、そのときには、近親者は、いちばん近い隣人をそのものに対する裁判官にしてこれを裁かせ、このようにして自分自身のためにも親族全体のためにも償いをさせなければならない。そしてその物体に罪があった場合は、動物の場合についての述べられたと同じように、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(プラトン『法律』873E-874A、『プラトン全集13』森進一、池田美恵、加来彰俊訳、岩波書店)
 
さて、このような発想は、一見奇想天外ですが、しかし、よく考えてみれば、身に覚えのある発想です。このような裁判で、「動物に罪がある場合」とは、どのような場合なのでしょうか。人間がその動物を脅かすなどしたために、その動物にかみ殺されたときには、動物に罪はないということでしょうか。人間による山の開発で熊の住む場所がなくなり、熊が人里にやってきて人を殺したとき、熊には罪がないのでしょうか。豊かな自然があるのに、人里にやってきて、人間を襲う熊なら、「罪がある」のでしょうか。なんとなく、そんな風に感じるとすると、我々もプラトンとかわらない、ということでしょうか。
 
家具に「罪がない」とはどういうことでしょうか。地震で家具の下敷きになった時には、家具には「罪がない」けれども、静かな時にいきなり家具が倒れてきて、人が死んだときには、家具に責任があるということでしょうか。しかし、それは家具を作った人に責任があるのではないでしょうか。
 
動物の場合には、ともかく、家具に罪があるというのが、もう一つよくわかりません。家具に欠陥があるのならばわかります。その欠陥の責任が、作った人でなく、家具自身にあるというのがわかりません。この発想が、奴隷制とどこかで繋がっているのでしょうか。
 
これらのことを考えるのは、この書庫のテーマではありませんが、興味深い発想です。
 
今回は、余談でした。
 
 

机に腹を立てる

 
野分けすぎ、鈴虫も待つ、名月かな
(季語ばかりになってしまいました)
 
 
前回の(a)(b)(c)を考えてみます。
 
まず(a)「この前提の上で、(3)が成立するのかどうか」を考えましょう。
 
くどいですが「この前提」とは、(1)「物理的現象であること」を認め、かつ(5)「人間が自由であること」を認めないということでした。(3)は「他者の振る舞いに怒りを感じること」でした。
 
まず、(1)と(3)の関係を考えましょう。
 
<(1)と(3)は(心理的に?、主観的に?)両立不可能であり、しかも(3)は我々が体験している事実である。> ゆえに、(1)を想像することはできない、とストローソンは主張します。(1)と(3)は、我々にとって本当に両立しないのでしょうか。
 
反例になるかもしれない事実を考えてみましょう。
 
反例1:二匹の犬が喧嘩しているとき、犬は互いに怒っているように見えます。物理現象である犬は、別の物理現象である別の犬に対して怒っています。したがって、(1)と(3)は両立するのです。
 
予想される批判1:犬は怒っているように見えるだけであって、怒ってはいない。それは人間が犬に感情を投影しているのだ。
 
予想される批判2:犬は怒っているかもしれないが、その怒りは、人間の怒りとは異なる。人間は、自然現象である犬に対しては怒らない。もちろん、人間が犬にかまれたら犬に対して怒りを覚えるだろうが、そのときには犬を擬人化しているのである。
 
反例2:我々は、犬にかまれて犬に怒るだけでなく、机の脚に足の小指を思いっきりぶつけてしまった時に、思わず怒りおぼえて、机の脚を蹴りたいと思うけれども、余計ひどいことになるので思いとどまる、というようなことがあるのではないでしょうか。我々は明らかに人ではない机に対しても怒ることがあり、その時には、擬人化していないように感じられるのです、それはいわば生理的な反応のようなものです。
 
予想される批判3:そのような生理的な反応としての怒りがあることがみてもてよいが、それはストローソンが問題にしている怒りではない。それは別種の怒りであり、反例にならない。
 
反例3:手元にテキストがないので、記憶で言うのですが、プラトンは、古代の刑罰では、倒れたために人間を殺すことになってしまった家具などを、国外追放などにして罰するという記述があったようにおもいます。(そのような心性は、古代ギリシアにかぎらず、他の社会にもありうることです。)つまり、怒りの対象や刑罰の対象を、理性的で自由な人間に限ることは、近代的な刑罰観なのであり、理性的で自由な人間を前提しない刑罰観もありうるし、歴史的にはあったと思われるのです。それゆえに、(3)は(1)や(4)と両立するし、(3)は(5)の否定とも両立するのです。
 
この反例3、に対してストローソンならば、何と答えるでしょうか。
次回に考えてみたいと思います。