対決

     対決のためのテーブル? 和解のためのテーブル?

トマセロのシミュレーション説は、次の四段階に整理出来る。
1:自分と他者は似ている。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意

これに対する批判は、次のようなものである。
批判:トマセロのシミュレーション説に従うならば、「子供は自分自身の意図の状態を利用して他者の視点をシミュレーションできるようになるのに先立って、まず自分自身の意図の状態を概念化する能力をもたなければない」ということになる。しかし、これは正しくない。
ゴプニクは「子供は他者の心的な状態を概念化するのに先立って自分自身の心的状態を概念化するというわけではない」(p.101)と言う。Gopnik, A. 1993, How we know our minds: The illusion first-person knowledge about intentionality. Behavioral and Brain Science 16, 1-14.
またバルチュとウェルマンは、「他者の心的な状態よりも先に自分自身の心的な状態のことを言葉で語るというわけでもない。」(p. 101.)と言う。Bartsch, K., and Wellmann, H. 1995, Children talk about the mind. New York: Oxford UP.

上の段階でいえばその中の3-1が3-2に先行しなければらならないが、現実にはそのようなことはない。
というのがここでの批判である。

これに対して、トマセロは次のように反論する。
反論:「シミュレーションというものを、子供が心的な内容を概念化し、その心的内容が自分自身のものであると意識し続け、そしてそれを特定の状況で他者に帰属するという明示的な過程であると考えなければよいのである。」「私の仮説は単に、子供は他者が「自分に似ている」ので自分と似た形で活動するはずだと言うカテゴリー的な判断をするのだと言うことにすぎない。」(p. 101)「単に、他者の大まかな機能の仕方を自分自身とのアナロジーを通して知覚するということだけのことである。」(p. 101)

この反論は、次のようなことであろうか。
<子供が大人がボールをとろうとしていることを理解する>のは、
<自分がそのボールをとろうとする意図をもち、それを言葉で理解し、その意図を大人の中に転移して、大人がボールをとろうとしていることを理解する>というのではなくて、
<自分が何かを取ろうと意図することがあるという理解とのアナロジーで、大人が何かを取ろうとしていると理解する>のである。
<自分の特定の意図>を他者の中に転移するのではなくて、<自分のより一般的な意図のタイプ(カテゴリー)>を他者の中に転移する。

この反論が説得力をもつためには、<特定の意図の理解の場合には、自分の意図の理解が、他者の意図の理解に先行することはない>けれども、<より一般的な意図(タイプやカテゴリー)の理解の場合には、自分の意図の理解が、他者の意図の理解に先行する>ということが言えなければならないだろう。
しかし、トマセロは、少なくともそのことをこの本では証明していない。

二段階のシミュレーション?

(シュミレーションではなくて、シミュレーションでした。なぜか昔から間違えます。失礼しました。)

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えているといえるだろう。(トマセロは、4段階とは言っていない。これは私の解釈である。二段階のシミュレーションというのも、私の解釈である。)

第一段階:生まれたときから赤ちゃんは他者を「自分に似ている」と理解している。(この指摘自体は、Meltzoff and Gopnik (1993)The role of imitation in understanading persons and developing a theory of mind (コーエン、フラスバーグ、コーエン編『心の理論』田原俊司監訳、八千代出版、下巻、16章)にある。しかし、トマセロは、心の理論に反対のようである(Cf. p. 94)。この点は、いつか問題にするかもしれない。)
「ヒトの赤ちゃんは、個体発生の非常に早い時期から他の人間と同一化するということ、そしてこれはヒトに固有な生物学的遺伝に基礎がある。」99「それが社会的な環境との長期にわたる相互作用を必要とするかどうかについては分かっていない」99

第二段階:(生後七、八ヶ月)赤ちゃんが自分を出来事を起こすことの出来る存在であると理解する。そして(シミュレーションにより?)他者もまたそのような存在だと理解する。「赤ちゃんが自分自身を、なにやらよくわからないやり方で出来事を起こさせる能力をもった有生の存在としてのみ理解している間、つまり生後七、八か月程度の期間は、他者に対してもそのような理解をしている。」(p. 100)

第三段階:自分を意図をもつ存在だと理解する。そして(シミュレーションにより?)他者もそのような存在だと理解する。「赤ちゃんが自分自身を意図をもつ主体と理解し始めると、すなわち自分が目標を持ち、その目標が手段となる行為とははっきり区別されるということを認識し始めると、つまり生後八~九か月になると、他者に対してもそのような理解の仕方をするようになる。」(p. 100)

この第二段階と第三段階の区別は、重要である。
トマセロは、二種類の他者理解を区別する。「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」と、「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」の区別である。前者が、第二段階の他者理解であり、後者が第三段階の他者理解である。

以上をまとめると、次のようになる。

1:自分と他者は似ている。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意

トマセロは、2-1から2-2への移行と、3-1から3-2への移行が、シミュレーションになると考えている。
(3から4への移行は、シミュレーションでは説明できないはずであり、そこの説明が抜けているのだが、いまはまだそれを問わないことにしよう。)

まず問題にしたいのは、もしこのようなシミュレーションが行われるのだとすると、2-1が2-2に先行し、3-1が3-2に先行するはずである、という点である。。この点に対しては、すでに反論があり、その反論にトマセロが答えているようなので、次にそれを確認しよう。

シュミレーション説

さて、トマセロは、このような共同注意が始まるのは、赤ちゃんが「他者を自分と同じように意図をもつ主体であると理解し始めるときである」(『心とことばの起源を探る』p. 89)という。

トマセロは、大人がある対象に注意を向けているときに、赤ちゃんがそれに気づいて同じ対象を見るのは、大人が自分と同じように意図をもつ存在だと赤ちゃんが理解することによって可能になる、と考える。

このような共同注意の説明は、「自己とのアナロジー」(p. 92)による説明であるといえるだろう。「われわれは、自己とその働きについては、いかなる種類のいかなる外的なものにとっても利用不可能な情報源を持っている」(p. 92)「外的な存在を「自分に似ている」と理解し、従って自分自身の内面の働きと同じような内面の働きがそれにあると考えることが出来れば、その限りにおいて、それがどのように活動するかについての、特別なタイプの新しい知識を得ることができる」(p. 92)

トマセロは、この説明を「シュミレーション説」(p. 99)とも呼んでいる。もう一箇所そのメカニズムを説明している箇所を引用しておきたい。
「赤ちゃんは、自分自身の意図的な動作についての新たな理解に達したときに、「自分に似ている」とみる捉え方を利用して、他者の行動を自分の行動と同じように理解する」(p. 95)

さて、この説明が正しいとすれば、赤ちゃんが自分で意図的な動作をすることが、他者が意図的な行動をすると理解し始めることよりも先であるはずである。

果たしてそういえるだろうか?もしそう言えないとすれば、シュミレーション説を批判することが出来るのではないだろうか。

九ヵ月革命

     
しばらくは、マイケル・トマセロの『心とことばの起源を探る』(大堀壽夫、中沢恒子、西村義樹、本多啓訳、勁草書房)の説明を検討しながら、共同注意について考えたい。というのも、トマセロの見解は、私が共同注意論から引き出したいと考えている見解と食い違っているように思われるからである(本当にそうか、もし食い違うとしたらどちらが正しいのか、それはまだ即断できない。)

トマセロによれば、共同注意行動とよべる一群の行動が9ヶ月から12ヶ月に発現する。これを彼は「九ヵ月革命」とよぶ。

「生後6ヶ月の赤ちゃんは物体をつかんだり操作したりするが、そのかかわり方は二項関係である。また6ヶ月児はターンテイキングの連鎖で他者と情動を表出しあうやりとりをするが、このかかわりあいも二項的である。[・・・]しかし生後九ヶ月から十二か月になると、一群の新行動が創発してくる。[・・・]子供と大人と、そして両者が注意を向ける物体ないし事象とで構成される指示の三角形である。共同注意という用語は通常、このような社会的なスキルと社会的な相互作用が組み合わさって出来た全体を指してもちいらえることが多い。そして典型的には、赤ちゃんはこの時期にはじめて、柔軟かつ確実に、大人の見ているところを見たり(視線追従(gase following))、物体に媒介された大人との相互作用をそれなりに長い間続けたり(協調行動(joint engagement))、大人を社会的な参照点として利用したり(社会的参照(social referencing))するようにあり、また物体に対して大人がしているのと同じような働きかけをしたり(模倣学習(imitative learning))し始める。」(pp.80-81)

彼は、共同注意のスキルを3種類に分ける
1、大人の注意をチェックする(生後9~12ヶ月)
(協調行動、社会的障害物に対する反応、物の提示)
2、注意に追従する(生後11~14ヶ月)
  (視線追従、指差し追従、指令的な指さし、社会的参照)
3、注意を向けさせる(生後13~15ヶ月)
(模倣学習、宣言的な指差し、指示的な言語)

彼の調べたところでは、80%の赤ちゃんがこの順序で4ヶ月の間にこれら全てを修得したそうである。
(それぞれの用語を説明すべきかもしれないが、またおいおい行いたい。解からなければ、ぜひご質問下さい。)

私にとっての問題は、このような共同注意のメカニズムの説明方法にある。

研究の始まりはいつから?

 

大藪秦『共同注意』(川島書店、2003)によれば、「共同注意」の研究は、David&Appell ‘A Study of nursing care and nurse-infant Interaction’ 1961にはじまり、注目されるようになったのは、Scaife & Bruner ‘The capacity for joint attention in the infant’ in Nature, 233, 265-266, 1975からのようである。「共同注意」(joint attention)という言葉を最初に使ったのが、Scaife & Brunerの上記論文であるかどうか、私はまだわからない。

ただし共同注意ではないが、互いに相手を知覚していることに気づいているという「相互覚知」(mutual awareness)については、Bateson, G. & Ruesch, J.”Communication” Norton Company, 1951 ベイトソン&ロイシュ『コミュニケーション』(思索社)に登場する。

大藪氏のこの本によると、ブルーナーがこの論文で研究した「視覚的共同注意」とは、次のようなものである。幼児と50センチ離れて座った実験者が、乳幼児としっかり目を合わせた後で、乳児の左右に1.5メートル離して置かれた目標物(乳児からは見えない)に対しゆっくり視線を向け、7秒注視する。これを左右1回ずつ行い、乳児が一回でも実験者が向いたのと同じ方向を見れば、「視覚的共同注意が成立した」と評価したそうである。2-4ヶ月児10名のうち3名が実験者の視線を追うように頭を回転させた。11月―14ヶ月までには全員(5名)が実験者の視線を正しく応用になることが報告された。

ちなみに、大藪氏によると、Trevarthenが(Trevarthen. C. & Hubley, P. ‘Secondary intersubjectivity: Confidence, confinding and acts of meaning in the first year. In A. Lock (ed.), “Action, gesture and symbol”, London, Academic Press.)、乳児-人間という二項の間で展開される間主観的状況を「第1次間主観性」(primary intersubjectivity)とよび、乳児-物-人間という三項のコミュニケーション構造が成立したとき「第2次間主観性」(secondary intersubjectivity)と名づけて区別したそうである。

ここでいう、「第1次間主観性」は、ベイトソンのいう「相互覚知」と同じものであろうと思われる。「間主観性」という言葉は、この当時流行した現象学における他者論でもちいられた用語である。Trevarthenの研究には、現象学の影響があるのかもしれない。哲学では、ルイスが(David Lewis “Convention” 1969)「共有知」を論じたのが、最も初期のものかもしれない。

(論文のように硬い文章になってしまいましたが、これは私の準備不足のせいです。)

スロースタートします

英字ビスケットのWとMに違いはあるのでしょうか。
答えは食べてしまってお見せできませんので、買ってください。
(適当な写真がないので、こんな写真ですみません。)

共有知の存在証明をするための方法には、いくつかあると思います。(いずれまた、別のやり方を別の所で議論するかもしれません。)この書庫では、発達心理学での話題になる幼児の「共同注意」をまず説明し、それをもとに個人的な注意よりも、共同注意が発達上先行するということ、個人による指示よりも、「共同指示」ともよぶべきものが、発達上先行すること、この二点を何とか、この書庫で証明したいと思います。

まずは、共同注意の説明から始めたいと思いますが、私も勉強しながらなので、ぼちぼち進めることになります。

最終講義を聴く

昨日、仏文学者K教授の最終講義を聴きました。K教授はそこで二つの文学作品の具体的な読解をおこないました。それは説得力のある解釈でしたが、そこには説得力以上のものがありました。その読解は、気づかなかった様々な出来事や語り方の連関を示して、作品の効果を明らかにしてくれるものでした。読解が、作品を構成するということの見本のような読解でした。しかも、その読解が彼独特の語り口と不可分であり、つまり作品の語りと読解者の語りが融合して作品世界を作り上げるというようなものでした。作品から彼の読解を区別するとき、その読解そのものが物語的になります。文学作品の読解は、作品の物語世界を膨らませますが、その読解を作品からあえて分けると、その読解そのものが物語的になるのです。(同じ理由で、歴史研究は歴史的になり、思想研究は思想的になるのかもしれません。)

文学作品は、机の上のコップのように人間の解釈から独立に存在するものではありません。それはすでに解釈されたものです。文学作品の解釈は、解釈の解釈という二重の解釈になります。
では、この二つの解釈は、対象言語とメタ言語のような関係になるのでしょうか。
読解者が作品の中に登場する「銀貨」と「銀時計」の類似関係がもつ力を指摘するとき、その力は、銀時計を目の前にしている少年の心の中ではたらく力になるのです。作品の中には、「類似」という言葉は登場しません。それは、作品の中で語られていない関係です。しかし、作品世界の中に成立している関係です。つまり、作品世界というものがあって、それについて作品が語っており、読解もまたその作品世界について語っているのです。作品と読解は、作品世界に対する別の語り方なのです。しかし、他方で、読解が作品世界でなく、作品の語りについて語ることもあるでしょう。このように作品と解釈の関係は、ある場合には、対象言語とメタ言語の関係にあり、他の場合にはそうではありません。したがって全体としては、対象言語とメタ言語の関係だとはいえません。そこにはもう少し込み入った関係があります。

余滴

■この書庫では、悪の起源ではなく、悪意の起源を考察しようとした。
その理由は、悪の起源を探究するには、悪の定義が問題になるが、それには幾通りも答えがあり、その問題にまきこまれたくなかったこと。次には、悪の起源というものの考察は曖昧になりがちであること。たとえば、悪意がなくても悪はありうる。正義の戦争のときのように。悪意の起源であれば、当人が「悪意」と見なしている意志の起源として理解しておくことができること。それによって、より具体的、より限定的な分析が可能になること。

■悪意の起源の説明方法
社会学が説明するのは、悪意を生じさせる社会的な原因である。
心理学で説明するのは、ある個人の心に中に悪意が生じる原因、ないし理由である。
哲学が説明するのは、彼が悪意を持ち始めるときの思考のプロセスである。そのプロセスには、間違いがあるかもしれない。間違いがあるとすれば、間違いの根拠ないし理由ないし原因があるだろう。それは、また別の間違った判断かもしれない。(私がこころみたのは、この哲学的な説明である。)

■苦しんでいる人がいるのに、それを無視することは、悪である。助けられないのならば、仕方ないかもしれないが、助けられるのに、助けないのは、悪である。もしこのようにいえるのならば、我々のほとんど全ての人は悪人である。なぜなら、世界に飢えで苦しんでいる人がいること、戦争で苦しんでいる人がいること、貧困で苦しんでいる人がいることを、我々は知っているからである。我々は、ひそかに自分が悪人だと思っているのではないか。我々は無視するときの悪意に気づいているのではないか。ただし、自分の悪意をすぐに忘れてしまう。泥棒がいつも自分の悪意を意識しているのではないように。(特異な悪意は、我々の中に偏在するこのような悪意と無関係ではないだろう。)

支配者は、大衆を分割して統治しようとする。支配者は、分割された人々をして、互いの苦しみに対して無関心にさせ、互いに悪意を抱くようにさせる。相互に対する悪意は、支配者に対する敵意を緩和するだろう。さて、現代の支配者が誰かはわからないが、現代世界はまさにそのようになっているのではないだろうか。(たとえば、現在のUSAでは、アフリカンとラティーノが分断され、失業問題など利害が対立しているようだ。たとえば、現在の日本では、正規労働者と非正規労働者は分断され、利害が対立している。)人々は互いに分断され、互いの苦しみに鈍感であり、互いにたいする悪意が満ちている、そういう世界に生きている。

日々の生活に追われて、我々は他人の不幸に鈍感になる。もちろん、他人に対する無関心は、産業資本主義社会が生み出した個人主義が、その裏面として伴っているものである。伝統的共同体の中では、他人に対する配慮が必要である。産業資本主義はそのような共同体を解体し、そのような配慮から個人を自由にした。我々は他人を配慮しなくてよくなった。しかし、他人も私のことを配慮しないから、私には他人を配慮する余裕がなくなった。他人への配慮は、道徳の不完全義務の一つになった。つまり、「あなたに余裕があるなら、そうしなさい」ということだ。そして、個人主義の競争社会の中で、我々にはその余裕がなくなった。

では、どうしたらよいのだろうか。
一言で言うと「個人主義の行き過ぎ」なのかもしれないが、このように語る保守主義者が、外国の困っている人人に無関心であるのはどうしたことか。それは、彼が求める共同体は、封建的な共同体であるということだ。我々はそのような共同体よりは個人主義をよしとして選び取ってきたはずである。

では、どうしたらよいだろうか。
そのためにはおそらく資本主義にかわる経済システムが必要なるだろう。それが解かるまでは、無関心という悪意に満ちた世界の中で、余裕のあるときに他者に配慮しながら生きていくしかない。

結論

       期せずして、結論が出てしまいました。

<Aは求めて得られなかったBの承認を、求めるに値しないもの(「すっぱいブドウ」)と考えるかもしれない。本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていたと考えるかもしれない。そこでAは、「Bにだまされていた、Bは詐欺師である、Bは悪いひとだ、Bは不当に私のプライドを傷つけた」などと考えるようになる。>
では、この「不当性」の判断の間違いは、どこにあるのだろうか。

間違いは、Aが<本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていた>と考えるところにある。
ここには、次の二段階の思考がある。
①Bからの承認は重要で有意義だと考えていたが、実はそうではなかった。
②私のBについての判断が間違っていたのは、Bがだまそうとしていたからであり、Bが悪い。

少なくとも②について、Bは反論するだろう。Bにはそのような意図は全くなかったからだ。Aが②のように考えるとすれば、①での判断間違いの責任を自分にではなくて、Bに負わせるためである。<自分のプライドを守る>ために、責任を他者に転嫁しているのである。つまり、②は間違った判断である。

①の判断についても同様のプロセスが働いている。重要なものを得られないで傷つく<自分のプライドを守る>ために、重要なものではなかったと考えを変えるのである。では、①もまた間違った判断だというべきだろうか。私には、そのようには思えない。
<自分のプライド>のために、Bの承認を求めようとしたが、それができなくなって、<自分のプライド>が傷つく可能性が出てきたので、それを防ぐために、Bの承認は求めるに値しないものだと考えることにした。「Bの承認が大切だ」という判断もプライドのためであり、「Bの承認が無意味だ」という判断もプライドのためである。つまり、もし何らかの関心にもとづく価値判断を認めるのならば、関心にもとづいて、その価値判断を変更することを認めることに問題はないだろう。

ところで、AがプライドのためにBの承認を求めるとはどういうことだろうか。
「プライドのため」と語ってきたのは、他にその理由を語る仕方が見つからなかったからである。「プライドをもつ」とは、自分の存在、価値、意義を認めるといえるだろう。これは自己を承認することである。自己を承認するとき、人は他者に同意を求めるのではないか。これは、他者に私を承認することを求めるということである。

では、人はなぜ自己を承認し、それについて他者の同意をもとめるのか?
こういえないだろうか。自己を承認しないということは、自己の存在、価値、意義などを認めないということである。それは自己否定するということである。そのためには、自殺しなければならない。自殺しないで、自己否定するということは、自己矛盾である。もちろん、「自分に価値や意義がなくても、私は生きていける、私が生きることに価値や意義はない」と考えることはできるかもしれない。しかし、そう考えることは、どこかで自己矛盾していないだろうか。(この自己矛盾について、今ここでうまく指摘することはできない。それは別の書庫で議論することになるだろう。)このように自己を承認しないことが困難であるために、我々はつねに自己を承認する、あるいは承認しようとする。(この段落は、独断的で思弁的すぎるかもしれません。)
こうして、人は自己を承認する。では、なぜ他者の同意を求めるのだろうか。それは我々の知が、本来的には共有知であるからだ、と考える。(これについては別の書庫で考える。)

とりあえずの結論は、以下の通りである。
悪意の起源は<仕返し>にあり、<仕返し>の起源は、次の判断間違いにある。
②「私のBについての判断が間違っていたのは、Bがだまそうとしていたからであり、Bが悪い。」
という判断の間違いである。この判断の間違いは、次の点にあった。

「Aが②のように考えるとすれば、①での判断間違いの責任を自分にではなくて、Bに負わせるためである。<自分のプライドを守る>ために、責任を他者に転嫁しているのである。」
ここでの間違いは「①での判断間違いの責任転嫁」にあるが、もう一つの間違いは、①を判断間違いだと考えた点にある。①における「Bの承認が大切だ」から「Bの承認は意味がない」への変化は、事実の記述の間違いを修正したのではない。関心に基づいて価値判断を変更したのである。このような価値判断には、原理的に「間違い」はありえない。したがって、それを変更することは自由である。この点を誤解したことから、AはBを憎むようになったのである。
 ここでの価値判断についての誤認に、悪意の起源がある。

さて、本当にこれでよいのでしょうか。
こんなことで、イリノイ工科大学での銃殺を説明できるのでしょうか。
特異な悪意に特異な原因があるとすると、上記はそのような特異な原因ではありません。
ご批判をお願いします。

 さて、これでよいでしょうか。ご批判をお願いします。

仕切り直し

         積もった雪をふるい落として、もう一度最初から考え直しましょう。

これまで、以下のようなことを論じた。
・敵意と悪意の区別
・「恩返し」と「仕返し」「恩おくり」と「八つ当たり」、「情けは人のためならず」と「罰当たり」の対称性
・人間関係が希薄で、価値が一元的な社会では、悪意のエスカレーションが起こりやすいこと
・善意と悪意の非対称性
・孤独な社会では、犯罪者が孤独を保ちやすいこと

悪意の起源として、これまでの議論で指摘しできたのは、「仕返し」しようとすることだった。
このメカニズムを分析する必要がある。

とりあえず独断的な断言でしかないのだが、別の書庫で考えた「いきたい」と言う欲望も、この書庫での「悪意」も社会的に構成される。これらが社会的に構成されるためには、「私」や「私の欲望」や「私のお金」などを社会的に指示しなければならない。その社会的な指示ないし公的な指示は、共同指示として共有知論の書庫で考える予定である。

以下では「悪意」ないし「仕返し」をもっと素朴に別の角度から考え直してみたい。それは「承認」という観点である。ここで「承認」というのは、(哲学の用語としては、おそらくフィヒテが最初に使い始めた言葉であり)他者の存在や尊厳や価値などを認めるという意味である。当然のことだが「社会的に構成されること」と「社会的に承認されること」は異なる。例えば、「悪意」は社会的に構成されるが、社会的に承認されない。

ところで、次の指摘はありふれた人間知であろう。
 「承認を求めて得られないときに、それは敵意に変わる。」
 「愛を求めて得られないときに、それは憎しみに変わる。」
では、なぜそうなるのだろうか。(個人的な想像だが、「特異な悪意」の原因として承認願望の挫折があるような気がするので、これを考えてみたい。)

これは次のように考えると「仕返し」の一種として説明できるだろう。
<AがBを愛する。そしてBがAを愛し返すことを求める。しかし、BはAを愛さない。そのとき、恩を仇で返されたとAは考える。そこで、AはBの仇に対して、仇を返す。つまり仕返しだ。>

しかし、この「仕返し」にはどこかに考え間違いがあるのではないだろうか。
AがBを愛して、BがAを愛し返すことをAがBに求めるのだが、BはAを愛さない。このようなとき、AはBに対して怒る。「AはBを承認したのに、BがAに承認を返さないのは失礼だ」とAは考えるのだろう。しかし、Bは、Aのこの怒りを正当なものとは考えないだろう。なぜなら、Aに承認してもらうことをBはAに求めていなかったからだ。確かに、求めていないものを与えられて、その返礼を勝手に求めえられてもそれに応じる義務はないだろう。

承認を求めて得られないというのは、つらいことである。Aのプライドは傷つけられる。そのとき、Aがただ悲しんだり落胆するだけでなく、相手に対して憎しみを持ち始めるとすれは、それは、そのときAが、「不当にプライドを傷つけられた」と考えるからだろう。では、この「不当性」の判断は、どのようにして成立するのだろうか。
それは、たとえば、次のようかもしれない。
<Aは求めて得られなかったBの承認を、求めるに値しないもの(「すっぱいブドウ」)と考えるかもしれない。本当は「すっぱいブドウ」なのに、「甘いブドウ」だとだまされていたと考えるかもしれない。そこでAは、「Bにだまされていた、Bは詐欺師である、Bは悪いひとだ、Bは不当に私のプライドを傷つけた」などと考えるようになる。>

では、この「不当性」の判断の間違いは、どこにあるのだろうか。