哲学の面白さは、追求するものではない?

早速、ある人に批判されました。
「哲学の面白さは、追求するものではない。面白さを追求しても面白くはならず、むしろ難しく苦しくなってしまう。」
と言うのです。確かにそうかもしれません。
とりあえず今年目指したいのは、哲学の面白さ、楽しさをうまく言葉にすることです。もちろん、世の中には、哲学が面白いから、哲学研究しているのではなくて、やらずおれないから哲学研究しているので、面白い、面白くないは、とりあえず関係ないのだ、という人もいるだろう。私も実はそのように思っているところがあるのですが、他方では、哲学研究は面白いとおもっており、その面白さを言葉にしたいと思うのです。

元旦の計

 2007年、明けましておめでとうございます。
 今年は、哲学の楽しさを追求したい。
 哲学とは、通常よりも、より広くより深く考えることである。また、哲学は、経験を超えた問題に答える形而上学である。このような哲学が、重要であることは言うまでもないだろう。しかし、哲学の知としての、様々な知や学問との比較における重要性は、必ずしも、役立つということとは結びつかない。なぜなら、形而上学の問題は、経験によって答えられず、言い換えると、経験に影響を与えないからである。
 しかし今年の課題は、哲学の重要性でも、哲学の有用性でもなく、哲学の楽しさ、面白さである。哲学の楽しさは、通常よりも、より広く深く考えることの楽しさ、ないし、経験を超えた問題を考えることの楽しさである。では、それがなぜ面白いのだろうか。
 我々は、哲学の問いの面白さ、哲学の答えの面白さ、哲学の論証の面白さを区別できる。
 哲学問いは、常識を疑うところに、一つの面白さがある。
 哲学の答えは、折衷的な常識を否定して、極端な主張をすることに面白さがある。
 哲学の論証の面白さは、常識の批判と首尾一貫した主張の論証にある。