18 規則遵守問題、生きがい、承認(the rule-following problems, reason to live, recognition)(20240223)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(ブランダムのA Spirit of Trustの読書会に参加しているのですが、その第8章でブランダムがカントの自律について語っていることが、「生きがい」にも当てはまると思いますので、そのことを説明したいと思います。(以下の話は、これまで論じてきた人の「生存価値」に関わりますが、今回の話を、これまで話と結びつけることは、今後の行う予定です。)

#ブランダムによれば、カント的自律には欠陥がある。

カント的自律は、<自分で立てた法則に従うこと、それを是認すること>です。

  法則を自分で立てること

  法則に従うことを自分に是認すること

これによって、カントは、直接的に権威(尊厳)を構成します。

ブランダムは、自分で立てた法則に従うことができているかどうか、それを是認するときには、自分で立てた法則に従っていると信じているがそれが正しいのかどうかは、ウィトゲンシュタインの規則遵守問題の一種であると考えます。そして、ウィトゲンシュタインの私的言語批判とおなじく、自律もまた私的には不可能であり、他者によって、自分で立てた法則に従っていること、定言命法に従っていること、を承認される必要があると考えます。さもなければ、自律は不可能であり、自律は仮想的であり、現実的ではないと考えます。

(同じように考えるならば、「これは赤い」という認識が他者から承認されるとき、それは初めて客観性を持つ。他者からの承認がないときには、それは「仮想的」であるとブランダムは言うでしょう。)

ブランダムは、カントの「尊厳」についても、同様に考えており、人が尊厳をもつことはその人が、尊厳をもつことを自分に是認するだけでは不十分であり、他者から尊厳を帰属されること、つまり他者に尊敬されることが必要だと言います。「尊厳」の意味は、私的には成立しないからです。

さて、私たちはこの議論を「生きがい」にも当てはめることができます。人の「生きがい」は、さしあたりは、その人が自分で設定できます。「私はこれを生きがいにする」と言えばよいのです。しかしそれだけでは「生きがい」はまだ私的言語(あるいは個人言語)であり仮想的です。それが有意味であるためには、他者からの承認が必要です。他者から承認されて「生きがい」は現実的となります。それゆえに、私たちは、他者の承認を求めます。

 ブランダムは、自己意識は規範的地位であり、規範的地位は社会的地位であるといいます。つまり自己意識は承認関係において成立するであり、個人が持つ性質や機能ではありません。自由も同様であり、自由は相互承認関係において成立するものであり、個人が持つ性質ではありません。

 これ踏まえて言い換えると、自己意識や自由や「生きがい」は、他者との問答において成立するものです。「これはリンゴです」という認識は、「あれはリンゴではない」との対比の中で成立するのだから、「これはリンゴですか」や「どれがリンゴですか」という問いに正しく答える答えられることによって成立します、つまり他者との問答において成立します。これと同じく、「私は自己意識を持つ」「私は自由である」「私はこれを生きがいにする」もまた他者との問答において成立するのです。

17 人の生存は、目的そのものである (20220509)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回の議論は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への直接的な答えには成っていません。)

「全ての人は生きているだけで価値がある」と仮定しましょう。このとき、人の生存は、何かの役に立つがゆえに価値を持つのではなく、それ自体で価値をもつのです。人の生存は、何かの目的のための手段でなく、目的そのものです。

  「人の生存は、目的そのものである」

Xの生存が目的そのものであるならば、Xの生存はより上位の目的を持ちません。そうすると、Xの生存以外のものは、Xの生存のための手段となるのでしょうか。Xの活動と能力は、Xの生存のための手段となりそうです(たとえば、狩りをしたり食べ物を買ったりすることは、生存のためです)。Xの生存以外のものが人でなければ、それらもまたXの生存のための手段となりそうです(たとえば、食べ物は、Xの生存の手段となります)。しかし、Xの生存以外のものが、人であれば、その人の生存もまた目的そのものですから、それはXの生存の手段となることはありません。ただし、X以外の人の活動と能力は、Xの生存の手段となるかもしれません(たとえば、Xがレストランでコックに食事を作ってもらうことは、Xの生存の手段になります)。

 しかし、そのコックさんの生存は、Xの生存の手段にはなりません。では、二人の人間の生存の間には、どのような関係があるのでしょうか。

 XとYの二人がいるとき、Xの生存とYの生存は、一方が他方の手段になるのではなありませんし、互いに無関係でもないでしょう。前者は、今回の話の仮定によります。後者の理由は、Xの活動の目的とYの活動の目的が両立しないとき、例えば、同一の木の実をとって食べようとすること、同一の場所を住処としようとするとき、二人の活動の目的は両立不可能になるということです。他者の活動の目的を妨げることは、場合によっては他者を死に至らしめることがあります、つまり他者の生存を否定することがあります。したがって、XとYの生存は互いに無関係ではありません。 XとYが互いの生存を尊重するためには、双方の活動を制限する必要があります。

(補足:他者の活動の目的を尊重することから、他者の生存を尊重することが帰結するでしょう。なぜなら、これの対偶(他者の生存を尊重しないならば、他者の活動の目的を尊重しない)が、帰結するように見えるからです。

 しかし、他者の生存を尊重することから、他者の活動の目的を尊重することは帰結しないでしょう。なぜなら、これの対偶は成り立たないからです。つまり、他者の活動目的を尊重しないとしても、他者の生存を尊重することはありうるからです。たとえば、パターナリスティックな態度がそれです。子供を教育する場合などです。)

では、Xの生存とYの生存は、どう関係するのでしょうか。Xにとって他者Yの生存もまた価値を持つとすれば、Yもまた目的そのものです。Xの生存もYの生存も、Xにとって目的そのものです。ここで、次の3つが成立しています。

  ①全ての人の生存が、Xにとって目的そのものである

  ②Xの生存は、全ての人にとって目的そのものである。

  ③全ての人は、全ての人にとって目的そのものである。

(②は、前回最後の問い「では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか」への(不十分な)答えになりそうです。)

この後考えるべきことはいくつかあります。

・③は、カントのいう「目的の国」に似ています。「目的の国」の中で目的同士はどう関係するのでしょうか。カントの「目的の国」とヘーゲルの「相互承認」は、正当化の方法が異なるだけであり、最終状態は同じものなのでしょうか。

・前々回説明した「「生存価値」の問答論的論証」は、「全ての人は生きているだけで価値がある」の論証として十分なのでしょうか。

(ここには、まだまだ多くの考えるべき論点がありそうですが、まだ整理できないので、考えが進んだら、また戻ってきます。)

16「価値がある」とはどういうことか (20220507)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(しばらくブログのupがなくて、失礼しました。次に何を論じるか、考えていました。

ところで今日は、哲学者D.ヒュームとC.T.さんの誕生日でした。)

これまで、人生の意味、人生の目的、人生の価値について説明し、これらの区別を明確にしようとしてきました。また、人生の価値については、「能力価値」「メタレベルの能力価値」「生存価値」を区別してきました。ここからもう一度、生存価値、つまり「人は生きているだけで価値がある」という主張の意味と正当化について考えたいと思います。

「価値」は関係概念です。

①「Xは価値がある」とは「Xは、あるものYとの関係において価値をもつ」ということです。たとえば、「ダイヤモンドは価値がある」は、「ダイアやモンドは、他の鉱石や金属よりも硬いので、ダイヤモンドは、価値がある」と説明されます。

「XはYにたいして関係Aを持つ」あるいは「XはYとの関係においてAという性質を持つ」それゆえに、「XはYとの関係において性質Aを持つので、価値を持つ」と考えられます。

では、Xは、Yとの関係において性質Aを持つことによって、なぜ価値を持つのでしょうか。なぜなら、主体Zの目的Bの実現にとって、性質Aが有用だからです。

②「Xは価値がある」とは、「Xは、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということです。「主体Zとって価値を持つ」とは、「主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

③ところで「Xが、主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

「ある木の実が、ある動物にとって価値がある」とは「ある木の実が、ある動物の生存という目的の実現にとって有用である」ということです。しかし、動物についてこのように語ることは、擬人法です。なぜなら、動物は意識して目的を持たないので、動物の行動について目的について語ることは、客観的な事実を語っているのではなく、動物の行動についての人の解釈を語ることだからです。したがって、「Xが主体Zの目的の実現にとって有用である」と語ることができるためには、主体Zが、意識的に目的を持ち、その実現のために意図的に行為することが必要です。

④Xが人の場合には、「ある人は価値がある」とは、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zにとって価値を持つ」ということであり、さらに言えば、「ある人は、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということです。

これは次の二つの場合に分けられます。

・「ある人の存在が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「生存価値」に関わります。

・「ある人の活動と能力が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」。これは、ある人の「能力価値」に関わります。

⑤生存価値について

「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、ある主体Zの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。

ここでXとZが同一人物である場合、「ある人Xの生存が、あるものYとの関係において、その人Xの目的の実現にとって有用である」ということは、どういうことでしょうか。Xが何を目的にするにしても、Xが生存していることは、その目的の実現に有用です。しかし、この場合には、生存そのものに価値があるというよりも、生存がある活動や能力のための手段として、「メタレベルの能力価値」を持つということです。

 では、ある人Xの生存が、その人自身にとって、あるいは他の人にとって、価値があるとはどういうことでしょうか。

15 「生存価値」の問答論的論証 (20220327)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回曖昧でしたが、次の二つは異なります。

①人は生きている限り、何か価値のあることをし始める可能性をもつので、人が生きていることは価値がある。(この場合には、人が生きていることに価値があるのは、その人がすることに価値があるからです。この価値を「メタレベルの能力価値」と呼ぶことができます。)

②人が生きているだけで価値がある。(この場合には、人は、その人がすることに価値がある(何かの役に立つ)のでなくても、生きているだけで価値がある、という意味です。この価値が「生存価値」です。)

この①と②は異なります。人は自由であることによって、「メタレベルの能力価値」を持ちますが、また自由であることによって「生存価値」を持ちます。「自由であること」が「生存価値」であると言いたいのですが、それをどう説明したらよいでしょうか。

この説明のためには、「自由であること」を定義し、「人は自由である」と「自由であることは価値がある」を証明しなければなりません。ここで次のような問答論的な超越論的論証が可能であるかもしれません。

まず、「自由であること=問答ができること」と定義します。

次に、「人は自由である」を次のように証明します。「あなたは自由ですか」という問いに「いいえ自由ではありません」と答えることは、「あなたは問答できますか」と言う問いに「いいえ問答できません」と答えることが問答論的矛盾になるので、「はい私は問答できます」という答えが問答論的に必然的な答えになります。

次に、「自由であることは価値がありますか」という問いに「いいえ自由であることには価値はありません」と答えることは、「問答することに価値がありますか」という問いに「いいえ問答することに価値はありません」と答えることになります。ここで「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」を仮定するならば、「いいえ問答することに価値はありません」は問答論的矛盾になるので、「はい問答することに価値があります」という答えが問答論的に必然的な答えになります。したがって、「自由であることは価値がありますか」という問いには、「はい自由であることには価値があります」と答えることが問答論的に必然的な答えになります。

ここで残る課題は、次の定義と仮定を証明することです。

定義「自由であること=問答ができること」

仮定「人が行為するときには、その行為に価値があると見なしている」

14 「生存価値」と「能力価値」 (20220325)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

「すべての人は生きているだけで価値がある」と主張したいのですが、どうしたらそれを証明できるでしょうか。生きているだけで成立するこの価値を「生存価値」と呼ぶことにします。

 「人生の価値」は、ここにいう「生存価値」以外にもあるだろうと思います。たとえば、サッカー選手の人生は、サッカー少年にとっては価値があるでしょう。容姿端麗の人の人生は、面食いの人には価値があるでしょう。ある小説を書いた人の人生は、その小説に感動した人にとっては価値があるでしょう。これらの価値は、人がある性質を持っていたり、ある行為をしたために持つ価値であり、「生存価値」ではありません。このような価値を「能力価値」と呼びたいと思います。これは何かの目的のための手段としての価値です。したがって、そのような(性質や行為の)能力は、その目的を自分の人生の目的とする人にとって、価値を持つのです。

 前回述べたように、ある人の「人生の価値」は、常に誰かにとっての価値です。したがって、ある人の「生存価値」もまた、常に誰かにとっての「価値」です。しかしそのことは、ある人の「生存価値」が、全ての人にとって「価値」であることと矛盾しません。そして、全ての人が、全ての人にとって、「生存価値」を持つ、と言うこととも矛盾しません。私が主張したいこと「すべての人は生きているだけで価値がある」ということは、「全ての人が全ての人にとって生存価値を持つ」と言うことです。では、それをどう説明したらよいでしょうか。

 生きている人には、常に未来の可能性が開かれています。したがって、どんな人も、たとえ今まで何の能力価値も持たないとしても、つまりいままで価値の或る性質を持たず、価値の或る行為をしたことがなくても、将来そうなる可能性はあります。その意味では、全ての人は、生きている限り、何らかの能力価値をもつ可能性があります。その能力価値がどんなものになるか分からない以上は、全ての人は全ての人にとって価値がある可能性があります。したがって、どんな人も、その人が生きることは、全ての人にとって、価値がある可能性があります。

 この<何らかの能力価値を持つ可能性をもつ>という能力は、特定の内容を持たない抽象的な能力ですが、しかし具体的な能力を持つための不可欠な能力です。それは<自由である>ということではないないでしょうか。

 次に、この意味での<自由である>ということが、全ての人が持つ「生存価値」であるということを説明したいと思います。

13 人生の意味と目的と価値の区別について (20220324)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(今回から数回にわたって、ウクライナの戦争犠牲者のことを思いつつ、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。)

前に(10回)人生の意味と人生の目的を区別して、次のように理解することを提案しました。

「ある人の人生の意味」とは、「その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体」です。

従って、ある人の「人生の意味」について、その人自身が特権的にアクセスできるのではありません。

「ある人の人生の目的」とは、その人が「私は何のために生きるようか」とか「私はなにをしようか」と自問して、それに与える答えです。

従って、ある人の「人生の目的」については、その人自身が特権的にアクセスできます。

ある人の「人生の価値」とは、このような「人生の意味」「人生の目的」とは区別されるものです。あるものの価値とは、常に誰かにとっての価値です。したがって、「ある人の人生の価値」もまた、常に誰かにとっての価値です。例えば、Xさんの人生の価値は、Xさんに自身にとっての価値や、Xさんの子供にとっての価値や、Xさんの友人にとっての価値や、Xさんのライバル会社にとっての価値や、Xさんと無縁のある国Rのある人Pさんにとっての価値であったり、します。

従って、ある人の「人生の価値」は、その人自身が特権的にアクセスできるものではありません。この点で「人生の意味」と似ています。ただし、多くの人が理解するある人の「人生の意味」は多様であっても、それらを含めるしかたで、その人の「人生の意味」が成立するのに対して、ある人の「人生の価値」は、さまざまな人や組織にとって、それぞれ多様であり、しかも、それらの多様な「人生の価値」が合わさって、その人の最終的な「人生の価値」を構成するということもありません。

 「Xさんの人生の価値」は、常に誰かにとってのものであり、その誰かが異なれば、それは異なるものなのです。

 

 次に、このような「人生の価値」の理解から出発して、「人は生きているだけで価値がある」ということを説明したいと思います。

12 人生の意味と人生の目的の区別(2) (20210722)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

(前に(03回)に書いたことですが)若い人は、これからの人生を考えて、それを有意義なものにするために、「人生の意味は何か?」と問います。老人は、これまでの人生を考えて、人生の終わりに向けて、「私の人生はどんな意味があるのか?」と問います。人生真っただ中の現役世代は、多くの場合人生の意味を考える余裕がなく、問うことを忘れてしまいます。

 しかし、人生の意味を考えることは、不要不急の事柄でしょうか。それこそが最もエッセンシャルな仕事ではないのでしょうか?なぜなら、人生の意味を理解することは、人生の目的を設定するために必要なことだからです。老人にとっても、人生の意味を理解することは、残りの人生の目的を設定するために、つまりどのように死に向かうかを決めるために重要です。

 ただし(10回に書いたように)、人生の意味と人生の目的は異なります。多くの人は幸福を求めています。つまり幸福を人生の目的としています。では、幸福に生きることに、どのような意味があるのでしょうか。これは(02回で書いたように)、人生を記述する命題の上流推論と下流推論であると言えるでしょう。「<人生を記述する命題を結論とする上流推論とその命題を前提とする下流推論の全体が、その人生の意味である>。簡単に言ってしまえば、<私の人生の意味は、私が誰からどのような影響を受けて行為したのか、私の行為が、誰にどのような影響を与えたのか>ということに尽きる。」(02回)

 その幸福が他人の不幸の上に成り立っているのならば、その幸福に価値はないでしょう。その幸福が今後他人を不幸にするのであれば、その幸福に価値はないでしょう。将来の世代が快適に生活できるのであれば、多少の不便や苦痛は我慢する価値があるのではないでしょうか。

 「人生の意味」を推論主義で理解するのがよいように思うのですが、その場合「人生の価値」については、どう考えたらよいでしょうか。

11 分人主義と人生の目的 (20210516)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

ある人の人生の目的は、その人の「私は何のために生きるのか」という自問への答えです。この答えが、「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」であったとしましょう。しかし、また他方で、その人は「私は、私の子どもの幸せのために生きる」と答えるとしましょう。そして、仮にこれらの目的の皿により上位の目的を遡ることができるとしても、その2つの系列が交わることがないということがありうるでしょう。このような系列は、2つ以上あるかもしれません。

平野啓一郎の「分人主義」を想定するならば、「私は何のために生きるのか」という問いに対する答えが、複数あることになります。あるグループにおけるその人の最終目的と、別のグループにおけるその人の最終目的は別のものであり、しかもそれらのより上位の目的を遡っていったとしても、それらが一つの目的に収斂することはないということになるでしょう。「私は何のために生きるのか?」という問いを、分人のおのおのが独立してとうことになります。

(「分人主義」については、カテゴリー「戦後日本の自我論」の2~8を御覧ください。)

それで? と問われそうですが、考えたのは今のところここまでです。

10 人生の意味と人生の目的の区別 (20210515)

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

私たちが生きていくとき、他者や自分との絶えず問答をおこなっており、またそれが必要でもあります。他者と問答するためには、自分の行為と発言を記憶し、その整合性をチェックし、必要ならばそれを修正し、必要ならば、その修正を他者に伝えます。場合によっては、変更理由を説明する必要があります。他者との言葉と行為による交流ができている限りにおいて、主体は自分とは何かをおおよそ理解しています。つまり次のような問いを問い、それに答えています。

①「主体(自我、人間)とは何か」

②「自分はどういう人間か」(自分探しの問い)

③「私は、○○のためには、どうすればよいのか?」

この「○○」には、例えば「健康」「長生き」「幸せな生活」「家庭円満」「人に認められること」「お金儲け」「すごい芸術家になること」「会社で出世すること」「会社を大きくすること」などが入ります。「○○」に入るものは、その人の生活の目標です。これらの目標は、より大きな目標のための手段である場合もあります。ところで、人は、何度かこれらの目標を再確認したり、修正したりする必要に出会うでしょう(たいていは、その目標追究に行き詰まったときであり、ときには目標追究があまりにもうまく進んで不安になったときかもしれません)。そのときに、「私は、何のために、○○しようとするのか?」という問いが生じます。この問いを立てる者は、それに答えるために、次の問いを立てるでしょう。

④「私は何のために生きるのか?」

そこで、次のように主体を定義したいと思います(これ以外の主体の定義を排除するものではありません。一般に、一つの定義が可能ならば、大抵は複数の定義が可能です)。

主体の定義:主体とは、「私は何のために生きるのか?」と問うものである。

「私は何のために生きるのか」という問いは、「私の人生の目的はなにか」と言い換えられます。そして、この問いは、「私の人生の意味は何か?」という問いとは異なります。

 「人生の意味」については、問答推論的意味論に基づいて、「ある人の人生の意味は、その人がしてきたことの上流推論と下流推論の総体である」であると考えることを提案しましたが。しかしこれを受け入れても、これだけでは「私は何をなすべきか」や「私は何のためにいきるのか」に答えることはできません。

 「私は何のために生きるのか?」と自問して、答えが見つからない人にとっては、この問いを問うことが人生の目的になるでしょう。つまり、その人は「私は何のために生きるのか?」という問いの答えを見つけるために生きる、と言うことになるでしょう。

 ただし、この問いの答えを見つけている人もたくさんいるとおもいます(中高年になると答えを持っている人が多いだろうと推測します)。

 例えば、私の場合、「私は何のために生きるのか?」に対する答えは、「私は哲学するために生きる」です(「哲学する」とは、「通常より、より深くより広く考えること」です)。このように、この問いに対する答えをすでに持つ者も、この問いを問う必要があります。何故なら、「私は哲学するために生きる」という発話の意味は、「私は何のために生きるのか?」という相関質問を問うことによって明示的になるからです。このような意味で、私たちは、「私は何を求めて生きているのか?」と問う者なのです。

 ところで、ここでさらに「私は何のために、哲学するのか?」と自問するとき、私がそれに答えられないとすると、「私は哲学する」は、それ以上の(自覚された)目的を持たないことになります。もしこれを自分の最上位の目的とすることに、確信がもてないとすると、私は「私は何のために生きるのか?」と自問するでしょう。

 以上の話は「私は、素晴らしい絵を描くために生きる」や「私は子供幸せのために生きる」や「私は人類のために生きる」などの他の答えの場合でも同様です。いずれにせよ、私たちは「私は何のために生きるのか?」と自問するのです。(唐突かもしれませんが、映画、アニメなどを含めた広義の文学作品は、そのことを証示していると思います。)

09 優生思想は、どこで間違えたのか? (20210420) 

[カテゴリー:哲学的人生論(問答推論主義から)]

前回から気になっていた「優生思想」の何処が間違いなのかを考えてみました(もちろん、以下が唯一の批判ではなく、他にも批判の仕方があるだろうと思います。)

とりあえず、「優生思想」を次のように理解します(もし間違っていたら、ご指摘ください。)

<現代の「優生思想」は、ネオダーウィニズムを前提する。ネオダーウィニズムは、人間を含む動物の遺伝的な性質は、突然変異と自然選択によってより生存に有用なものに置き換わっていくと考える。現代の「優生思想」は、この自然選択が、社会の中でうまく働かない場合があると考え、そのよう場合に、自然選択に代わって、社会的な選択をするべきだと考える。つまり、より有用な遺伝的性質をもつ個体の子孫を増やし、有用でない遺伝的性質をもつ個体の子孫を減らすように、社会的な選択をしようとする。>

「優生思想」は、個人ないし人類が生存する意味をどのように考えているのでしょうか。自然界における動物は、生存競争に勝ち、生き残ることを目標にしているかもしれません。人類は、自然界での他の生物との生存競争には既に勝っています。したがって、自然界での生存競争のために、社会的選択を持ち込む必要はありません。

 「優生思想」は、ある特定集団が、人間社会で、他の集団との生存競争に勝ち抜くために、社会的選択を行うことをすすめるのでしょうか。それとも、そのような社会的生存競争によって、人類をより優れたものにすることを目標としているのでしょうか。しかし、どのような遺伝的性質が、社会的生存競争に有利であるかは、どのような社会であるかに依存します。それゆえに、そのような仕方で社会的生存競争を繰り返すことによって、人類がより優れたものになってゆく保証はありません。ジャンケンのように、AはBより有利で、BはCより有利だとしても、AがCより有利だとは限らないからです。

個人や集団の存在意味は何でしょうか。その答えが何であれ、それが個人間や集団間の生存競争に勝つことである、ということにはならないでしょう。なぜならそれは、あまりにも社会の偶然的な状況に依存しすぎる目標だからです。コンテストに優勝したり、起業に成功したりすることは、素晴らしいことですが、しかしそれがその人の生きる意味だということにはならないでしょう。それらは、偶然的なことであり、その人の生きる意味がそのような偶然的な事柄によって決まるとは考えられないからです。