偽であるのか、無意味であるのか?

  Antwerp駅の天井ドームです。

形而上学的実在論の主張を次のようなものだとしよう。
MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在する」
この発話が自己矛盾していることをこれまでの議論で証明できたとしよう。
つまり、我々は、MRは真でない、といえるだろう。

問1「我々はMRは偽であるというべきなのだろうか。それとも、MRは無意味だと言うべきなのだろうか」

問2「もしMRが偽であるなら、その否定、~MRが真であることになるのだろうか」

  ~MR「我々の(言葉を含む)表象から独立に、物が実在することはない」

問3「もしMRが無意味であるなら、どうようにして、~MRも無意味だというべきだろうか?」

問1の答えは、MRは無意味であり、問3の答えは、~MRも無意味だ、ということになりそうだ、
と思うのですが、もうひとつ自信が持てないでいます。
なにか、助言がありましたら、お願いします。

証明のやり直し

Antwerpの駅構内です

前回の証明には、あいまいなところがあるので、やり直します。
  ①「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところがあるでしょうか? 
一般に「pである」と言えたら「「pである」と我々は言えます」と言えます。それゆえに、①が言えたら、②が言えます。
  ②「「その宮殿についての我々の言葉がなくても、その宮殿は存在します」と我々は言えます」
②に、おかしいところがあるでしょうか。②に、おかしいところがあるとしても、それは前回書いた説明では、不十分だとおもいます。そこで、やり直しです。

おかしいのは、むしろ①そのものではないでしょうか。
①の中で「その宮殿についての我々の言葉がなくても」と仮定するときに、すでにその宮殿を言葉で指示しています。この仮定は、矛盾しているのではないでしょうか。
これが、矛盾だとすると、次ぎの仮定法の仮定部分も矛盾しています。
  ③「実在についての我々の言葉がなくても、実在は存在します」
③が矛盾しているとすれば、形而上学的実在論は、矛盾しています。

さて、今度は、完璧な証明でしょうか。

形而上学的実在論の批判

10月はじめにベルギーでの学会に参加しました。
会の後で、Antowerpに行きました。私が見た中で一番美しい駅でした。
ひょっとすると、世界でもっとも美しい駅かもしれません。

「その花はどんな花ですか」
と問われて
 「その花は、言葉では言えない美しさでした」
という返答が矛盾しないためには、言葉を対象言語とメタ言語に分けるか、
返答を通常の返答と通常でない返答に分けるか、いずれかをしなければなりませんでした。
 「その花は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
という返答の場合には、返答を通常の返答と通常でない返答に分けるしか、矛盾を回避する方法はありませんでした。
さて形而上学的実在論は、次の問いに対する次の答えである。
  ①「実在は、どんなものですか」
  ②「実在は、我々の表象から独立に存在しています」
この「我々の表象」の中に、言葉が含まれるとすると、ここから次が帰結する。
  ③「実在は、我々の言葉から独立に存在しています」
この③にはおかしいところはないだろうか?

  ④「その宮殿は、その写真から独立に存在しています」
これにはおかしいところはないだろう。これは次の意味である。
  ⑤「その写真があっても、なくても、その宮殿は存在します」
では、つぎはどうだろうか。
  ⑥「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在します」
これにはおかしいところはないのだろうか?
我々に言葉がなければ、我々は「その宮殿は存在します」とは言えない。したがって、次はおかしい。
  ⑦「我々の言葉があっても、なくても、その宮殿は存在する、と我々はいえます」
もちろん、⑥と⑦はおなじではない。しかし、⑥がいえたら、⑦もいえるのではないか。
(なぜなら、一般に「pである」と言えたら「pである、と我々はいえます」と言えるように思われるからである。)ところで、⑦はおかしいので言えない、とすると、⑥もいえないことになるだろう。②から③が帰結し、③から次の⑧が帰結するだろう。
  ⑧「我々の言葉あっても、なくても、実在は存在します」
上の⑥が成立しないのならば、⑧も成立しないだろう。したがってまた、②も成立しないだろう。

 さて、形而上学的実在論に対するこの批判は、完璧でしょうか。

二種類の「返答」

森の中は落ち着きます。人類のふるさと?

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑤「それは言葉では表現できない花です」
と応えることが、問いの返答になっているのかいないのか、これが問題でした。

「それはどんな花ですか」と問われて
   ⑥「その問いに言葉では答えられません」
と答えるとすると、これは明らかに通常の意味の返答ではありません。しかも、この返答は一見矛盾しているようにみえます。なぜなら、この返答は言葉による返答だからです。この矛盾を解消するために詳しく言い換えると⑥は次ぎのようになるでしょう。
   ⑦「通常の意味での返答ならば、その問いに言葉で返答することはできません」
という意味なのです。この発言⑦そのものが返答になっているのですが、この⑦は、<通常の意味でなく特殊な意味での返答>であると理解すれば、矛盾は解消します。

もし、⑤と⑥が同じ意味であるとすると、⑤は「それはどんな花ですか」という問いへの返答ではないことになります。しかし、この場合は、⑤は⑦と同じ意味であり、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。
もし、⑤が「それはどんな花ですか」という問いへの返答であるとすれば、「言葉では表現できない花」は、その花についての言葉による表現であることになり、<言葉>を対象言語とメタ言語に区別しなければ矛盾するということになります。

ところで、次ぎのケースでは、対象言語とメタ言語の区別が不可能でした。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この④が矛盾しないためには、これを次ぎの返答と同じ意味であると理解する必要があります。
   ⑧「このときの白樺湖の美しさについては、言葉では答えられません」
そして、この⑧が矛盾しないためには、<返答>についての二つの意味を区別する必要があります。

さて、これで本当に矛盾はなくなったのでしょうか。同様の仕方で、形而上学的実在論の主張も、矛盾を回避できるのでしょうか。

対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避

Passau, die schoenste Stadt, die ich bisher besucht habe.
パッサウ、私が行ったことのある最も美しい町でした。

①「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」

この文が矛盾しているとすれば、それはどのような矛盾でしょうか。
②「このときの白樺湖は、英語では言えない美しさでした」
これは矛盾していません。なぜなら、「英語」は日本語ですが、英語は日本語ではないからです。
つまり、この文章は英語という対象言語に言及しているメタ言語としての日本語で書かれているのです。冒頭の文も、これと同様の仕方で対象言語とメタ言語の区別を導入すると矛盾は生じません。
つまり、次のようになります。
③「このときの白樺湖は、言葉1では言えない美しさでした」
この文が言葉2というメタ言語で書かれていると考えると、「言葉1」は言葉2の表現ですが、言葉1は言葉2ではありません。したがって、②と同様に③には矛盾はありません。
①が矛盾しているとすると、それは①の文の言葉と、①の中に登場する「言葉」が指示する言葉が同一の言葉であるときです。

繰り返しになりますが、もし我々が対象言語とメタ言語区別をしないのならば、①は矛盾します。
したがって、次ぎの文は、矛盾します。
④「このときの白樺湖は、どんな言葉でも言えない美しさでした」
この文では「どんな言葉」の中に、④の文で使用されている言葉も含まれるから、対象言語とメタ言語の区別による矛盾の回避が不可能になります。

しかし、おそらく別の反論があるでしょう。
それは<「言葉では言えない美しさ」というのは、美しさについての言葉による説明ではない>という反論です。
たとえば、「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」というのは、返答になっていないのではないでしょうか。もし「言葉では表現できない花」が、花についての言葉による表現であるなら、⑤は返答になっているはずです。逆にもし⑤が返答になっていないとすると、「言葉では表現できない花」は、花についての言葉による表現ではないことになります。そうすると、⑤は矛盾していないことになります。同様に①も矛盾していないことになります。

「それはどんな花ですか」と問われて⑤「それは言葉では表現できない花です」と応えることが、
問いの返答になっているのかいないのか、これが問題です。

言葉では言えない美しさ

今年の夏は忙しくて美しい写真がないので、昨年の9月の白樺湖です。

さてこの写真がどれだけ美しいかわかりませんが、このときの白樺湖は、とにかく静かで
言葉ではいえない美しさでした。

さて「このときの白樺湖は、言葉では言えない美しさでした」というのは、日本語の文章です。
この文章を文字通りに理解しようとすると、なんだか少し変な気がします。なぜなら、この文章は、つぎのような文章とは、大きく異なっているからです。
「このときの白樺湖は、写真では表わせない美しさでした」
この文章にはおかしいところはありません。なぜなら、「写真では表せない美しさ」というのは言葉であって、写真ではないからです。
それに対して「言葉では言えない美しさ」というのは、言葉です。
もしこれが 「このときの白樺湖は、私の英語力では表現できない写しさでした」というのならば、問題ありません。「私の英語力では表現できない美しさ」という表現は日本語だからです。
もしこれが"beauty which is not able to be expressed in English"ならば、変です。
どうように、もしこれが「このときの白樺湖は、私の日本語力では表現できない写しさでした」
と言うのならば変です。なぜなら「私の日本語力では表現できない写しさ」というのは、話者の日本語力による表現だからです。
もしこれが「このときの白樺湖は、あなたの日本語力では表現できない美しさでした」というのならば、この表現自体に矛盾はありません。
(しかし、この場合でも、相手の日本語力で、この文章を理解できたとしたら、そして表現できない文は理解できない文でもある、と言えるとしたら、そこには矛盾が生まれるように思います。)

ところで「言葉では言えない美しさ」という表現は、どのような意味で矛盾しているのでしょうか。
まず、これを確認しましょう。