地域研究の人文学からグローバルな人文学へ

好況不況に関係なく経済のグローバリズムは加速しています。インターネットによる情報のグローバリズムも加速し、世界を大きく変えつつあります。こうした中で、大学の国際化も音を立てて加速しそうです。こんな中で我々の文化は、また人文学は、どうなるのでしょうか。
 
伝統的な人文科学は、哲学研究も、文学研究も、歴史研究も、どれも地域研究として位置づけられることになるでしょう。人文学が、人の生き方、価値観、文化のもっとも重要な部分に関わり続けようとするのならば、単なる地域研究に読み替えられてしまうような研究ではなく、我々の生きている現実、つまりグローバル化しつつある現実をあつかう「グローバルな人文学」に変貌する必要があります。
それは、これまでの人文学が扱ってきた対象とは別のグローバルな現象を取り扱うということではありません。これまでの人文学が扱ってきた対象をグローバルな視点から再解釈するということです。

グローバルな視点から再解釈するとは、次ぎの二つのことです。
①地域を越えたグローバルな広がりの中に位置づけなおすということ
②グローバライゼーションのという世界史的な動きの中でそれがもつ意味を再解釈すること

皆様、よい年をお迎えください。

労働力は商品ではない

ここではとりあえず、ストローソンの一面的な不可分論、つまり<人格は肉体と結合したものとしてのみ同定可能であるが、肉体は人格に言及しなくても同定可能だ>が正しいと仮定しよう。このように考えるときには、肉体だけを賃貸契約の対象にすることが可能であるかもしれない。しかし、雇用契約は、肉体だけを賃貸契約の対象とすることではない。労働には、肉体だけでなく、精神の働きが必要だからである。
 では、労働力の賃貸契約だといえるだろうか。ストローソンは、M述語とP述語を区別した。M述語とは、「意識状態を帰そうとは夢にも思わない物体がもつ述語」であり、P述語とは、「その他の述語」である。つまり、肉体はM述語で同定されるが、意識状態や人格はP述語+M述語で同定される。労働を記述するには、M述語とP述語の両方が必要である。労働力が労働する能力だとすると、それを記述するにもM述語とP述語の両方が必要だろう。したがって、労働力を賃貸契約の対象にすることもできない。なぜなら、労働力と人格を分けることができないからである。労働力の同定と人格の同定は不可分である。それゆえに、労働力は商品ではない。
 
「労働力は商品ではない」
ここから帰結することは、「雇用契約は、商品の賃貸契約や売買契約のようなものではない」である。
労働力を商品とみなすことは、便利な説明方法であるかもしれないが、しかしそれは間違った説明方法である。労働力は、労働力市場で売買される商品ではない。

 では、雇用契約とはなにだろうか?

一面的な不可分論

さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」が帰結するでしょうか。

ストローソンのいう人格と肉体の不可分性の主張は、実は一面的です。つまり、<人格の同定は、肉体と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということを主張するだけです。これに対して肉体の同定は、人格の同定抜きにできるように思われます。少なくとも、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>ということの証明は行われていません。

このような一面的な不可分論で、2から3を導出できるかどうか、とりあえずこれを検討してみましょう。
とりあえず1「人格はレンタル商品にならない」を認めましょう。
この証明は、簡単だと思います。
①人格は契約の主体である。
②契約の主体は、契約の対象とならない。
③ゆえに、人格は契約の対象とならない。
④ゆえに、人格はレンタル契約の対象とならない。
⑤ゆえに、人格はレンタル商品にならない。

②が曖昧ですが、もし必要になれば、そのとき検討しましょう。

さて、ストローソンが言うように<人格の同定は、肉体と結合したものとしての同定としてのみ可能になる>ので、<人格がレンタル商品になるときには、それと不可分である肉体もまたレンタル商品になります>。

しかし彼の一面的な不可分論では、<肉体の同定もまた、人格と結合したものの同定としてのみ可能になる>が主張できないのならば、<肉体がレンタル商品になっても、つねに人格がレンタル商品になるとは限らない>ということになりそうです。
これは3「人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である」とは不整合です。どう考えたらよいのでしょうか。

ストローソンの一面的な不可分論を補強して、全面的な不可分論が証明できれば、十分であるように思えます。もしそれが困難だとすると、一面的な不可分論の中で、何とか3を証明する方法を考え出す必要があります。

人格と肉体は不可分である

前回の証明は、こうでした。
「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

これでは、まだ非常に曖昧です。
曖昧なのは、2そのものと、2から3の導出です。
まず2を検討しましょう。

2「人格と肉体は不可分である」
これは多義的です。ここでは3を導出するために2が持ち出されています。つまり、「人間の肉体を人格から分離して、肉体だけを貸すことができない」を主張するために、その理由として2が持ち出されています。
人間の肉体と人格が分離できないことは、例えばストローソンが主張していることです。

P. F. ストローソンは、『個体と主語』(中村秀吉訳、みすず書房)(P. F. Strawson,“Individuals An Essay in Descriptive Metaphysics ” Routledge, 1959)の第三章「人物」において、次のような人格論を主張しています。

「そもそも意識諸状態が帰属せしめられるための一つの必要条件は、それらがある一定の身体的諸特徴、ある一定の物的状況等が帰属せしめられるものとまさに同じものに帰属せしめられる、ということである。言い換えると、意識諸状態は、身体的特徴が人物に帰属せしめられないかぎり、そもそも帰属させることはできないのである。」(邦訳、123-124頁、原書, p. 102)

したがって、ストローソンによると、人物というものは、意識諸状態の帰属する自我(ないし純粋意識)と身体的諸属性の帰属する肉体という二つの主体の合成物ではなく、最初からこの二つは「人物(person 人格)」において不可分であり、「人物」という観念こそが「論理的に始原的なもの」(同頁、ibid.)であり、「純粋自我」はそれから派生した二次的なものです。彼が、このように考える理由は、人格(邦訳では「人物」となっています)を同定するには、その意識状態をある肉体に帰属させなければ同定できないからです。それは他者の人格の場合もそうだし、自分の場合も同様です。

私はこの議論は、人格(ないし人物)を同定できると考える(そう考えない可能性もありますが)限りは、非常に説得力のある議論だとおもいます。

さて、ストローソンが主張している意味で、2「人格と肉体は不可分である」を理解するとき、そこから3が帰結するでしょうか。

肉体はレンタル商品になりえない

人間の肉体は、レンタルのDVDと同じ意味では、レンタル商品になりえないように思われる。違いはなにだろうか?

レンタルDVDでも、借りている期間は、自由に使ってよいということではない。それにキズをつけてはならない。それをコピーしたりネットに公開したりしてはならない。それをまた貸ししてはならない。それを上映して不特定多数の人を集めてはならない。などなど、たくさんのこまかな規定があるだろう。人間の肉体と労働力をレンタルしているときも同様に、さまざま配慮すべき事柄があるだろう。レンタルDVDを借りているときに守るべき規定は、貸し手の権利、あるいは著作権者など関係者の権利を保護するためのものであろう。これは、雇用契約でも同じであろう。

では、違いはなにだろうか。最も重要な違いは、DVDはレンタル契約の主体ではないが、労働者は、レンタル契約の主体であるということである。

「人間の肉体はレンタル商品になりえない。」
証明
1、人間の人格はレンタル商品ではない。
2、人格と肉体は不可分である。
3、人間の肉体がレンタル商品であるならば、人間の人格もレンタル商品である。
4、したがって、人間の肉体はレンタル商品ではない。

前回と同じような推論です。
1を~pとし、3をq→pとし、4を~qとすると、

~p
q→p
∴~q

という推論になります。