18 山にこもります

実は、山にこもっていました。
今日は、演習のために、大阪に戻ってきましたが、明日からまた信州の山の中で考えます。
次回のupは連休明けになります。

前回からまた時間が経ってしまいました。
このところ、必要があって、別のことを考えていたので、この話題の勉強が進んでいません。

トマセロが「共同注意場面」と呼ぶもの、そしてその二つの特徴として述べていることは、私が「共有知」という言葉で呼びたいものを考えるときに、非常に重要になるとおもいます。このとき、私は大人の共同注意場面を考えています。もし、言葉を使用しはめるころの、幼児と大人の共同注意場面というものを考えるときには、我々は、言語の理解を前提しないように、注意しなければなりません。トマセロは、「言葉そのものを習得するためには、共同注意の活動が必要となる」128と述べています。したがって、共同注意場面も、言語習得に先立って成立しているものとして考えられているはずです。
そうすると、共同注意場面の二つの特徴についても、我々はもう少し、慎重に考える必要があります。この二つの特徴を考えたいのですが、うまい取っ掛かりが見つからないので、少し回り道ですが、こどもの言葉の習得過程について、ラフに概観しておきたいとおもいます。

哲学が嫌われる理由

ドレスデンのFrauen Kirche 聖母教会です。
3年前には、まだ修復が完了していませんでしたが、今回は中に入ることが出来ました。
この教会は、聖母教会なのですが、ルター派の教会です。宗教改革の後、ルター派が古い教会をのっとったのですね。日本の神社にもよくあることです。

これは最近、Hさんに教えられたことです。
普通の人々から哲学が嫌われるのは、「哲学が、知の基礎付けがないとか、善悪の判断には根拠が無いとか言って、人々を不安にさせる」と言うことにあるということでした。

おそらくそのとおりでしょう。人々は、さまざまな常識を信じて生活しています。哲学は、その常識に疑いを向けるのだから、人々は彼らの生活の前提を疑われる、あるいは否定されるかのように感じるのです。生活してゆくためには、「常識の検討」を括弧に入れなければなりません。

哲学好きの人間は、「常識の検討」が好きなのですが、しかし彼が日常生活も適当に行なっているとすれば「常識の検討」を括弧に入れるのが、上手なのか、あるいはそれに慣れてしまっているのでしょう。

そのような括弧入れになれていない人間が、「常識の検討」に取り組んだときの方が、すごい哲学できるかもしれません。括弧入れになれてしまった人間は、真剣に「常識の検討」を行なっていないのかもしれません。しかし、真剣に行なえば、哲学者=奇人・変人になってしまう虞もあります。

 「常識の検討」は哲学の魅力でもありますが、嫌われる原因でもあって、この二つはおなじことなのかもしれません。あるとき、ある人には、それが魅力となり、また別のとき別の人には、敬遠のもとになる、ということのようです。

17 共同注意場面

これもまたドレスデンの桜です。しかし葉が赤いのです。
これは不思議な桜でした。

トマセロのシミュレーション理論の批判をしてきましたが、トマセロの議論を軽視しているのではありません。
もう少しトマセロの議論を追ってみたいと思います。彼は『心とことばの起源を探る』(勁草書房)の「第4章 言語的コミュニケーションと記号的表示」で、「共同注意場面」(joint attentional scene)という非常に興味深い概念を提案します。

トマセロは、子供が言語を習得するには、大人の伝達意図を理解する必要があると考えて、「伝達意図の理解は伝達意図の社会的認知の基盤となるような、何らかの共同注意の場面でのみ可能である。」130といいます。

トマセロは、ここで共同注意に関するこれまでの用語と区別して、「共同注意場面」という新しい用語を導入します。それは、二つの特徴を強調するためです。その一つは、以下の通りです。

「第一に共同注意場面に何が含まれるかということである。共同注意場面とは、一方では、知覚される出来事とおなじではなく、子供に近くされる世界の中の一部のものだけを含む。他方で、共同注意場面は、言語的出来事と同じではなく、言語記号が明示的に示す以上の物を含む。共同注意場面は、したがって、より大きな知覚的世界とより小さな言語的世界の一種の中間、つまり社会的に共有されている現実の、重要な中間的拠点を占めている。」132

「私が強調したい第二の本質的な特徴は、子供は他者とのやり取りにおける自分と自分の役割を、相手や物に対するのと何ら変わらない表示形態の一部として「外側」の視点から概念化し、共同注意場面に含まれる不可欠な要素として理解しているという事実である。」132

第一の特徴を、彼は、次のような例で説明しています。例えば、子供がおもちゃで遊んでいるところに、大人がやってきて、子供と一緒にそのおもちゃで遊ぶとしよう。このとき、そのおもちゃやそれで遊ぶ活動、また、子供自身と大人が、共同注意場面に含まれている。子供が床やソファーをみていても、それは共同注意場面の一部にはなっていない。「大切なのは、共同注意場面は、意図によって決定されるということである。つまり、共同注意場面は、子供と大人が自分たちの携わっているある目標をもった活動として、「わたしたちがしていること」が何だと思っているかによって共同注意場面となり、一貫性をもつ。」132-133

第二の特徴については、彼は次のように説明しています。
「第二の重要な事実は、子供の観点から見て、共同注意場面が、共同注意の対象となる物、大人、そして子ども自身という三つの関係要素を同じ概念平面上に含んでいるということだ。」134
「大人が外界の物に注意を向ける様子を子供がモニターするようになると、その外界の物が子供自身であることがわがる場合もある。子度は、大人が自分に注意を向けるのをモニターするようになると、それによって、自分を外側からみることになる。それだけでなく、子供は大人の役割も同じ外側の観点から把握するので、総合的に言えば、子供は自分自身を役者の一人として含む全場面を上空から眺めているようなものである。」134
これは、言語習得における「役割交替を伴う模倣」を可能にするものとして、重要視されます。

この二つの特徴について少し考えて見ましょう。

16 お待たせしました

ドレスデンの桜です。
ドレスデンから戻ってから、風邪を引いたり、新学期の授業の準備とかで、upが遅れてしまいました。
ドレスデンの研究会はとても刺激になりました。宿題もできましたが。
その後おとづれた、イエナとニュルンベルクの話も、写真と共にすこしづつ紹介します。

さて、前回つぎのようにのべました。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

前回は、<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>というシミュレーション理論への対案として、<赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて理解するようになる>とのべました。

同様の対案を対象への注意についても行ないたいのです。
ところで、トマセロの上述の発展段階の説明は、他者を有生の存在であると認識することと、意図をもつ存在であると認識することの区別を大変重視しています(cf. p.98)。それにもとづいて、<2-1と2-2>の段階と<3-1と3-2>の段階をはっきりと区別するのです。
この区別が重要なのはわかりますが、しかし、それはこのようにはっきりと時期的な段階の区別として設定できるのでしょうか。それに若干疑問があります。

というのは、それは、共同注意についての、他の知見と矛盾するように思われるからです。
大藪秦氏は共同注意についていくつかの分類を提案していますが、そのうちの一つは「構成形態からの分類」というもので、そこで5つの発達段階に分けています(参照、大藪秦『共同注意』川島書店)。
①前共同注意:「情動の通定的現象」「新生児模倣」(p. 23)
②対面的共同注意:生後2か月から。「乳児が他者と視線をしっかり合わせる状態」(p. 23)
③支持的共同注意:生後6か月から。「相手の視線を追跡して同じ方向を見たり、そこに存在する対象物を注目したりする」(p. 25)
④意図共有的共同注意:9か月~12か月「自分、大人、そして両者が注意を共有する第3の対象物からなる3項関係をより緊密なものにし、参照的な相互作用に関わりだす」(p. 27)
⑤シンボル共有的共同注意:「生後15か月から18か月になると、多くの子供が言語的シンボルを使用し始める」「子供-対象物-他者という共同注意構造は、子供-対象物/シンボル-他者という共同注意構造に変形される」(p. 28)

この②の対面的共同注意は、「視線が『結ばれる』体験」(p. 24)ともよばれており、ベイトソンのいう相互覚知に当たるものです。ブルーナーはこれを「2者の視線が出会う単純な共同注意」とよび、共同注意の原型的形態と見なしているそうです(p.23)。つまり、ここにすでに他者との共同注意と言う形で、自分と他者の注意の理解が曖昧な形であれ、登場しています。他者の注意の理解と他者の意図の理解を明確に分けないとすれば、トマセロの議論への反論となるでしょう。(トマセロは、この反論を回避するためには、注意の理解と意図の理解を明確に分けなければなりません。)
大藪氏の上の発達段階論から、我々は注意についても、<赤ちゃんは、他者との親交のなかで、注意深さを獲得し、互いに視線を交し合い、他者の視線を追跡し、他者が見る対象を共同で注意するようになり、やがて一人で、対象に注意するようになる>と考えることが出来るでしょう。これは他者の注意の理解を自分の注意の理解のシミュレーションで説明する理論への対案となるでしょう。

15 仕切り直し

 29日30日と東京出張でした。写真は、お茶の水女子大学の桜です。
花冷えの一日でした。

仕切り直しです。
この書庫での目標は、<我々が行なう指差しや言葉による指示は、発達心理学的には、共同注意、共同指さし、共同指示ともよべるものからの分離によって成立した>の証明です。この目標のさらに上位の目標は、<我々が行なっている指示や知は、何らかの共同指示や共同知をつねに前提している>の証明です。これはこの書庫の目標ではありませんが、ここでの議論に影響するだろうとおもいます。

そこでまず、共同注意について、勉強しながら、報告するということを始めたのですが、その過程でトマセロの本をもとに幼児の発達過程を勉強しました。それを復習すると次のようになります。

トマセロは、共同注意が成立するまでの段階を次のように大きく4段階で考えています。

1:自分と他者は似ている(と理解している?)(生まれたときから)。
2-1:自分は出来事を起こすことができる原因である (2-1,2-2は、生後7,8ヶ月)
2-2:「自己運動と力の源としての他者、つまり有生の存在という他者理解」
3-1:自分は意図をもつ存在である。(3-1,3-2は生後8ヶ月くらいから)
3-2:「行動および知覚に関して選択を行う存在としての他者、つまり意図をもつ存在という他者理解」
4:共同注意(生後9ヶ月~15か月)

トマセロは、2-1から2-2への移行と、3-1から3-2への移行が、シミュレーションになると考えていると思われます。トマセロは、さらに、この4の共同注意のスキルを3段階に分けていました。

4-1:大人の注意をチェックする(生後9~12ヶ月)
(協調行動、社会的障害物に対する反応、物の提示)
4-2:注意に追従する(生後11~14ヶ月)
(視線追従、指差し追従、指令的な指さし、社会的参照)
4-3:注意を向けさせる(生後13~15ヶ月)
(模倣学習、宣言的な指差し、指示的な言語)

シミュレーション理論を主張するには、2-1と2-2が、また、3-1と3-2が、本当に時間的な前後関係で出現するのかどうか、これが本当に実験で確認されているのかどうかを、調べる必要があります。ただし、ほとんど同時にこれらが登場していても、それによって直ちに、シミュレーション理論の批判にはならないかもしれません。

<3-1から3-2へのシミュレーションによる移行>への批判としては、次のような対案を考えています。
<自分が意図を持つことから、他者も意図を持つという理解が生まれる>このようにいえるのでしょうか。
例えば、自分の意図の理解は、自分が何かしようとすることを、母親が、「ミルクがほしいのね」「オムツを替えてほしいのね」「あのおもちゃがほしいのね」「抱っこしてほしいのね」などと、赤ちゃんの意図を解釈して、その解釈された意図を自分の意図として理解するようになる、ということがあるのではないでしょうか。もしそうだとすると、そのようにして得られる自分の意図の理解よりも、「ミルクを飲もうね」とか「オムとを変えようね」などという母親の意図の理解の方が早いかもしれません。赤ちゃんは、自分の意図を、他者との親交(communion)の中で、他者の意図を理解するのと同時に、あるいはさらに、それに後れて、理解するようになるのかもしれません。

しかし、この対案を一体どのような実験によって確認したらよいのか、いまとのころ思いつきません。ちなみに、この時期の子供はまだ初語を話しません。規準喃語(なんご)(canonical babbles)といわれる、言葉のように聞こえるけれどもそうではない発声をするだけです(参考、ローレン B. アダムソン『乳児のコミュニケーション発達』大藪泰、田中みどり訳、川島書店、p.207)。ですから、意図の理解といっても、命題による理解ではありません。
(喃語については、http://d.hatena.ne.jp/keyword/%D3%C7%B8%EC を参照してください。)

次に、上の対案に似た対案を、注意についても考えてみたいと思います。

しかし、残念ながら、4月2日から10日までドレスデンに出張しますので、しばらくお休みします。
ドレスデンの写真を楽しみにしてください。