06 儒教の自我論

06 儒教の自我論(20150701)

仏教と同じく、儒教にも長い歴史があり、様々な学派がある。ここでは、儒教の中心的な教えを、五常五倫の教えだと考えてみよう。五常とは、仁義礼智信という五つの徳のことである。これらの徳は、五倫と呼ばれる五つの人間関係、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友にもとづいている。このような重要とされる徳目や、重要とされる基本的な人間関係の理解については、変遷があるようだが、ここではそれには立ち入らない。

仮に上記の五倫が基本的な人間関係であり、歴史をこえて普遍的に成立している関係であるとしよう。このような自然的な人間関係は、それを維持することを義務として含むことになる。なぜなら、もしその自然的な関係を破壊するなら、その関係よって成り立っている人間や共同体も破壊されるからである。ここでの仮定により、人間と共同体は五倫以外の仕方では存在できないからである。これは超越論的論証だといえるだろう。

(もちろんこの論証が成り立つためには、五倫の人間関係が、歴史を超えて普遍的に成立している自然的なものであることを証明しなければならない。ただし、その証明は儒教の中にはないのではないだろうか。それはただ前提されているだけなのではないだろうか。そして、現在の私たちは、五倫がそのような普遍的な自然的な人間関係ではないことを知っている。)

 

ここで、この超越論的論証の構造について考えよう。

仏教では、悪いことをせず善いことをすることは、自分の行為によって、地獄に落ちたり、獣に生まれ変わったり、人間に生まれ変わったり、よりよいものに生まれ変わったり、最終的には解脱したりする、という仕方で、サンクションを受けた。因果応報が、道徳的な行為を動機づけていた。(ちなみに、キリスト教でも、最後の審判で天国にけるか地獄に落ちるか、というサンクションがあり、この点で仏教と似ている。)

それに対して、儒教では、来世も、天国も地獄もないので、このようなサンクションは働かない。それでは道徳的な行為をすることには、どのような動機付けが働くのだろうか。君子に忠義をつくしたり、親に孝行したり、することで、相手から褒められたり、世間から褒められるだろう。それは世俗的な成功や幸せをもたらすのかもしれない。五常を守るか守らないかは、世俗的な成功と不成功という仕方でサンクションを受けるだろう。しかし、それだけであろうか。それならば、幸せになるためのハウ・ツー、処世術にすぎないだろ。

単なる処世術と五常の教えはどこが違うのだろうか?