38 「論理的語彙による事実の明示化」の問題に戻る (20210915)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

論理学・数学の言明の「無意味性」理解(カルナップ)と、「実在性」理解(クワイン)の対立について、考察すると予告しましたが、思ったよりも簡単に結論がでました。それは次の通りです。

<問答関係を分析的と綜合的に分けるとき、綜合的問答関係は事実に関わりますが、他方分析的問答関係は、事実には関わりません。その意味で、分析的問答関係は「無内容」だと言えます。しかし分析的問答関係の答えが「無内容」であるということにはなりません。なぜなら、分析的問答関係にある問いの理解と問いの前提の是認が、クワインの言う意味で事実的要素を含んでいるからです。その意味で、分析的問答関係の答えは、「実在性」をもちます。>

結論が出たので、31回で提起した「論理的語彙による事実の明示化」というテーマに戻ります。

疑問表現と論理的語彙は、その保存拡大性により、その他の表現の意味の明示化に役立つのですが、他方で、事実の明示化にも役立つだろうと推測しました。

31回で、次のように述べました。

「前回(30回)私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。

これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。

 以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。

 次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。」

 論理学・数学の「有意味性」理解をその後「実在性」理解に改めましたが、この考察の結論が、冒頭に記した結論になります。この結論を踏まえて、上記の引用の問題提起を考えたいと思います。

37 クワインへの応答 (20210913)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 次の二段階で、クワインに応答したいとおもいます。

 まず、論理学や数学の問いの場合、それを理解し、その問いの前提を是認するとき、意味論的規則の理解と是認が含まれていると思われます。この意味論的規則とその是認が、事実的要素に基づくとしても、それを前提した上で、この問いに答える時に、この意味論的規則だけを用いて答えを導出できるとすると、この問答関係は、分析的です。

 次に、クワインが言うように、「言語一般について、意味論的規則とは何か?」とか「特定言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに答えることができないとしても、論理学数学の問いに答える時には、暗黙的に想定した「意味論的規則」に従っています。そしてこの意味論的規則の理解と是認は、問いの理解と問いの前提の是認に含まれています。したがって、私たちが意味論的規則を明示的に示すことができなくても、その問答は分析的なのです。

#理論的な問答の二重問答関係の場合

ここで、分析・綜合の区別が二重問答関係においてどうなるのかを説明しておきたいとおもいます。

  <Q2→Q1→A1→A2>

という二重問答関係(Q2に答えるために、Q1を立てその答えA1を前提として、Q2の答えA2を導出するという関係)があるとします。この場合、Q1とA1がアプリオリで分析的な問答関係であるとします。ここで、Q1の理解とその前提の是認に意味論的規則の理解と是認が含まれており、それらがクワインの言うように事実的要素を持っているとすると、それらを前提に含むQ2とA2の問答関係は、アプリリオリで分析的なものではありえないと思われるかもしれません。しかし、Q1とA1の問答関係で使用される意味論的規則が、Q2とA2の問答関係で使用される意味論的規則に含まれているのであれば、それはQ1の理解とその前提の是認に含まれることになるので、それらの意味論的規則の事実的要素は、Q2とA2の問答関係において前提されており、そのことを考慮する必要はありません。つまり、Q2とA2はこの場合でも、アプリオリで分析的です。

 もしQ2とA2の問答関係の意味論的規則が、Q1とA1の問答関係の意味論的規則を含んでいないならば、その場合には、Q2とA2の問答関係は事実的要素に基づくことになり、綜合的なものとなります。

 以上によって、クワインの批判に応えて、言明ではなく問答関係の性質として考えるならば、分析/綜合の区別が可能であることを示せたと考えます。

 以上の議論を踏まえて、前述の対立、つまり論理学・数学の言明の「無意味性」理解(カルナップ)と、「実在性」理解(クワイン)の対立について、考察したいと思います。

36 クワインへの応答に向けて (20210911)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

クワインが、分析綜合の区別を批判するときの最も強力な論点は、「分析的に真である」を「Lの意味論的規則によって真」と定義することへの批判であると思います。

「ある言明がL0において分析的であるのは、それが、具体的に列挙されたこれこれの意味論的規則によって真であるとき、かつ、その時に限られる」ということはできます。しかし、この「意味論的規則」を定義しなければ、「分析的」の定義にはなりません。

 クワインは、意味論的規則をどう定義するかは、論理学で公準(公理)をどう定義するかの問題と似ており、この問題に答える基準は無いと考えます。一群の式を公準として選択して、それに選択した推論規則と組み合わせて、そこから他の式を導出するためのものが、「公準」です。このとき、「言明(多分、真である方がよいが)の有限の(あるいは、実効的に特定可能な無限の)選択はどれでも、公準の一つの集合として他の選択に劣るものではない。「公準」という語は、何らかの探求の行為と相対的にのみ意義を持つ。」(クワイン「経験主義の二つのドグマ」(クワイン著『論理的観点から』飯田隆訳、勁草書房、所収)53)「意味論的規則の概念も、同様に相対的な仕方で考えられるならば、公準の概念と同程度に、道理にかない有意味である。」(同訳、53) 「だが、この観点からは、Lの真理のある部分クラスを取り出す仕方のあるものが、それ自体として、他の仕方よりも意味論的規則としてふさわしいわけではない。」(同訳54)

クワインによれば、「ある言語の意味論的規則は何か?」という問いに対する一般的な形式的答えというものは見つけられません。それゆえに、この問いを限定して、「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに換え、それに対して「言語Lの意味論的規則は、…である」という仕方で答えるしかないのです。しかもこの時の答え方には幾通りもあるのです。つまり言語一般に関しても、また特定言語Lに限ったとしても、「意味論的規則」を定義できないのです、したがって「分析的」を定義できないのです。

私は、「言語一般についてのその意味論的規則とは何か?」とか「言語Lの意味論的規則は何か?」という問いに答えることができないということには同意します。従って、クワインが言う意味での「分析的に真」の定義ができないことには同意します。しかし、それらの問いに答えられなくても、ある種の問いには、意味論的規則だけによって、答えており、他の種の問いには、意味的規則だけで答えているのではなく、知覚や記憶や伝聞などにも基づいて答えているのですが、そのときでも意味論的規則に従っている、というように問答関係を分析的なものと綜合的なものに区別できると考えます。

言明ではなく、問答を単位とすることによって、言語的要素と事実的要素を分けられることを論証しなければなりません。

35 問答の四つのケースの再検討 (20210909)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前々回と前回の述べた、問答の四つのケースの再検討を行いたいと思います。

#問答のケース1

  「5+7=12は真であるか?」「はい、5+7=12は真です」

この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。これは、「「5+7=12」が自然数論の公理から導出できるか、できないかのどちらかである」と言い換えられます。ところで、この問いを理解することは、「5+7=12」の理解を伴いますが、この式を理解することは、この式を自然数論の公理系の適格な式(wff)として理解することです。したがって、この式を理解する人は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。このケースは、<問いの理解が、同時に問いの前提の是認となるケース。しかも問いの前提から、論理的推論によって答えを導出できるケース>です。

 他の論理学・数学の問いと答えも、一般的にこの例と同様のケースだと言えます。

#問答のケース2

  「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」

この問いは、「机が存在する」ということを前提しています。

この前提が成り立つことは、知覚に基づくことになります。この前提を是認するならば、問いに対する答えは、問いの分析によって、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となります。つまり、「アポステリオリで分析的」な問答関係となります。

 ちなみに次の問答関係は、ケース1とおなじく「アプリオリで分析的」です。

  「もし机があるなら、その机の上にはリンゴが有るか無いかのどちらかである」

この問いの前提は、何でしょうか。それはp∨¬p、論理規則や意味論的規則です。そしてこれらは、問いの理解を前提するならば、その前提から帰結します。

#問答のケース3

  「机の上にリンゴがありますか?」「はい、机の上にリンゴがあります」

この問いを理解するということは、(他の問いの場合と同様に)この問いの上流問答推論や下流問答推論の正しさを判別できるということです。問いの理解は、言語の理解を必要としますが、他にも世界について理解を前提するだろうとおもいます。

 この問いの意味論的前提(つまりこの問いが正しい答えを持つための必要条件)の一つは、「机がある」ということです。この問いの前提を是認するためには、机を知覚する必要があります。さらに、この問いに答えるためには、机の上を見てリンゴがあるかないかを知覚によって判断する必要があります。

 問いの理解を前提するとき、この問いの前提を是認するには、知覚が必要であり、またこの問いに答えるためにも、知覚が必要です。したがって、この問答関係は「アポステリオリで綜合的」なものです。

#問答のケース4:問いを理解することによって、問いの前提が成立する問い。

出張が多くて、ホテルに泊まることが多い人は、目覚めたときに、自分がどこにいるのかわからなくて次のように自問することがあるでしょう。

  「私はどこにいるのだろう?」

このように自問する人は、当然この問いを理解しています。この問いの前提は、「私がどこかに存在する」ということです。人がこの問いを理解するとき、この問いの前提は成立しているし、それを知っています。この問いの前提は、問いの理解を前提するのならば、常に是認されます。この問いはアプリオリに成立します。(ただし、ここでは、問いの意味論的前提(問いが正しい答えを持つための必要条件)だけでなく、語用論的前提(問うという行為が成立するための必要条件)も考慮していると思われるので、もう少し分析が必要だろうと思います(参照、『問答の言語哲学』p. 224)

 他方、この問いに答えるには、昨夜の行動を思い出し、その記憶に基づいて答える必要があります。あるいは、昨夜の記憶がないなら、部屋を出て、そこがホテルであるのかどうか、どこにあるホテルなのか、などを確認する必要があります。したがって、この問いに答えることは、綜合的です。このように考える時、この問答関係は「アプリオリで綜合的」です。

#方針のまとめ

以上の考察は、次のような方針にまとめることができます。

①問いの理解がどのようにして生じるのかは問わず、問答関係を考察するときに、問いの理解は前提とします。

②問いの前提の是認が経験を必要としないならば、その問いはアプリオリであり、その問答関係もアプリオリです。問いの前提の是認が経験を必要とするならば、その問いはアポステリオリであり、問答関係もアポステリオリです。問いが設定されても、答えが得られるとは限らないので、答えが得られない場合を考慮して、「アプリオリ」と「アポステリオリ」の区別を、問答関係だけでなく、問いについても認めることにします。(「分析的」と「綜合的」の区別は、問いについては認めず、問答関係だけに認めることにします。なぜなら、「分析/綜合」の区別は、主語と述語の結合関係の区別のように思われてきましたが、問いと答えの関係の区別だからです。すべての発話は、焦点を持ち、それを明示化すると分裂文になりますが。それは問いに対する答えとして、その文が成立することを示しています。参照『問答の言語哲学』第二章)

 <問いの前提の是認がアプリオリに行われるか、アポステリオリに行われるか>の違いは、<問いの理解から問いの前提の是認が帰結するか、帰結しないか>の違いである。

③問いの答えが、問いの理解と問いの前提の是認から、形式論理的に答えが導出されるのならば、その問答関係は、「分析的」です。問いの答えが、問いの理解と問いの前提の是認から、知覚、記憶、伝聞によって得られるのならば、その問答関係は「綜合的」です。

④ケース4の「アプリオリで綜合的」という用語は奇異に思われる用法かもしれませんが、慎重に吟味したつもりです。今のところ、このように表記したいと思います。

これで、クワインからの批判に応えられるかどうか、次に検討したいと思います。

34 問答推論の観点からの分析/綜合の区別(2)(20210907)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回に続いて、いくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース3

  「机の上にリンゴがありますか?」「はい、机の上にリンゴがあります」

この問いを理解するということは、(他の問いの場合と同様に)この問いの上流問答推論や下流問答推論の正しさを判別できるということです。ところで、この問いの意味論的前提(つまりこの問いが正しい答えを持つための必要条件)の一つは、「机がある」ということです。この問いの前提を認めるためには、机を知覚する必要があります。さらに、この問いに答えるためには、机の上を見てリンゴがあるかないかを判断する必要があります。

 つまり、この問いの前提が成立しているという認識は、知覚に基づくものなので、問答はアポステリオリに成立します。そして、答えは問いの分析によって与えられるものではありません。したがって、この問答関係はアポステリオリで綜合的なものです。

#ケース4:問いを理解することによって、問いの前提が成立する問い。

出張が多くて、ホテルに泊まることが多い人は、目覚めたときに、自分がどこにいるのかわからなくて次のように自問することがあるでしょう。

  「私はどこにいるのだろう?」

このように自問する人は、当然この問いを理解しています。この問いの前提は、「私がどこかに存在する」ということです。したがって、人がこの問いを理解するとき、この問いの前提は成立しています。つまり、この問いは常に有効であり、それに対して真なる答えが存在することになります。この意味で、この問いはアプリオリに成立します。

 他方、この問いに答えるには、昨夜の行動を思い出し、その記憶に基づいて答える必要があります。あるいは、昨夜の記憶がないなら、部屋を出て、そこがホテルであるのかどうか、どこにあるホテルなのか、などを確認する必要があります。したがって、この問いに答えることは、綜合的です。このように考える時、この問答関係はアプリオリで綜合的だ、と言えそうです。

前回のケース1と今回のケース4はともに、問いを理解するとき、常に問いの前提が成立しています。しかし、二つのケースには、次のような違いがあります。

 ケース1では、問いの前提の成立は、問いの理解と無関係である。

 ケース4では、問いの前提の成立が、問いの理解によって生じる。

前回のケース2と今回のケース3はともに、問いを理解するときに、常に問いの前提が成立しているとは限りません。

 ケース2では、問いの前提が成立するとき、問いの前提の成立から、答えが分析的に帰結します。

 ケース3では、問いの前提が成立するとき、問いに対する答えは、知覚や記憶を介して、綜合的に与えられます。

これらをまとめると次のように言いたくなります。

ケース1の問答関係は、アプリオリで分析的

ケース2の問答関係は、アポステリオリで分析的

ケース3の問答関係は、アポステリオリで綜合的

ケース4の問答関係は、アプリオリで綜合的

問答関係としての真理をこのように4つに分類することができるでしょうか。

この分類は整合的でしょうか?明晰判明でしょうか?有用でしょうか?

これを次に考えたいと思います。

33 問答推論の観点からの分析/綜合の区別  ((20210905)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

 問答推論の観点から、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立についてどう考えるかを説明したいと思いますが、そのためには、問答推論の観点から分析/綜合の区別をどう考えるかを説明する必要があります。(前に[カテゴリー:問答の観点からの認識]の36回(20210724) において、「分析的に真」と「綜合的に真」、「アプリオリに真」と「アポステリオリに真」について新定義を提案しましたが、ここではそれを少し修正して、ここで再提案を試みたいと思います。)

 私は、カルナップを含む多くの論者と同様に、「分析」と「綜合」は論理的概念であり、「アプリオリ」と「アポステリオリ」は認識論的概念であると考えることにします。ただし、問答推論の立場では、判断を問いに対する答えとして成立するものとして捉えるので、「分析」「綜合」「アプリオリ」「アポステリオリ」は、命題や判断がもつ性質ではなく、問答関係がもつ性質だと考えます。

#問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することを伴う。

・「問いの意味論的前提」とは、「問いが真なる答えを持つための必要条件」であるとすると、問いが答えを持つ限りは、意味論的前提をもつはずです。ところで、問いの意味は、問いの上流と下流の問答推論関係として成立することです。それゆえに、問いの意味論的前提を理解することは、問いの下流問答推論関係を理解すること(の一部)です。<問いを理解することは、問いの意味論的前提を理解することである>、このことはすべての問いについて言えるでしょう。

 ただし、問いの意味論的前提を理解することは、その意味論的前提が成立していることを認めることではありません。

#問いの理解と問いの成立(問いの前提の成立)

 問いの前提が正しくなければ、問いは成立しないが、問いの前提が成立しない問いでも理解することは可能です。例えば、「フランス王は禿げていますか?」という問いは、「フランス王が存在する」を前提としている。この前提が真でないとしても、この問いを理解することは可能です。しかし、この前提が真でないなら、この問いは成立せず、この問いに答えることもできません。この問いに「はい」と答えることも「いいえ」と答えることもできません。このことは、補足疑問の場合も同様です。「フランス王はどんなひげを生やしていますか?」という補足疑問も、問いの前提が真でないなら、その問いに答えることはできません。

以上をふまえて、次にいくつかの問答のケースの例を考察したいと思います。

#ケース1

ある種の問いでは、問いの意味論的前提を理解することは、同時にそれを認めることです。次の例で説明しましょう。

  「5+7=12は真であるか?」

この問いの意味論的前提の一つは、「「5+7=12」が真であるか、真でないかのどちらかである」ということです。では、「5+7=12」が真であるとは、どういうことでしょうか。それは、この式が自然数論の公理から導出できる、ということです。この式を理解するとは、この式を、適格な式(wff)とする自然数論の公理系を理解していることです。したがって、この式を理解する者は、「この式が真であるか、真でないかのどちらかである」という問いの意味論的前提(の一部)を理解しており、さらに、この前提が成り立つことを認めています。

 この例と同様に、論理学・数学の問いは一般に、<問いを理解することが同時に問いの意味論的前提を理解することだけでなく、その意味論的前提が成り立つことを認めることです>。

#ケース2

  「机の上にリンゴがあるかないかのどちらかですか?」

この問いの場合、一見すると問いの意味を理解するだけで、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」と答えられると思われるかもしれませんが、そうではありません。なぜなら、この問いは机が存在することを前提しているからです。もし机があれば、これに対する答えは、「はい、机の上にリンゴが有るか無いかのどちらかです」となりますが、もし机がなければ、この問いは無効であり、「はい」と答えることも、「いいえ」と答えることもできません。つまり無効な問いんに対する答えはありません。

 この問いの前提が成立すること、つまりこの問いが成立することを知るためには、机を知覚することが必要です。つまり、問いの前提の成立は、経験的認識を必要とします。

これら以外のケースの考察は、次回に行いたいと思います。

32 トートロジーについての「無内容性」理解と「実在性」理解((20210902)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

前回の最後に述べたトートロジーについての「無内容性」理解と「有意味性」理解の対立について考えたいと思いますが、後者を「実在性」理解と呼ぶことにしたいと思います(この方が違いが分かりやすいと思うからです)。。

カルナップが、論理学・数学の命題を無内容としたのは、それがどのような事実においても真とであるからです。それゆえにまた、「論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない」といいます。カルナップのように論理学・数学の「無内容」理解を採用するとき、そのような無内容な命題と、内容のある命題を区別することになります。この区別は、分析命題と綜合命題の区別にかさなるでしょう。カルナップによれば、分析命題と綜合命題の区別は、アプリオリな判断とアポステリオリな判断の区別と重なります。この二つの区別の間にズレはありません。したがって、カントが「アプリオリな綜合判断」とみなしたものは、カルナップによれば、アプリオリで分析的なのか、アポステリオリで綜合的なのか、このいずれかです。例えば、幾何学の公理「二点を結ぶ直線は一つである」は、カントによれば、アプリオリな総合判断ですが、これに対して、カルナップは、幾何学を、数学的幾何学と物理的幾何学に区別し、数学的幾何学の命題は、分析的でアプリオリであり、物理的幾何学は綜合的でアポステリオリであると考えました(参照、カルナップ『自然科学の哲学的基礎』「第18章 カントの綜合的アプリオリ」)。

 これに対して、論文「経験論の二つのドグマ」のクワインのように、分析と綜合を区別できないとし、全ての真理が綜合的であると考える時、論理学・数学の真なる命題もまた、世界の状態について、事実について、語っているということになります。つまり、クワインは、論理学・数学の「実在性」理解を採用するでしょう。

 クワインは、「経験論の二つのドグマ」おいて、分析的真理と綜合的真理を区別できるというドグマと、経験的命題をセンスデータ言明に還元できるという「還元主義のドグマ」を批判します。

「言明を単位として考える根源的還元主義は、ひとつのセンスデータ言語を特定して、その言語に属さない有意な叙述を、言明ごとにこのセンスデータ言語に翻訳する仕方を示すという課題を立てる。カルナップは、『世界の論理的構築』において、この企てに着手した。」59

この根元的還元主義はうまくゆかず、カルナップは、根元的還元主義を捨てることになるのですが、クワインによれば、その後もカルナップは還元主義のドグマをもちつづけていると言います。

「還元主義のドグマは、それぞれの言明が、その仲間の諸言明から切り離してとらえられとき、とにかく験証ないしは反証が可能である」(61)という考えです。

クワインはこの二つのドグマを共に批判し、「この二つのドグマは、実際、その根においては同一である。」(61)と考えます。「[その同一の根とは] 言明の真理性は、何らかの仕方で、言語的要因と事実的要因へと分析できるという考えである。われわれが経験主義者であれば、事実的要因は、確証的経験の範囲ということに帰着する。言語的要因がすべてであるような極端な場合においては、真である言明は分析的である。」(邦訳62)

「個々の言明の真理性における言語的要因と事実的要因について語ることが、それ自体ナンセンスであり、他の多くのナンセンスの源でもある」(邦訳62)

「科学は、全体としてみられたとき、言語と経験の両方に依存している。だが、この二元性は、個々別々に考えられた科学的言明においては有意味な仕方では見出せないものなのである。」62

クワインは、言明の真理性に関する「言語的要因」と「事実的要因」を分けることできないと主張します。これは、分析/綜合の区別の否定から帰結することです。

次に、論理学・数学についての「無内容性」理解と「実在性」理解の対立について、問答推論の観点から考えたいと思います。

31 論理的語彙による事実の明示化 (20210901)

[カテゴリー:『問答の言語哲学』をめぐって]

<論理的語彙と疑問表現が、それ以外の言語表現の意味の明示化すること>について、これまで(18回から30回まで)説明してきました。ここから、<論理的語彙と疑問表現が、事実を明示化すること>について検討したいとおもいます。

 とりあえずは、論理的語彙によって事実の明示化(解明)ができることを確認しましょう。例えば「これは青リンゴです┣これはリンゴであり、かつ青い色です」という推論は、青リンゴの定義ではないとしても、青リンゴがどのような性質を持つのかを明示化しています。その意味で、「これは青リンゴです」のこの下流推論は、青リンゴに関する事実を明示化しています。このように実質的推論において使用されている論理的語彙(この例では「かつ」)は、事実の明示化という機能をもちます。

 では次のような論理的に真なる命題はどうでしょうか。p→p、p∨¬p、¬(p∧¬p)、など。これらの論理的に真なる命題は、pがどんな内容の物であっても真となります。したがって、これらによって事実を明示化することはできないと考えられることがおおいです。例えば、カルナップは、次のように言います。

「いったん論理法則における用語の定義が理解されると、この法則が世界の性質とはまったく無関係なやり方で真でなければならない、ということが明らかになる。それは必然的な真理であり、また哲学者たちがしばしばいうように、すべての可能な世界に通用する真理なのである。」(カルナップ『物理学の哲学的基礎』沢田充茂、中山浩二郎、持丸悦朗訳、岩波書店1968、原書1966、p.10)

「このことは、論理学の法則と同様に数学の法則についても当てはまる。…「1+3=4」という法則の真理性は、これらの意味から直ちにでてくる。…3次元のユークリッド空間は、一定の基礎的条件を満足する順序付けられた実数の3つ組の集合として、代数学的に定義することができる。しかしすべてこれは、外的世界の性質については何も扱ってはいない。群論の法則やユークリッド的三次元空間の抽象幾何学の法則が成立しない、可能な世界は存在しない、というのは、これらの法則はそれに含まれている用語の意味にのみ依存し、わたくしたちがたまたま存在している現実的な世界の構造には依存しないからである。」(同訳書、p.11)

「その代価とは、論理学と数学の言明がこの世界についてなにも語らない、と言うことである。わたくしたちは、3たす1が4であることを確信しうる。しかしその理由は、このことがどんな可能な世界にでも通用し、わたくしたちが住んでいる世界について、何も語りえないからである。」(同訳書、p.11)

確かに、論理的に真なる命題は、世界がどのような状態であっても真となります、言い換えるとすべての可能世界で真となります。そこから、これらは世界の状態について何も語っていない、というのです。カルナップのこの考えは、おそらくウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で論理学、数学の命題をトートロジーとみなし、「無内容(sinnlos)」とみなしたことに由来するのだろうと思います。

前回私は、<p┣pという同一律は、pの命題内容に関係なく成立することから、同一律がpの意味の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律はpの意味を作り上げているのであり、その意味でpの意味を明示化している>、と見なすことを提案しました。

これと同じように、<p┣pという同一律は、世界の状態にかかわらず、つねに成り立つことから、同一律が、事実の明示化には役立たないと考えるのではなく、同一律がpという事実を作り上げているのであり、その意味でpの事実を明示化している>、と考えることができます。たしかに、トートロジーの命題は、ある事実を他の事実から区別する事には役立ちません。しかし、それは事実についての基本的な性質、ないし事実の存在の仕方を明示化していると考えることも出来るのではないでしょうか。

 以下の考察のために、この二つの理解に、トートロジーについての「無内容性」理解と、「有意味性」理解という名前を付けることにします。

 次回から、このどちらが正しいのかを、考えたいとおもいます。