三つ巴:人格・言語・問答

                                    春を迎え 嵐の予感の 出張前
 
三つ巴:人格・言語・問答 (20120403)
 
問題は、こうでした。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
箕面の滝の近くに沢山のサルが住んでいる。サルは、食べ物と食べ物以外のものを識別できる。サルとサル以外の動物も区別できるだろう。また、群れの中の他の個体の識別もできるだろう。つまり、他の個体の同一性を認識している。そして、他のサルとエサなどをめぐって争うことがあるだろう。つまり、そのときサルは、自分のエサや、自分の安全を確保しようとしている。このようにして、私たちは、サルの行動を記述するとき、「自分」という語を使用する。しかし、それは擬人法である。サルは、自分の観念や自己意識を持っているかのようなふるまいをするだけである。サルは、鏡を見せられても、その中に写っている個体が、自分であることが認識できない。そこに他の個体が写っていると考えるのだ。自分のvideo映像を見せられても、自分だとはわからない。サルが自分と彼女の親密そうな映像を見せられた時に、他のオスと自分の彼女が親密そうにしていると思って、怒り出すというというTV番組を見たことがある。
 最近自動掃除機が売りだされている。それは室内を移動しながら掃除をして、その電池残量が少なくなると、自動的にベースとなる機械のところに戻って充電するようになっているそうだ。それを私たちが観察するとき、「その機械は自分の電池残量を常に一定以上に確保しようとする」と記述することもできる。このように「自分の電池残量」という言葉でその機械の振る舞いを記述するが、しかしその機械が「自分」という観念を持っているとは考えていない。この記述も一種の擬人法である。(この場合には、「それの電池残量」と言い換え、また「確保しようとする」という意図を思わせる表現を、「保つようにふるまう」と言い換えれば、擬人法を避けられる。)
 サルがよくできた機械だとすると、「サルが自分のエサを確保しようとしている」という記述は一種の擬人法である。サルは、知覚したり、感情をもったり、欲求をもったりしているように見えるし、またそのように記述できるような振る舞いをする。しかし、この場合「知覚」や「感情」や「欲求」という語をどのように理解するかについては、多様な可能性がある。したがって、「サルは欲求をもっている」という文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。また、「サルは自分の仲間であるサルの観念を持っている」とか「サルはエサの観念をもっている」などの文についても、文の意味は多様であり、どのような意味においてそれが真であるのか、難しい問題が生じる。(ここには、クワインの「言語と事実の解離不可能性テーゼ」や、デイヴィドソンのいう「意味と信念の相互依存性」という問題がある。)
 この困難に対処するために、ここでは、とりあえず、「観念をもつことは、言葉をもつことなしにはあり得ない」と前提する(これの証明は別途必要である)。そうすると、サルが「自分」という観念を持っているかどうかを言うことはたやすい。<サルは言葉をもたない。ゆえにサルは「自分」の観念を持たない>となる。
 ところで、「観念をもつことは、言葉をもたないではあり得ない」と前提すると、「人格」の観念を持つためにも、言葉を持たなければならないことになる。しかし、言葉を持った後に、一つの観念として「人格」の観念を持つようになるというのではないだろう。ヒトが言語を獲得するために、また幼児が言葉を学習するためにも、言語表現そのものへ言及することが必要である。「「デンキ」は、・・・という意味ですか」と尋ねることができなければ、「デンキ」という語を習得できないだろう。また話し手や聞き手に言及できなけければ、「あなたは今何といったのですか」と尋ねることができなくなり、言語を学習できないだろう。人称代名詞の習得は、固有名の習得よりも遅れるので、まず最初に「○○ちゃん」という固有名や、固有名として使用される「ママ」などの語を習得しなければ、話し手や聞き手への言及は不可能であり、言語の学習はできなくなるだろう。AさんがBBさんは自分への言及ができる必要がある。おおそらく最初の段階では、「○○ちゃん」というような固有名を理解するという仕方で、自分を言及するようになるのだろうが、とにかく自分への言及が必要である。ここに「人格」概念の萌芽がある。もし「人格」概念が普遍的な概念であるとすると、「ぼく」や「あなた」という人称代名詞を使用し始めるころが、「人格」概念の萌芽になるというべきかもしれない。
 このように言えるとすると、言語を使用するためには、「人格」概念が必要である。これに基づいて、「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか?」に答えるならば、「なぜなら、言語を使用するためには「人格」概念が必要であり、かつ、ヒトは言語を必要とするからである」と答えることになる。
 
 では、「ヒトは、なぜ言語を必要とするのだろうか?」ヒトが生物として存続するためには、自分の餌を確保したり、自分の安全を確保することが必要である。それを行う上で問題状況を言語で明確に語り、その解決に取り組むことは、非常に有用である。もし問題が、<事実についての認識>と<欲求や意図>の矛盾から生じるのだとすると、問題を言語で明確に語ることは、言語で世界の状況を客観的に記述し、自分の欲求や必要を言語で明確に語ることによって可能になる。そして「自分の欲求」「自分の必要」を言語で明確に語ることは、「私は…したい」「僕は・・・する必要がある」などの表現になるだろう。つまり「人格」概念を必要とするだろう。
 
 思弁(経験的な証拠に基づかない議論)が過ぎるような気もするが、ヒトが生物として出会う問題に有効に対処するために、言語も生まれたし、人格概念も生まれた、と言えるのではないだろうか。
 
 明日から出張です。次回は多分出張先からuploadします。
 
 

ここまでの復習

 
 
 

                  ハナミズキ 異国から来て 百周年
 
1912東京市尾崎行雄が、アメリカワシントンD.C.ソメイヨシノ)を贈った際、1915にその返礼として贈られたのが、日本のハナミズキの始まりだそうです。今年が桜の寄贈100周年だそうです。(Wikipediaより
 
 ここまでの復習 (20120328)

 

この書庫の課題は、「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼを説明し、証明することだった。
 
①問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てる。
②私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立する。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立している。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖である。
③人格とは、問題群の束の連続的な変化である。
④人格の同一性を個人の記憶で保証することはできず、Davidsonのいう「三角測量」を必要とする。三角測量によって人格の同一性は、公共的に保証される。
⑤しかし、三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になるように見える。この問題を解決するために、人格の同一性を区別した。
⑥短期・中期・長期の人格の同一性の区別
 (1)三角測量と同時に成立する人格の同一性(短期の同一性)
 (2)計画する人格の同一性
  (2-1)単に計画する人格の同一性(中期の同一性)
  (2-2)約束する人格の同一性
     (2-2-1)社会制度に関わらない同一性(中期の同一性)
     (2-2-2)社会制度に関わる同一性(長期の同一性)
⑦<計画する人格の同一性>は、計画の設定、実行、変更などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
⑧<約束する人格の同一性>は、共同計画の設定、実行、変更などの合理性と、責任の発生、継続、変形、解消などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
 
まだ残されてる課題は多い。たとえば次のようなものである。
 
①三角測量が前提すると同時に三角測量によって保証される<短期の人格の同一性>の分析を行う必要がある。
②問答としての人格について、これ以上に分析を進めようとすると、「合理性」「自由」「責任」などの概念の分析を行う必要がある。
③廣松渉の行為主体論との対質。
④大庭健の責任論との対質。
⑤永井均の<私>論との対質。
 
これらの課題のうちの多くは、<人格と社会との関係>の分析を必要とするだろう。あるいは、人格と社会の関係の分析の後で、この書庫記述の多くを見直す必要が出てくるかもしれない。そこで、次に別に書庫をたて「人格を構成している個人問題が、社会問題とどのように関係しているのか」を考察したい。
 
しかし、その書庫に移る前に、そこでの議論との接続を考えて、考えておきたい問題がある。それは次の問題である。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
 
 

約束を守る義務はどのようにして発生するのか

 
                                                まどろむは、私か猫か 梅の下
 
約束を守る義務はどのようにして発生するのか  (20120323)
 
 ここでは上記の宿題に答えよう。
 
 前にもふれたが、約束における誠実性の義務は、嘘をつかないという義務の特殊ケースである。しかし、「おなかが減っていませんか」と問われて「はい減っています」と答えるときの誠実性と、「この本をくれますか」と問われて「はい差し上げます」と答えるときの答えの誠実性は、次の点で異なる。
 前者は現在の状態についての発言である。これが嘘でないとは、これの真偽に関係なく、発話者がこの返答を真であると思っているということである。後者は未来の行為についての発言である。これが嘘でないとは、発話者が実際にその本を挙げるかどうかに関係なく、発話者がその本をあげようと思っているということである。前者には真理値があり、後者には真理値がないという違いがある。
 
 人格論との関係で重要な差異は、前者は、発話者の現在の状態(おなかの減り具合)にコミットしているだけであるが、後者は、発話者の未来の行為にコミットしている点である。計画を立てるときと同様に、約束するときには一定の未来にわたる人格の同一性にコミットする。しかも、計画の時には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任はないが、約束の場合には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任が発生する。ここでは、人格の同一性を保持する責任だけでなく、そのような人格としてある行為を履行という責任が発生する。
 
 いつの間にか、約束を結ぶときの誠実性の義務が、約束の履行の義務に変わっているように見えたかもしれない、つまりこの二つの義務は不可分であるように見えたかもしれないが、そうではない。この二つを区別することは、次の二つを区別することと類比的である。
 
 「私のおなかは減っていません」という発話が誠実であるとは、発話者がその発話を真であると思っているということである。しかし、このような主張型の発話を主張するときには、誠実に発話していることだけでなく、つまり発話が真であると思っていることだけでなく、実際に発話が真であることに責任を持つことになる。誠実に主張する義務と、発話が実際に真であることに責任を持つことは異なる。これと同様に、誠実に約束する義務と、約束を実際に履行することに責任を持つことは異なる。
 約束を守る義務が発生するのは、何かを主張した時に、それが真であることを立証したり保証する義務が発生するのとよく似たことである。たとえば、何かを主張して、後で実際にそうでないことが分かった時には、彼は何らかの仕方で責任をとる必要があるだろう。これは、約束をして、それを履行しないとき、何らかの仕方で責任をとる必要があるのと同様である。
 
 主張の発話にせよ、約束の発話にせよ、相手に何かを語るとき、相手に何らかの責務を負うことになる。不誠実な主張であっても誠実な主張であっても、主張内容についての立証責任を負うことになる。同様に、不誠実な約束であっても誠実な約束であっても、約束の履行の責任を負う。
 約束の履行の義務は、おそらくは約束や主張に限らず全ての発話の場合にも生じている責任の特殊ケースなのである。
 
 次回は、これまでの流れを復習したい。
 

 
 

約束の誠実性と人格の同一性

 
 
 
■脇道:カントのうっかりミス2つ
 
うっかりミス1:カントは『純粋理性批判』序論で、数学の全ての命題は、アプリオリな綜合判断であると言う。カントにとって、数学とは幾何学と算術のことである。しかし、前回引用したように「三角形を作るには三本の線を引かなくてはならない」は分析判断である。それゆえに、<数学の全ての命題は、分析判断であるか、アプリオリな綜合判断である>とすべきだったことになる。
 
うっかりミス2:前回引用したように、カントは、「[三角形の]その二本の長さの和は三本目よりも長くなければならない」をアプリオリな綜合判断であると述べている。この命題はユークリッド原論の「命題20」にあたる。「命題」は「公理」から論理的に導出されたものである。ところで、「公理」がアプリオリな綜合判断であるので全ての「命題」(定理)はアプリオリな綜合命題になる、とカントは考える。これはよいだろう。しかし、この命題が定理である以上、これは公理から導出可能である。つまり理性の推論によって証明可能である。この点が、前回の引用部分「理性の推論によって証明することが不可能である」は、うっかりミスではないだろうか。(もちろん、前提をさかのぼって、公理まで行けば、理性の推論によっては証明できないので、究極的には証明不可能である。しかしそのような意味で「証明不可能である」と言ったのではないだろう。もし、そう言うならば、形式論理学においても、公理はもはや証明可能ではないのだから、全ての命題は、証明不可能になる。)
 
(念のためにいうと、前回は、約束をするときの誠実性と、約束を履行する義務を区別するために、カントに言及したまでであって、それ以上ではない。ここではカントの主張に依拠するつもりはない。なぜなら、カントの道徳論も法論も、「人格」を前提しているからである。それに対して、この書庫での私の課題は、「人格」概念を分析することである。
 ロックのような経験論では、全てが感覚に還元されてしまうので、人格の同一性をどう考えるかが、問題になったのだが、カントを含むドイツ観念論では、「超越論的な統覚」としての自我を想定するので、「人格の同一性」はほとんど問題にならなかった。)
 
■約束の誠実性と人格の同一性
以前に確認したように「約束の拘束力は、人格の同一性を義務にする」そこで、前回の最後に宿題「約束を守る義務をどう説明するのか」を立てたが、ここでは、その前に次の問いを考えておきたい。
 
問い「約束の誠実性は、人格の同一性とどう関係するのか?」
 
 たとえば、「来週の日曜日1時に会いましょう」と誠実に約束をすることは、少なくとも来週の日曜日までの人格の同一性を前提している。Davidsonの「三角測量」の議論が正しいとすると、私たちが何らかの信念を持つためには、他者とのコミュニケーションが必要である。したがって、私が計画を立てるためにも、潜在的には他者とのコミュニケーションが必要である。三角測量の議論では、「来週の日曜日に一時にyさんに会おう」という発話が有意味であるためには、私的言語であってはならず、公的でなければならず、したがって他者とのコミュニケーションが必要だ、と言うことであった。
 
 しかし、約束が成立するときには、計画の信念を持つために他者とのコミュニケーションを必要とするのとは、別の意味で、他者とのコミュニケーションを必要とする。「来週の日曜日1時に会いませんか?」と問われて、「はい、そうしましょう」と答えることによって、約束が成立する。約束するには
相手が必要であり、約束の発話は他者との会話の中で、より明確には上のような問答において成立する(あるいは、約束が曖昧であった場合には確認の必要があるが、それは問答によって可能になる)。
 
 これについては、二つの解釈が可能である。
 第一の解釈:xさんがyさんから「来週の日曜日の1時に会いませんか」と問われて「はい、そうしましょう」と答えるときに、yさんの問いとxさんの答えの間に、次のようなxさんの自問自答が行われている。「来週の日曜日1時にyさんに会おうかどうしようか」「会うことにしよう」
 第二の解釈:他者に問われてこたえるときに、上記のような自問自答が行われる場合もあるが、しかし他者の問いを理解し、それを自問しなおすことなく、直接に返答することもあるだろう。迷う必要のないような簡単な問いかけの場合にはそうである。
 
 おそらくは、第二のあり方がより基底的である。他者との問答を、自分一人で再現することによって、一人で考えることができるようになり、第一のあり方が可能になるのだろう。(もっとも、これが正しいかどうかは発達心理学での検証を待たなければならない。)
 
 この書庫では、<人格は問答であり、人格の同一性は問答の連鎖である>を説明し証明しようとしてきた。その際<問いは、現実認識と意図の矛盾から生じ、その現実認識と意図はそれぞれ別の問いの答えとして成立している>と考えてきた(これはこの書庫での前提であり、証明はしていない)。約束の発話「来週の日曜1時に会いましょう」というxの意図は、問いへの答えとして意味をもち得るのだが、もし第二のあり方がより基底的だとすると、その問いは、他者からの問いかけである。その問いは、「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図、しかし「土曜日まではxさんは出張している」というxとyの現実認識、そこで出てきた解決策の一つが「日曜の1時に相談する」である。「日曜の1時に会いませんか」という問いは、次の矛盾から発生する。「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図と、その意図を実現するための方策が未決定であるというxとyの現実認識との矛盾である。このように、他者の問いに答えるためには、問の共有が必要であり、そのためには問の前提である現実認識と意図(欲望、課題、計画など)の共有が必要である
 
 もちろん、現実認識や意図が全く違っているのに約束するということ(同床異夢)もありうるが、それは約束の基本的なあり方ではない。(これに対しては、「同床異夢こそが約束の基底であり、約束はいつ底割れするかわからない」という反論があるかもしれない。しかし同床異夢の場合であっても、約束によって、互いの行為調整ができている限りにおいて、何らかの現実認識や意図を共有していると言える。)
 
もし前々段落のように言えるとすると、約束は、現実認識と意図の共有に基づく共同計画として、成立することになるだろう。約束することは、共同計画の一部として人格を構成することである。誠実に約束するとは、誠実に共同計画の一部となることであり、不誠実に約束をするとは、共同計画の一部となっている振りをすることである。
 
 
(考えながら書いているせいで、結論から書き出せなくて、話が必要以上に複雑になってしまってすみません。)
 
 

<約束>と<人格の同一性>について

                                 梅の枝 生きる力の 優しさよ
 
<約束>と<人格の同一性>について  (20120304)
 
 前回までに確認したことは、私たちは計画を立て実行することによって、自己の人格の同一性を構成するということである。この文脈では、私たちが<人格の同一性>を構成する必要は、計画の必要性に由来しており、これはさらに、計画を必要とするような欲望に由来している。(この欲望は、おそらく、<<ある未来の時点t1が来れば、行為xを行おう>という形式の意図を実現することよって実現が可能になるような欲望>であると思われるが、これの検討には入らない。)
 
 (「人格の同一性」という概念とすることと、ある種の欲望は、おそらく同時に成立する。私たちが「人格の同一性」という概念を必要とするのだとすると、その概念の獲得は、それ自体が、おそらく何らの問題の答えの獲得になっているのだろう、と推測する。これについては、今後の宿題にしたい。)
 <計画する人格の同一性>について検討すべきことは、他にもありそうだが、とりあえずこれだけにして、次に進みたい。
 
 今回から説明したいことは、<約束>と<人格の同一性>の関係、言い換えると<約束>と<問答の連続性>の関係である。
 
 ところで、約束には次のようなものがある。
  ・自分との約束(?)
  ・他人との約束
  ・組織との約束(会社との雇用契約はこれに含まれる)
 
このなかで基本的なものは、<他人との約束>だろう。<他人との約束>を次のように分けることができる。
  ①法的な契約など、国家などの組織を介して成立する他人との約束
    (法的な婚姻はこれに属する)
  ②国家などの組織を介しない他人との契約
 
ここでは、②だけを扱いたい。(①については、国家や組織を考察するときに、扱いたい)
 
 まず、②と計画の違いを、簡単な例で確認しよう。
 「明日の朝10時に会いましょう」という提案に「はい」と答えた私は、明朝10時にひとと会う約束したことになる。10時にそこに行くためには、8時半には家をでなければならず、そのためには7時半におきなければならず、そのためには、12時ころには寝たほうがよい。約束をすると、それを実行するために、このように行動計画を立て、実行する必要が生じる。約束が単なる計画と異なるのは、何らかの事情が生じても、私一人で約束を解消したり、変更したりできないということである。
 
 次に<計画する人格の同一性>と<約束する人格の同一性>の類似性と差異を確認しよう。
 <約束をし、実行し、時に約束を変更すること>は、ある意味では<計画を立て、実行し、変更する>ことと似ている。これらのプロセスを通じて<人格の同一性>を主張できるのは、それらが合理的に行われているからであり、言い換えると、問答によって行われているからである。(この点で、計画する人格の同一性と類似している)
 
 ただし、約束の場合には、一人で勝手に約束したり、勝手に変更したりできない。つまり、約束は拘束力を持つ。もし約束した人格が現在の私の人格と同一でないならば、私には約束を守る義務はなく、したがって約束を破ることもできない。私は謝罪する必要がないからである。例えば、もし私が記憶喪失のために約束したことを忘れてしまっていたら、私には約束を守る義務はないだろう。なぜなら、私は約束した時と同じ人物ではないからだ。したがって、<私の人格に連
続性がないならば、私には約束を守る義務がない>
といえる。これの対偶は、<私に約束を守る義務があるならば、私の人格には連続性がある>となる。
 
 ところで、私が約束を破ることは、物理的には可能である。その場合にも、私の身体は同一性を保っている。では、人格の同一性についてはどうだろうか。もし私が約束を破ったことを認め、謝罪するのならば、私の人格の同一性は保たれているといえるだろう。
 私が、約束したことをうっかり忘れていたのだとすると、私は約束していたことを指摘されてすぐに思い出すだろう。そのときには、謝罪するだろう。そのとき、私は(私自身にとっても、相手にとっても)約束した人物と同一人物であり、約束を守る義務を負う。
 
 <約束を守る義務を負うとは、もしその義務を履行しなかったときには、責任をとる義務を負うということである。もし責任を取らなかったならば、責任を取らなかったことについての責任をとる義務を負うということになるだろう。一旦背負った義務は、もしそれが履行されなければ、形を変えて別の義務となり、履行されるまで、どこまでも迫ってくる。>
 
 したがって、次が帰結する。
 <一旦約束をすると、仮に約束を実行しないとしても、実行しないことについての責任をとることを要求され、私は同一人物であり続けることを要求される。>
 
 つまり、<約束の拘束力>は<人格の同一性>を義務にする
 
 では、なぜ<約束の拘束力>が生まれるのだろうか。
 
 
 
 

<約束>の前にもう一点

    
                        
 
                                         花を待つ 桜の枝の 頼もしさ
 
 
 <約束>の前にもう一点 (20120227)
 <約束する人格の同一性>を論じる前に、<計画する人格の同一性>についてもう一点検討しておくべきことがあった。
 前回までは、<単に計画する人格の同一性>について説明した。<計画する人格の同一性>を構成しているのは、様々な計画の設定、実行、修正などの調整の<合理性>であり、それは計画の調整のための問答によって保証された。この計画調整のための問答の連鎖が、<計画する人格の同一性>に他ならない。
 以上の説明は、計画と<人格の同一性>の共時的な関係、あるいは構造的な関係である。
 それでは、発生の上で、計画と<人格の同一性>はどのように関係しているのだろうか。(<約束>について考える前に、これを考えておきたい。)
 
 ここでは、計画の設定と実行を分けて考える必要がある。
 計画を実行するためには、実行する期間にわたる人格の同一性が必要である。
 では、単に計画を立てるだけのためなら、実行する期間にわたる人格の同一性は必要ないのだろうか。そうではない。実行する期間にわたる人格の同一性は「計画」そのものの中に組み込まれているはずであるので、計画を立てるときに、すでに実行する期間にわたる人格の同一性が想定されている。そして、計画を立てただけの時点では、計画を実行するための人格の同一性は、未来の事柄である。たとえば「丸太小屋を建てる」という計画を立て時点においては、計画を実行する過程は未来の事柄である。未来にわたる人格の同一性は、現在の私の期待の内容にとどまる。
 計画を立てることは、同時に、実行プロセスにおける人格の同一性を期待ないし想定することでもある。計画を実行することは、その期待した人格の同一性をまさに実現する過程でもある。普通の大人のように、これまでに、計画を立て実行した経験があるならば、その経験によって形成された過去の<人格の持続>を未来に期待して、それを実現することができるだろう。
 では、生まれて初めて計画を立てる場合はどうだろうか。その場合であっても、自覚的に事前に計画したのではないが、結果として振り返ってみれば、時間経過を必要とする仕事を成し遂げた、(たとえば、家から小学校まで歩いて行くというようなこと)という体験がもしあれば、つぎにはそれを事前に意図して、学校に行くこと、あるいは他の場所に行くことを計画することが可能になるだろう。
 計画を立て実行する体験を重ねれば、次第により長期のより困難な計画を立て実行することもできるようになる。こうして私たちは、さまざまなスキルを身に着けるとともに、自分が何者であり、何ができるか、何ができないか、を理解するようになる。
 
 もう一度整理すると、私たちは過去の<人格の持続>の体験をもとに、未来の<人格の持続>を必要とする計画を立てる。そして、それを実行することによって、<人格の持続>を実現する。もちろん、うまくゆかないこともあるし、計画を修正することもあるだろう。しかし、発生の上での、計画と<人格の同一性>の基本的な関係は、このようなものであろう。

 

合理性と同一性

 
 

 

                寒椿、穏やかな雨に、色を増す
 
 
合理性と同一性
 
 計画したり、計画を変更したりすることが可能なのは、計画が事前意図、行為内意図と変化したり、計画実現のための部分計画を立て、順番に、あるいは、同時に実行したり、必要に応じて計画を変更したりするときに、一つの人格が持続していることを前提する。逆に言うと、非常に複雑に関連している計画の設定、実行、変更において、一つの人格が持続しているといえるのは、計画の設定、実行、変更が、「合理的に」行われているからである。
 「合理的に」というのは、もし「合理的に」行われていなければ、仮に行動するものの身体の持続性があっても、人格の同一性があるとは言えないからである。人格の同一性があるためには、意識内容の単なる連続性だけではおそらく不十分である。意識内容の諸部分が少しずつ連続的に変化していく場合であっても、意識内容全体としては連続的に変化したといえる。しかし、その変化がもし無秩序なものであれば、そこに人格の同一性があるとは言えないだろう。
 その「合理性」は、計画の設定や分割や変更が問答によって行われているということである。それゆえにその変化に理由があり、もしその理由が問われるならば、当の行為者は即座にそれに答えることができる、ということである。
 
 このように考えるとき、<計画する人格の同一性>にとって重要なのは、問答によって構成される「合理性」であって、<計画>はあまり重要ではないと思われるかもしれない。なぜなら、<計画>は問答によって設定される事前意図にすぎず、それをいつでも変更でき、変更しても同一性が損なわれるわけではないのだからである。
 
 すべての事前意図は計画なのだろうか。それとも、計画は単なる事前意図とは異なるのだろうか。
 
 
 
 

計画と問答

宮本武蔵の生家です。昭和17に火災にあって再建されたものです。それ以前には、茅葺だったそうです。
人格の同一性も、家の同一性も、変化を乗り越えて、社会的に構成されます。
 
 
 計画と問答
 
 計画は、問答とどのように関係しているのかを考えよう。
 以前に述べたように、問いは現実認識と意図の矛盾であり、それらの現実認識や意図それ自体も、別の問いの答えとして生じる。計画は、それが最初に設定されるときには、事前意図である。その事前意図は、何らかの問いの答えとして設定されるものである。
 
 では、計画は、どのような問いに対するどのような答えなのだろうか。
 意図は、行為の理由であるが、行為の理由には、大抵より上位の理由(意図y)がある。より上位の意図(y)と現実が矛盾するとき、「yをどのように実現しようか」という問いが生まれ、その答えとして「ある行為xをしよう」という意図が答えとして与えられることになる。これが計画(事前意図)になる。計画である事前意図は、より上位の意図について「それをどのように実現しようか」という問いに対する答えなのである。そのより上位の意図もまた、別の問いへの答えとして得られたものであろう。
 
 ところで、<計画する人格の同一性>において重要なのは、計画の変更である。私たちは、しばしば計画の変更を行う。もし計画の変更が合理的な根拠もなくランダムに生じるのだとすると、そのとき、その人格の連続性を我々は身体にしか見いだせないだろう。計画が変更されたときにも、人格の連続性ないし同一性を確保できるのは、その変更が、より上位の計画に基づいていたり、以前から持っていたその人の欲求や信念に基づいていたりする場合であろう。
 
 では、このような計画の変更は、問答とどのように関係するのだろうか。たとえば、次のように考えて、計画を変更するとしよう。「日曜日に買い物に行こうと計画していたけれども、一週間後の研究発表のことを考えると、そんなことをしている余裕はない。日曜日は、発表の準備を優先した方がよいだろう。」
 この場合に、計画の変更をすることになったのは、次のような理由である。私たちは、たいていは複数の計画を同時にもっている。日曜日に買い物に行くこと、来週の研究発表を行うこと、あと2時間すれば、大学を出て帰宅すること、その途中でコンビニによること、などである。これらの計画は、ある計画とその部分計画という関係の場合もあれば、とりあえず無関係な計画の場合もある。二つの計画の両方を実現することの困難が予測されるとき、「どうしようか」という問いを立て、多くの場合、一方を優先させて、他方の計画を変更する。多くの計画を同時に抱えている以上、しばしば、このような調整のための変更が必要になる。この調整の際には、問答が行われており、計画の変更はそのような問いの答えである。多数の計画の調整統合は問答によって行われており、この問答が人格を構成している。
 
 

<計画する人格>の同一性

 
 
厳寒に ゆっくり動く オブジェかな 
 
 
<計画する人格>の同一性
 
これまでの議論の流れの中で、<人格の長期の同一性>は社会制度に関係するものであり、<人格の中期の同一性>は、<計画する人格の同一性>であるとしたが、前回も触れたように<計画する人格の同一性>の中には社会制度に関係するものもあった。そこで、次のように修正しておきたい。
 
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位分類として次の二つ、
  <社会制度に関わるもの(長期の同一性)>
  <社会制度に関わらないもの(中期の同一性)>
を区別する。
 
ところで、「明日同じ時間同じ場所で会いましょう」という約束をすることは、計画を立てることでもある。そこで、<社会制度に関わらない中期のもの>をさらに次の二つ区別したい。
  <単なる計画によって必要になる人格の同一性>
  <約束によって必要になる人格の同一性>
この二つは異質である。
そこで、もう一度分類を修正しておきたい。
 
<計画する人格の同一性(中期と長期の同一性)>の下位区分が
  <単に計画する人格の同一性>
  <約束する人格の同一性>
である。この<約束する人格の同一性>のさらに下位区分が
    <社会制度に関わる同一性(長期の同一性)>
    <社会制度に関わらない同一性>
である。
 
 
まず<約束による計画ではない単に計画する人格の同一性>から考えよう。
 
行為論では、行為内意図(intention in action)と事前意図(prior intention)を分ける。行為内意図とは、「何をしているの?」と問われて、「コーヒーを淹れているんだ」と即座に観察によらずに答えられるのは、「コーヒーを淹れる」という意図をもって私が行為しているからである。このような行為を構成している意図を行為内意図と呼ぶ。それに対して、「お湯が沸いたら、お風呂に入ろう」と意図しているが、まだお湯が沸いていないのでTVを見ながら待っているとき、「お風呂に入ろう」という意図は、「事前意図」である。 
計画は、行為内意図だろうか、事前意図であろうか。普通に考えれば、「今度の日曜日に買い物をしよう」というような計画は、事前意図である。しかし、全ての計画が事前意図であるのではない。上の計画に基づいて、私が今自動車でショッピングセンターに向かっているところだとしよう。私は、すでに計画を実行中である。しかし、まだ買い物は完了していない。この場合には、計画は行為内意図である。
 
今が金曜日で、次のように考えたとしよう。
  ①日曜日に買い物をしよう
これは金曜日と土曜日には、計画であり、かつ事前意図である。
 
さて、日曜日になり、今まさに私は自動車でまさにショッピングセンターに向かっているとしよう。
  ②今日は買い物をしよう
これは、現在進行中の計画である。これは「買い物をする」という行為内意図である。
  ③自動車でショッピングセンターに向かう
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に現在の行為内意図である。
  ④ショッピングセンターについたら4階へ行こう。
これは計画(これは②の計画の部分計画である)であると同時に事前意図である。 
 
整理するとこうなる。ある計画が進行中である時、その計画は行為内意図である。そのとき、その計画のさまざまな部分計画の内のあるものは、行為内意図であり、他のものは、事前意図である。
 
ところで金曜日と土曜日には、①の計画は事前意図である。しかし、事前意図を持つとき、その行為はまだ開始されていないが、私の行為は、計画を立てること(事前意図をもつこと)によって拘束される。つまり①のような計画を立てたならば、(計画を変更する場合を除いて)土曜日に23日の旅行に出発したりしない。つまり、事前意図段階の計画も人の行為を拘束する。その拘束がその間の人格の同一性を必要とするものであり、また人格の同一性を構成するものである。もちろん実行中の計画もまた同様に人格の同一性を要求し、かつ構成する。計画設定から計画完了までの行為の拘束は、このような意味で人格の同一性を構成する。
 
つぎに、このような計画が、問答とどのように関係しているのかを考えよう。
 

中期の人格の同一性

一里松、百五十年、海を見る
 
中期の人格の同一性
 
 短期と中期の人格の同一性を区別するメルクマールとして、「計画」に注目したい。
 
「明日の朝は、早く起きて仕事にゆかなければならないので、お酒をこれ以上飲むことは、やめておこう」とか「211日の研究発表に間に合わせるためには、この週末に草稿を仕上げておこう」とか、ひとは計画に追われて生活している。追われているにせよ、自ら立てるにせよ、私たちは計画を立てて、生活している。
 計画には、社会との関係で必要になるものもある。例えばローン返済の計画を立てるというようなことである。ここでは、社会との関係において立てられる計画については、考えない。(それについては「社会とはなにか」を含めて、別の書庫で考えたい。)
 ここで考えたいのは、上記の例のような、我々が日常生活で個人として立てる計画である。ブラットマンは「人間は計画する生き物である」と述べ、特に行為論の文脈で計画のもつ重要性に注目する。(参照、ブラットマンの論文「計画を重要視する」『行為と自由の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 259。日常生活において、「計画をもつということはどのようなことなのか」を検討し、計画設定の合理性や、計画に従って行為することの合理性や、計画の変更の合理性など、計画にかかわる我々の行為の合理性について、様々な検討を行っている。ブラットマンによれば、計画は「行動を制御する肯定的態度」である。計画は、個人間の調整の役割もはたす。計画にはある程度の安定性があり、重大な問題に直面しない限り、「それを再検討しない」。計画は、部分的であって、あらゆる状況を想定しないし、身体運動の細部まで指定しないし、計画の細部まで詰めない。)
 
 現代の行為論ではしばしば、行為は<信念と欲求>によって説明される。信念とは、現実についての認識である。それゆえに、行為のこの説明は、問いを<現実認識と意図>の矛盾からなると説明することと似ている。このように行為の説明方式と問いの説明方式似ていることには、次のような原因がある。つまり、意図的な行為は、つねに問題解決のための行為であるということだ。<信念と欲求から行為が説明される>のは、<信念(現実認識)と欲求(ないし意図)の矛盾から問いが生じ、その解決として行為が行われる>からである。
 欲求と意図は、もちろん異なる。我々は、テレビを見たいという欲求と、明日の仕事の準備をしたいという欲求など、両立しない欲求をたくさん持っている。その欲求に応じて、様々な問いが思い浮かぶ。しかし現実に採用できる欲求は一つだけであり、それが意図となる。(意図については、両立しない意図をもつことはできない。)そのとき、さまざまな欲求に応じて想定されたさまざまの問いの中から、意図に対応したある問いが現実に採用され、問われることになる。
 欲求と計画の関係についていうと、とりあえず、次のようになる。行為が計画によって制御されるとき、行為は信念と計画によって決定される。テレビをみたいという欲求が強くて、仕事の計画が変更されるときもあるかもしれないが、仕事の計画を実行するために、テレビをみたいという欲求を無視することになる。ダイエットの計画を実行するために、ケーキに手を付けるのをあきらめる。
 
 このように<計画する人格>は、<単に欲求する人格>とは異なる種類の同一性をもつだろう。この違いについて、もう少し詳しくけんとうしてみよう。