10 二階の欲求とお金への欲望

                         蝉が必死に鳴いています
 
10 二階の欲求とお金への欲望(20130731)
 
お金の登場によって、いくつかの問題が、一人で解決できる問題になりました。そのような問題が、ふえることによって、そのような問題に取り組む主体としての「個人」を作り出すことになった可能性があります。
 
お金で解決できない個人の問題もありますが、それは近代以前には個人の問題ではなく、家や共同体の問題であったのです。それが近代以後に個人の問題とみなされるようになるのは、個人が登場したからに他なりません。
 
ところで、お金で解決できる問題には、二種類あります。一つは、お金がないという問題です。お金がないという問題は、お金を獲得することによって解決出来ます。もう一つは、お金で財やサービスを購入して解決できる問題です。それは、空腹を満たすことであったり、自動車を修理することであったりします。コンビニでパンを買って、空腹を満たすことができます。パンを食べたいという欲求を満たすために、お金が欲しいと欲望する時、お金が欲しいという欲望は、パンを食べたいという欲求を満たしたいという欲望です。それは二階の欲求です。お金は、様々な欲求をみたす手段になりますから、お金が欲望しいという欲望は、様々な欲求を満たしたいというより一般的な欲望になります。あるいは、特定の欲望を超越したより抽象的な欲望になります。
 
そこで、フランクファートのいう「二階の欲求」概念を用いてお金への欲望を分析したいと思います(H. G. Frankfurt, ‘Freedom of the will and the concept of a person' in The Importance of What We Care About, Cambridge UP.,1988. 近藤智彦訳 「意志の自由と人格という概念」『自由と行為の哲学』門脇俊介+野矢茂樹編・監修、春秋社)
 
フランクファートの定義では、「一階の欲求」とは、「あることをすること(あるいはしないこと)を欲求すること」です。これに対して「二階の欲求」とは、「ある欲求をもつこと(あるいは持たないこと)を欲すること」です。「xへの欲求をもつことを欲する」としても、xを欲しているとはかぎりません。たとえば、彼の例では、麻薬中毒者を治療している医師は、麻薬に対する欲求がどんなものかを理解したくて、「麻薬に対する欲求をもつことを欲している」。しかし、麻薬を欲しているのではありません。もちろん、「xへの欲求をもつことを欲する」ときに、xを欲していることもあります。例えば、ある人がお金を稼ぐためにパンを作っているとしましょう。彼女はパンが好きで、美味しいパンを食べるという欲求をもっています。彼女は仕事熱心で、お客さんのパンへの好み、つまりお客さんの好みと同じようなパンへの欲求をもちたいと欲しています。これは、二階の欲求です。
 
このような二階の欲求は、行為の目的手段関係と次のように関係します。今仮に、目的Xを実現するためには、行為Yをしなければならないとしましょう。そして、ある人がXの実現を欲求しているとしましょう。このとき、彼女には行為Yをする必要があります。彼女が行為Yをしようとするとき、彼女は行為Yへの欲求をもつこと欲することでしょう(特殊な場合にはこのことが成り立たないかもしれませんが、大抵の場合はこのように言えるとおもいます)。これは二階の欲求です。
 
お金は、目的にも手段にもなるので、次の2つのケースが考えられます。
①何かの財やサービスを手に入れるという目的あり、そしてお金でそれを手に入れることができるとき、お金を手に入れることは、その目的実現のための手段になります。それゆえに、お金
への欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
②お金を稼ぐことが目的であって、働くことがその手段であるとき、お金への欲求から、働くことへの欲求をもつことを欲するという二階の欲求が生まれます。
 
 
(注:フランクファートは、書庫「問答としての人格」で取り上げたストローソンの人格論を批判します。ストローソンによれば,意識状態は常に一定の時間空間上で同定されるのであり、それゆえに意識状態と身体は不可分です。つまり「人格」こそが、原初的な概念なのであって、「身体」と「意識状態」から合成して作られる概念ではないということです。もっと言えば、「人格の同一性」こそが原初的な同一性概念なのであって、それを他のものの「同一性」から説明することはできない、ということです。
 これに対して、フランクファートは、このような人格概念は、動物にも当てはまるので、これによって動物と人間を分けることができないと批判しました。(それにたいして、ストローソンならばどう答えるでしょうか。これについては、書庫「問答としての人格」で論じるのがよいでしょう。フランクファートは、二階の意欲をもつことで、動物と人間(人格)を分けようとしました。
 これにたいして、ストローソンならばどう反論するでしょうか。これはまた別の機会に。)
 
 
 
 

09 お金と個人的問題

 
 
09 お金と個人的問題(20130724)
 
前回述べたように「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」。この「多くの問題」の中には、多くの個人的な問題も含まれています。前回述べたようにお金では解決できない個人の問題もたくさんありますが、お金で解決できる個人の問題もたくさんあります。(お金で解決できない問題の中には、死、老化、病、結婚、出産に絡む問題があり、それらの問題は、貨幣社会誕生前からある問題です。他方では、住まいの獲得、食べ物の獲得、など貨幣社会以前からある問題であって、貨幣社会になってからお金で解決できるようになった問題があります。もちろん、お金で解決できる問題の中には貨幣社会になってから生じた新しい問題もあります。)
 
ところで、05で述べたように、いわゆる「近代的個人の自由」は、資本主義社会が可能にした自由であり、その自由は、貨幣の流動性とほとんど同義なのだとしましょう。そうすると、お金で解決できる問題が、近代的個人を構成している問題なのではないでしょうか。お金で解決できない問題は、近代的個人が登場する前からあった問題です。しかし、それらが個人の問題になったのは、個人が登場した後のことであり、近代以前には、それらは家族の問題であったり、共同体の問題であったのではないでしょうか。
 
「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのではないでしょうか」
 
「近代的個人は資本主義社会の中で誕生した」ということは、陳腐な真理です。それは、資本主義社会が、財やサービスや労働の自由な売買契約に基づく社会であり、その中で、所有と契約の主体として「個人」が成立したという意味です。
 
しかし所有と契約の主体としての個人が、売買契約をするのは、それが必要だからであり、それによって何らかの問題を解決するためです。売買契約によって彼が解決しようとしている問題もまた、彼を個人に構成しているものなのです。それが売買契約によって解決できる問題である以上、それはお金で解決できる問題なのです。つまり、「お金で解決できる問題が、近代的個人を作ったのです」
 
 

08 交換手段=問題解決手段

 
 
 
08 交換手段=問題解決手段 (20130715)
 
 人がお金である商品(財、サービス、など)を買うのは、その商品が必要だからです。その商品が必要なのは、通常は(買った商品をより高く売るためではなく)その商品によって何かの問題を解決するためです。それは飢えを満たすことであったり、寒さをしのぐことであったり、住まいを快適にすることであったり、気分転換をすることであったりするかもしれません。個人が抱えている多くの問題を、商品(財、サービス、など)の購入によって解決することができます。
 たとえば、自動車の修理が必要な場合には、その問題を解決するために必要なことは、それに必要な代金を稼ぐことです。ほとんどの問題は、その解決に必要なお金を稼ぐことで解決できます。お金は、万能ではありませんが、ある程度、一般性を持つ問題解決手段です。この場合、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 お金が問題解決手段となるのは、個人の問題に限りません。国家は、社会問題を解決するために作られた組織ですが、国家は、軍隊や警察や刑務所、裁判所や病院や学校、などの組織によって様々な社会問題を解決しようとします。そのとき、国家は、力を行使する権利を必要とするだけでなく、その活動のためのお金を必要とします。軍隊や警察の権力を持つためには人件費や施設や装備を購入するためのお金が必要です。そのためには徴税が必要になります。この場合にも、問題の大きさは、解決のために必要な金額で表現できます。
 もちろん、お金で解決できない問題もたくさんあります。個人の場合には、死、老化、病気、就職、進学、結婚、出産、などの問題、国家の場合には、領土問題、戦争責任問題、人権侵害などの問題です。会社のかかえる問題にもおそらくお金で解決できない問題があるでしょう。
 とりあえず、私たちは個人や社会の問題をつぎの3つに分けることができます。
 ①お金で解決されている問題
 ②お金で解決可能であるが、支払い能力を超えているためにお金で解決できない問題。
 ③お金では解決不可能な問題。
 
イノヴェーション(新商品の開発など)によってある問題を解決することは、(ある場合には)、③ないし②の問題を①の問題に変換することです。(イノヴェーションには、他のケースもあるでしょう。)
 
「私達の社会は多くの問題をお金で解決している社会です」
これはごく当たり前のことですが、このテーゼのもつ含意が汲み尽くされていないように思えます。
 
 

 

07 価値尺度と功利主義

 
 
             一枚目のお好み焼きと二枚目のお好み焼き、その心は?
 
07 価値尺度と功利主義 (20130708)
 
すべての商品の価値が貨幣で図られる時、そこでは使用価値の差異は無視されます。功利主義者が、快楽や幸福の質を区別せず、すべての快楽や幸福を量で測れると考えたことは、すべての商品の使用価値の質の違いを無視して、すべての商品をその交換価値の量で測れると考えたことと似ています。交換価値の同じ商品が交換可能であるのと同じく、量の同じ快楽や幸福は交換可能なものと見なされます。
 
私があるお金を持っている時、それでどの商品を買うかは、私の自由です。そのとき、私がどの商品を買うかで私の快楽や幸福の質は異なります。それだけでなく、そのとき何を買うかで私の快楽および幸福の量も変化します。
 
あるお金で買える商品によって得られる満足は、どの商品を買っても同じというわけではありません。もしそうならば、店先でどれを買うかで悩んだりしないでしょう。選好に個人差があるということももちろんですが、限界効用逓減の法則があるからです。一杯目のコーヒーも二杯目のコーヒーも同じ値段であるが、二杯目のコーヒーのもたらす満足は、一杯目のコーヒーのもたらす満足よりも少なくなります。これが、限界効用逓減の法則です。そこで経済学では、ひとは、一定の金を使うときには、ひとつないし少数の商品ばかりを買うのではなくて、様々な商品買うことによって、貨幣単位あたりの限界効用が最大になるような仕方で消費すると考えます。
 
私たちにとっての快楽や幸福は、私が自由に選択できるものであす。その限りで、逆にいうと私はその快楽や幸福を選ばないこともできたということですから、それらの快楽や幸福から自由であるということです。私にとって不可欠な快楽や幸福と私にとって偶然的な快楽や幸福の区別は、功利主義者にはないのです。そこにあるのは量的な区別だけであって、質的な区別はないからです。
 
快楽や幸福を選択する私は、その限りで快苦から独立な自己です。売買できる能力や権利をもつ主体が存在すること、つまり功利計算ができる理性的で自由な選択の主体が存在することは、資本主義社会にとっても、功利主義にとっても、社会の不可欠な前提条件です。