27 間話 お盆に考えたこと

                巨大な橋がつなぐ故郷です。
 
27 間話 お盆に考えたこと (20130822)
閑話ではないですよ。間話(intermezzo)です。
 
 久しぶりにこの書庫「問答としての社会」に戻ってきました。
 
 この書庫「問答としての社会」では、 「社会問題」を次のように定義しました。
<一人では解決できない問題があり、それを解決するために複数の人々の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む人々の集団を「社会」と呼ぶ>
 ここでは、家族や部族や国家もまたこのような意味の「社会」の一つだと考えてきました。ここには2つの問題があります。
 
 ①人間は、類人猿の段階から群れで生活していました。従って、個人が登場する前から、人間は集団を作っていたのです。そのことがこの定義には十分反映されていません。もちろん、それは起源についての話なので、それが現在の社会集団を説明するために適切であるとは限りません。そして、起源の説明と、現在の社会の説明の両方を同時に追求することは難しいです。そこで、現代社会の説明を優先しつつ、この定義を改良するという仕方で探究を進めたいと思います。
 
 ②さてこの定義では、家族や部族や会社などの説明ができたとしても、国家の説明はできないということに気づきました。なぜなら、柄谷行人によると、国家は共同体の共同体として誕生したからです。柄谷(あるいはマルクス)のこの指摘は正しいように思われます。このことは、歴史研究によって検証すべき事柄ですが、つぎのように推測して見ることはできます。
 人間は類人猿の段階から集団を形成していたので、国家が出来る前にも集団があった。人間は個人では解決できない問題を集団で解決していました。しかし、既成の集団では解決できない問題が生じてきたために、<既成集団とは別に、あるいは既成集団を解体して>、国家というより大きな集団を作った、と考えることができます。しかし、この後者の可能性は少ないとおもいます。なぜなら、既成集団が解決していた問題があるのですから、その問題解決のために既成集団を残しておくことが合理的だからです(ただし、この選択は新しく登場してきた問題の内容に依存します)。もう一つの可能性は、<既成集団では解決できない問題が生じたために諸集団が集まってより大きな組織を作った>ということです。柄谷(マルクス)はこちらが正しいと考えるのです。もし新しく生じてきた問題が、個人にとっての問題というよりも、共同体の存続に関わる問題であるなら、後者の可能性が高いでしょう。そして、私もまた後者が正しいだろうと推測します。それは新しく生じてきた問題とは、「いかにして他の共同体との戦いを避けて、共同体の存続を確保するか」という問題であっただろうと推測するからです。
 このとき、国家は次のように定義できるでしょう。<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、この問題に取り組む共同体の集団を国家と呼ぶ>
 おそらく、起源の説明としては、共同体の共同体は正しいのです。しかし、近代国家では、この性質が隠されています、あるいは消失したのかもしれません。
 近代の国家契約論は、自然状態にある個人が安全のために契約によって国家を作ると説明します。この定義は、国家が共同体の共同体であることを隠蔽することになりました。近代国家では、国家が主権を持ち、中間共同体が国家に対する自律性を失い、完全に国家の下位集団になり、国家が、共同体の共同体から、諸個人からなる共同体になったのです。
ace=”MS 明朝”> 国家契約論者は、国家の起源は共同体の共同体であるにしても、当時の国家の本質はすでに共同体の共同体ではなく、諸個人からなる共同体にある(あるいは、あるべきだ)と考えたのでしょう。
 これは、時代を先取りしていたとともに、国家の本質を一点において捉え損なったと思われます。まず、これが時代を先取りしていたことを確認しましょう。
 
■個人問題がふえるとき、家族や共同体の問題が減少する。
 ひとが単独で解決できる問題の増加は、個人を作り出します。言い換えると、人が共同体に依存することによって解決した問題が、お金によって一人で解決できる問題になるとき、既成共同体が解決する問題は減少します。米作りのためには、田に水を入れるための共同作業が必要です。しかし、会社に雇用されて、会社で働いてお金を得る場合には、地域共同体との関係は、希薄になります。食事作りや洗濯や風呂を沸かすことが時間のかかる仕事であるなら、家族での分業を必要としますが、機械によって一人で簡単にできるようになると、家族との関係は希薄になります。個人が単独でお金によって解決できる問題が増加すれば、地域共同体や家族の必要性が減少します。貨幣経済によって個人がお金で解決できる問題が増加することによって、「個人」が誕生することによって、中間共同体の弱体化とそれに対応した近代的主権国家の誕生がもたらされたのです。
 中間共同体の弱体化と、近代的主権国家の登場とは、次のように関係しています。土地と労働時間が商品となることによって、封建制は崩壊します(中間共同体は弱体化します)。その代わりに、市場のルールの明確化やそのルールの履行を保証し、貨幣の交換価値を保証する国家権力が必要になります。
 ナショナリズムは、国家内の文化的言語的社会的多様性を無視して、均質的統一性を強調するのですが、国家契約論がすでに、国家内の中間共同体を無視して、均質な統一性を強調する国家論になっています。
 共同体との感情的な結合が、中間共同体の消失とともに失われると、それに変わる同一化の対象が国家に求められるようになり、そこにナショナリズムが生まれてきたと言えるかもしれません。最近の日本で言えば、会社への同一化ができなくなるときに、国家への同一化をもとめ、それが近年のナショナリズムの復活になっているのかもしれません。
 
■次に国家契約論によって隠された点を確認しましょう。
 それは国家の超越性とでも呼ぶべき特徴です。
 もし国家が、諸個人が集まって契約によって作った共同体であるとすると、冒頭に上げた「社会問題」と「社会」の定義が国家にもそのまま当てはまります。しかし、もし国家が共同体の共同体であるとすると、国家の定義は、<共同体が抱えるある問題が、その共同体単独では解決できず、複数の共同体の協力ないし共同が必要な問題であるとき、そのような問題に取り組む諸共同体の集団>となります。この後者の場合には、個人にとっての問題であるが、個人では解決できない問題を解決するために国家を作ったのではなくて、共同体の存続という共同体にとっての問題を解決するために作られたものが国家です。共同体によって個人に関わる問題を解決してきたのですから、共同体の存続問題は、もちろん個人にとっても重大問題です。しかし、それは個人にとっての直接的な問題ではありません。
 個人問題の解決xのために共同体yを作り、共同体yの存続のために国家zを作ったとすると、xという目的の実現手段が、yであり、yの実現手段がzです。個人の生活がyの中にほとんど閉じている時には、zは個人にとっては直接関わることのない遠い存在です。さて、この状態から、貨幣経済によって、個人問題の解決xが(すべてではないにしても、また完全にではないにしても)yに依存しなくても解決できるようになり、yが弱体化し、その代わりにxが直接にzによる働きかけを必要とするように変化したとしましょう。このとき、個人の問題解決のために、国家が必要になっているのです。そして国家は、そのような働きによって個人から正当化されているのです。しかし起源において国家は個人が作ったものではありませんでした。国家は共同体が作ったものであり、個人を超越した存在でした。国家は、個人によって正当化されており、またそのような正当化を必要としているとしても、それ以前の共同体とは異質と言えるほど、個人からは遠いものです。
 
定義を、とりあえず次のように変更したいとおもいます。
<個人あるいは社会組織が単独では解決できない問題があり、それを解決するために複数の個人あるいは社会組織の協力ないし共同が必要であるような問題を「社会問題」とよび、その社会問題の解決に取り組む個人ないし社会組織の集団を「社会」と呼ぶ>
 

 

24 経済活動とは何か

                                  年の瀬に賑わう道後です
 
24 経済活動とは何か (20130122)
 
12回目 (20120626)で示した図式の中に経済活動をどう位置づけるのかという問いに答えるには、「経済活動とは何か」に答える必要があります。
 
百科事典には次のような説明があります。
 
「〈経済〉とは,衣食住など物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体である。われわれ人間も他の動物同様,ものを食べなければ生きていけない。しかしわれわれがものを摂取する過程は,動物とは根本的に相違する。・・・われわれは単に生理的要求から消費しているだけでなく,文化的要求を満たすためにも消費している。すなわち文化を食べ,文化を身にまとい,文化のなかに住み,文化を呼吸し消費しなければならない。」(『世界大百科事典』平凡社、項目「経済」より)
 
この定義の中心的な部分は、次のとおりです。
  「衣食住などの物財の生産・流通・消費にかかわる人間関係の全体」
このなかに織り込み済みなのでしょうが、二点気になるので注記しておきます。
  1、狩猟採集を考えるならば、生産だけでなく、獲得もあげる必要があります。
  2、情報社会での財は物財に限らない。
 
 ポランニーや柄谷は、財の交換様式を、互酬性と再分配と商品交換の3つに区別しています。柄谷によると次のように歴史的に変化してきました(参照『世界史の構造』)。
  互酬性は、氏族社会の主たる交換様式
  再分配は、アジア的国家、古典古代国家、封建的国家における主たる交換様式
  商品交換は、近代国家の主たる交換様式です。
 
この三つのうち互酬性や再分配は、同時に政治の仕事でもあったと思われます。それらについては、経済と政治をはっきり分けて考えることはできません。政治と経済を分けて考えられるようになったのは、近代国家になり資本主義が発達して、交換が経済の統合形式になってからのことでしょう。
 
以上が「経済活動とは何か」へのとりあえずの答えです。
 
次に「経済活動を先の図式にどのように位置づけるのか」という問いに答えたいとおもいます。互酬性や再分配という制度は、政治制度でもありますから、社会問題を解決するものであったといえるでしょう。問題は商品交換です。  
「商品交換を先の図式にどうのように位置づけるのか」という問いに対しては、貨幣や市場は、社会全体で取り組まなければ解決できない社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。
 しかし、個々人が行う個々の商品交換は、個人が個人的な問題を解決するために行う行為です。これは社会問題ではなく個人問題にかかわる活動であるように見えます。
 

 

仕切り直し

 
 
23 仕切り直し (20130106)
 
 久しぶりにこの書庫に戻って来ました。
 「会社は社会組織であるか」という問題に手間取っていましたが、会社は、社会組織であると思います。なぜなら、利益の追究が会社の目的であるとしても、一人では追求できない利益を複数の人間が会社を作って追求するのならば、それは複数の人間にしか解決できない社会問題を解決するための社会組織だと言えるからです。(この場合の「社会問題」という語の用法が、通常の用法から少し離れているので、それがこの問いの扱いを混乱させていたのだと思います。しかし、複数の人間でしか解決できない問題を解決する複数の人間が「社会」を構成するのであり、その問題を「社会問題」と呼ぶという定義に忠実に考えるならば、会社は、社会組織です。)
 
 ところで、ドラッカーによると、会社の基本的機能の一つは「マーケティング」です。マーケティングとは、市場での取引、あるいは販売促進活動です。会社は市場と貨幣を前提しています。市場は、「安定的に財の交換をおこなうにはどうすればよいのか」という社会問題を解決するために作られた社会制度だといえるでしょう。市場は、最初は、場所と時間が限られる仕方で、例えば、一定の場所で定期的に開かれる物の交換場所として登場したと思われます。もし定期的でなければ、それは単なる物の交換であって、市場とはいえません。物の交換が、定期的にある場所で開かれる市場として制度化される時、その運営が必要になります。つまり市場はひとつの組織であり、社会制度の一つです。
 会社は、市場や貨幣という社会制度を前提して、そこで生じる社会問題を解決するための社会組織の一つだと言えます。
  ところで、ポランニーは、人類の歴史上の経済システムは、互酬性、再分配、交換の3つにわかれると言います。市場は、交換のために作られた社会組織です。経済を考えるには、もう少し基礎的なところから考える必要があるようです。
 
 そこで、ここで少し仕切り直ししたいと思います。この書庫を読みなおして、「問答としての社会」という図式において気になる点は、次の3つです。
  「経済活動はこの図式とどう関係するのか」
  「文化はこの図式とどう関係するのか」
  「個人問題と社会問題の関係をどう理解するのか」
 
そこでまずしばらく「経済活動は、この図式とどう関係するのか」という問いに答えたいと思います。
 
 

会社の利益と人生の幸福

                夏の大阪城です 
 
22 会社の利益と人生の幸福 (20120831) 
 
社会組織は、次の二つの条件を満たすものでした。
  ①社会問題の解決のために作られ、
  ②そのようなものとして正当化される
(ところで、この①と②の条件が満たされるかどうかを判定するのは、だれでしょうか。専門家が判定するのでしょうか。それとも、当該社会の成員の合意によるのでしょうか。これについては、後で考えたいと思います。)
 
この①と②を満たすのは、国連などの国際組織、国家、州、県、郡、市、町、村、など地方公共団体、国営企業、NGO、NPO、これを満たすでしょう。これに対して、私企業は①を満たす場合がありますが、しかし私企業は②を満たす必要がありません。要するに、社会組織と私企業を分けるものは、①ではなくて、②なのです。
 
前回の結論は、上記のようなものでした。
 
しかし、つぎのような疑問が沸き起こります。
私はこれまでは、家族もまた社会組織だと考えてきました。仮に、男女二人だけからなる家族であるとしても、それは二人からなる社会組織です。家族は、二人でしかできない様式の生活をする、あるいは家族世帯でしかできない様式の生活をするという目的で家族をつくり、そのようなものとして成員によって正当化されている、ということがあります。
 
もし家族についてこのように考えるのだとすると、会社もどうように考えられるのではないでしょうか。家族の営みと、家族経営の会社の営みは、うまく区別できないようにおもいます。あるいは、仲間5人で会社を作ったという場合、これもまた①と②を満たすのではないでしょうか。
 
会社の存在が、より広い社会の中で正当化されることを考えると、それは会社の目的を実現できているかどうかとは、別の問題になります。しかし、会社がそのメンバーによって正当化されているかどうかを考えるときには、会社の設立目的を果たしているかどうかが、問われることになります。
 
「会社は社会組織であるかどうか?」という問いをペンディングにしたまま、
「会社とは、どのような組織であるのか」を考えてみたいとおもいます。
 
ドラッカーは、「企業とは何か」を理解するには、「企業の目的」を考えなければならないといいます。そして「企業の目的として有効な定義は一つしかない。すなわち、顧客の創造である」「企業が何かを決定するのは、顧客である」と言います。「企業の目的が、顧客の創造である
ことから、企業には二つの基本的機能が存在する」と言います。それは「マーケティング」と「イノベーション」です。通常は、利益を上げることが企業の目的であるといわれているが、ドラッカーは、利益は、マーケティングとイノベーションの結果であるといいます。
 
これは私の思いつきですが、企業にとっての利益は、人間にとっての幸福と似ているのかもしれません。利益を上げることが目的であるとしても、そのために何をすべきかを、その目的からは導出することはできません。人の目的が幸福であるとしても、幸福になるために、その目的からは何をすべきかを導出することはできません。幸福は、結果的に与えられるものですが、それを目指しても何をしたらよいのかわからないのです。企業にとっての利益もまた、マーケティングとイノベーションの結果として与えられるものなのかもしれません。
 
 

 
 

会社とは何か

 
 

 

21 会社とは何か (20120821)
 
国営企業と私企業の区別は次のとおりです。
 
国営企業の目的は、財やサービスの提供です。あるいは、財やサービスの提供による国民の福祉です。私企業の目的は、利益の追求です。財やサービスの提供はその手段です。別の言い方をすると、私企業の目的は、財やサービスの提供による利益の追求です。
国営企業と私企業まったくおなじ財やサービスを提供しているとしても、その最終目的は異なります。
 
私企業は、財とサービスを社会に提供するという点で、社会問題を解決しようとしているといえます。しかし私企業は社会問題を解決するために作られたのではありません。それは、利益を上げるために作られたのであり、社会問題を解決することはその手段です。
 
以上が、常識的な説明になるでしょう。
 
しかし、これは正しいでしょうか。私企業の目的は、常に、利益の追求なのでしょうか。そうではないとおもいます。なぜなら、ひとが会社を作るときの目的は、利益の追求だとは限らないからです。ザッカーバークがFacebookをつくった時の理由は、単に面白いからかもしれませんし、社会を少し変えたいからかもしれません。しかし、それを推進しようとすると、一人では手が足りないので、人を雇いたいと思ったとしましょう。人を雇うには、彼らに給料を払わなければならず、そのためには会社の利益を大きくしなければなりません。さらに事業を拡大するために、さらに多く人を雇おうとすると、さらに利益を増大させなければなりません。このようにして、会社が大きくなっていくケースもたくさんあるでしょう。この場合、利益の追求は手段であって、その目的は事業をすることなのです。では、その事業とは何でしょうか。それは、何でもよいのです。その目的が、NGONPOの目的と同じである場合もあります。会社の場合に特長的なの条件は、その事業が同時に金儲けにもなることです。
 
企業の目的としては、次の三つ、
 ①利益の追求
 ②事業(ある財やサービス提供)
 ③ステイクホルダー(顧客、株主、従業員)が幸せになること
が考えられるのではないでしょうか。そして、多くの企業では、この比重の違いがあれ、この三つ全てが目的になっているでしょう。
 
ただし、このような理解は、曖昧で、欺瞞的であるかもしれません。企業の本質は、やはり①利益の追求であるように思われるからです。より大きな利益を追求することは、会社にとっての本質的な性質であるようにおもわれます。より大きな利益を追求することが、会社組織にとって、構造上必然的に最優先されるようになっているのではないでしょうか。(これの証明が必要ですが、ここではとりあえず、前提しておきます。)n lang=”EN-US”>
 
このように考えるとき、会社は社会組織であると言えるのでしょうか。
 
12回に次のように書きました。テーゼ「社会の規則や組織などは、一人では解決できず集団で取り組まなければ解決できない問題(社会問題)を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される」
これを利用して社会組織を定義すると、「社会組織とは、社会問題を解決するために作られたものであり、またそのようなものとしてのみ正当化される組織である」となります。
 
この定義に従うなら、会社は、社会組織ではありません。会社は、社会問題を解決するために作られたものではありません。なぜなら、社会問題を解決することは利益の追求のための手段だからです。また、会社は、社会問題の解決するものとして正当化されるのでもありません。会社(の活動や存在)が正当化されるのは、社会規則に従うことによってだといえるでしょう。
 
ある会社の目的は、利益追求ではなくて、ある事業の推進であったとします。しかも、その事業は、社会問題の解決への取り組みだと言えるのであったとします。このとき、この会社は、社会問題の解決するために作られたものだと言えます。しかし、この会社は、社会問題を解決するものとして正当化されるのではありません。この会社が、社会問題の解決に失敗しているとしても、社会の法的な規範(あるいは土徳的な規範)を審判しない限り、非難されることはありません。つまり、社会問題を解決するために作られた会社であったとしても、それは社会問題の解決するものとしてのみ正当化されるのではないので、社会組織でありません。
 
さて、会社が社会組織ではないとすると、第12回で述べた私たちの見取り図は、会社が大きな役割を果たしている現代社会を理解するには不十分だということになります。では、私たちは、さきの見取り図をどのように修正したら良いのでしょうか。
 
これを考えるために、問答の観点から会社を考えてみましょう。
 

 
 

NPOと私企業

 

        松林 直線を集め 天に向かう         
 
20 NPOと私企業 (20120817)
 
<社会問題とは、社会によってのみ解決できるような問題として申したてられた問題である>といえます。そして社会組織とは、社会問題を解決するために作られた組織です。しかし、ある社会問題を解決できる組織は、一つであるとはかぎりません。たとえば、ある社会問題は、あるNGOによって解決されるかもしれないが、しかし他のタイプのNGOでも解決できるかもしれないし、また行政によって解決されるかもしれないし、新しいビジネスモデルの企業によって解決されるかもしれません。したがって、<社会組織は、それによってのみ解決できる問題を解決するために作られたものである>とはいえません。ある社会問題が、一つのNGONPOによってではなく、多数のNGONPOによって解決される場合もあります。
 
奈良市の中に、奈良市の住民だけで作られているNPOがあるとき、奈良市とそのNPOの関係は、全体と部分の関係ではありません。なぜなら、二つは互いに独立して活動しているからです。しかし、交差というのでもないと思います。どうやら、組織と組織の関係を、人を要素とする集合の重なり方で区別するのでは、不十分なようです。前回の(a)(b)(c)の区別では不十分なようです。
 
市の活動とNPOの活動の違いは、<市の活動は、その集団のメンバー(市民)の問題を解決することであるが、NPOの活動は、その集団のメンバーの問題を解決することではなくて、メンバーの問題である場合もあるが、より広範な人々の問題を解決するための活動である>という点にあります。
 
さて、もう一つの気になる組織について考えてみましょう。会社もまた、社会問題を解決するために作られた社会組織のひとつだといえるでしょうか。「会社は、社会問題を解決するのでしょうか。」
 
たとえば、アダムスミスのいうように、工場での分業によって、安価に大量の製品を生産することが可能になりました。「どうやって、品質のよい道具を安価に提供すればよいのか」という問題を解決するには、工場での生産が必要でしょう。企業は、財やサービスを社会に提供します。しかも不特定多数の人にそれを販売しますから、彼らは、特定の人にではなくて、社会全体に貢献しているといえます。ある製品やサービスが、個人では生産・供給できず、複数の人からなる組織(企業)によって生産・供給可能であるとしましょう。このとき、この企業は社会問題を解決しているといえそうです。
 
では、それが国営企業であるときと私企業であるときの違いはなにでしょうか。
(社会組織と社会規則の関係については、企業についての考察の後で戻ることにします。私企業(会社)というのは不思議な存在です。私たちが考える図式の中で、企業を適切に説明できないならば、その図式はほとんど無効になってしまいます。)
 
 
 

組織と規則

久しぶりに訪れた森の中です。生き返ります。

19 組織と規則 (20120807)
前回確認したことは、<あらゆる組織が規則によって成立し、あらゆる規則が組織において成立する>ということでした。

ところで、社会にはさまざまな組織と規則があります。それらはどう関係しているのでしょうか。その関係は社会問題によってうまく説明できるでしょうか。
これを考えるために、つぎのように論点を分けて考えたいと思います。
   ①組織と組織の関係
   ②組織と規則の関係
   ③規則と規則の関係

①どのような組織があり、それらはどう関係しているのでしょうか?
 組織の要素が、人であるとすると、組織と組織の関係は、二つの集合の関係として考えられます。二つの集合の関係は、
  (a)全体-部分関係 (たとえば、国家と地方公共団体、大学と学部)
  (b)交差関係、   (たとえば、国家と国際企業、愛知県とトヨタ)
  (c)独立      (たとえば、大阪府と奈良県、トヨタとホンダ)
の三つです。

②組織と規則の関係もまた、組織間の関係に応じて、3つに分けることができます。
(a)組織が全体-部分関係にあるときの、組織と規則の関係を考えましょう。

 たとえば、国家と県の場合、県にとって、国家の規則である法律は、それに従うべきものです。県の設置そのものが、地方自治法にもとづいています。
県の規則である条例は、法律に反しないことを条件とします。
 私たちの前提によれば、国家は、国家によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずであり、県もまた、県によってのみ解決できる社会問題の解決のために設立されたはずです。もしその県が、国家(の法)によって設置されているのだとすると、それは国家が、ある問題の解決のために県を設置したということである。この場合には、国家と県は、別の組織というよりも、県という組織は、国家という組織のその一部分であるといえます。

 しかし、全体と部分の関係にある二つの組織が、つねにこのような関係になるわけではありません。たとえば、奈良県の中で、奈良市に住む住民だけで作られているNPOがあるとき、このNPOは、日本国の法律や、奈良県や奈良市の条例に拘束されますが、このNPOは、日本国や奈良県や奈良市の組織の一文であるのではありません。仮にこのNPOがNPO法によって、NPOとして承認された組織であるとしても、このNPOは、日本国という組織の部分組織ではありません。
 ところで、このNPOは、この組織によってしか解決できない社会問題を解決するために作られた組織だといえるでしょうか。他のNPOでも解決できるかもしれませんし、あるいはその問題は、奈良市によっても解決できるかもしれません。それでも、このNPOが、社会問題を解決するために作られた組織であるということはいえます。なぜなら、社会問題は次のように定義されたからです。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

社会制度とは何か

自治会の ノスタルジックな 夏祭り

18 社会制度とは何か (20120728)
 
(何をしようとしているのか、わかりにくいと思うので、展望を書いておきます。
 私の探求の最終目的は、問答に注目した理論哲学とこれに対応する形での問答に注目した実践哲学を考えることにあります。
 この書庫の目標は、問答に注目して社会を考察することです。そのときに特に重要になるのは、<社会問題>です。現在有力な社会理論は、システム論と社会構築主義だろうと思います。それらに対する不満の一つは、それらが社会変動をうまく説明できないことではないでしょうか。私たちは<社会問題を解決するために社会制度が作られ、そのようなものとして正当化される>と考えることによって、社会変動を説明できる社会理論を作ることができるのではないでしょうか。といっても、これはまだ単なる目論見にすぎません。)

12で示した見取り図の説明を続けましょう。社会問題についての説明をひとまず終えて、社会制度の説明に入りたいと思います。

塩原勉は、「社会制度」についてつぎのように説明しています(『世界大百科事典』平凡社、第二版、「制度」の項目参照)。「社会制度」とは、<価値体系、制度、社会集団からなる複合物の全体>です。狭い意味の「制度」とは、慣習,慣例,法などの「社会諸規範が複合化し体系化したもの」のことであり、「価値体系」とは、この制度を正当化するものであり、「社会集団」とは、この制度の規整の下で活動するものであると説明されます。たとえば、「家族生活は婚姻制度,扶養制度,相続制度,隠居制度,その他の諸制度によって規制されている」とあり、これらの制度は、価値体系によってある価値体系によって正当化されており、この諸制度の下に家族という集団が活動するということのようです。

この説明は、よくできているように見えます。足りないところは、「なぜこのような社会制度が発生するのか」、「なぜこのような社会制度が変動するのか」という説明です。もちろん、社会変動については、「社会変動」の項目を見れば、また興味深い説明があります(事典の中での説明には限界があるので、塩原勉の著作を読む必要があります。ここでは塩原氏の批判を意図しているのではありません。むしろ多くを学びました)。注意したいのは、社会制度の説明と、その発生と変動の説明は切り離せないということです。そしてそれを結びつけて説明するときに<社会問題を解決するために、社会制度が作られる>と考えることが有効であろうということです。

 ところで、価値体系は、社会問題の設定の段階で前提として機能しているとおもいます。もちろん、価値体系それ自体が、社会問題の解決のために設定されるということもありえます。その意味で、価値体系は、社会問題の前提として機能すると同時に、社会制度の一部でもあります。このような事情のために、まずは単純な事態を考えておくために、社会制度の中の、<規範ないし規則(塩原氏のいう制度)>と<組織ないし集団(塩原氏のいう社会集団)>について、考察したいと思います。

 ここから本題です。社会問題を解決するために、社会制度が作られます。その社会制度は、ある局面では、規則と組織の二つに区別できるようにみえます。例えば、一方に、国家という組織、県や市という組織、警察、病院、学校、消防などの組織があります。他方に、法律、条例、校則などの規則があります。しかし「組織と規則は独立したものではありません」。これの証明を試みましょう。

 まず、<どんな組織も規則を必要とします>の証明
 ある問題の解決のために共同作業をする必要があるとき、この共同作業をするものが組織です。共同作業が成立するためには、行為の約束(あるいは相互予期)が必要です。組織が、恒常的にある共同作業をするときには、一回の行為の約束(相互予期)ではなくて、規則(の集団的受容)が必要になります。学校は、時間割を守ること、クラス編成に従うこと、宿題をしてくること、などの規則(の集団的受容)によって成立しています。

 次に、<どんな規則も組織を必要とします>の証明
 規則が成立する(規則が社会的に受容される)ためには、規則に従うべき人々の集団が必要です。例えば、毎朝6時に公園に集まってラジオ体操するという規則があるとしよう。そこに集まる人々は常に同じ人達ではなくて、その都度入れ替わりがあるとしても、そこに一度でも参加した人々がおり、そこにほとんど参加しているひとがおり、参加の頻度はいろいろであるとしても、そこにはゆるやかな集団があります。

 ちなみに、この集団は、どのような社会問題を解決するためにつくられたのでしょうか。誰かが呼びかけて、朝の公園でのラジオ体操がはじまったとしましょう。呼びかけたひとの動機は、一人でラジオ体操するよりも数人集まってしたほうが楽しい、ということであったかもしれません。それに賛同する人たちがそこに集まってきたとしましょう。これは、「自然発生的に」成立した規則であり、集団であると言われるかもしれません。しかし、最初に呼びかけたひとの問題(「もっと大勢で楽しくラジオ体操したい」という意図を実現するにはどうすればよいか、という問題)は、大勢で取り組まなければ解決しない社会問題だと言えます。

起源と正当性は異なる

夏の樹木

17 起源と正当性は異なる(20120726)

私たちは、14で、社会問題を次のように定義しました。
「社会問題とは、クレイムを申し立てる人やグループ自身が社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」
しかし、「クレイムを申し立てる」という表現が、「常に特定の人やグループに対して要求する」という意味に理解される可能性があり、それでは定義が狭くなりすぎるように思われるので、これをとって次のように定義したいと思います。
「社会問題とは、ひとやグループが社会によってのみ解決できるような問題として申し立てる問題である」

ここで曖昧なのは、「社会によってのみ解決できるような問題」と言う場合の「社会」です。夫婦で解決しなければ、一人では解決できない問題があるとすると、それは夫婦という社会の問題です。野球をしようとして集まったけれども、人数が足りない時に、どうやってその問題を解決するかは、そのグループで解決する必要のある問題です。学校や、会社や国家なども、社会になります。最も大きな集団は、(AIや宇宙人に出会うまでは)人類になるでしょう。
 これらの多種多様な社会は、互いにどのように関係するでしょうか。社会を、個人を要素とする集合として考えるとき、社会同士の関係は次の3種になります。
  1,S1(社会1)がS2(社会2)と並んで存在する。
  2,S1とS3の一部のメンバーが重複している。
  3,S1がS4の一部分になっている。
そして、この社会同士の関係が、社会問題を生み出すことがあるでしょう。その時の社会問題とは、より大きな「社会」の問題ということになるかもしれません。(これについては、後で考えることになるとおもいます。)

 次に考えたいのは、次の問いです。
 「これら多種多様な社会は、どのようにして発生したのか」
この問いに対して、つぎのように答えたいとおもいます。
「社会は、それ自体が社会問題の解決のために創られたものである。つまり、ある人々 が集まることによってしか解決できない問題が登場した時に、その問題解決に取り組む中で社会集団が成立したのだ」

では、この答えをどのように証明すればよいでしょうか。たとえば、つぎのような説明で充分でしょうか。
<集団が発生するには、原因ないし理由があったはずであり、その原因ないし理由としては、集団によってのみ解決できる問題を解決すると言うこと以外には考えられません>

この説明に対しては、次の反論が考えられます。
<人間は、人間になる前から、つまり霊長類の段階で、すでに群れを作っていたと考えられます。したがって、すくなくとも言語が成立する以前の段階のヒトが作っていた集団については、その原因は、社会問題を解決することではありませんでした。>
 
この議論は「04 群れを作る理由」の議論の反復になります。そこでは、いつから動物の群れ社会が人間の社会になるのかを考えようとしました。その境界を言語の有無に求め、自覚して「問題を解決する」ができるようになることに求めました。ここでは、最初の説明をつぎのように改めたいとおもいます。
<人間が言語を持つようになってから、形成した集団もあれば、それ以前から成立している集団もあります。しかし、すべての集団は、集団によってのみ解決できる問題を解決するために作られたのであり、またそのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。したがって、霊長類の時の群れ社会が、言語を習得したあとにも継承されているとすると、そのときの集団は、集団の問題を解決するものとして正当化されているはずであり、そのようなものとしてのみ存続するのです。もし正当化を持たないならば、そのような集団はやがて解体するでしょう。>

ここから言える重要なことは、次のことです。社会制度は、社会問題の解決のために設立され、そのようなものとして正当化され、そのような正当化によって存続します。しかし、社会制度は、それ自体が、別の社会問題を引き起こすことがあり、そのときにはその解決のために、社会制度の修正や、新たな社会制度の設立が必要なります。またこのような過程をへることによって、社会制度は、その起源となった社会問題の解決のためではなくて、別の社会問題の解決のためのものとして正当化されることもあります。(ニーチェがいうように、起源と正当性は同一であるとは限らないのです。)

提案は弱すぎる?

梅雨明けの 空に浮かぶ 金団雲

16 提案は弱すぎる? (20120720)

私たちの提案に対しては、次の問いが向けられるかもしれません。

「ある人達Aが、xは社会によってのみ解決できる問題であると考え、他の人々Bは、それは社会によらなくても解決できる問題であると考えているとしましょう。このとき、xは社会問題なのでしょうか」

この問いに対して、私たちの提案では、次のように答えることしかできません。
「xはAにとっては社会問題であり、Bにとっては社会問題ではありません」
これでは、定義として弱すぎするということでしょうか?

例えば、ある国の内戦状態を、大統領は国内問題であると考えており、反政府運動の人たちは国際社会の支援がなければ解決できない国際問題であると考えている時、もし大統領が反乱軍を鎮圧したとすれば、彼はそれは国内問題として解決されたと言うでしょう。反乱軍の方は、国際社会の支援がなかったので解決できなかったと言うでしょう。
もし反乱軍が勝って民主化が行われたとすると、反乱軍の方は、国際社会の支援によって解決されたというでしょう。大統領は、国内内問題に対して不当な内政干渉があったので、解決できなかったと言うでしょう。

当事者にとっては、このような答えでは不十分です。しかし、このような場合に何が社会問題であるかについて決定できる定義をしようとするのならば、そこに一定の価値判断や規範を持ち込むことが必要になるでしょう。

しかし、そのような価値や規範そのものが社会によって構成されたもの、広い意味の社会制度であると考えられます。そして、この社会制度は、社会問題の解決策として作られ正当化されるものなのです。このように考えようとするならば、社会問題の定義の中には、このような規範や価値判断を持ち込まないほうがよいと思われます。そのほうがむしろより大きな説明力を持つ理論になるのです。