才能と努力

urbeさん、blogを拝見しました。5月に一時帰国されるのを楽しみしています。

 何事かをなすために必要なこと、それは、実も蓋もないことですが、
   才能と努力
です。ある特定の才能は、訓練で伸ばすことが出来るかもしれませんが、それをなすためには、やはり、
   才能と努力
が必要です。そして、才能については、どうしようもないので、我々に出来るのは努力することだけです。例えば、将棋に強くなろうと思えば、我々にできるのは、努力することだけです。
 もちろん、努力の仕方、練習の仕方、の良し悪しはあるでしょう。良い方法を見つけることが必要ですが。それを見つけるために必要なものは、またしても、
   才能と努力
です。では、努力は、何で図ったらよいのでしょうか。重要な指標は、時間と集中力でしょう。
 
 ところで、努力するには、情熱が必要です。
ヘーゲルは、「世界における偉大なことで情熱なしに成し遂げられたことはない」(『歴史哲学』(Hegel Werke Bd.12, S.38)と述べています。一般的にいって、個人の情熱は、彼の社会関係の中で生まれます。つまり、個人が生得的に持つ才能と、社会関係の中で個人の中に発生する情熱が、何かを成し遂げるのでしょう。
  我々の中にどれだけの才能と情熱があるか、それはやって見なければ誰にも解かりません。
  只々努力。

第二の問題、再検討

讃岐富士(飯野山)の2007年4月1日の景色です。

第二の問題の再検討

■仕切りなおし
我々が第二の問題「私は何のために生きるのか」を問うのは、次の矛盾のためであると上にのべた。
  (a)「私はもっと生きたい」という意図・願望
  (b)「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識

この二つが、本当に矛盾しているのかどうかが曖昧なので、今回検討することを予告した。
 しかし、これについて考えているうちに、もっと重要な間違いに気づいた。

 (b)「私は何のために生きるのかわからない」という自己認識は、「私は「何のためにいきるのか」という問いに答えられない」ということであり、私が「私は何のために生きるのか」と問うて、答えられなかった、という経験にもとづく認識であるだろう。
 もし、そうだとすると、「私は何のために生きるのかわからない」という現実認識が成立する前に、すでに「私は何のために生きるのか」という問いが発せられていることになる。つまり、この問いは、(a)と(b)の矛盾(仮にこの二つが矛盾だとしても)によって発生するのではない。

■振り出しに戻って
 では、「私は何のために生きるのか」という問いは、どのようにして発生するのだろうか。このような問いを問うときに前提になっていることは、「私は生きている」という認識である。なぜなら、この問いは、「私が生きている」ということの理由を問うものだからである。 ところで、「私は生きている」と「私はもっと生きたい」だけでは、そこから「私は何のために生きるのか」という問いは生まれない。では、何が必要だろうか。

 一般的に、人が行為の理由を問うのは、どのようなときだろうか。
 たとえば、ジョギングをしていて苦しいとき、「私は何のためにジョギングしているだろうか」と自問することがあるかもしれない。私が次のように考えているとしよう。
   私はジョギングしている。
   ジョギングが苦しいので、私はジョギングをやめたい。
   しかし、私はジョギングをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
   「なぜ、私はジョギングをやめたくないのか」あるいは
   「私は何のためにジョギングをしているのか」

 これをさらに少し変えて、私が次のように考えているとしよう。
    私は生きている。
    生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい。
    しかし、私は生きるのをやめたくない。
このとき、私は次の問いを立てるだろう。
    「なぜ、私は生きるのをやめたくないのか」あるいは
    「私は何のために生きているのか」

ここでは、次の二つの意図(欲求)の矛盾が成立している。
    「生きるのが苦しいので、私は生きるのをやめたい」という意図・欲求
    「私は生きるのをやめたくない」という意図・欲求
では、この二つの意図の矛盾の解決のために、次の問いを立てるのだろうか。
    「私は何のために生きているのか」
私は、これまで、現実と意図の矛盾から、問いが発生すると考えてきたのだが、
このケースについては、どのように考えたらよいのだろうか。

(今日は、もう頭が動かないので、次回にこれを検討します。)

第二の問題:生きる意味

サボっている間に、桜の季節も終わりに近づいてきました。
落ち葉とおなじく、地面に散った桜もよいものです。(桜餅をおもいだしてしまいます。)
パソコンがこわれたり、年度末と年度初めの雑用に追われて、更新が遅れてしまいました。
パソコンは、昨日修理から戻ってきて、今のところ快調に動いています。

2、第二の問題:生きる意味
 死が問題なのは、死にたくないからである。「死にたくない」というのは、言い換えると「もっと生きたい」ということである。しかし、他方で、「何のために生きるのか」がわからない。ここに生じる次の矛盾(*)が、人生について考えるときの第二の問題である。
   「私はもっと生きたい」という意図・願望
   「私は何のために生きるのかわからないという」という現実

{*この二つが本当に矛盾しているのかどうか、を検討しなければならないが、それは後の議論に回したい。}

 この矛盾(問題状況)を解決する方法は、次の二つである。

(解決方法1)ひとつの方法は、「私は何のために生きるのか」という問いに答えて、現実を変えることである。
(解決方法2)もう1つの方法は、「もっと生きたい」という意図や欲望を変更することである。これは、「死を受容する」ということである。この場合には、次の問い「私は、どのようにして死を受容するのか」に答えなければならない。

 念のために確認しておくと、上の矛盾した命題は、共に「私」を主語としている。
   「私はもっと生きたい」
   「私は何のために生きるのかわからない」
ゆえに、この矛盾を解決する1つの方法は、次の個人的な問いに答えることである。
   「私は何のために生きるのか」あるいは「私の人生の意味は何か」

(1)答え方1
 この問いに答える1つの方法は、次のような一般的な問いの答えを求め、その答えから上の問いの答えを導出することである。
   「人は何のために生きるのか」
   「人は何のために生きるべきか」
   「人生の意味はなにか」
しかし、この問いに答えることは、難しいだろう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥るからである。ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥ったときの反応は、一般的には次の三つ(四つ)にまとめられる。
    懐疑主義、決断主義、規約主義(約束主義、慣習主義)
これをここで適用すると、次のようになるだろう。

    懐疑主義「生きる意味は解らない」
    決断主義「わたしは、生きる意味は・・・であると見なすことに決断する」
    約束主義:たとえば、愛し合う朔太郎と亜紀が「私達の生きる意味は、二人で一緒に生き続け
         ることにある」と考える場合。
    慣習主義:たとえば、伝統的な仏教国では、生きる意味は、解脱にあった。
        (現在では、このような慣習を維持することは困難である。)
ここで答えとして役立ちそうなのは、決断主義と約束主義であるが、しかし、これらは一般的な問題に対して個人的な答えを与えるだけであり、したがって、最初の「私の生きる意味は何か」という問いに答えるために、一般的な問いに問い合わせたことは無駄であったということになる。つまり、この答え方は、役立ちそうにない。

(2)答え方2
 もう1つの方法は、次のように答えることである。

  「私は、すばらしい絵を書くために生きる。わたしの人生の意味は、すばらしい絵を描く
    ことにある」
  「私は、真理を追究するために生きる。わたしの人生の意味は、哲学を研究することである」
  「私は、彼女のために生きる。わたしの人生の意味は、彼女と生きることにある」
  「私は、金儲けのために生きる。私の人生の意味は、世界一の金持ちになることである」

 このような答えに対して、他者が「それはおかしい」と批判することは、(それが何らかの社会的な規範に反している場合や、その人の他の信念と矛盾している場合を別にすれば)、おそらく不可能であろう。その理由は、以下の通りである。
 もし、絵描きになろうとする人に、
   「なぜ、あなたはすばらしい絵を描きたいのですか?」
と問うのならば、この「なぜ」は理由を求めている問いである。このような理由を求める「なぜ」に対して、理由を答えられないとしても、その意図を撤回すべきであるということにはならない。またもし「幸せになりたいからだ」というのが、その答であるとき、さらに「なぜ幸せになりたいのか」と問われて、その理由を答えられないとしても、「絵描きになりたい」という意図や「幸せになりたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。理由を問う「なぜ」と問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにはならない。
 上の問いに対して、たとえば彼が次のように答えたとしよう。
   「私は、小さいころにゴッホの絵を見て感動し、ゴッホのような絵描きになりたいと
     思ったのです。」
この答は、「私が、すばらしい絵を書きたいと思う」理由ではなくて、そのように思うようになった原因を答えている。この原因が間違っていても(たとえば、彼が押さないと金見たのがゴッホの絵ではなくて、別の人の絵であったとしても)、またこのような原因を挙げることが出来ないとしても、「絵描きに成りたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。原因を問う「なぜ」の問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにならない。
 「私はすばらしい絵を描きたい」などの発話は、表現型の発話であって、真理値を持たない。それゆえに、根拠を持たない。ゆえに、根拠を問う「なぜ」の問いは無効であり、それに答える必要はない。

(3)答え方3(?)
 (2)のような具体的な願望を述べることができないとき、あるいは(2)の答が一応あるのだが、本当にそれで満足できるのかどうかわからないとき、あるいは(2)の答が二つ以上あって、両立しないとき、どうしたらよいだろうか。あるいは、そのとき、ひとはどうするのだろうか。
 そのとき人は結果としては、この問いの答えがわからないままにとりあえず生きることになるだろう。このとき、彼の人生に対する態度には、ど
のようなパターンがありうるだろうか。

 (この問題を考える前に、次回は、上の矛盾を吟味したいと思います。)

第二の問題:生きる意味

サボっている間に、桜の季節も終わりに近づいてきました。
落ち葉とおなじく、地面に散った桜もよいものです。(桜餅をおもいだしてしまいます。)
パソコンがこわれたり、年度末と年度初めの雑用に追われて、更新が遅れてしまいました。
パソコンは、昨日修理から戻ってきて、今のところ快調に動いています。

2、第二の問題:生きる意味
死が問題なのは、死にたくないからである。「死にたくない」というのは、言い換えると「もっと生きたい」ということである。しかし、他方で、「何のために生きるのか」がわからない。ここに生じる次の矛盾(*)が、人生について考えるときの第二の問題である。
「私はもっと生きたい」という意図・願望
「私は何のために生きるのかわからないという」という現実

{*この二つが本当に矛盾しているのかどうか、を検討しなければならないが、それは後の議論に回したい。}

この矛盾(問題状況)を解決する方法は、次の二つである。
(解決方法1)ひとつの方法は、「私は何のために生きるのか」という問いに答えて、現実を変えることである。
(解決方法2)
もう1つの方法は、「もっと生きたい」という意図や欲望を変更することである。これは、「死を受容する」ということである。この場合には、次の問い「私は、どのようにして死を受容するのか」に答えなければならない。

念のために確認しておくと、上の矛盾した命題は、共に「私」を主語としている。
「私はもっと生きたい」
「私は何のために生きるのかわからない」
ゆえに、この矛盾を解決する1つの方法は、次の個人的な問いに答えることである。
「私は何のために生きるのか」あるいは「私の人生の意味は何か」

(1)答え方1
この問いに答える1つの方法は、次のような一般的な問いの答えを求め、その答えから上の問いの答えを導出することである。
「人は何のために生きるのか」
「人は何のために生きるべきか」
「人生の意味はなにか」
しかし、この問いに答えることは、難しいだろう。なぜなら、ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥るからである。ミュンヒハウゼンのトリレンマに陥ったときの反応は、次の三つにまとめられる。
   懐疑主義、決断主義、規約主義(約束主義、慣習主義)
ここでは、次の二つが考えられる。
   懐疑主義「生きる意味はわからない」
   決断主義「わたしは、生きる意味は・・・であると見なすことに決断する」
    約束主義:たとえば、愛し合う朔太郎と亜紀が「私達の生きる意味は、二人で一緒に生き続けることにある」と考える場合。
慣習主義:たとえば、伝統的な仏教国では、生きる意味は、解脱にあった。(現在では、このような慣習を維持することは困難である。)
ここで答えとして役立ちそうなのは、決断主義と約束主義であるが、しかし、これらは一般的な問題に対して個人的な答えを与えるだけであり、したがって、最初の「私の生きる意味は何か」という問いに答えるために、一般的な問いに問い合わせたことは無駄であったということになる。つまり、この答え方は、役立ちそうにない。

(2)答え方2
もう1つの方法は、次のように答えることである。
  「私は、すばらしい絵を書くために生きる。わたしの人生の意味は、すばらしい絵を描くことにある」
  「私は、真理を追究するために生きる。わたしの人生の意味は、哲学を研究することである」
  「私は、彼女のために生きる。わたしの人生の意味は、彼女と生きることにある」
  「私は、金儲けのために生きる。私の人生の意味は、世界一の金持ちになることである」

このような答えに対して、他者が「それはおかしい」と批判することは、(それが何らかの社会的な規範に反している場合や、その人の他の信念と矛盾している場合を別にすれば)、おそらく不可能であろう。その理由は、以下の通りである。
もし、絵描きになろうとする人に、
「なぜ、あなたはすばらしい絵を描きたいのですか?」
と問うのならば、この「なぜ」は理由を求めている問いである。このような理由を求める「なぜ」に対して、理由を答えられないとしても、その意図を撤回すべきであるということにはならない。またもし「幸せになりたいからだ」というのが、その答であるとき、さらに「なぜ幸せになりたいのか」と問われて、その理由を答えられないとしても、「絵描きになりたい」という意図や「幸せになりたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。理由を問う「なぜ」と問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにはならない。
上の問いに対して、たとえば彼が次のように答えたとしよう。
  「私は、小さいころにゴッホの絵を見て感動し、ゴッホのような絵描きになりたいと思ったのです。」
この答は、「私が、すばらしい絵を書きたいと思う」理由ではなくて、そのように思うようになった原因を答えている。この原因が間違っていても(たとえば、彼が押さないと金見たのがゴッホの絵ではなくて、別の人の絵であったとしても)、またこのような原因を挙げることが出来ないとしても、「絵描きに成りたい」という意図を撤回すべきであるということにはならない。原因を問う「なぜ」の問いに答えられなくても、意図を撤回すべきであることにならない。
「私はすばらしい絵を描きたい」などの発話は、表現型の発話であって、真理値を持たない。それゆえに、根拠を持たない。ゆえに、根拠を問う「なぜ」の問いは無効であり、それに答える必要はない。

3、答え方3(?)
(2)のような具体的な願望を述べることができないとき、あるいは(2)の答が一応あるのだが、本当にそれで満足できるのかどうかわからないとき、あるいは(2)の答が二つ以上あって、両立しないとき、どうしたらよいだろうか。あるいは、そのとき、ひとはどうするのだろうか。
 そのとき人は結果としては、この問いの答えがわからないままにとりあえず生きることになるだろう。このとき、彼の人生に対する態度には、どのようなパターンがありうるだろうか。