法人税率と所得税の最高税率を20年前に戻そう!

 やっと、名古屋に着きました。(といっても、これは9月初めのことでした。)

日本の所得税率の推移については、下記をご覧下さい
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/035.htm

これによると最高税率は、
昭和49年には75%
昭和59年には70%
昭和62年には60%
平成元年には50&(2000万以上)
平成7年には50%(3000万以上)
平成11年には37%(1800万円以上)

このように富裕層に対する所得税率は75%から37%に減少しています。
この20年を見ても、50%から37%へ減少しています。

このことは、日本に限りません。
先進国の所得税率の推移は、たとえばここを見て下さい。
http://www5.cao.go.jp/j-j/wp/wp-je02/wp-je02-2-1-01z.html

この2,30年で、どの国も所得税の最高税率が、20-10%低下しています。

前回と今回から、財政赤字の解決のためにまずすべきことは、
消費税増税ではなくて、法人税率と富裕層への所得税率を
20年前に戻すことだと考えます。

法人税率や所得税の最高税率を下げる政策は、
他の先進国がそうだから、という理由でおこなわれてきました。

しかし、他の先進国でも同じ理由で、同じ政策が推進されてきました。
ここには、仕組まれた国際協調があるのだとおもいます。

ですから、法人税率と所得税の最高税率をあげることについて、
その実現の為に市民のレベルでの国際的な連帯が必要だと思います。
金融危機が叫ばれている今こそ、よい時期ではないでしょうか。

(そもそも、富裕層がもうけていた金融バブルがはじけた混乱を収拾するために、政府が税金によって
救済策Bailoutをおこなうのならば、そのための税金は、法人や富裕層から回収すべきではないでしょうか。)

もし、この診断について、批判がありましたら、お知らせください。

ところで、法人税率や所得税率を決定するための、合理的な基準は何なのでしょうか。
現実には、様々な政治的な力関係で決まっているとしても、その税率について、あるいは、社会格差について、どのような基準が合理的なもの、ないし正しいもの、であると考えられるのでしょうか。あるいは、そのような合理的で正しい基準などは、そもそも存在しないのでしょうか。

これがこの書庫で考えたい、哲学的な問題です。

なにか、ヒントがありましたら、コメントしてください。

財政赤字の原因

奈良から名古屋へ(その3)
最近の経済のような、怪しい雲行きでした。

先進国の財政赤字の共通の原因は、

1、先進国が1980年代から法人税率を50%あたりから30%当たりに下げたこと
2、富裕層に対する所得税率をやはり1980年代からさげてきたこと(その資料探しは、今日はまにあいませんでした。)

だとおもいます。

日本総合研究所のレポート
http://www.jri.co.jp/press/2007/jri_070531.pdf

によると、先進諸国は、サッチャー時代のイギリスを皮切りに、法人税率を競って
下げています。(もっとも、このレポートの趣旨は、日本も負けずに、法人税率を下げるべきだ、と主張することです。)

日本の財務省のHP
http://www.mof.go.jp/jouhou/syuzei/siryou/082.htm
によると、
日本の法人税率は、昭和53年に法人税率43.3%であったものが
次第に下げられ平成11年からは30%になっています。

この二つで、どれだけの歳入不足になったのかを計算して、それが政府債務の原因になっていることを示す必要があります。

もし、役に立つデータがありましたら、教えてください。

反論がありましたら、ぜひお知らせください。

先進国の財政赤字

奈良から名古屋に向かう(その2)

主要先進国は、軒並み財政赤字になっています。
「先進国」としてはOECDの加盟国(約30カ国)をさすことが多いようですが、G7(日本、アメリカ、ドイツ、フランス、イギリス、イタリア)が、「主要先進国」と呼ばれることが多いようです。この7カ国は、すべて財政赤字を抱えています。Googleで「○○○の財政赤字」で検索してみてください。軒並み財政赤字であることがわかります。
この財政赤字を理由に、日本では、福祉や教育の分野などで予算のカットが進んでいます。
他の先進国も同様ではないかと推測します。

では、その原因は何でしょうか。各国に固有の理由もあるでしょうが、先進国の多くが財政赤字であるとすれば、そこには共通の原因があるのではないでしょうか。

世の中はおかしい?

 9月の初旬、奈良から名古屋に向かう(その1)
 まるで現代社会のような不気味な天気です。

「最近の世の中はおかしい、哲学を研究する者に何か発言してほしい」という期待が社会の一部にある。もっともな期待であると思う。もしそのような発言が出来ないのならば、哲学には何の価値もないとまで言わないにしても、世の中だけでなく哲学自体がかなりの重症である、と私も思う。

さて本題に入ろう。「最近の世の中はおかしい」と多くの日本人が考えているようだ。これについてのアンケートを見たことは無いが、このような発言は、TVでも日常でもしばしば耳にする。では、「最近の世の中は、本当におかしいのだろうか。」これに対しては、次のように答えよう。「世の中がおかしい」という人が大勢いるのであれば、それによってすでに「社会問題」が構成されている、と。

では、「世の中はどこがおかしいのだろうか」この問にはっきりと答えること、つまり時代診断をはっきりとしなければ、解決すべき問題を明確にすることも出来ない。そこですぐに思いつく具体例を挙げてみよう。
   無差別殺人がおそらく増加している。
   法や道徳を守らない企業が、グローバルな悪影響を与えている。
   年金問題に見られるように、役人の仕事が非常に杜撰である。
   格差が拡大しつつある。
   TV番組が俗悪である。

これらは全て人に優しくない(俗悪な番組は我々の人間性を傷つける)。
「地球に優しいことも大切だが、人に優しいことがもっと大切だ」

しかし、こんな簡単な診断と軟弱な回答では、世の中は変わらない。

これらの原因はなにだろうか。それは社会での競争の激化による人への優しさの喪失ではないだろうか。競争に敗れた者からは、社会への敵意が生まれる。競争の激化で、企業人は利益を上げることを、法や道徳に優先させる。役人は、競争の激化のなかで、公共心を忘れて自分の利益に走る。社会には格差が広がる。TV番組は、人への優しさを忘れた人々の視聴率に支配される。(もちろん、私もまた、この社会の中でそんなに清く正しく生きてはいません。)

「競争の激化と格差の拡大、これが諸悪の根源である。」
この診断は、陳腐な診断である。しかし、冷戦後の資本主義のグローバル化の中で、競争は確かに激化している。これをとりあえずの診断にして、この書庫では、格差に関する、具体的な問題や抽象的な問題に取り組みたい。

「どこに哲学的問題があるのか?」という人は、今しばらくお待ち下さい。
いずれ哲学の問題が登場します。たぶん。

02 定義のつづき

白樺湖のつづきと哲学の定義のつづきです。

■哲学の定義5:哲学とは、社会が直面している最も重要な問題が何であるかを明示し、それに答えることである。
 このような哲学の代表は、ヘーゲルとマルクスである。ヘーゲルは啓蒙主義、悟性主義にその時代の問題をみて、それを歴史主義によって乗り越えようとした。マルクスは、資本主義にその時代の問題を見て、共産主義によって乗り越えようとした。
 これとよく似た定義として、次のものがある。

■哲学の定義6:哲学とは、人にとっての最も重要な問題「人生の意味とは何か」に答えることである。

この定義5と6に対する批判は次のようになる。
 社会問題と人生問題は、我々によって構成される。社会問題に限らず、全ての問題は、我々によって構成されるのである。<事実>は、我々の認識から独立に、実在するのではない。<問題>もまた我々の認識から独立に存在するのではない。事実と意図の矛盾から問題が生じるが、事実認識も、意図も、問に対する答えとして構築される。勿論、問と答えが構築されるとしても、その構築は個人が恣意的におこなえることではない。
 哲学が、通常問題をより深くより広く問うことであるとすれば、これらの問に関して、哲学は、「社会問題や人生問題は、どのように構成されるのか」を問うことになる。確かに定義5と6に示される課題は、哲学の重要課題である、あるいは最重要課題であるかもしれない。なぜなら、より深い問題やより広い問題のほうが、より重要であるとは限らないからである。しかし、それらの課題は、哲学の全てではない。
 そこで、私は定義3を採用することにする。