64 真なる文の述語は何を表示するのか (20220223)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

前回述べましたが、フレーゲによれば、異なる真なる判断は、真なるものの諸部分を異なる仕方で分解するのだと思われます。この解釈は、次の引用に基づいています。

「判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することである」(『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年82、下線引用者)

「一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」(同書、82、下線引用者)

例えば「このリンゴは、パラ科である」という真なる判断が、真なるものの諸部分を区別するとは、「このリンゴ」の指示対象を他の部分から、あるいは真なるもの全体から区別することだと言えそうです。

ところで、次のふたつの文が真であるとしましょう。

「このリンゴは、パラ科である」

「このリンゴは、赤い」

このとき、この二つの文がそれぞれ「固有の分解方法」を持つのだとすると、分解方法の違いは、述語の違いによることになります。フレーゲは、述語の意義と指示対象について、論文「意義と意味詳論」(1892-95)で次のように説明しています。

 述語は、概念語であるとされます。固有名の指示対象が、対象であるのに対して、概念語の指示対象は概念であると言われます(同書、103)。

フレーゲは、概念のBedeutung(指示対象)と概念の外延を区別します。例えば、「これはリンゴである」における「リンゴ」は固有名ではなく、概念語(述語)です。「リンゴはバラ科である」は、正確に言えば、「あるものがリンゴであるならば、それはバラ科である」となります。概念語「リンゴ」の指示対象は、概念であって、その外延とは、区別されます。概念「リンゴ」の外延は<リンゴであるものの集合>です。

フレーゲによれば、「概念は、その値が常に真理値であるような、単項関数なのである。」(104)。例えば概念「リンゴ」は、「( )はリンゴである」という一つの空所を持つ関数なのです。その空所に対象を入力することによって、真理値を出力する関数なのです。

このような概念については、次のことが成り立ちます。

「同一対象の固有名が、真理を損なうことなく互いに代替となりうるのと同様、概念の外延が同じならば、同じことが概念語にも当てはまる。」(104)

「二つの概念語の意味するものが同じであるのは、当の概念に付属する外延が合致するときそのときに限る」(109)

ここで次に3つの文を真であるとしましょう。

①「このリンゴは、赤い」

②「このイチゴは、赤い」

③「このリンゴはバラ科である」

このときこれらの文のBedeutung(指示対象)は同じ真理値「真なるもの」となります。

しかし、意義(思想)は異なりますので、真なるものの「固有の分解方法」は異なるはずです。では、それらはどのように異なるのでしょうしょうか。

①と②は、異なる対象を取り出している。

①と③は、異なる概念を取り出している。

②と③は、異なる対象と異なる概念を取り出している。

フレーゲをこのように解釈してもよいでしょうか。「取り出している」というのは、私のなりの表現ですが、これをどう理解したものでしょうか。次にこれらを考えます。

63 文は何を表示するのか (20220219)

(訳語について:以下では、フレーゲのSinnとBedeutungをそれぞれ「意義」と「指示対象」と訳します。これらは通常は、それぞれ「意義」と「意味」と訳されています。しかし、これでは違いが曖昧である。英訳ではSinnはsenseとかmeaningと訳され、Bedeutungはreferenceとかreferentとかdenotationと訳されます。私はこれに倣って『問答の言語哲学』では、Sinnを「意味」、Bedeutungを「指示対象」と訳しました。ここでもSinn「意味」と訳したいところですが、フレーゲ論文の邦訳を引用したいので、ここではSinnを「意義」と訳します。また邦訳では、Bedeutugnが「意味」と訳されいるのですが、それだと私がこれまで「意味」と呼んできたものとの区別できなくなるので、ここでは「指示対象」と訳することにし、引用する訳文には「意味(Bedeutung指示対象)」と付記することにします。)

前回、論文「思想」(1918)をもとに述べたように、文のSinn(意義)が思想であるとしましょう。では、文にはBedeutung(指示対象)はあるのでしょうか。これについて、フレーゲは論文「意味と意義について」(1892)で述べています。

フレーゲは、文に含まれる固有名を、Sinn(意義)は異なるが、同じBedeutung(指示対象)を持つものに交換したとき、文のSinn(意義)=思想は変化するが、文のBedeutung(指示対象)は変化しないだろうと考えます。そこから彼は、文のBedeutung(指示対象)は、文の真理値であると言います(参照、『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年、80)。

彼は、真理値については、次のように説明します。

「文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。…一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名付ける。」80

この場合、

「すべての真なる文は同一の意味(Bedeutung指示対象)を持ち、他方ではすべての偽なる文も同一の意味(Bedeutung指示対象)を持つことになる。」82

「このことから、文の意味においてはすべての個別的なものが消えることがわかる。したがって、我々にとっては、文の意味だけが問題になるのではなく、また、単なる思想のみで認識が与えられるのでもない。思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を当たられるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」はどちらも真であり、これらの意味(Bedeutung指示対象)は同一です。そうすると、これだけでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。この二つの文は意義(思想)において異なります。しかし、彼は、思想を理解するだけで、認識が得られるのではないといいます。

  「このリンゴはバラ科である」

  「このリンゴはバラ科でない」

  「このリンゴは、机である」

  「このリンゴは、机でない」

確かに、これらの文の意義(思想)を理解しても、それだけでは何の認識にもなりません。従って、「このリンゴはバラ科である」と「このサクラはバラ科である」の思想を理解するためでは、この二つの認識価値の違いを説明できません。

そこでフレーゲは、

「思想は意味すなわち真理値といっしょになってはじめて認識を与えるのである。判断するということは思想から真理値への前進として理解されうる。」82

と言います。文の意義(思想)と、意味(Bedeutung、指示対象)すなわち真理値が一緒になって初めて、認識価値の違いを説明出来るというのです。これは、文の思想と真理値が一緒になるとは、判断するということです。前回も引用しましたが、フレーゲは、論文「思想」で次のように述べていました。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること (209)

つまり、思想の真理性を承認することが、判断することです。ここ(「意味と意義について」)では、判断することについて、次のように大変興味深いことを述べています。

「さらに、判断とは、真理値の内部で諸部分を区別することであるとすら言い得る。この区別は、思想に立ち戻ることによってなされる。ゆえに一つの真理値に属するすべての意義は、それぞれの固有の分解方法に対応することになるかもしれない。」82

ところで、構文論的には、語は文の部分です。フレーゲは、これに対応する仕方で、意味論的には、語の指示対象は、文の指示対象の部分であると考えて、次のように述べます。

「ここで私はしかし「部分」という語をかなり特別な意味で使っている。すなわち、私は、語そのものがこの文の部分をなす場合について、語の意味を、文の意味の部分と呼ぶことによって、文の全体と部分の関係を、文の意味にまで移したのである。」82

(フレーゲは、ここでは明示していませんが、おそらく意義についても同様に、語の意義は、文の意義の部分であると考えるでしょう。)

ところで、もし語のBedeutung(指示対象)が、対象であるとすると、文のBedeutugn(指示対象)は、それを部分として含む対象です。そのような対象「真なるもの」は、真なる文に登場するすべての固有名の指示対象を部分として含むことになります。それは物や事実の総体だと言えるかもしれません。

 次回は、フレーゲの「真なるもの」についてのこの解釈の吟味を進めます。(もしこの解釈が正しいならば、フレーゲの議論と「認識の三角形」が整合的である可能性があるでしょう。)

62 フレーゲの「思想」概念と疑問文(20220216)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

フレーゲは、論文「思想」において、文の「意義」(Sinn、意味)を、「表象」ではなく「思想」であると説明します。そこでのフレーゲの「思想」概念を説明し、それと疑問文との関係を考察したいと思います。

(論文「思想」の日本語訳には、『フレーゲ哲学論集』藤村龍雄訳、岩波書店、1988と『フレーゲ著作集 第4巻 哲学論集』黒田亘・野本和幸編、勁草書房、1999年があります。ここでは、後者の訳文とページ数を使用します。)

フレーゲは、「文の意義こそ、そもそも真であることが問題になりうる当のものである」206と考えます。そしてそれは表象ではないと言います。なぜなら、表象は、「ひとがもつもの」215であり、そのひとの「意識内容に属する」ものであり、「担い手を必要とする」216ものであり、それゆえに、ひとは表象を他者と共有できないからです。「どの表象も唯一人の担い手をもつ。二人の人間が同じ表象をもつということはない」217のです。この場合には、例えばピタゴラスの定理の把握が、表象ならば、複数の人は同じピタゴラスの定理を共有できないことになり、人々に共有される学問が不可能になります。

 これに対して思想は「いかなる担い手も要しない」219。「ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」219。ひとは思想を把握しますが、しかし、思想は誰もそれを把握しなくても成立していると考えます。

 ところで、主張文と疑問文の意義は、このような思想ですが、命令文、希願文、依頼文の意義は思想ではありません。何故なら、それらの意義は「真理が問題となりうるような種類のものではない」208からです。

 では、疑問文はどうでしょうか。フレーゲは、疑問文を「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]」208と「文疑問[はい、またはいいえを求める疑問文]」208に分けます。(『問答の言語哲学』で私は、「語疑問」を「補足疑問」、「文疑問」を「決定疑問」と呼んでいます。)

 彼は、文疑問は思想を含む、と考えます。その理由は次の通りです。

「「はい」という回答は、主張文と同じことを語っている。というのは、疑問文中にすでに完全に含まれていた思想が、その回答により真と評価されるからである。だから、どの主張文に対しても一つの文疑問を形成しうる」208。

(ここでのフレーゲの説明には、全ての決定疑問への「然り」の答えが断定文になると考える誤り(記述主義的誤謬)が含まれています。なぜなら、「これを持っていきましょうか」「これが欲しいですか」などの決定疑問への「はい」の答えは、「命令文」や「願望文」になるからです。決定疑問の答えは、主張文であるとは限りません。これについては、『問答の言語哲学』で強調しました。)

フレーゲは、同じ思想を含む疑問文と断定文の違いを次のように説明します。

「疑問文と主張文は同じ思想を含む。しかし、主張文はなおそれ以上のあるもの、すなわち、まさに主張、を含む。疑問文もまたそれ以上のあるもの、則ち[応答への]要求を含む。したがって、主張文においては、二つのことが区別されるべきである。すなわち、対応する文疑問と主張文が共有する内容と、主張とである。前者は思想である、ないし、少なくとも思想を含んでいる。」209

「かくして我々はつぎのような区別をする。

  1 思想を把握すること――考えること

  2 思想の真理性の承認――判断すること

  3 この判断の表明-―――主張すること」209

フレーゲは「語疑問」が思想を含むかどうかについて、次のように述べています。

「語疑問[疑問詞で始まる疑問文]においては、我々は不完全な文を発話しているのであり、我々の求めている補足[疑問詞「誰」「何」への回答]によって初めて一つの本当の意義を得ることにある。従って語疑問は個々では考慮の外におかれる。」208

フレーゲは、語疑問(補足疑問)は、疑問詞に何かの表現が代入されたときにはじめて思想を持つので、語疑問は、思想を含まない、と述べているのだと思います。しかしそうでしょうか。確かに、補足疑問の意義は、通常の意味では思想(「真理が問題となるもの」)を含みません。しかし、思想の半製品を含むのではないでしょうか。

 例えば、「これは何ですか」という問いは、「これは○○です」という形式の答えを予想します。「○○」に適切な語が入れば、適切な答えとなり、それは完全な思想となります。つまり「真理が問題となるもの」になります。勿論、補足疑問文のままでは、完全な思想を含みません。

 しかし、補足疑問の意義を表象と考えることは出来ないのです。もし補足疑問の意義が、それを問うた人の表象であるとすると、問われた人がそれを理解することができないことになるからです。なぜなら、問われた人が理解する補足疑問は、問われた人の表象であり、問うた人が表象した補足疑問とは異なることになるからです。フレーゲが言うように、科学が可能であるためには、科学的主張の共有が必要です。そのためには科学的な問いの共有もまた必要なのではないでしょうか。したがって、補足疑問の意義の共有が必要です。

それゆえに、補足疑問の意義は、表象だとは見なせません。それは完全な思想ではないとしても、思想の半製品として共有される必要があるのです。

 補足疑問が思想(ないし思想の半製品)を含むというこの指摘が、フレーゲ思想にどのような変更を要求するのかを検討するためにも、次回は、フレーゲが、主張文のBedeutung(指示対象)についてどう考えるのかを考察したいと思います。

61 少し足踏み (20220213)

(アップが遅くなりすみません。)

「認識の三角形」についてより詳しく説明することが次の課題でした。「認識の三角形」について、前回の最後に次のように説明しました。

「ある事実の表示のためには、少なくとも二つの命題がそれを表示する必要があります。二つ以上必要です。つまり、一つの事実と二つの命題からなる認識の三角形が成立する必要があります。

ここでは、「命題が事実を表示している」ということが前提となっています。事実を問答関数と考えることによって、「命題が事実を表示(あるいは表現)する」という捉え方を避けていたのに、ここで不用意にその言い方を採用してしまっていたことに気づきました.これは再考の必要がありそうです。

そこで、認識の三角形を説明する前に、「命題が事実を表示している」と言えるのかどうかを検討したいと思います。どこから手を付けるべきか迷うのですが、フレーゲの論文「思想」の議論を紹介し、それを問答推論の観点から検討することを手掛かりにしようと思います(フレーゲは、そこで文のSinn(意義)は「思想」であり、文のBedeutung(指示対象)は、(事実ではなく)真理値であると主張していました)。それを踏まえて、事実についての問答関数論をもう一度考察して、それから「認識の三角形」について改めて論じなおしたいと思います。

「概念実在論」に対する代案をどう考えるかは、認識論と存在論にとってとても重要な基礎なので、しばらく足踏みにお付き合いください。

60 多重チェック問答関係 (20220208)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

問答関数実在論を仮定するとき、認識内容のチェックは、次のように行われることになると思われます。

問いQ1の答えを得ようとして、ある事実に問い合わせて、答えA1を得たとします。

この問答の正しさをチェックするには、別の事実に問い合わせて、答を得て、その答えを先のA1と照合することができます。もし二つの答えが一致していれば、A1の正しさをとりあえず正当化できたことになります。もし二つの答えが一致しなければ、少なくともどちらか一方を変更しなければなりません。

ただし、仮に一致したとしても、この正当化は完全なものではありません。さらに別の事実に問い合わせたときに得られた答えとA1が一致しなければ、どちらかを変更しなければならなくなるからです。このような仕方で、問答を繰り返すことによって、認識の正当化はより安定したものになるでしょう。

問いに対する答えの正しさ、あるいは問答の正しさをチェックするときに、私たちが問い合わせるものは、客観的事実とは限りません(ここで、客観的事実に問い合わせるとはどういうことか、についてもより明確に答える必要がありますが、それは後で行います)。多くの場合、私たちは、事実そのものに問い合わせるのではなく、すでに受け入れている仮説(一般的な理論、個別的な主張、信頼している伝聞内容、など)に問い合わせて答えを得る場合があります。また知覚表象に問い合わせて、知覚判断を答えとして得ることもあります。

このような複数の「問い合わされるもの」(問答関数)による問答関係のチェックを「多重チェック問答関係」と呼びたいと思います。

理論的な問いの場合の「問い合わされるもの」=「問答関数」には、次のようなものがあります(以下は暫定的な分類です)。

①問いの意味や論理

②他の信頼する命題に問い合わせて、その命題から問いの答えを推論しようとする

③仮説や法則に問い合わせて、答えを得ようとする。

④知覚表象に問い合わせて、答えを得ようとする。

⑤事実ないし感覚刺激に問い合わせて、答えを得ようとする。

ところで、ある問いを立て、その問いに答えるために、何かに問い合わせて、答えをえたとしても、多くのばあい私たちはその一回だけの問答で十分だとは考えません。なぜなら、私たちはその問答をチェックする必要があるからです。なぜなら、他ものに問い合わせて、どの問答をチェックしなければ、問答の正しさを正当化できないし、それに加えて、他のものに問い合わせてチェックできないとすれば、その答えを主張することができなくなるからです。それは、つぎのような理由のためです。

#指示の三角形と認識の三角形

 語「Xさんの車」の指示対象を確定にするには、同一対象を指示する異なる意味の表現「あの赤い車」が必要です。もしある単称名辞Aがある対象を指示するとしても、その対象を指示する仕方が他になければ、単称名辞Aが何を指示しているのか、その指示が成功しているのかどうか、は確認できません。したがって、指示は成立しません。ある対象の指示のためには、単称名辞が二つ以上必要です。指示のためには、指示対象と二つの単称名辞からなる三角形が成立する必要があります。

 それと同じことが命題pによる事実の表示の場合にも成り立ちます。命題pがどのような事実を表示しているのかを確定するには、同一の事実を表示する異なる意味の命題が必要です。もし命題pが表示している事実を表示する他の命題が存在しないとすると、その命題がどのような事実を表示しているのか、その表示が成功しているのかどうか、を確認できません。したがって、事実の表示は成立しません。

ある事実の表示のためには、少なくとも二つの命題がそれを表示する必要があります。二つ以上必要です。つまり、一つの事実と二つの命題からなる認識の三角形が成立する必要があります。

次回は、この「認識の三角形」についてより詳しく説明したいと思います。

59 事実は問答関数である(20220204)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

まず、前回の宿題に手短に答えたいと思います。

#客観的推論的関係と主観的推論関係の相互的意味依存を問答推論関係に拡張する

・前回述べた二種類の語彙の相互的意味依存は、問答推論においても成立します。

客観的な問答推論関係を語るには、真理様相語彙に疑問表現語彙(疑問詞にくわえて、疑問文形式も含まれることにします)を加える必要があります。そして、主観的な問答推論関係を語るには、義務的規範的語彙に疑問表現語彙を加える必要があります。つまり通常の推論関係を問答推論関係に拡張することは、語彙の側面がらみると、真理様相語彙と義務的規範的語彙のそれぞれに疑問表現の語彙を加えるだけです。したがって、もし真理様相語彙が規範的語彙に意味依存するならば、それらにそれぞれ疑問表現語彙を加えた語彙もまた、意味依存することになります。したがって、客観的問答推論的関係と主観的問答推論関係は、相互に意味依存することになります。

では、このように拡張した上で、ブランダム=ヘーゲルの「概念実在論」を受け入れることができるでしょうか。気になるのは次のような存在論的な問題です。

#「概念実在論」の存在論的問題

客観的事実(fact)ないし事態(state of affairs)が概念的に構造化(ないし分節化)されているとしましょう。事実は確かに、それと両立不可能な他の事実がなければ、一定の規定性をもちません。またある事実は、それから帰結する他の事実がなければ、一定の規定性をもちえません。「これはリンゴである」は「これはナシである」とは両立不可能です。また「これはリンゴである」からは「これは食べられる」が帰結します。このような関係は無数にあります。このような関係は、私たちが採用する言語や理論が異なれば、異なります。勿論、このような関係は私たちが言語で語らなくても成立するし、私たちが「リンゴ」「ナシ」「食べられる」「これ」などの語彙を持たなくても成立するものとして考えられています。

 「リンゴ」という語がなくても、「これはリンゴである」という事実が成立しているとは、どういうことでしょうか。それは「もし「リンゴ」という語があれば、私たちは「これはリンゴである」と語ることができる」と言うことでしょうか。

 事実は、無限に多様な仕方で語れる無限に多様な構造をもっているということでしょうか。この場合次のように考えることもできます。

 事実が、「これはリンゴである」あるは「これはリンゴであり、ナシではない」という概念構造を持つのではなく、事実は「これはリンゴですか?」と問われたら「はい、これはリンゴです」という答えを返し、「これはナシですか?」と問われたら「いいえ、これはナシではありません」という答えを返す関数である。

つまり、事実とは、ある問いの入力に対して、ある答えを出力する関数であると見なすことができます(このように問いを入力として答えを出力とする関数を「問答関数」と呼ぶことにします。このような問答関数としては、後に述べるように事実以外にも考えられます。)

 ここに3つの可能性があるでしょう。

 ①事実は、このような問答関数である。

 ②事実は無限に多様な仕方で概念的に構造化されている。言語化されている概念構造はその一部である。

 ③事実は、問答関数であり、同時に、無限に多様な仕方で概念的に構造化されている。

 

 ②や③を語ることは、事実そのもののあり方についての語ることであるので、それを正当化することは、難しそうです。①が最も正当化するときの負担が軽そうです。他方で、①は問答関係を事実によって正当化できるので、観念論や強い構成主義のような説明上の負担も免れることができます。

 ①は、客観的事実が概念的に構造化されているとは考えませんので、「概念実在論」ではありません。事実の概念構造を、問答推論的関係と考えるとしても、そのような問答推論的関係が実在すると考えるのではありません。問答推論的関係は成立するのですが、それは<人が問いを立てたとき、ある問答関数(=事実)に基づいて、ある答えが与えられる>という仕方で成立するのであって、事実の構造として成立するのではありません。事実について言えることは、一定の問答推論関係を成立させる問答関数であるということだけです。その問答関数がどのようなものであるかは、入力と出力を介してしか理解できません。この①のような主張を、とりあえず「問答関数実在論」と呼ぶことにします。

ところで、認識において最も重要なことは、認識内容をチェックすることです。もしある信念や予測をチェックできないとすれば、それは認識とは呼べません。チェックできるものは、真である可能性と偽である可能性を持ちます。

次回は、この「問答関数実在論」を採用した上で、どうやって認識内容をチェックするのかを説明したいと思います。

58 客観的概念構造と主観的概念構造の相互的意味依存(20220201)

[カテゴリー:問答の観点からの認識]

ブランダムは、客観的概念構造(推論的関係)と主観的概念構造(推論的関係)が「相互的意味依存(reciprocal sense dependence)」の関係にあると言います。「意味依存」は「指示依存」と対照的に理解されており、それぞれ次のように定義されます(同様の定義は、すでにTMDの6章にあります)。

・「意味依存」の定義

「XがYに意味依存するとは、Xの概念を把握する事が、Yの概念の把握なしには、不可能である場合である」(SoT 206)

ブランダムの挙げている例では、概念sunburn は 概念sunと burnに意味依存する。また、概念「親」は、概念「子供」に意味依存する。

・「指示依存」の定義

「XがYに指示依存するのは、次の場合のみである。<X(概念Xの指示対象)が、Y(概念Yの指示対象)が存在するまでは、存在しえない>場合である。」(SoT 206)

オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることによって1871年のシカゴ大火災が起こったが、1871年のシカゴ大火災は、オラリー夫人の牛がランタンを蹴ることに指示依存する。

客観的事実が概念的に構造化されているとは、客観的事態の間の「両立不可能」や「帰結」の関係があるということです。他方で、思考や判断の主観的行為の間にも「両立不可能性」や「帰結」の関係が成り立ちます。なぜなら思考も行為も概念的に分節化されているからです。この二つの側面を、客観的な概念内容と主観的概念内容と呼ぶことにします。ブランダムは、この二つが、「相互に意味依存する」というのです。

主観的な概念内容が客観的な概念内容に意味依存することは、明白であるかもしれません。判断が真であるためには、それが事実の概念構造を正しく表現している必要があるからです。判断の概念内容を理解するには、事実の概念内容を理解する必要があります。

これに対して、客観的概念内容が主観的概念内容に意味依存することは、説明が必要です。この説明がブランダムの概念実在論の独創的なところです。ブランダムは、これを二種類の語彙の間の関係として説明します。客観的概念内容は、「真理様相語彙(alethic modal vocabulary)」によって語られます。真理に関わる語彙だけでなく、様相語彙が必要なのは、自然の法則的な「必然性」や「可能性」を語る必要があるからです。また「反事実的条件法」も必要です。したがって、客観的概念内容を語るには、真理様相語彙が必要です。これに対して、主観の判断や行為を語るには、判断や行為にともなうコミットメントや資格付与の引き受けや拒否やそれらの義務について語る必要があります。したがって、「義務的規範的語彙(deontic normative vocabulary)」が必要です。

ブランダムはこの二種類の語彙の間に相互的な意味依存があるというのです。特にかれが強調するのは、<真理様相的語彙が、義務的規範的語彙に意味依存する>ということです。つまり、真理様相的な語彙の理解と適用を行うためには、義務的規範的語彙の理解と適用が必要であるということです。

「自然法則は、人がそれを理解しなくても、またそもそも人がいなくても、成り立ちうる」ことをブランダムは認めます。しかし、この事実は、反事実的条件法で語られており、様相語彙を使用していますが、それだけでなく、「人がそれを理解しなくても」という主観的な判断を述べた部分を理解するには、義務的規範的語彙を使用しなければなりません。それゆえに、客観的な概念内容を理解するためには、主観的な概念内容の理解が必要なのです。

「私たちは、主体がいない可能世界を理解し記述することができる。[…]しかし、そのような可能性を理解する私たちの能力は、私たちが、義務的規範的語彙の適用によって明示化される実践に関わることができるということに依存している。」(SoT 84)

しかし、客観的概念内容が真であるために、主観的概念内容が真であることが必要だということではありません。つまり、客観的概念内容は、主観的概念内容に意味依存するけれども、指示依存しません。

様相語彙は、規範的語彙に意味依存します。しかし指示依存するのではありません。言い換えると、真理様相語彙で語られていることを理解するには、義務規範的語彙を理解することが語られていることを理解する必要があります。しかし、真理様相語彙で語られていることが真であるために、義務規範的語彙で語られていることが真である必要はありません。(cf.SoT 82)

「概念実在論」としては、このような客観的事実の概念構造と主観的判断と行為の概念構造をそれぞれ主張するだけでよいのですが、この二つの概念構造の間の相互的意味依存関係を主張するとき、ブランダムはこれを「客観的観念論」と呼びます。

概念的実在論:物がそれ自体で何であるかと、物が意識にとって何であるか、の間の内容の存在論的同質性。両者は、概念的に構造化されている、つまり両立不可能性と帰結(媒介と規定された排他的否定)によって分節化されている。(注:概念内容はこれら二つの異なる形式をとり得るので、物はこのテーゼによって、観念と同一視されることはない。)

客観的観念論:諸概念の相互的意味依存によって、私たちは、一方では両立不可能性と帰結の客観的関係を特徴づけ、他方では、両立不可能性を解決し推論を行う主観的プロセスを特徴づける。(注:意味依存は指示依存を伴わないので、客観的世界は思考のプロセスの存在に――例えば、因果的に――依存していると見なされるのではない。)

概念観念論:客観的で概念的に分節化する関係と主観的で概念的に分節化するプロセスの配置は、最初は(知覚―行為-知覚という)意図的行為のサイクルであるプロセスの想起的局面に関連して理解されるだろう。そして、派生的にのみ、そのプロセスによって誘発される関係の用語で理解されるべきだ。(注:このテーゼはまだ主観的プロセスによって分節化された内容と、客観的関係によって分節化された内容の理解に言及している。しかし、それは、(『精神現象学』の)「序文」の用語をもちいて、「実体を主体として捉えること」という用語で表現できる――しかし「主体の活動性の様相における実体-且つー主体」と語る方がよいだろう――これは生気のない物を意識のあるものとして解釈することではない。)」(418f)

ブランダムは、概念実在論と客観的観念論と概念実在論を、ヘーゲルにおける『精神現象学』の展開の三段階として理解してます。(概念実在論については、私にはまだ説明の準備ができていません。)

二つの語彙の相互的意味依存について、問答推論の観点から考察するとどうなるかを、次に考えたいと思います。