累進税率と経済システムの関係

飯野山からみた瀬戸内海です。

前回の続き

②について
機会の均等がないところ行なわれた自由な競争の結果、格差が生まれたときには、その格差は、個人の努力や才能の違いに基づくだけでなく、機会の不平等に基づくものでもある。そこで、その機会の不平等を是正する必要がある。

収入の格差の原因として何が考えられるだろうか。
①機会の不平等
  貧しくて十分な教育が受けられなかった。
  障害や病気のために十分な教育が受けられなかった。
  障害や病気のために、人並みに働くことが出来ない。
②能力の違い:
  語学が得意だ。計算が不得意だ。パソコンが得意だ、
  交渉が不得意だ。
③運:交通事故にあって商談がながれた。
  取引先の人の機嫌がよくて、仕事がうまくいった。
  たまたま沢山自動車が売れた。たまたま株でもうかった。
④選好や生き方の違い:希望する職業の違い。
  将来のために資格をとるよりも、楽しく過ごしたい。
  収入を増やすためにひたすら努力するのがすきだ。
  

以上の整理はとりあえずのものである。もっと適切な整理が出来るかもしれない。

①については、格差の補償が必要である。
②と③については、おそらく賛否両論あるだろう。
④については、格差の補償は必要ないだろう。

では、この①(あるいは、②と③を含めたもの)による格差を補償するために、累進税率は、どの程度にすべきだろうか。

この基準をどのように決めるべきか、正直なところ考えあぐねている。
しかし、次のことはいえるだろう。
<この累進税率の決定は、当の社会の経済のシステムがどの程度大きな格差を生む傾向をもつのか、ということに依存している。>

実は、収入の格差の原因には、上記のものとは異なる別の要因がある。それは、<当の社会の経済の仕組みが、どの程度大きな格差を生み出す傾向をもつか>という要因である。

例えば、今仮に構成員が100人の社会があるとしよう。もし全員が同じ能力で働き、機会の平等も確保されていると仮定すると、つぎのような配分が期待できる経済システムがあるとしょう。

システムAでは、60人が2万円の収入で、30人が3万円の収入で、10人が7万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

システムBでは、60人が1万円の収入で、30人が2万円の収入で、6人が10万円収入で、4人が25万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

システムCでは、20人が0円の稼ぎで、60人が1万円の収入で、17人が4万円の収入で、2人が30万円の収入で、1人が92万円の収入で、社会全体で280万円の収入である。

累進課税の税率についていうと、システムAよりもB、BよりもCにおいてより高くなるべきだと考えるのが、常識的であろう。

(肝心の累進税率の決定基準について、良いアイデアが思い浮かびません。
よいアイデア、あるいはすでにある議論の情報などがありましたら、教えてください。
 ニュースによると、オバマ大統領は、富裕層への増税をするようですので、
先進諸国が30年前の累進税率に戻すことを期待したいと思います。)

資本主義の原理的な自己矛盾

飯山の頂上からの景色です。

しばらくほかの事を考えていたのと、答えを考えあぐねていたので、
発言が久しぶりになってしまいました。

問題は、こうでした。
「どのような累進税率が適切であるか」

我々は累進課税によって、同率課税の前述の欠点を解消しなければならない。
前回述べた事であるが、次の二点を確認しておきたい。

①資本主義社会での経済活動は、自由競争によって行なわれている。自由競争の結果をそのまま受け入れるべきだ、ということが正当性を持つためには、自由競争に入る者たちのスタートラインが同一であること、つまり機会の均等が保証されていなければならない。

②したがって、機会の均等がない社会で行なわれた競争の結果の格差については、機会の不均等を是正するような再分配、つまり累進課税が必要である。その累進税率は、機会の不均等を是正するのに必要なだけということになる。

今回は、この①について、考えてみよう。

資本主義社会において、機会の均等を保証することは不可能であるようにおもわれる。なぜなら、個人の所有権が認められている限り、個人はその所有物を自由に処分することが出来る。したがって、仮に相続税を非常に高くしたり、相続を禁止したりしても、生前に子供に贈与することができるのだから、親の経済格差が、子供の経済格差となる。これを防止するには、全ての子どもを、親から引き離して、社会全体で育てることになる(プラトンの『国家』のように)。これは、家族を解体するということである。このとき子どもは国家(将来的には、世界共和国?)のために生産され、育てられ、教育されることになるだろう。少なくとも、現在のところ、これは悪夢としてしか考えられない。

上のような選択肢を排除するとき、資本主義の下で、子どもの生まれつきの経済格差は、不可避であり、機会の平等は、原理的には実現不可能である。しかし、他方で、資本主義での自由競争は、機会の平等によってのみ、正当化される。そうだとすると、資本主義は、それ自体において、原理的な矛盾を抱えていることになる。

せめてできることは、子育てと教育への公的な支援である。子どもの経済格差をできるだけ小さくすることは、資本主義社会の正当化のために不可欠である。したがって、育児、教育への公的な支援を行なう必要がある。例えば、現代の日本でいれば、中卒と高卒の生涯賃金の格差は、子どもがおかれた機会の不平等によると考えられるので、高校卒業までは無料の義務教育とすることが公正な社会のためには必要なことである。育児、養育、教育への様々な支援、公立学校の充実なども、公正な社会のために重要である。親の経済力と関係なく、全ての子どもが同じように優れた教育を受けられることが理想である。(親の経済的な格差だけでなく、文化的な資産(ハビトゥス?)の格差という問題もあるが、焦点がぼけるので、別の課題としたい。)