10 和辻からの予想される応答

 

10 和辻からの予想される応答 (20160307)

 

和辻の『倫理学』の特徴の一つは、人間のあり方を、あるいは倫理を、個人と全体との関係を中心にして考えることである。その時に彼が強調するのは、個人と全体は、互いに他を否定する限りで存在するという「否定的な構造」である。

①間柄は人々の間に形成されるので、間柄に先立って個々の成員が存在しなければならない。

②個々の成員は間柄からその成員として限定されるので、個々の成員に先立って間柄が存在しなければならない。

 

前回論じたように、この二つが矛盾するというのが和辻の主張である。しかし彼は、この二つは矛盾するので、一方が真で他方は偽であるとか、両方とも偽であるとか、主張するのではない。二つは矛盾するが、どちらも真であるというのが、和辻の理解であろう。

これに対して、私は前回、この二つは矛盾していないと言おうとして、反例を挙げた。それらの反例は、①は成り立っても、②は成り立たない事例であった。つまり①と②の成立を認めたうえで、それらが矛盾しないことをしてきたのではなくて、そもそも②が成立しないことを指摘しようとしたものだった。

この批判に和辻が答えようとするならば、彼は②が成立することを証明しなければならない。

②個々の成員は間柄からその成員として限定されるので、個々の成員に先立って間柄が存在しなければならない。

夫婦関係や兄弟関係では、その関係に入る前に間柄に先立って、個人が存在している。したがって、そのような間柄は個人に先立って存在するのではない。ただし、人間はどのような場合にも何らかの間柄において存在するということはできるだろう。人は生まれたときにすでに、誰かの子供という間柄において存在し始める。その後その人はさまざまな間柄を経験してゆく。ひとは、ある間柄から別の間柄へと移ることはできるが、間柄そのものを抜け出すことはできない。その意味で常に間柄が先行している。おそらく和辻は、②をこのような意味で理解しているのだろう。

しかし、仮に②をこのような意味で理解するならば、①と②がともに成立するとしても、それらは矛盾しないのではないか。ただし、ここに個人と全体の(矛盾ではなくて)葛藤を見ることはできるかもしれない。その葛藤は、次のように表現できるだろう。和辻は、これを「否定的構造」と呼んでいる。上の二つは、次のように言い換えられる。

①個人は全体を否定する限りにおいて、個として成立する。

②全体は、個を否定する限りにおいて、全体として成立する。

この二つは、両立可能である。ただし、個人と全体は、葛藤の関係にある。ここでいう全体とは、夫婦のような関係でもよいし、友人関係でもよいし、電車で乗り合わせた人たちの関係でもよい。継続的なものも、一時的なものも含めて、様々な場面でその都度成立していると考えられる間柄関係である。彼は、個人がこのような全体を離れても存在することを認め、しかもそれを重視する。そこから全体による個人への強制を説明するのである。もし個人が全体を離れて存在しないのならば、個は全体と有機的に結合しており、そこに否定の要素はない。もし全体を一種の有機体と考えるならば、そこには強制はないはずだと和辻は考える。(ヘーゲルは社会を有機体として考えるが、しかしその中に自己否定の要素を見るので、この点でヘーゲルと和辻では、有機体の理解が異なる。)

個人は全体を否定し、全体を離れても存在するので、全体は自己の存続のために、個人に全体の秩序に従うことを強制しようとする。これが倫理的な規範になる。和辻が、具体的に説明するのは、家族関係(夫婦関係、親子関係、兄弟関係)会社、友人関係(文化共同体)、国家における規範である。中でも特に家族関係に重きが置かれている。その点で、正当化の仕方についても、内容的にも、儒教倫理に近い。

 儒教の場合も和辻の場合も、<倫理的な規範は、ある共同体を成り立たせる秩序であり、共同体は自己維持のためにそれを個に強制する>と思われる。そして、このような正当化では、全く不十分であるとも思われる。ただし、最近見直されている「徳倫理学」や「道徳実在論」においても、同様の仕方で規範の正当化が行われているのではないだろうか。彼らは、他に規範の正当化はありえない、というだろう。契約によって規則を作り、契約を守らなければならないという規範によって、その規則の規範性を正当化しようとする場合があるが、契約を守らなければならないという規範が、社会秩序を維持するために要求されるのだとすれば、このような規範の正当化方法は、儒教の場合と変わらないことになってしまう。例えば、カントが嘘の禁止を正当化するときに、もし嘘を認めれば、嘘をつくこと自体が成り立たなくなることを指摘する。また、討議倫理学は、ある規範を正当化するときに、その規範を守らなければ、コミュニケーションそのものが成り立たなくなることを指摘する。これらも何らかの社会秩序を前提して、それを守るためのものとして、規範を正当化するという点では同じではないだろうか。

 このようにして正当化される規範は、受容している社会秩序に応じて異なるだろう。つまり、相対主義を免れ得ない。では、これらの規範が衝突した時には、どうしたらよいだろうか。

もし二つの社会の規範が恒常的に衝突するとすれば、それは二つの社会が従来の秩序を維持することが困難になっており、新しい共通の秩序を作る必要があるということである。それに伴って新しい規範を作る必要がある。
どのような規範を受入れるかという問題は、私たちがグローバル化する現代社会において、どのような社会秩序の中に生きているのか、あるいはどのような社会秩序をめざして生きていくのか、という問題になりそうだ。





09 和辻への反論 

09 和辻への反論 (20150811)

 

和辻は次のように言う。

「我々は日常的に間柄的存在においてあるのである。しかもこの間柄的存在はすでに常識の立場において二つの視点から把捉せられている。一は間柄が個々の人々の「間」「仲」において形成せられるということである。この方面からは、間柄に先立ってそれを形成する個々の成員がなくてはならぬ。他は間柄を作る個々の成員が間柄自身からその成員として限定せられるということである。この方面から見れば、個々の成員に先立ってそれを規定する間柄がなくてはならない。この二つの関係は互いに矛盾する。」(和辻全集10巻、61)

 

ここで和辻は次の二つの関係が矛盾すると述べている。

①間柄は人々の間に形成されるので、間柄に先立って個々の成員が存在しなければならない。

②個々の成員は間柄からその成員として限定されるので、個々の成員に先立って間柄が存在しなければならない。

 

この分析は間違っているのではないだろうか。

この二つは、次の例の場合には、矛盾は成立しない。下線部が上の説明とことなるからだ。

①夫婦の間柄が成立するためには、結婚に先立って二人の人間が存在しなければならない。

②二人の人間は、結婚によって夫婦になるが、しかし、二人の存在に先立って、夫婦関係がなければならない、ということはない。

 

次の例の場合にも、事情は少し異なるが、矛盾は成立しない。下線部が上の説明とことなるからだ。

①兄弟の間柄成立するためには、兄弟関係の成立に先立って、二人の人間が存在しなければならない。

弟とが生まれることと兄弟関係が成立することは同時である。ゆえに、兄弟関係の成立に(時間的に)先立って、兄弟になる人間が存在しなければならないということは言えない。

兄の方は、間柄から兄となるが、しかし個人として存在するに先立って、兄弟関係がなければならないとは言えない。つまり、兄となる前、つまり弟が誕生する前から、彼は存在している。

 

これに対して、和辻ならどう答えるのだろうか。

 

08 規範の生成について

08 規範の生成について(20150803)

和辻は、個人と人倫的全体は、相互の否定において成立する、という。つまり、全体の否定によって個人が成立し、個人の否定によって全体が成立するという。この相互の否定において、それぞれが空であることがわかる、という。「個人は己の本源たる空(すなわち本来空)の否定として、個人となるのである。」(124) 

しかもここでは、人倫的全体による個人の否定が、個人に対する規範の強制としてとらえられている。個人の「本源」は「空」であるので、規範の強制は、全体による個人の否定としてのみならず、個人の「本源」による個人の否定、つまり個人の自己否定、自己強制でもある。ゆえに、「強制は、個人への外からの強制でありながら、しかも同時に己の本源からの自己強制であり得る」(124頁)こうして社会規範が個人に強制され、しかも個人がその強制を自己の「本源」として受け入れるという現象が成立する。和辻は、これを個人と人倫的全体の存在の「否定的構造」として説明する。

この「人間存在の否定的構造」を示そうとする和辻の議論には、あいまいさが付きまとっており、それは批判的に検討するに値すると思われる。


 

06 儒教の自我論

06 儒教の自我論(20150701)

仏教と同じく、儒教にも長い歴史があり、様々な学派がある。ここでは、儒教の中心的な教えを、五常五倫の教えだと考えてみよう。五常とは、仁義礼智信という五つの徳のことである。これらの徳は、五倫と呼ばれる五つの人間関係、君臣、父子、夫婦、長幼、朋友にもとづいている。このような重要とされる徳目や、重要とされる基本的な人間関係の理解については、変遷があるようだが、ここではそれには立ち入らない。

仮に上記の五倫が基本的な人間関係であり、歴史をこえて普遍的に成立している関係であるとしよう。このような自然的な人間関係は、それを維持することを義務として含むことになる。なぜなら、もしその自然的な関係を破壊するなら、その関係よって成り立っている人間や共同体も破壊されるからである。ここでの仮定により、人間と共同体は五倫以外の仕方では存在できないからである。これは超越論的論証だといえるだろう。

(もちろんこの論証が成り立つためには、五倫の人間関係が、歴史を超えて普遍的に成立している自然的なものであることを証明しなければならない。ただし、その証明は儒教の中にはないのではないだろうか。それはただ前提されているだけなのではないだろうか。そして、現在の私たちは、五倫がそのような普遍的な自然的な人間関係ではないことを知っている。)

 

ここで、この超越論的論証の構造について考えよう。

仏教では、悪いことをせず善いことをすることは、自分の行為によって、地獄に落ちたり、獣に生まれ変わったり、人間に生まれ変わったり、よりよいものに生まれ変わったり、最終的には解脱したりする、という仕方で、サンクションを受けた。因果応報が、道徳的な行為を動機づけていた。(ちなみに、キリスト教でも、最後の審判で天国にけるか地獄に落ちるか、というサンクションがあり、この点で仏教と似ている。)

それに対して、儒教では、来世も、天国も地獄もないので、このようなサンクションは働かない。それでは道徳的な行為をすることには、どのような動機付けが働くのだろうか。君子に忠義をつくしたり、親に孝行したり、することで、相手から褒められたり、世間から褒められるだろう。それは世俗的な成功や幸せをもたらすのかもしれない。五常を守るか守らないかは、世俗的な成功と不成功という仕方でサンクションを受けるだろう。しかし、それだけであろうか。それならば、幸せになるためのハウ・ツー、処世術にすぎないだろ。

単なる処世術と五常の教えはどこが違うのだろうか?

 

04 Nagarjunaの答え?

04  Nagarjunaの答え? (20150608)

仏教の「空」の思想を展開したといわれるNagarjunaの中論Middle Wayの答えは、おそらく次のようなことである。

<もしすべてのものが空ならば、生滅や因果関係ということはなく、輪廻転生ということもなく、四聖諦も成立しなくなるだろう>というような中論への反論は、それは「空」の中途半端な理解に基づくものである。実体として存在するものについては、その変化や因果関係を説明できない。変化や因果関係は、むしろ空によって理解可能になるのである。このことは、自我についても同様であり、もし自我が実体として存在するのならば、それの生滅を説明することはできなくなる。自我が生滅することは空によって説明可能になるのである。(参照、『中論』「第24章 4つの優れた真理の考察」(中村元『龍樹』 講談社学術文庫、378-384, Fundamental Wisdom of Middle Waytranslation and commentary by Jay L. Garfield, Oxford UP

 

ここで仮に、変化を説明するには、何らかの意味で空を認めなければならない、ということを認めたとしよう。このとき問題となるのは、そのときの空をどう理解したらよいのかである。Nagarjunaは空についてポジティヴには語らないので、隔靴掻痒である。

「業と煩悩が滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩は分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。」(第18章5 『龍樹』p.364

もしこれが<分別思考(conceptualthought)のあるところ、五薀や煩悩や業が生じ、煩悩や業の主体である自我も存在する。しかし、空において分別思考は消え、自我も消える>という意味であるとしよう。そして、これが「世俗の覆われた立場での真理(a truth of worldly convention 」と「究極の立場からの真理(an ultimatetruth)」(第24章8、『龍樹』379MiddleWay, 68)に対応するのだとしよう。このとき、<自我や苦や煩悩や業や縁起や輪廻転生が成立するのは、分別思考にとってであり、空においてはそれらは存在しない>ということになるだろう。

この場合、苦や輪廻転生から解脱するとは、分別思考から、空の立場に移ることである。六道とは別の世界があって、そこへ移ることではなくて、六道が実は存在しないと知ることである。

 このとき、前述の部派仏教の矛盾は、どう解決されるだろうか。

部派仏教では、自我は五薀から構成されたものであり、実体としては存在しない。k彼らにとって「無我」とはそういう意味である。しかし五薀は存在し、その限りで十二支縁起から逃れることもできない。そうだとすると、自我の構成がなくなることはなく、苦を滅することも原理的に不可能になる。
これに対して、龍樹を含む大乗仏教は、五薀もまた、本当は存在せず、空である(「色即是空、空即是色」)と考えて、この矛盾を解決したのだといえそうだ。


 

 

03 部派仏教の「無我」の矛盾

03 部派仏教の「無我」の矛盾 (20150602)

部派仏教に属する『倶舎論』で、世親は「我は存在せず、煩悩と業とによって形成される薀(うん)のみがある」という。この五薀とは、色(肉体)、受(感受作用)、想(知覚作用)、行(意志作用)、識(認識作用一般)である。しかも五薀は、刹那に生滅する。つまり、瞬間ごとに生滅を繰り返しているという(参照、三枝充よし著『世親』講談社学術文庫、p. 95, 112)。部派仏教では、自我は存在しないと考えるが、それを構成している五薀が存在していると考えるようだ。

この場合、「自我が存在しない」とは、不可分で持続的な実体として存在するのではないという意味になるだろう。ただし、おそらく部派仏教は、他方では「五薀の刹那の生滅を貫いて、それによって構成されている自我が存在している」と語ることを(何らかの意味で)認めるだろう。(ここで、西洋でのロック以来の自己同一性をめぐる議論と似た議論を繰り返すことが可能かもしれない。これについては、書庫「人格とは何か」で論じたのだが、その時の議論では他者とのコミュニケーションの中で自己同一性を構成するしかないという結論になった。仏教のなかには、自我の同一性を他者とのコミュニケーションによって構成するというようなたぐいの議論は無いようにおもわれる。)

部派仏教は次のように考えるのかもしれない。「自我は実体としては存在しないが、構成されたものとして存在する。このとき、自我の構造の同一性、ないし連続性が、自我の同一性を意味する。そしてその構造の同一性や連続性があると考えることを否定するものではなく、その基底に実体的な自我が存在すると考えることを否定するものである。」

 このとき、自我は五薀という要素から構成されている。その構成は、五薀が因果関係(縁起)によって変化することによって構成されている。ところで、このとき仮にある自我が苦しんでおり、その苦しみが煩悩を原因としているとしても、その煩悩にもまた原因があり、それによって生じている。このとき、この苦を滅する方法などあるのだろうか。その人がどのように振る舞うかは、縁起によって決定しているのではないだろうか。このような自我は全く縁起の産物であって、縁起を抜け出たり、それを変更したりする可能性はないだろう。このような自我論はそれ自体では整合的であるかもしれない。例えば、現代の心の哲学の物理主義者はこのような自我論を取るかもしれない。しかし、これれは仏教の四聖諦、とりわけ滅諦と道諦に矛盾する。

苦諦:人生は苦に満ちている(四苦八苦)

集諦:苦には原因がある。それは煩悩であり、究極的には無知(無明)である(十二支縁起)。

滅諦:苦を消滅させることができる(解脱)。
  道諦:苦を消滅させるための方法(八正道)がある。

仏教は、この矛盾をどうやって克服するのだろうか。

02 仏教の根本問題

02 仏教の根本問題(20150602)

・仏教の特徴は、無我(anātoman, not-self)を主張することである。

・仏教のその他の思想の多くは、当時のインドで一般に認められていたことである。人が死と再生を繰り返すという輪廻(Samsara)の思想も、輪廻転生は、天・人・餓鬼・畜生・地獄の五道、ないしこれに修羅を加えた六道のいずれかに変わるという思想も、何に転生するかは業(karma)(道徳的行為)によって因果的に決定するという思想も、仏教以外のインド思想にも共通のものである。

・しかし、この「無我」から問題が生じる。「もし自我が存在しないのならば、何が輪廻転生するのか」という問題である。ジャイナ教は、仏教に対してこの点を批判した。仏教にとっての根本問題だと思われるは「輪廻転生の主張と、無我の主張が矛盾するように見える」ということである。

・この根本問題はもちろん、輪廻転生を認めなければ生じない。そして現代人にとって、輪廻転生は荒唐無稽な思想である。(それは私たちが西洋近代に登場し発展した自然科学を認めているからである。西欧近代以後の自然科学を知らない当時のインドの人々にとって、輪廻を理論的に批判することは難しいだろう。例えば、身体の死とともに心もなくなると私が考えるが、しかし自然科学を知らなければ、身体の死後心がなくなることを説得ことは難しいだろう。したがってそれが転生する主張を批判することも難しいだろう。)

・しかし仮に輪廻転生と六道の話を取り除いて、縁起を現世の中だけで考えるとしても、やはり次のような問題が生じるだろう。「縁起の説明、たとえば煩悩による苦の発生の説明は、無我の主張と矛盾するようにみえる」ということである。

・「無我」や「空」の概念は、東アジアの人間にはなじみのものである。しかし、それらを理解することは非常に難しいことであるし、私たちはまだその明確な理解を手にしていないように思われる。仏教の歴史は、「無我」や「空」の概念を受け入れたうえで、それについての整合的な理解を作り上げようとする試みであったと言えるのかもしれない。そして、それはひょっとすると、まだ最終的にうまくいっていないのかもしれないし、うまくいかないのかもしれない。ひょっとする「無我」を認めなかったジャイナ教徒の方が正しかったのかもしれない。

・仏教徒たちがどのように理解しようとしてきたのかを、振り返りつつ、「無我」を整合的に理解できるかどうか、検討してみようう。

 

01 はじめに 構成主義と仏教

01 はじめに 構成主義と仏教 (20150531)
 「自我」の理解は、「私とはどのようなものか」というような哲学的な問いや、「お昼に何を食べようか」「今日は何をしないといけなかったのだろうか」というような日常的な問いによって、構成されている。自我は、自我にかかわる問答において、問いの前提や問いの答えによって、構成されている。
 このような自我の構成が、社会の中でどのように行われるのかを説明するのが、自我の社会構築主義になるだろう。しかし、その時の説明において、資本主義や共同体のような社会制度を前提するならば、それらもまた歴史的社会的に構成されたものなのだから、そもそもの説明の出発点をどこに求めることになるのだろうか。
 その時の可能な答えの一つは、ルーマンのように社会はコミュニケーションから構成されていると考えることである。発声行為や身体行為にある意味を帰属され、それが他の行為の選択決定を促す、という仕方でコミュニケーションが成立し、その連鎖と集合が、社会や文化や人格を構成する。では発声行為や身体行為にある意味が帰属されるのは、どのようにしてなのだろうか。これは、言語起源論や哲学的意味論の課題であり、私にとってはメインの仕事になるが、ここでは扱えない。(これについては、とりあえず2014年度2学期の講義ノートhttp://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/kougi/kougiindex.htmを見ていただければ幸いです。)
 このような自我や社会の理解は、西洋ではポストモダンの思想かもしれないが、東アジアでは仏教以来なじみのものである。そこで、まず仏教の自我論とその歴史を確認しよう。