落ち葉をめでる

今回は、筆休めです。

昨年からなぜか落ち葉が気にいっています。落葉の季節に森に積もった落ち葉は、ともていい感じです。

アメリカの大学では、掃除の人がこの時期、ドライヤーの大きいようなもので落ち葉を集めていました。
ですから、キャンパスには落ち葉がたまるというようなことはありません。これに対して、少なくとも日本の大学では、落ち葉を集めているところを見たことがありません。それは単に清掃のための財源が足りないということではないようにおもいます。日本人は、アメリカ人ほど、落ち葉を汚いとはおもわないのではないでしょうか。(おそらく日米の差よりも、都会と田舎などの差の方が大きいだろうとおもいます。)落ち葉も雨にぬれ、人に踏まれて、汚くなってゆきます。それは落ち葉が汚いという言うよりも、落ち葉とアスファルトとの取り合わせが悪いのです。落ち葉が土の上にあるときには、どんなに踏まれても汚いとは思えません。それはやがて腐葉土になってゆくのです。

紅葉をめでたあとには、落ち葉もめでたいものです。

やっとポイントにたどり着いた?

以前の批判(2007年12月2日11月23日)をやり直します。
そこでは、対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の主張を次のように構成して、それを反論しました。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この主張の弱点は、冒頭の次の部分にあります。
「私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」

前回はこの部分の弱点を指摘しそこなったように思います。
前回行った批判は、私が「あなたは存在しないかもしれない」とあなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しないかもしれない」
とが矛盾しているように思われる、ということでしたが、この部分の弱点は、それとは別のところにあります。

この部分の弱点は、<認識論的個人主義者が対話の相手に対して「あなた」と呼びかけることによって、相手の存在を想定しそれを相手に伝達しておきながら、他方で、相手が本当は存在しない可能性がある、と考えている>という点にあるのです。これは矛盾しているのではないでしょうか。これは道徳的に不誠実な態度のようにも思えます。

認識論的個人主義者は、この点について次のように答えるかもしれません。
<私の態度は、不誠実な態度ではありません。
考えてみてください。私が、相手に次のどちらを語るのが道徳的によい態度でしょうか。
a「あなたの存在をみとめています」
b「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」
もし相手が存在するとすれば、aの発言が適切であることになります。bを語ることは、相手の存在を承認しないことです。もし相手が存在しないとすれば、何を相手に語ろうとそれは無意味ですから、aもbも同じことです。つまり、どちらにせよ、私はaの発言をすることが道徳的には好ましいのではないでしょうか。
では、内面では、次のどちらを考えるのがよいのでしょうか。
 c「相手は存在する」
 d「相手は存在しない可能性がある」
もし相手が存在するとすれば、私は、cを考えるのが正しいことになります。もし相手が存在しないとすれば、私は、dを考えたほうがよいでしょう。しかし、私は、どちらが正しいのか解かりません。解からない限りは、私は、dを考えることが知的に誠実な態度です。無理やりaを信じ込むようにするというのは、知的に不誠実な態度です。

さて、以上の考察で解かるように、私は、aを発言し、bを考えるということが道徳的によい態度であり、知的に誠実な態度であることになります。

私が、aを語って、dを考えるというのは、道徳的に不誠実ではないのです。それを説明しましょう。私が「相手は存在しないかもしれない」と考えることは、これは相手の思想や信条を認めないということではなく、人格を認めないということでもありません。通常の場合には、相手の信条や人格を否定することは、相手の存在を認めることが前提になっています。なぜなら、存在しない人の信条や人格を否定することは不可能だからです。ここでは、その前提となっている存在を疑っているのであって、相手の人格を傷つけるものではありません。>

これに対して私は次のように答えましょう。

<あなたが、「私はあなたが存在しないかもしれない」と言葉に出して相手に伝達する行為は、単にそれを心の中で考えていることとは別の意味をもちます。あなたが、相手に「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」と語るとすると、それはやはり相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。もちろん、人格は相手が存在することが前提されていて、相手が存在しないとすれば、その人の人格を否定することも不可能になるのだ、と言うことができます。しかし、その人の存在がその人の人格の前提であるとすれば、その前提を否定することは、その人格を否定することになるでしょう。そして、仮に前提を否定するのではなくて、前提が存在しないかもしれないと考えることは、やはり尊重すべき人格が存在しないかもしれないと考えることであり、相手の人格を否定することになるといえます。
 さらに、単に心の中で「この人は存在しないかもしれない」と考えているとしても、相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。これは嘘をつくことの一種であり、もし嘘をつくことが、相手の人格を尊重しないことであるとすると、これもまた、相手の人格を尊重しないことになります。もし「嘘をつくべからず」が自己に対する義務であって、他者に対する義務ではない、と考えるならば、別の仕方で議論しなければなりません。しかし、どちらにせよ、不道徳な行為であることになります。
 認識論的個人主義者は、不道徳な態度なのです。>

認識論的個人主義者は次のように言うでしょう。
<そうかもしれません。しかし、私の立場が不道徳だとしても、それが間違いであるということにはなりません。仮に、私が「他者は確実に存在する」と無理やり信じ込むことにしたとすれば、それは知的に不誠実な態度であり、やはり不道徳なのではないでしょうか。従って、道徳的な見地からしても、私が認識論的個人主義を捨てるべきだということにはなりません。>

私は次のように言いましょう。
<では、あなたの立場が不道徳であるとしても、それは問わないことにしましょう。あなたの態度が、矛盾しているということを指摘しましょう。これが私の批判の本来のポイントなのです。
あなたは他者と話しているときに、相手が存在していることを前提して話しています。つまり相手に「あなたは存在している」と語り、他方で、「あなたは存在しないしないかもしれない」と考えています。これは矛盾ではないでしょうか。もちろん、あなたは、そのことと相手も正直に語ってもよい、と考えるでしょう。例えば、今私と議論しているときにそうしているようにです。しかし、本当にそう
でしょうか。あなたは相手に全く正直に、「私はあなたが存在すると考えていますが、しかしひょっとするとそれが私の想定に過ぎない可能性も認めています」と語ることはできます。しかし、あなたは、本当に首尾一貫して常に、相手の存在を不確実なものとして考え続けることができるのでしょうか。あなたが他者と話すときに、ついつい、相手が確実に存在すると考えてしまっているのではないでしょうか。(あなたはまた、あなたの周りの世界が、あなたの表象にすぎないと考え続けることもまた不可能であり、ついつい素朴な実在論をとってしまっていないでしょうか。これはいずれ後で論じることになるでしょう。)私の指摘したかった矛盾点は、ここにあります。本当にあなたは、あなたの立場を維持しつつ、他者と対話することができるのか、ということです。>

これに対して認識論的個人主義者は、どう答えるでしょうか。