08やっとポイントにたどり着いた?

以前の批判(2007年12月2日11月23日)をやり直します。
そこでは、対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の主張を次のように構成して、それを反論しました。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この主張の弱点は、冒頭の次の部分にあります。
「私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」

前回はこの部分の弱点を指摘しそこなったように思います。
前回行った批判は、私が「あなたは存在しないかもしれない」とあなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しないかもしれない」
とが矛盾しているように思われる、ということでしたが、この部分の弱点は、それとは別のところにあります。

この部分の弱点は、<認識論的個人主義者が対話の相手に対して「あなた」と呼びかけることによって、相手の存在を想定しそれを相手に伝達しておきながら、他方で、相手が本当は存在しない可能性がある、と考えている>という点にあるのです。これは矛盾しているのではないでしょうか。これは道徳的に不誠実な態度のようにも思えます。

認識論的個人主義者は、この点について次のように答えるかもしれません。
<私の態度は、不誠実な態度ではありません。
考えてみてください。私が、相手に次のどちらを語るのが道徳的によい態度でしょうか。
a「あなたの存在をみとめています」
b「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」
もし相手が存在するとすれば、aの発言が適切であることになります。bを語ることは、相手の存在を承認しないことです。もし相手が存在しないとすれば、何を相手に語ろうとそれは無意味ですから、aもbも同じことです。つまり、どちらにせよ、私はaの発言をすることが道徳的には好ましいのではないでしょうか。
では、内面では、次のどちらを考えるのがよいのでしょうか。
 c「相手は存在する」
 d「相手は存在しない可能性がある」
もし相手が存在するとすれば、私は、cを考えるのが正しいことになります。もし相手が存在しないとすれば、私は、dを考えたほうがよいでしょう。しかし、私は、どちらが正しいのか解かりません。解からない限りは、私は、dを考えることが知的に誠実な態度です。無理やりaを信じ込むようにするというのは、知的に不誠実な態度です。

さて、以上の考察で解かるように、私は、aを発言し、bを考えるということが道徳的によい態度であり、知的に誠実な態度であることになります。

私が、aを語って、dを考えるというのは、道徳的に不誠実ではないのです。それを説明しましょう。私が「相手は存在しないかもしれない」と考えることは、これは相手の思想や信条を認めないということではなく、人格を認めないということでもありません。通常の場合には、相手の信条や人格を否定することは、相手の存在を認めることが前提になっています。なぜなら、存在しない人の信条や人格を否定することは不可能だからです。ここでは、その前提となっている存在を疑っているのであって、相手の人格を傷つけるものではありません。>

これに対して私は次のように答えましょう。

<あなたが、「私はあなたが存在しないかもしれない」と言葉に出して相手に伝達する行為は、単にそれを心の中で考えていることとは別の意味をもちます。あなたが、相手に「私はあなたが存在しないかもしれないと考えています」と語るとすると、それはやはり相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。もちろん、人格は相手が存在することが前提されていて、相手が存在しないとすれば、その人の人格を否定することも不可能になるのだ、と言うことができます。しかし、その人の存在がその人の人格の前提であるとすれば、その前提を否定することは、その人格を否定することになるでしょう。そして、仮に前提を否定するのではなくて、前提が存在しないかもしれないと考えることは、やはり尊重すべき人格が存在しないかもしれないと考えることであり、相手の人格を否定することになるといえます。
 さらに、単に心の中で「この人は存在しないかもしれない」と考えているとしても、相手の人格を否定することになるのではないでしょうか。これは嘘をつくことの一種であり、もし嘘をつくことが、相手の人格を尊重しないことであるとすると、これもまた、相手の人格を尊重しないことになります。もし「嘘をつくべからず」が自己に対する義務であって、他者に対する義務ではない、と考えるならば、別の仕方で議論しなければなりません。しかし、どちらにせよ、不道徳な行為であることになります。
 認識論的個人主義者は、不道徳な態度なのです。>

認識論的個人主義者は次のように言うでしょう。
<そうかもしれません。しかし、私の立場が不道徳だとしても、それが間違いであるということにはなりません。仮に、私が「他者は確実に存在する」と無理やり信じ込むことにしたとすれば、それは知的に不誠実な態度であり、やはり不道徳なのではないでしょうか。従って、道徳的な見地からしても、私が認識論的個人主義を捨てるべきだということにはなりません。>

私は次のように言いましょう。
<では、あなたの立場が不道徳であるとしても、それは問わないことにしましょう。あなたの態度が、矛盾しているということを指摘しましょう。これが私の批判の本来のポイントなのです。
あなたは他者と話しているときに、相手が存在していることを前提して話しています。つまり相手に「あなたは存在している」と語り、他方で、「あなたは存在しないしないかもしれない」と考えています。これは矛盾ではないでしょうか。もちろん、あなたは、そのことと相手も正直に語ってもよい、と考えるでしょう。例えば、今私と議論しているときにそうしているようにです。しかし、本当にそう
でしょうか。あなたは相手に全く正直に、「私はあなたが存在すると考えていますが、しかしひょっとするとそれが私の想定に過ぎない可能性も認めています」と語ることはできます。しかし、あなたは、本当に首尾一貫して常に、相手の存在を不確実なものとして考え続けることができるのでしょうか。あなたが他者と話すときに、ついつい、相手が確実に存在すると考えてしまっているのではないでしょうか。(あなたはまた、あなたの周りの世界が、あなたの表象にすぎないと考え続けることもまた不可能であり、ついつい素朴な実在論をとってしまっていないでしょうか。これはいずれ後で論じることになるでしょう。)私の指摘したかった矛盾点は、ここにあります。本当にあなたは、あなたの立場を維持しつつ、他者と対話することができるのか、ということです。>

これに対して認識論的個人主義者は、どう答えるでしょうか。

07クマ出現に注意

  クマのように手ごわい認識論的個人主義者

さて、前回の反論を吟味したいと思います。
 
前々回、私は次のように考えました。
「私は存在しない」という発話と同様に、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾です。「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、
発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
発話内容「あなたは存在しない」
が矛盾しているからです。ここから私は、次のように議論を拡張しました。もしそのようにいえるとすれば、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話も矛盾している。なぜなら、次の二つが矛盾しているからです。
発話行為の事実<私はあなたに話しかける>と
発話内容「私はあなたに話しかけていないかもしれない」

前回の認識論的個人主義者の反論は、この後者が矛盾していないという主張でした。

彼の反論を整理しましょう。 
まず、認識論的個人主義者は、よく似ている例として、次の事例<ドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問する場合>を挙げて、それは矛盾していないといいました。
   発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   発話内容「内部にどなたかいませんか?」
これは、質問なので、疑問文の内容と事実の主張とは直接には矛盾しないのですが、しかし、全ての疑問文は何らかの命題を前提します。ここでは、<発話者は、内部に誰かがいるのかどうかを知らない>という命題ないし事実が前提されています。
発話行為の事実<私は内部にいる人に話しかける>
   質問の前提<私は内部に人がいるかどうかを知らない>
この二つは矛盾するでしょうか。

認識論的個人主義者が述べたように、確かにわれわれはこのような質問を行います。そしてこのような質問は、われわれのコミュニケーションを可能にするために非常に重要な機能を持っています。実は、私は、このような質問は、コミュニケーションを可能にするために不可避のものであるとも考えています。しかし、そのように考えるとしても、そのことから、「その質問発話は矛盾していない」という命題を導出することはできません。

さて、この発話の事実と質問の前提は矛盾しているでしょうか。(今のところ、私には矛盾しているのかどうか、よくわかりません。「なぜ、矛盾しているかどうか、というような単純な問いに、明確に答えられないのか」ということ自体もよくわかりません。奇妙なねじれがありそうです。)

この質問との類似性に基づいて、「私はあなたに話しかけていないかもしれない」という発話が矛盾していないというのが、認識論的個人主義者の反論でした。

この二つの発話の間の、類似性、については、もう少し検討の余地があるだろうとおもいます。またその類似性を認めるとしても、これらが矛盾していないといえるかどうかについてもまだよくわからない、というのが、現在の私の感想です。つまり、認識論者の「『私はあなたに話しかけていないかもしれない』という発話は矛盾していない」という反論が、正しいのかどうか、現在のところ、私には曖昧です。

これでは、反論への批判になりません。
しかし、このように分析しながら、私は、前々回の批判がすこしピントはずれであったということに気づきました。そこで、前々回の批判を、やり直すことにしたいとおもいます。

06認識論的個人主義は宝くじを買う

前回の批判に対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<私は『あなたが存在している』と想定しています。そして、全ての表象が私の表象である限り、それが私の表象にすぎず、私の想定に過ぎない可能性はあります。そして、これが、私の想定に過ぎないとすれば、私が今、あなたに話し掛けていることも、実は私の勝手な想定であり、この話しかけは失敗しているということになります。
ちょうどドアを叩きながら、「どなたかいませんか」と質問しているような場合と同じです。もし人がいれば、答えてくれるし、もしいなければ答えは返ってきませんから、この発話は、誰に対する質問でもないことになります。しかし、それでもよいのです。それでも、私は、返答がないことによって、誰もいないという情報を得ることができるからです。
これと同じで、私は、今このようにあなたに反論していますが、そのあなたが私の表象に過ぎない可能性があるとしても、もしあなたから返答が返ってくれば、それによってとりあえず、私はあなたが存在しているという想定を継続する合理的な根拠を得たことになります。もちろんそれが私の錯覚で、実はあなたがいないことがいずれわかるかもしれませんが、しかし、それはわれわれの認識の限界として、引き受けるしかないことだと、私は考えています。ここには、矛盾はありません。
われわれが宝くじを買うときに、「当てよう」と思って買うのですが、しかし当たらない確率が高い、つまりおそらく当たらないだろう思っています。当てようとすることと、当たらないだろうと思うことは、この場合に矛盾していないでしょう。それと同じことです。>

さて、この反論にどのように答えたものでしょうか。

05私はあなたに話しかけています

       

前述の認識論的個人主義者からの反論を一旦受け入れて、「相互承認」関係に依拠した、認識論的個人主義への批判の有効性については(まだあきらめていないのですが)一旦留保して、別の面から批判を試みたいと思います。
 
ここで対話の相手の存在認識についての認識論的個人主義者の同様の議論を構成してそれを反論したいと思います。

<私は「あなたが存在している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にあなたが存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この議論は、相手「あなた」に話しかけています。「私は存在しない」と言う発話は、周知の語用論的矛盾ですが、「あなたは存在しない」という発話もまた、語用論的矛盾ではないでしょうか。まず、「私は存在しない」が語用論的矛盾になる、ということを確認しておきましょう。
「私は存在しない」と私が発話するとき、
  
   発話行為の事実<私が発話する>と
  発話内容「私は存在する」

が矛盾しています。
これと同様に、「あなたは存在しない」と私があなたに話しかけるとき、

   発話行為の事実<私があなたに話しかける>と 
   発話内容「あなたは存在しない」

が矛盾しています。

もしそのようにいえるとすれば、上の議論の冒頭の部分の発話

  「私は『あなたが存在している』と想定しています。もちろん、それが私
   の想定に過ぎない可能性はあります。」

これは、矛盾しています。なぜなら、この二つ目の文の発話は次のような発話になるからです。

  「あなたは存在しないかもしれない」
あるいはこれをさらに言い換えると、
  「私はあなたに話しかけていないかもしれない」
となります。これらをあなたに話しかけるとき、

  発話行為の事実<私があなたに話しかける>と
  発話内容「あなたは存在しないかもしれない」あるいは
      「私はあなたに話しかけていないかもしれない」

は矛盾しています。

これに対して、認識論的個人主義者はどう反論するでしょうか。

 

04相互承認には共有知が必要

認識論的個人主義者の反論は次のようなものでした。

<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

この反論にどのように答えましょうか。ここで「相互承認」についての認識論的個人主義者の同形の議論を構成して、それを反論したいと思います。
(「相互承認」という言葉をいきなり持ち出すと解かりにくいかもしれません。これはフィヒテに始まる哲学用語です。人間と人間が自然状態でであったときに、戦争状態を避けるために必要とされる、最も基礎的な人間関係のことです。その中身は、「互いに相手の自由のために、自分の自由を制限する」ということです。)

<私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際にBさんとの相互承認が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた私の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>
 
これに対する私の反論は以下の通りです。
<相互承認は、互いに承認していることを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能であるということを、構成条件としています。つまり、認識論的個人主義者が、「私は、「Bさんとの相互承認している」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」というのは、「私は「私はBさんと相互承認しており、そのことを互いに知っていることを互いに知っているというような反復が可能である」と想定しています。しかし、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。」と認めることになります。しかし、そうすると、これは、相互承認の関係を互いに知っていることを互いに知っているということの無限の反復可能性の主張と矛盾します。>

したがって、相互承認が成立していると考えるのならば、我々は認識論的個人主義を放棄しなければなりません。認識論的個人主義者が、相互承認が成立していると考えることは矛盾しているといえます。

これに対して、認識論的個人主義者は次のように反論するかもしれません。

<上の論証を認めましょう。私がそこから引き出す結論は、上述のような完全な意味でならば「相互承認」は成立しないと主張することです。私は、他者の存在を想定し、彼らを尊重し、ある人々とは対話し、互いに尊重しあっていると想定しています。これもまた私の想定で、間違っている可能性がありますが、しかしあっている可能性もあります。>

さて、この反論にどう答えましょうか。

03認識論的個人主義とは

共有知の存在証明に取り掛かりたいとおもいます。

唯物論であれ、二元論であれ、観念論であれ、すべての意識ないし思考は、個人の意識ないし思考であるとしましょう。この立場を「認識論的個人主義」と呼ぶことにします。なぜなら、このときには、全ての認識は、ある個人が行っている認識であるということになるからです。
 このような認識論的個人主義では、私が見ている対象や私の思考は、全て私個人のものです。もし私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ているとしましょう。このこと、つまり「私がBさんと同じ部屋にいて、同じ黒板を見ている」ということは、私の認識です。私は、Bさんも、同じように考えていると思っていますが、しかし「Bさんも同じように考えている」ということもまた、私の認識です。つまり、認識論的個人主義が正しいとすると、個人が複数存在することを、想定することもまた、ある個人の想定であることになります。
ここから、「認識論的個人主義者が、他者の存在を想定することは自己矛盾している」ということを主張したいのですが、それを主張するには、まだ途中の論証を補う必要があるでしょう。

認識論的個人主義者は次のように反論するでしょう。
<私は「他者が存在する」と想定しています。もちろん、それが私の想定に過ぎない可能性はあります。なぜなら、私は、私の認識の外部に出てゆけないからです。しかし、単なる想定ではなく、実際に他者が存在することもまた可能です。もちろん、それもまた個人の想定になりますが、しかし、この想定には矛盾したところはないと思います。>

 さて、この反論にどのように答えましょうか。
 

02そろそろ始めましょう

     先週末見た綺麗な紅葉でした。

そろそろ話しをはじめたいと思います。
ここで「共有知」と呼びたいのは、個人が考えている知ではありません。それは個人を超えて複数の人が共有している知です。諸個人が同じ内容の知を持っており、各人の心ないし頭に同じ知が人間の数だけ反復して成立しているというのではありません。

複数の個人が一つの知を共有すること、内容が同一の知が、人間の数だけ存在するのではなくて、数的に一つの知がそこに存在しているという状態を「共有知」と呼びたいとおもいます。

「そんなバカな」というご批判は、私がそのように考える理由を説明してから、喜んでお伺いしますので、今しばらくお待ち下さい。

01世にも奇妙なことなのです

私は最近「共有知」という考えに取り付かれています。
それは自分でいうのもなんですが、非常に奇妙な考えです。
それについて、この書庫で議論したいのですが、どこからどう話したものか、
まだ迷っています。

ということで、いつか書き始めるであろう書庫の予告ですね。
興味を持ってくれ方は、とりあえず私の論文「知を共有するとはどういうことか」をご覧下さい。
 http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/paper200703.html

全くもって、季節はずれの幽霊のような話です。それとも、マルクスの共産主義のような妖怪というべきでしょうか。