知覚的単一体?

このテーブルは、我々に何をアフォードしているのでしょうか?
バーベキュー?

久しぶりの発言なのに、勉強が進んでいなくて、すみません。

アダムソンが、乳児の発達の第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期について書いた『乳児のコミュニケーション発達』の第四章「注意深さの共有」を読んで見ましたが、正直なところ素人の私には、「注意深さ」というのがどのようなもので、それが「共有」されているということがどのような実験や観察から確認できるのか、よくわかりませんでした。
共有していることを確認できるためには、赤ちゃんとのより高次なコミュニケーションが可能になっていることが必要であり、仮に、この段階の幼児との「注意深さの共有」があったとしても、それが親や観察者の主観的な思い入れ以上のものであることを、確認するすべがないのかもしれません。

乳幼児の「世界は知覚的単一体(perceptual unity)の一つである。・・・この単一体は非常に深遠で非様相的特性のみを有するに過ぎないようにおもわれる」(邦訳,p.94)という指摘が、非常に深遠そうで、面白そうに思いました。乳幼児の場合には、視覚や聴覚や触覚などの感覚の様相が区別されておらず渾然一体となっており、世界は「知覚的単一体」を構成しているということでしょうか。アダムソンもいうように、乳児がどのように世界を知覚しているのかは、大人には想像することが大変難しそうです。

アダムソンより

イエナ大学で見つけたトルストイの記念プレートです。
1861年に、単に旅行で訪れたのか、講演でもしたのでしょうか。

乳児のコミュニケーションの発達について、ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店)では、次のようにまとめられています。

■初期コミュニケーションの発達指標(同書、p. 21)
開眼 0ヶ月
相手の目を見る     2ヶ月
社会的微笑       2ヶ月
クーイング       2ヶ月
声をたてて笑う     4ヶ月
かなきり声、震舌音、うなり声、叫び声、 4ヶ月
規準的な南語(「バババ」など)     7ヶ月
1語の理解       9ヶ月
10語の理解      10.5ヶ月
複雑な喃語       11ヶ月
指さし、        12ヶ月
50語の理解      13ヶ月
初語          13ヶ月(9~16ヶ月)
10語の発語      15ヶ月(13~19ヶ月)
50語の発話      20ヶ月(14~24ヶ月)
二語文         21ヶ月(18~24ヶ月)

■初期コミュニケーション発達の4段階 (同書、p. 41~)
第一期:注意深さの共有(shared attentiveness)の時期
(誕生時(おそらくそれ以前に)~満期産児で2ヶ月頃)

第二期:対人的関わり(interpersonal engagement)の時期
(生後2ヶ月頃~生後5~6ヶ月頃)
「乳児と養育者の注意が、彼ら自身相互に、また両者を結ぶコミュニケーション・チャンネルに、そして両者間に流れる親密なメッセージにも焦点化できる」「コミュニケーションの主たるトピックは、乳児とそのパートナーによる注意と情動の表現の共有という対人的なものである。この時期は社会的微笑と視線の接触(eye-to-eye contact)が特徴的である。」p. 42
この時期は、乳児が注意を周囲の対象物に移し始めることによって終わる。

第三期:対象物への共同関与(joint object involvement)の時期
(生後6ヶ月頃~2年目の中頃まで、しかし終結時期ははっきりしない。)
「乳児は対象物について他者とコミュニケーションし始める。」「参加者は対象物への注意を共有でき(指示と呼ばれる機能)、対象物を扱うときには互いに援助を求めることができる(要請と呼ばれる機能)。さらに、乳児とそのパートナーが対象物についてコミュニケーションするときには、コミュニケーションに常に付随している文化的背景が対象物の扱い方に明確に現われる。」p. 43
この時期は、共有される対象がコミュニケーション場面に直結するものから次第に距離をとり始めることによって、終結する。

第四期:象徴的なコミュニケーションの出現(emergency of symbolic communication)の時期
(一般的には生後13ヶ月頃~ )
「発達のこの時期に、よちよち歩きの幼児とその親とのコミュニケーションは、文化的なレパートリーに基づく交流方法が繰り返され拡張されるにつれて、慣例化し儀式化されるようになる。とくに顕著なことは、メッセージを伝達することばやその他の社会的に共有される手段が焦点になることである。こうした最初のことばは、しばしば人が行なっている活動と重なり、文字どおり手元にある対象物への言及であることが多い。」pp. 43-44

この四つの時期を詳しく見れば、共同注意が個人の注意に先立ち、指示が共同指示先立つことがいえるだろうと思います。これは、アダムソンが引用していたヴィゴツキーの次の言葉と同じことです。
「子供の文化的発達に見られる機能はすべて2回出現する。最初は社会的レヴェルで、その次に個人的レヴェルで。最初は人と人との〈間で〉(精神間)、その次に子どもの〈内部で〉(精神内)。1978、p.57」(同書p.38からの孫引き)
しかし、私には、このヴィゴツキーの言葉に加えて言いたいことがあるのです。ある発話行為が、個人的レヴェルで行なえるようになったときに、社会的レベルから独立して、それなしに可能になっているのではなく、それを可能にしている機能が社会的レベルで働いているのです。その社会的なレヴェルの基底的な機能は、2回出現するのではなくて、1回しか出現しないのです。

これは、いまのところ予想です。これを証明したいと思います。ぼち。ぼち。

ご冥福をお祈りします

2008年5月9日、鈴木照雄先生がお亡くなりになりました。先生は、『ギリシや思想論攷』(二玄社、1982年)において、エレア派、ヘラクレイトス、プラトン、マルクス・アウレリウス、ギリシャ抒情詩を論じ、『パルメニデス哲学研究』(東海大学出版会、1999年)については「言葉通り心血を注いだ」と言っておられるように、私は専門外ですがおそらくその質量において、前人未踏のお仕事をされたと思います。そして、2006年にはマルクス・アウレリウス『自省録』の新訳を講談社学術文庫から出版されたばかりです。どれも学者としての知的誠実性にあふれ、永く学会に寄与するものであり、マルクス・アウレリウスの翻訳は、一般の人にもこれから永く読まれるであろう作品です。
私が最初にお会いしたのは大学3年生のときで、それから5,6年間、ギリシア語でアリストテレス『形而上学』を読んでいただきました。初めの印象は、指揮者のカール・ベーメにそっくりだ、というものでしたが、それ以来すでに35年ほどたってしまい、今では私の年齢が、私がお会いしたころの先生の年齢とほぼ同じになってしまいました。先生は、1918年生まれ、享年89か90になられるはずです。私は、そんなに長生きできないと思いますので、「君、急がなくちゃ」という最後にいただいた葉書の言葉が別の意味で身にしみます。
 謹んでご冥福をお祈りいたします。

哲学の楽しさは、問の重要さにある

連休中に訪れた善光寺です。
連休中、体調を崩していたので、研究の方は思ったほど成果が上がりませんでした。

昨夜のある集まりで、「人々は哲学を求めている、哲学研究者はそれにうまく応えられていない」ということが話題になりました。では、どうするか、です。
哲学の楽しさは、やはり哲学の問題の重要さにあるとおもます。それは人々が哲学に求めている事柄と一致するのではないでしょうか。哲学の問題を明確に示し、それについてのとりあえずの答えを明確に示す、ということが人々の求めに応えることなのではないでしょうか。

以前に書いたことですが、哲学の問題は、最終的には次の二つに行きつくのではないでしょうか。
「何が存在するのか」
「何のために生きるのか」

「何が存在するのか」
この問への答えとして、観念論、唯物論、二元論、などが考えられます。現在、この問題は、とりわけ「心の哲学」の問題として、つまり、心的なものをどのように考えるのか、という問題として議論されています。曖昧な言い方になりますが、科学的な世界観(=唯物論)を多くの人が認めていると思うのですが、そのような世界の中に、心をどのように位置づけるか、ということが問題になっているように思います。クオリアの問題のように、科学では原理的に解けない哲学的な問題があるという主張もありますが、心の哲学の研究は、脳研究の進歩や人工知能研究の進歩を考慮しながら進めてゆく必要があります。存在論に関しては、一般の人々はすでに、基本的には、科学的な世界観で満足していて、これに関する哲学的な議論に関心をもてなくなっているのかもしれません。
「科学とは何か」を考える科学哲学の分野でも、重要な哲学的な議論が沢山あるのですが、それは「知とは何か」という認識論の問題、「知識の哲学」に関係しています。そして、これはさらに「言葉が意味を持つとはどういうことか」「何かを指示するとはどういうことか」などの問題を扱う「言語の哲学」に関係します。

「何のために生きるのか」
この問いに答えることは、一般の人々にとっても非常に重要です。そして、これについては、科学は答えを用意していません。今のところ答えを用意しているのは、宗教だけです。しかし、キリスト教や仏教などの伝統のある社会的に認知された宗教であっても、その根拠は、街角のいんちき占い師と同様です。「阿弥陀さまがどこかで我々の往生を願ってくれている」とか「ある男の子が神様と若い女性の間の子供である」とかの話を、多くの人が本当に信じているとは到底思えません。彼らが信じているフリができるのは、他の人々が信じているフリをしているからです。多くの人は、宗教の答えには満足していないはずです。
この答えを探すことが哲学の重要な仕事になるはずです。哲学には永い歴史がありますが、無宗教の立場で、この問にとりくむことは、哲学の新しい課題です。もし哲学が、この問に答えられないとすれば、何故答えられないのかを、明らかにする必要があるでしょう。
「何をなすべきか」という道徳の問は、二義的だと思います。まず「私は何のために生きるのか」とか「人類は何のために生きるのか」などの問に答えることが一義的な事柄でしょう。