6 矛盾とコンフリクト

 
6 矛盾とコンフリクト (20130428)
Kim Sensei から、欲求の矛盾というより、欲求のコンフリクトというほうがよいのではないか、というコメントをいただきました。たしかに、そうです。これまでの箇所で、欲求や感情の矛盾と呼んできたものは、通常論理学で言う意味での矛盾とは異なるので、コンフリクトと言うほうが、より適切なものです。
 
(1)意図(あるいは、意志。ここではとくに区別する必要はないと思います)と意図のコンフリクトについて。
一人の人間が同時に実現することが不可能な二つの意図については、それらを同時に持つことは不可能です。ただし、実際には同時に実現することが不可能な二つの意図であるけれども、不可能であることを知らない場合には、それらを同時に持つことは可能です。したがって、正確に言うならば、ある人が、二つの意図を同時に実現することは不可能であると思っているなら、その人がその二つの意図を同時に持つことは不可能です。このような二つの意図を、これまでは「矛盾する(二つの)意図」と呼んできましたがが、「衝突する(二つの)意図」と呼ぶことにします。
 
では、衝突する二つの意図を同時に持つことができないのは、何故でしょうか。意図は、この語の意味からして、直接に行為に結びつくものだからです。同時に実現できないと考えている意図を同時に実現しようとすることは、通常の合理的な人間の場合には、不可能であるとおもいます。もし実現できないと考えつつ、それを実現しようと意図するのだとすると、それは、不合理な振舞い、あるいは自己矛盾した振る舞いだと思います。
 
(2)欲求と欲求のコンフリクトについて。
同時に実現することが不可能である二つの欲求を、(その人が、その不可能性を知っていようと、知っていまいと)、同時に持つことは可能です。なぜなら、欲求は、つねに直ちに行為に結びつくとは限らないからです。このような二つの欲求を、これまでは「矛盾する(二つの)欲求」と呼んできましたが、「衝突する(二つの)欲求」と呼ぶことにします。
 
(3)意図と欲求のコンフリクトについて
ある意図とある欲求の両方を同時に実現することが不可能であるとき、(その人がその不可能性を知っていようと、知っていまいと)、その両方を同時に持つことは不可能ではありません。なぜなら、意図は行為に結びつくけれども、欲求のほうは行為に結びつくとは限らないので、ある意図を実現しつつ、それと衝突する欲求を持つことは、可能だからです。
 
(4)意図と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを意図するとき、意図は常に事実の認識と衝突するのです。なぜなら、意図するとは、何か(Aとします)の実現を意図することであり、もしAが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Aの実現を意図している限り、Aは実現していない(少なくともAは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Aでない」が真となります。意図の内容は、「Aを実現したい」です。このとき、「Aでない」と「Aを実現するつもりです」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう行為拘束型発話(Commissives)であり、真理値を持たないからです。意図が実現された状態「A」と現実の認識「Aでない」が矛盾するのです。意図と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(5)欲求と事実認識のコンフリクトについて
私たちが何かを欲求
するとき、欲求は常に事実の認識と衝突するものです。なぜなら、欲求するとは、何か(Bとします)の実現を欲求することであり、
もしBが実現しているのならば、それを実現しようとする必要はなくなるので、Bの実現を欲求しているかぎり、Bは実現していない(少なくともBは実現していないと認識している)のです。つまり、事実の認識としては、「Bでない」が真となります。欲求の内容は、「Bを実現したい」です。このとき、「Bでない」と「Bを実現したい」は、論理的には矛盾しません。なぜなら、後者は意図表明の行為遂行型発話(サールのいう表現型発話(Expressives))であり、真理値を持たないからです。欲求が実現された状態「B」と現実の認識「Bでない」が矛盾するのです。欲求と事実認識は、「衝突する」というのがより正確です。
 
(6)問いとコンフリクト
私はこれまで、問いを、事実認識と意図の矛盾から生じるものとして、説明してきました。そして、そのつど、この「矛盾」が論理的な意味での矛盾ではないことを断ってきました。問いは、事実認識と意図のコンフリクト(衝突)から生じるというのが、より正確です。ただし問いは、事実認識と意図のコンフリクトから生じるものだけではありません。問いには事実認識と欲求のコンフリクトから生じるものもあります。
事実認識と意図のコンフリクトは、必ず解決される必要があります。しかし、私たちは日常生活でたくさんの問いを立てていますが、それらの全てに答えているわけではありません。つまり、問いを立てるけれども、答えのないままに放置している問いがたくさんあるのです。それが可能なのは、その問いが事実認識と意図のコンフリクトから生じているのではなくて、事実認識と欲求のコンフリクトから生じているということです。私たちは、多くの欲求を持ち、その多くを実現しないままに放置しています。
 

 

5 感情発生の因果性と理由 

 

                             先週東京出張でした。
 
5 感情発生の因果性と理由(20130421)

 
Kim先生の質問は、こうでした。
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
私が前2回で示したのは、「感情が合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)である」ということでした。しかし、感情が何らかの論理に従うとしても、それだけから、感情が能動的であることを導出することはできません。言い換えると、感情が何らかの推論によって説明されるとしても、それだけから感情が能動的であることを導出することはできません。
 
感情の発生を説明する推論が、自然的因果法則を用いた推論になるとき、感情は受動的なものであることになるのでしょうか。そして、感情の発生を説明する推論が、理由に言及する推論であるとき、感情は能動的なものであるということになるのでしょうか。
 
確かに、例えば、感覚の発生は、自然的な因果関係によって説明できそうであり、感覚は受動的なものだと考えられそうです。
 
しかし、食欲の場合には同でしょうか。食欲が因果関係で生物学的に説明されるということはありうることだろうと思いますが、しかしその場合でも、食欲という欲望は能動的なものだと考えられるのではないでしょうか。しかし、感覚と欲望は、次の点でことなります。「あなたはなぜ、何かを食べたいのですか」ととうと、「なぜなら、空腹だからです」という答えが帰ってくるだろう。空腹は、生理学的な身体状態であると同時に、ある感覚でもあります。そして、私たちが食欲を感じるのは、空腹を含めて、身体状態についての感覚を持つからでだと思います。もしそうならば、食欲は、感覚を理由とする推論によって説明することが可能です。食欲は、一方では、生物学的な因果法則にもとづいて説明されうるかも知れませんが、しかし他方では同時に、理由にもとづく推論によって説明されるのであって、それゆえに、欲望は能動的なものとして理解されるのではないでしょうか。
 
感情についても、科学者は生理学的な、あるいは心理学的な自然法則を前提とする推論によって感情の成立を説明できるかもしれませんが、しかし、同時に感情については、「あなたは、なぜ悲しいのですか」という理由を問う問いに答えることできます。(なんらかの薬を飲んで、ある気分になっているときにも、「あなたは、なぜうれしそうなのですか」と尋ねたら、「薬を飲んだからです」という原因を答えるだけでなく、「今日はいい天気だからです」などと理由(この場合には、いい天気できもちがよい、というような感覚の存在が理由になる)を挙げてこたえるのではないでしょうか。)
 
以上は単なる推測ですが、心理学で経験的にチェック可能なはずです。もしそれが正しければ、そこから次のように考えることできるでしょう。
<心的なものの発生についての自然的因果法則を用いた推論と、理由に言及する推論は、両立しうる。そして、感情については両方が同時にありうるが、しかし前者の推論ができない場合も含めて、理由に言及する推論はつねに行われる。なぜなら、もしこれができないときには、おそらくその人は自分の感情について理解できず、有意味に語ることができないからである>
 
同一の感情の発生について、二種類の推論による説明が可能であるとすると、そのことは、感情は受動的なものとして理解されることもあるし、能動的なものとして理解されることもある、ということを意味するのでしょうか。
 

 
 

3 感情と実践的推論 

 

                郡山城公園の夜桜です 
 
3 感情と実践的推論 (20130401)
 
前回のべたことは、Kim Senseiからの次の質問に答えるものでした。
「感情が互いに衝突するとき、私たちはそれらの違いを、客観的な仕方でどのように解決するのでしょうか。」
 
これに対するとりあえずの回答は、<感情に矛盾があることと、感情が能動的であることは両立します。つまり、その矛盾は、解決の必要がないものです>ということになります。
(ここから、日本人の変わり身の速さの分析などの、日本文化論につなげることもできるかもしれません。しかし、それよりも、韓国語や中国語での感情表現がどうなっているのか、気になります。どなたか教えてください。)
 
Kim Senseiからのもう一つの質問は、次のものでした。
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
今回は、これに「そのとおりです」と答えたいと思います。感情が持つ論理性は、感情の成立が推論に基づいていることによって、示されると思います。
 
感覚については「なぜ指が痛いのですか」と問われたら、その答えは理由ではなくて、原因を答えるものになります。このときの答えは、観察によって得られます。
これに対して、感情の場合には、「なぜ、悲しんでいるのですか?」と問われたらその原因ではなくて理由を答えることになります。しかもその答えは、観察や推論によらず、即座に得られるのです。
このように指摘してるのは、アンスコムです。人の意図的行為について、アンスコムは、「なぜ・・・しているのですか」と問われたときに、人は直ちに「・・・のために・・・しているんだ」というように意図や動機を答えることができることを指摘しました。しかもその答えは、「観察によらない知識」であるといいます。そして、彼女は感情についても、「なぜ」と問われたときに、その原因を観察によらないで答えることができるといい、これを「心的原因」と呼んでいます。(G.E.A. Anscombe, Intention, Oxford, Basil Blackwell, 1957, アンスコム『インテンション』菅豊彦訳、産業図書、1984年)
 
(以下は、拙論「感情の物語負荷性と問題」(http://www.let.osaka-u.ac.jp/~irie/ronbunlist/papers/PAPER18.HTM)をもとにしています。)
 
まず感情は、次のような三段論法の結論として成立します。
 
     お金が欲しい。                                欲求
     宝くじに当たる=お金が手にはいる。   状況認識
e=”MARGIN:0mm 0mm 0pt;” class=”MsoPlainText”>     だから、嬉しい。                                感情
 
     お金が欲しい。              欲求
     大金を落とした。                                状況認識
            だから、悲しい。                               感情
 
まず、前提の一つを、<欲求>と考えて<意図>としないのは、次のような理由です。私たちは、ある対象について同時に矛盾する二つの感情を抱くことがあります。それは、私たちが同時に矛盾する二つの欲求をもっているから、と説明できます。互いに異なる(ときには矛盾する)二つの欲求が、同一の状況の認識の変化と結びつくことによって、異なる(ときにはアンビバレントな)感情が帰結するのです。ところで、私たちは、同時に矛盾する欲求を持つことはできても、同時に矛盾する意図をもつことはできません。なぜなら、それらの二つの意図を同時に実現することは出来ないので、その意図はそもそも実現不可能だからです。私たちは、実現不可能だと解っていて、それを意図することは出来ないのです。それゆえに、感情の脈絡を構成するのは、<欲求>とするのが適当でしょう。
 
ところでこのような「感情の三段論法」は、いわゆる「実践的三段論法」によく似ています。アリストテレスの「実践的三段論法」では、結論は行為にかかわる命題であり直ちに行為が続く(あるいは、結論は行為である)、と考えられています。『動物運動論』での例で考えてみましょう。
 
     「「飲みたい」と欲望が言い
     「これが飲物だ」と感覚か表象か理性がいう。
     と、私はすぐ飲むのである。」(アリストテレス『動物運動論』第7章、701a30
 
これを三段論法に整理すると次のようになります。
 
     なにか飲みたい。                (意図)
     これが飲物だ。                   (状況認識)
     ゆえに、私はすぐ飲むのである。   (行為)
 
この結論を欲求を表現するものに入れ換えれば、欲求の三段論法になるでしょう。
 
     なにか飲みたい。                        (意図/欲求)
     これが飲物だ。                         (状況認識)
これを飲みたい。            (欲求)
 
 上の例では、一般的な意図(欲求)からより具体的な意図(欲求)が生じていますが、前提での一般的な嫌悪や恐怖が、結論でより具体的な嫌悪や恐怖になる三段論法も考えられます。例えば、次のとおりです。
     私は、青汁が嫌いだ。
     これは青汁だ。
     私は、これが嫌いだ。
     ゆえに、私はこれをのまない。
 
これらの三段論法は、欲求を結論とする三段論法であり、最初に述べた「感情の三段論法」とは、区別すべきであるように見えます。
その二つを比較してみましょう。
 
<感情の三段論法>
     お金が欲しい。                                 (欲求)
     宝くじに当たる=お金が手にはいる。  (状況認識)
     だから、嬉しい。                              (感情)
 
<欲求の三段論法>
     お金が欲しい。                                  (欲求)
     xをすればお金が手に入る        (状況認識)
     だからxをしたい。                           (欲求)
 
この二つの違いは、状況認識の種類の違いのようです。
 この違いを分析する必要がありますが、しかし、とりあえずは、以上の分析でも、感情が推論によって成立していることが示せるのではないでしょうか。
 
(Kim Sensei, I am sorry, I wanted to translate this into English, but this became a little bit longer and I became tired.)
 

感情について2 矛盾する感情と人格

前回の発言に対して、Facebook Kim Senseiから啓発的なコメントをいただきました。
それは次の二つです。
「感情が互いに衝突するとき、私たちはそれらの違いを、客観的な仕方でどのように解決するのでしょうか。」
「もし感情が能動的であるならば、それらは合理的(つまり、広い意味で何らかの「論理」に従うもの)なのでしょうか?」
 
2つとも、私がまったく予期しなかったようなコメントで、しかもどちらも非常に重要な帰結をもたらすコメントだと思います。その帰結の1つは、人格の理解に関わります。
 
欲望と意志の違いについては、次のように語ることが一般的であると思います。
<私たちは、しばしば互い矛盾する複数の欲望を同時にもつ。例えば、美味しそうなケーキを見て食べたいという欲望を持ち、同時に、禁欲的な生活を送りたいと欲望する。あるいは、週末に、山にいきたいと思い、同時に、海に行きたいと思う。これに対して、意志については、互いに矛盾する意志を同時に持つことはできない。週末に山に行くことを意志し、同時に、海に行くことを意志する、ということはできない。>
例えば、Davidsonも行為論に関する論文のなかでこのようなことを述べていたと思います。欲望と意志をこのような仕方で区別することは、たいていの日本人にとっても受け入れられることだと思います。そして、欲望が、感情と近いものであることも、たいていの日本人は認めるでしょう。おそらくは西洋人も認めるでしょう。
(西洋史思想史や東洋思想史の中での、「欲望」と「感情」の関係についての歴史を確認する必要があります。しかし、言葉の違いという問題があるので、これはなかなか複雑な問題です。また「欲望」と「感情」という言葉の歴史も確認する必要があります。小学館国語大辞典によると、「欲望」の所出は、幸田露伴のようですから、「欲望」は翻訳語なのかもしれません。それに対して「感情」は室町時代から使われているようです。)
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
 We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
②欲望や感情は、受動的なものである。
 Desires and emotions are passive.
③互いに矛盾する欲望や感情の原因は、人格の外部にあり、外部からの異なる影響が、異なる矛盾する感情を生じさせるのである。
 The causes of desires or emotions which are contradictory with each other are located outside of a person and different influences from outside cause different contradictory emotions.  
 
おそらく西洋では、①と②を調和させるために、③のように考えるのでしょう。
これに対して、私が前回主張したことに基づくと、日本語話者は次のように考えることになります。
 
①私たちは矛盾する複数の欲望や感情を同時に持つことができる。
  We can have contradictory plural desires or emotions simultaneously.
④欲望や感情は、能動的なものである。nt>
  Desires and emotions are active.
 
もし④をつぎのように言い換えられるとしましょう。
⑤欲望や感情は、人格の内部に発生原因を持つ。
  Causes of desires and emotions are located inside of a person.
そうすると、①と⑤から次の⑥が帰結します。
⑥人格の内部には、矛盾がある。
  Contradictions are inside of a person.
 
この⑥は日本語話者にとっては、有りそうなことです。( seems very much plausible for Japanese.) 戦後の日本、あるいはここ20年ほどの日本では、「自分探し」の本が沢山書かれ、沢山読まれています。それは、私達にとっては、「自分」というものが、西洋人の個人や主体のように確固として存在するものではないからです。私たちは常に根本の所で、自分が何かわからずに苦しんでいるところがあるようにおもいます。それは仏教の「無我」の教えとも一致します。私たちは、自我が確立していないから、自分がわからないことに困るのではなくて、無いはずの確固とした自我を求めるから苦しむのだといわれて、納得してしまう仏教文化の中に生きているのです。
 
ドイツの若い世代の人に、「ドイツ人は「自分探し」のようなことをするのですか」と尋ねた時に、彼女は「私たちは、「自分がない」ということに悩んだりはしません。私たちにとって、自分が何であるかは問題になりません。むしろ、どうやってその自分を実現するか、が問題になるのです」と答えてくれました。おそらく、このように応える彼女にとって、人格の内部に矛盾を抱えている、というようなことは考えられないのでしょう。
 
しかし、もし人格というものがあるとすれば、その人格の内部に、しかもその深部に矛盾が潜んでいる、ということは、私にはむしろ大いに有りそうなことだと思われます。
 
次回にKim Sensei のコメントに応えたいと思います。
(Kim Sensei, I am sorry, I should have written in English.)
 
 

 
 

 

理性は能動的で、感情は受動的なのか?

(写真がなくて、すみません。写真のupは時々にします。)
 
理性は能動的で、感情は受動的なのか? (20130319)
 
しばしば「理性は自発的(能動的)で、感情は受動的である」という記述を目にします。特に哲学の文献に多いのかもしれません。これは、欧米の言語の使い方にもとづく理解であると思われます。欧米の言語では、感情は殆どの場合受動形で表現されます。しかし、日本語では感情は殆どの場合能動形で表現されます。
 
  I am pleased.    私はうれしい。
  I am pained   私は悲しい
  I am satisfied.    私は満足だ
  I am annoyed     私は腹が立つ。
  I am disappointed. 私は落胆した。
 
英語でも、感情表現が自動詞の能動形で表現されることはあるでしょう。また日本語で感情が受け身で表現される事があるかもしれません。しかし、感情は、欧米の言葉では他動詞の受動形で、日本語では自動詞の能動形で表現されることことが多いようにおもいます。
 
つまり、日本語話者にとって、感情は能動的な態度なのです。
このような出発点をとると、感情に関する哲学的な議論は違ったものになってくるはずです。
 
哲学の仕事ではありませんが、ホックシールドが提唱した「感情労働」という概念があります。日本語話者にとって、私達が仕事の場面で感情をコントロールしたり、作りだしたり、抑制したり、変形したりして労働していることはほぼ自明のことですが、それは欧米の人にとっては、斬新な視点だったのかもしれません。
 
 
 
 

3.11 空気 同一性

 
 空気読む、春は遠いか まだまだか (へたですみません)
 
3.11 空気 同一性
 
 2011年の3.11のあと、あるパーティの立ち話で、「これからは哲学の時代ですね」と言われた。そのとき、その期待に応えたいとは思ったけれども、かなり難しいことであるとも感じた。そのときには、「心の豊かさ」や「生きる意味」を哲学が語ることが求められているのかと思ったのだが、最近は、哲学に求められていることの中には、社会のあり方、あるいはあるべき姿について、根本的に考え直す、という課題があると考えている。
 今ならそのような哲学に社会の方も耳を傾けてくれるのかもしれないと思う。(これについては、社会問題についての書庫をいずれ立ち上げたい。)
 
 最近3.11に関連して考えることは、3.11によって日本社会が変わった、空気が変わったとしばしば言われることについてである。9.11のときにも、世界が変わったと言われた。その時の私の当初の印象は、「そうかなあ」と言うものだった。しかし、「みんな」が「世界が変わった」と言うものだから、次第に私にも「世界はあまり変わっていない」と考えつづけることが困難になってきた。そのうち私にも9.11前の世界がどんな世界で、どんな気持ちで生きていたのかが、わからなくなってしまった。今回の3.11についても同様だ。「みんな」が「日本社会は変わった」と言うものだから、私も次第に3.11前の日本社会がどんなもので、どんな気持ちで生活していたのかが、わからなくなってしまった。そうなると、3.11は私にとっても、大きな断絶になる。
 
 人格の同一性について、書庫「問答としての人格」で思案中である。そこで確認したことの一つは、<人格の同一性は、他者とのコミュニケーションの中で成立する>ということだ。これと同じことが社会の同一性についても言えるのではないか。社会の同一性にも、客観的な基準があるのではない、日本社会の仕組みのようなものの連続性や同一性を主張しようとしても、それは他者とのコミュニケーションの中で確認される必要がある。その証拠に、戦前に日本社会の本質のように言われた「国体」なるものも、その同一性も、敗戦とともに消えてしまった。
 3.11で日本社会が変わったと「みんな」がいうので、日本社会は変わってしまったのである。「空気」が変わったのだ。
 
「空気」と「世間」
 昔は「世間」と呼んでいたものが、今は「空気」と呼ばれている。「空気」は「世間」と同じく同調圧力をもつが、しかし「世間」が持っていたような規範性をもたない。規範性の有無は、時間的な持続性の有無にかかわっている。「空気」はまさに「その場の」「その時の」ものであるが、「世間」はもう少し持続するものである。「空気」はどんなに変化しても、規範性を持たないので自己矛盾しない。しかし「世間」は変化しないものとして考えられている。両者の間には空間的な広狭の違いもある。「空気」は狭い範囲の人間関係のなかにもあるが、「世間」は公的な一つの社会に存在する。
 廣松渉にならって、「空気」も「世間」も物象化の所産である、といえるだろう。
 
 

「漱石は漱石だ」

2010年10月の信州です。この近くでサルの群れを見つけました。
 
「漱石は漱石だ」
これはどんな意味になるのだろうか。
これを説明するのに役立つのは、ドネランの「帰属的用法」と「指示的用法」の区別である。
 
ドネランは、確定記述の用法を二つに分けている。
「私が心にとめている確定記述の二つの用法を、帰属的用法と指示的用法とよびたい。主張において確定記述を帰属的に使用する話し手は、しかじかのものが何であれ、誰であれ、それについて何かを述べる。主張において確定記述を指示的に使用する話し手は、他方で、人物やものについて何かを話したり述べたりしているものを、聞き手が取り出すpick up ことを可能にするために記述を使用する。」(Donnellan ’Reference and Definite Descriptions’ in “The Philosophical Review”, 75(1966), pp.285)
 
たとえば、私がパーティで「あそこにいる美人は誰ですか」と友人に尋ねたとしよう。私が「あそこにいる女性」で指示しようとしていた人物は、実は女性ではなくて男性であったとしても、私は指示に成功するだろう。これが指示的用法である。それにたいして、私が友人に、「君の奥さんはどんな人ですか」とたずねて、友人が「世界で一番の美人だよ」と答えたならば、それは帰属的用法である。
 
我々は、この二つの用法を、確定記述ではなくて、一般名にも固有名にも使えるだろう。
 
「規則は規則だ」
これは、ある規則を指示して、それは守るべきものだ、と述べている。つまり主語の「規則」はある規則を指示するために使用されており(指示的用法)、述語の「規則」は守るべきものであるという性質を帰属させるために用いられている(帰属的用法)。
 
例えば低い山に登っていてしんどくなった時、
「山は山だ」
と言うとしよう。これは、「この山は、低いとはいってもやはり他の山とおなじように登るのはしんどいものだ」という意味になるだろう。ここでも主語の「山」は指示的用法であり、述語の「山」は帰属的用法である。
 
「漱石は漱石だ」
これは、夏目漱石を指示して、彼はやはり漱石と呼ばれるだけの大した文学者だ、というような意味で用いられている。ここでも主語の固有名「漱石」は、指示のために用いられており、述語の「漱石」はある性質を帰属させるために使われている。
 
「小沢は小沢だ」
これは、ある人物を指示して、彼はやはり評判どおりのこわもてだ、という意味で用いられているかもしれない。
 
「○○さんは、○○さんだ」
この○○に自分の名前を入れて、意味を考えて見ましょう。
 
 
 
 
 
 
 

エントロピーは言語に依存する!?

森田さん、ご返答ありがとうございました。

プライスの論文の要約と序論しか読んでいないのですが、彼は、熱力学の第二法則「エントロピー増大の法則」についての、ボルツマンの統計力学による証明は、不十分である。統計学的な議論だけではエントロピーが常に増大しつづけることを説明できない、という批判ですね。
この批判自体は、目新しくないのだと思うのですが、「将来の熱力学的振る舞いに関する我々の合理的な期待は、過去についての我々が知っていることに依存しているに違いない」(Abstract)という指摘が、彼の論点なのだろうとおもいました。

(この問題に関心がある方は、Huw Price、’ Boltzmann’s Time Bomb’ をGoogleで検索してくだされば、論文本文を読むことができます。)

ひょっとして、時間の非対称性についての議論のときには、BelnapさんのBranching Space-Time Theory が説明に使えるかもしれないと思いました。もっとも、プライスは、時間そのものが非対称だと考えず、時間の中の物理過程だけが非対称だと考えるのでしょうが、Belnapさんの理論では、時間そのものが非対称性をもつことになるように思います。

以上2点は、ただの感想です。

さて、ご確認(?)の件ですが
ご指摘の通り、
「エントロピーという概念そのものが人間の恣意的な言語体系に依存するものだ」
この主張の可能性を追究してみようとおもっています (正しいという確信はありませんが、間違っているという核心もありません)。
ただし、「恣意的な言語体系」というときに、「自然には無関係に選ばれた言語体系」といういみならば、その通りですが、「個々人が恣意的に選択できる言語体系」という意味ならば、それは狭すぎるかもしれません。「日本語や英語は、人間にとって恣意的な言語体系である」というのと同じような意味で、「人間にとって恣意的な言語体系」という意味です。

もし、私のスタンスが正しいとすると、そのような錯誤の原因が次に問題になると思います。
そのときには、
「生理学的な問題から人間はエントロピーが増大する方向に時間の向きを感じるのだ」
という生理学的な説明の仕方になるかもしれません。
しかし、もっと、社会構成主義的な説明になりそうな気もします。
これについては、今はまだなんともいえません。

すっかり秋ですね

         すっかり秋ですね。

森田さん、コメントありがとうございました。

私のここでのスタンスは,
「エントロピー増大の法則は、人間的な原理かもしれない」
ということです。

森田さんは、熱力学においてエントロピー増大の法則が成り立つことは、ボルツマンが統計力学で証明したのであり、状態数(状態数=エントロピーでしたか?)というのは、自然的な物理量であって、この法則は「人間的な原理ではない」ということを主張していたのだと思います。つまり、私のスタンスへの批判でした(ご批判、大歓迎です。批判がなくては、進歩はありませんから。)。

ところで、今回のコメントで言及されている、プライスは、「エントロピー増大の法則」に対してどのようなスタンスなのでしょか。
森田さんは、プライスにたいして、ボルツマンを擁護しようとしているのでしょうか?
プライスの議論は、私のスタンスにとって、有利なのでしょうか?

エントロピー4

    今日の奈良の空です。秋の雲になってきました。

 森田さん、コメントと整理ありがとうございました。おかげで、問題がすっきりとしましたね。

> 整理すると,1.エントロピーと秩序を結びつけるのはあくまで解釈であ
>る。2.エントロピー自体は数学的に定義された物理量である。3.現在の
>状態を実現するためにはエントロピー最小の状態でなければならない(これ
>に関しては絶対的にそうなのかどうかはわかりません)4.エントロピー最
>小というのは統計力学的に言うと「状態数が少ない」状態なので(そしてそ
>れ以外には特別な客観的意味がある状態ではないので),それが宇宙初期に
>おいて実現しているのは謎だ。

 エントロピー自体が「数学的に定義された物理量」であるということなので、それを私がまずしっかりと勉強しようとおもいます。
 そこに、人間的な解釈がもぐりこんでいないかどうか、それが気になるのですが、勉強しないことには何もいえないので、これについては、ここまでとします。
 みなさま、ありがとうございました。