ここまでの復習

 
 
 

                  ハナミズキ 異国から来て 百周年
 
1912東京市尾崎行雄が、アメリカワシントンD.C.ソメイヨシノ)を贈った際、1915にその返礼として贈られたのが、日本のハナミズキの始まりだそうです。今年が桜の寄贈100周年だそうです。(Wikipediaより
 
 ここまでの復習 (20120328)

 

この書庫の課題は、「人格は、問答ないし問答の連鎖である」というテーゼを説明し、証明することだった。
 
①問題とは現実認識と意図の矛盾であり、そのような問題を解決するために、私たちは問いを立てる。
②私たちが生きることは、行為することであり、行為を構成する実践的知識は問いに対する答えとして成立する。これらの問いは、問いの連鎖のなかで成立している。したがって、私たちが生きることは、問いの連鎖である。
③人格とは、問題群の束の連続的な変化である。
④人格の同一性を個人の記憶で保証することはできず、Davidsonのいう「三角測量」を必要とする。三角測量によって人格の同一性は、公共的に保証される。
⑤しかし、三角測量によって人格の同一性を保証することは、もし三角測量が人格を前提しているのなら、循環論法になるように見える。この問題を解決するために、人格の同一性を区別した。
⑥短期・中期・長期の人格の同一性の区別
 (1)三角測量と同時に成立する人格の同一性(短期の同一性)
 (2)計画する人格の同一性
  (2-1)単に計画する人格の同一性(中期の同一性)
  (2-2)約束する人格の同一性
     (2-2-1)社会制度に関わらない同一性(中期の同一性)
     (2-2-2)社会制度に関わる同一性(長期の同一性)
⑦<計画する人格の同一性>は、計画の設定、実行、変更などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
⑧<約束する人格の同一性>は、共同計画の設定、実行、変更などの合理性と、責任の発生、継続、変形、解消などの合理性が問答によって構成されることによって構成される。
 
まだ残されてる課題は多い。たとえば次のようなものである。
 
①三角測量が前提すると同時に三角測量によって保証される<短期の人格の同一性>の分析を行う必要がある。
②問答としての人格について、これ以上に分析を進めようとすると、「合理性」「自由」「責任」などの概念の分析を行う必要がある。
③廣松渉の行為主体論との対質。
④大庭健の責任論との対質。
⑤永井均の<私>論との対質。
 
これらの課題のうちの多くは、<人格と社会との関係>の分析を必要とするだろう。あるいは、人格と社会の関係の分析の後で、この書庫記述の多くを見直す必要が出てくるかもしれない。そこで、次に別に書庫をたて「人格を構成している個人問題が、社会問題とどのように関係しているのか」を考察したい。
 
しかし、その書庫に移る前に、そこでの議論との接続を考えて、考えておきたい問題がある。それは次の問題である。
「ヒトはなぜ「人格(ひと、人物)」という概念を必要とするのか」
「わたしたちはなぜ自分探しをするのか」
 
 
 

約束を守る義務はどのようにして発生するのか

 
                                                まどろむは、私か猫か 梅の下
 
約束を守る義務はどのようにして発生するのか  (20120323)
 
 ここでは上記の宿題に答えよう。
 
 前にもふれたが、約束における誠実性の義務は、嘘をつかないという義務の特殊ケースである。しかし、「おなかが減っていませんか」と問われて「はい減っています」と答えるときの誠実性と、「この本をくれますか」と問われて「はい差し上げます」と答えるときの答えの誠実性は、次の点で異なる。
 前者は現在の状態についての発言である。これが嘘でないとは、これの真偽に関係なく、発話者がこの返答を真であると思っているということである。後者は未来の行為についての発言である。これが嘘でないとは、発話者が実際にその本を挙げるかどうかに関係なく、発話者がその本をあげようと思っているということである。前者には真理値があり、後者には真理値がないという違いがある。
 
 人格論との関係で重要な差異は、前者は、発話者の現在の状態(おなかの減り具合)にコミットしているだけであるが、後者は、発話者の未来の行為にコミットしている点である。計画を立てるときと同様に、約束するときには一定の未来にわたる人格の同一性にコミットする。しかも、計画の時には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任はないが、約束の場合には、一定の未来にわたり人格の同一性を保持する責任が発生する。ここでは、人格の同一性を保持する責任だけでなく、そのような人格としてある行為を履行という責任が発生する。
 
 いつの間にか、約束を結ぶときの誠実性の義務が、約束の履行の義務に変わっているように見えたかもしれない、つまりこの二つの義務は不可分であるように見えたかもしれないが、そうではない。この二つを区別することは、次の二つを区別することと類比的である。
 
 「私のおなかは減っていません」という発話が誠実であるとは、発話者がその発話を真であると思っているということである。しかし、このような主張型の発話を主張するときには、誠実に発話していることだけでなく、つまり発話が真であると思っていることだけでなく、実際に発話が真であることに責任を持つことになる。誠実に主張する義務と、発話が実際に真であることに責任を持つことは異なる。これと同様に、誠実に約束する義務と、約束を実際に履行することに責任を持つことは異なる。
 約束を守る義務が発生するのは、何かを主張した時に、それが真であることを立証したり保証する義務が発生するのとよく似たことである。たとえば、何かを主張して、後で実際にそうでないことが分かった時には、彼は何らかの仕方で責任をとる必要があるだろう。これは、約束をして、それを履行しないとき、何らかの仕方で責任をとる必要があるのと同様である。
 
 主張の発話にせよ、約束の発話にせよ、相手に何かを語るとき、相手に何らかの責務を負うことになる。不誠実な主張であっても誠実な主張であっても、主張内容についての立証責任を負うことになる。同様に、不誠実な約束であっても誠実な約束であっても、約束の履行の責任を負う。
 約束の履行の義務は、おそらくは約束や主張に限らず全ての発話の場合にも生じている責任の特殊ケースなのである。
 
 次回は、これまでの流れを復習したい。
 

 
 

約束の誠実性と人格の同一性

 
 
 
■脇道:カントのうっかりミス2つ
 
うっかりミス1:カントは『純粋理性批判』序論で、数学の全ての命題は、アプリオリな綜合判断であると言う。カントにとって、数学とは幾何学と算術のことである。しかし、前回引用したように「三角形を作るには三本の線を引かなくてはならない」は分析判断である。それゆえに、<数学の全ての命題は、分析判断であるか、アプリオリな綜合判断である>とすべきだったことになる。
 
うっかりミス2:前回引用したように、カントは、「[三角形の]その二本の長さの和は三本目よりも長くなければならない」をアプリオリな綜合判断であると述べている。この命題はユークリッド原論の「命題20」にあたる。「命題」は「公理」から論理的に導出されたものである。ところで、「公理」がアプリオリな綜合判断であるので全ての「命題」(定理)はアプリオリな綜合命題になる、とカントは考える。これはよいだろう。しかし、この命題が定理である以上、これは公理から導出可能である。つまり理性の推論によって証明可能である。この点が、前回の引用部分「理性の推論によって証明することが不可能である」は、うっかりミスではないだろうか。(もちろん、前提をさかのぼって、公理まで行けば、理性の推論によっては証明できないので、究極的には証明不可能である。しかしそのような意味で「証明不可能である」と言ったのではないだろう。もし、そう言うならば、形式論理学においても、公理はもはや証明可能ではないのだから、全ての命題は、証明不可能になる。)
 
(念のためにいうと、前回は、約束をするときの誠実性と、約束を履行する義務を区別するために、カントに言及したまでであって、それ以上ではない。ここではカントの主張に依拠するつもりはない。なぜなら、カントの道徳論も法論も、「人格」を前提しているからである。それに対して、この書庫での私の課題は、「人格」概念を分析することである。
 ロックのような経験論では、全てが感覚に還元されてしまうので、人格の同一性をどう考えるかが、問題になったのだが、カントを含むドイツ観念論では、「超越論的な統覚」としての自我を想定するので、「人格の同一性」はほとんど問題にならなかった。)
 
■約束の誠実性と人格の同一性
以前に確認したように「約束の拘束力は、人格の同一性を義務にする」そこで、前回の最後に宿題「約束を守る義務をどう説明するのか」を立てたが、ここでは、その前に次の問いを考えておきたい。
 
問い「約束の誠実性は、人格の同一性とどう関係するのか?」
 
 たとえば、「来週の日曜日1時に会いましょう」と誠実に約束をすることは、少なくとも来週の日曜日までの人格の同一性を前提している。Davidsonの「三角測量」の議論が正しいとすると、私たちが何らかの信念を持つためには、他者とのコミュニケーションが必要である。したがって、私が計画を立てるためにも、潜在的には他者とのコミュニケーションが必要である。三角測量の議論では、「来週の日曜日に一時にyさんに会おう」という発話が有意味であるためには、私的言語であってはならず、公的でなければならず、したがって他者とのコミュニケーションが必要だ、と言うことであった。
 
 しかし、約束が成立するときには、計画の信念を持つために他者とのコミュニケーションを必要とするのとは、別の意味で、他者とのコミュニケーションを必要とする。「来週の日曜日1時に会いませんか?」と問われて、「はい、そうしましょう」と答えることによって、約束が成立する。約束するには
相手が必要であり、約束の発話は他者との会話の中で、より明確には上のような問答において成立する(あるいは、約束が曖昧であった場合には確認の必要があるが、それは問答によって可能になる)。
 
 これについては、二つの解釈が可能である。
 第一の解釈:xさんがyさんから「来週の日曜日の1時に会いませんか」と問われて「はい、そうしましょう」と答えるときに、yさんの問いとxさんの答えの間に、次のようなxさんの自問自答が行われている。「来週の日曜日1時にyさんに会おうかどうしようか」「会うことにしよう」
 第二の解釈:他者に問われてこたえるときに、上記のような自問自答が行われる場合もあるが、しかし他者の問いを理解し、それを自問しなおすことなく、直接に返答することもあるだろう。迷う必要のないような簡単な問いかけの場合にはそうである。
 
 おそらくは、第二のあり方がより基底的である。他者との問答を、自分一人で再現することによって、一人で考えることができるようになり、第一のあり方が可能になるのだろう。(もっとも、これが正しいかどうかは発達心理学での検証を待たなければならない。)
 
 この書庫では、<人格は問答であり、人格の同一性は問答の連鎖である>を説明し証明しようとしてきた。その際<問いは、現実認識と意図の矛盾から生じ、その現実認識と意図はそれぞれ別の問いの答えとして成立している>と考えてきた(これはこの書庫での前提であり、証明はしていない)。約束の発話「来週の日曜1時に会いましょう」というxの意図は、問いへの答えとして意味をもち得るのだが、もし第二のあり方がより基底的だとすると、その問いは、他者からの問いかけである。その問いは、「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図、しかし「土曜日まではxさんは出張している」というxとyの現実認識、そこで出てきた解決策の一つが「日曜の1時に相談する」である。「日曜の1時に会いませんか」という問いは、次の矛盾から発生する。「ある事柄を月曜日までに決めたい」というxとyの意図と、その意図を実現するための方策が未決定であるというxとyの現実認識との矛盾である。このように、他者の問いに答えるためには、問の共有が必要であり、そのためには問の前提である現実認識と意図(欲望、課題、計画など)の共有が必要である
 
 もちろん、現実認識や意図が全く違っているのに約束するということ(同床異夢)もありうるが、それは約束の基本的なあり方ではない。(これに対しては、「同床異夢こそが約束の基底であり、約束はいつ底割れするかわからない」という反論があるかもしれない。しかし同床異夢の場合であっても、約束によって、互いの行為調整ができている限りにおいて、何らかの現実認識や意図を共有していると言える。)
 
もし前々段落のように言えるとすると、約束は、現実認識と意図の共有に基づく共同計画として、成立することになるだろう。約束することは、共同計画の一部として人格を構成することである。誠実に約束するとは、誠実に共同計画の一部となることであり、不誠実に約束をするとは、共同計画の一部となっている振りをすることである。
 
 
(考えながら書いているせいで、結論から書き出せなくて、話が必要以上に複雑になってしまってすみません。)
 
 

<約束>と<人格の同一性>について

                                 梅の枝 生きる力の 優しさよ
 
<約束>と<人格の同一性>について  (20120304)
 
 前回までに確認したことは、私たちは計画を立て実行することによって、自己の人格の同一性を構成するということである。この文脈では、私たちが<人格の同一性>を構成する必要は、計画の必要性に由来しており、これはさらに、計画を必要とするような欲望に由来している。(この欲望は、おそらく、<<ある未来の時点t1が来れば、行為xを行おう>という形式の意図を実現することよって実現が可能になるような欲望>であると思われるが、これの検討には入らない。)
 
 (「人格の同一性」という概念とすることと、ある種の欲望は、おそらく同時に成立する。私たちが「人格の同一性」という概念を必要とするのだとすると、その概念の獲得は、それ自体が、おそらく何らの問題の答えの獲得になっているのだろう、と推測する。これについては、今後の宿題にしたい。)
 <計画する人格の同一性>について検討すべきことは、他にもありそうだが、とりあえずこれだけにして、次に進みたい。
 
 今回から説明したいことは、<約束>と<人格の同一性>の関係、言い換えると<約束>と<問答の連続性>の関係である。
 
 ところで、約束には次のようなものがある。
  ・自分との約束(?)
  ・他人との約束
  ・組織との約束(会社との雇用契約はこれに含まれる)
 
このなかで基本的なものは、<他人との約束>だろう。<他人との約束>を次のように分けることができる。
  ①法的な契約など、国家などの組織を介して成立する他人との約束
    (法的な婚姻はこれに属する)
  ②国家などの組織を介しない他人との契約
 
ここでは、②だけを扱いたい。(①については、国家や組織を考察するときに、扱いたい)
 
 まず、②と計画の違いを、簡単な例で確認しよう。
 「明日の朝10時に会いましょう」という提案に「はい」と答えた私は、明朝10時にひとと会う約束したことになる。10時にそこに行くためには、8時半には家をでなければならず、そのためには7時半におきなければならず、そのためには、12時ころには寝たほうがよい。約束をすると、それを実行するために、このように行動計画を立て、実行する必要が生じる。約束が単なる計画と異なるのは、何らかの事情が生じても、私一人で約束を解消したり、変更したりできないということである。
 
 次に<計画する人格の同一性>と<約束する人格の同一性>の類似性と差異を確認しよう。
 <約束をし、実行し、時に約束を変更すること>は、ある意味では<計画を立て、実行し、変更する>ことと似ている。これらのプロセスを通じて<人格の同一性>を主張できるのは、それらが合理的に行われているからであり、言い換えると、問答によって行われているからである。(この点で、計画する人格の同一性と類似している)
 
 ただし、約束の場合には、一人で勝手に約束したり、勝手に変更したりできない。つまり、約束は拘束力を持つ。もし約束した人格が現在の私の人格と同一でないならば、私には約束を守る義務はなく、したがって約束を破ることもできない。私は謝罪する必要がないからである。例えば、もし私が記憶喪失のために約束したことを忘れてしまっていたら、私には約束を守る義務はないだろう。なぜなら、私は約束した時と同じ人物ではないからだ。したがって、<私の人格に連
続性がないならば、私には約束を守る義務がない>
といえる。これの対偶は、<私に約束を守る義務があるならば、私の人格には連続性がある>となる。
 
 ところで、私が約束を破ることは、物理的には可能である。その場合にも、私の身体は同一性を保っている。では、人格の同一性についてはどうだろうか。もし私が約束を破ったことを認め、謝罪するのならば、私の人格の同一性は保たれているといえるだろう。
 私が、約束したことをうっかり忘れていたのだとすると、私は約束していたことを指摘されてすぐに思い出すだろう。そのときには、謝罪するだろう。そのとき、私は(私自身にとっても、相手にとっても)約束した人物と同一人物であり、約束を守る義務を負う。
 
 <約束を守る義務を負うとは、もしその義務を履行しなかったときには、責任をとる義務を負うということである。もし責任を取らなかったならば、責任を取らなかったことについての責任をとる義務を負うということになるだろう。一旦背負った義務は、もしそれが履行されなければ、形を変えて別の義務となり、履行されるまで、どこまでも迫ってくる。>
 
 したがって、次が帰結する。
 <一旦約束をすると、仮に約束を実行しないとしても、実行しないことについての責任をとることを要求され、私は同一人物であり続けることを要求される。>
 
 つまり、<約束の拘束力>は<人格の同一性>を義務にする
 
 では、なぜ<約束の拘束力>が生まれるのだろうか。