47 デイヴィドソンの第二の問題:行為の説明の問題 (20220830)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

デイヴィドソンが挙げている第二の問題は、行為の説明の問題です。

意図的な行為は、「なぜそうするの」という問いへの答え(行為の理由)によって説明されます。行為を説明するとは、行為を合理化することであり、行為の理由が行為を合理化します。

「行為の理由は以下の意味で行為を合理化する。すなわち、それらの理由に照らせば、その行為が他の人々にも理解可能になるという意味で。「理由は、行為者が自身の行為のなかに何を見ているか、行為者の目的や狙いが何であるかを、明らかにしてくれる。」(「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳、459)

デイヴィドソンは、「行為の理由」を二種類に分けます。

「理由には二つの主要なカテゴリーがある。認知的なもの(cognitive)と、動能的なもの(conative)の二つである。後者[動能的なもの]は、行為者にとっての価値や目的、到達点であり、問いの行為を行為者から見て実行する価値のあるものにする目標のことである。他方、前者[認知的なもの]は、行為者の信念であり、行為者が目標に置いている価値から、手段、すなわち終極的には、それによって目標が達成されると行為者が考えているところの行為へと移行するよう行為者に促す信念である。」(同訳、459)

この二種類の理由は、「なぜ、そうするのか」という問いに対する二種類の答え方になっています。

「動能的理由」とは、「なぜそうするのか」に行為の目標で答えたものです。「認知的理由」とは、「なぜそうするのか」にその行為(の事前意図)を結論とする実践的三段論法で答えたものです。この実践的三段論法の大前提には、行為の意図ないし目標設定が述べられているので、能動的理由と認知的理由は、密接に結合しています。一方だけでは、行為を合理化するには不十分です。

以上の分析を踏まえて、デイヴィドソンは、「なぜそうするのか」という問いへの答え(行為の理由)による行為の説明(合理化)には、二つの問題があることを指摘します。

「ところが、ある個別的な理由に基づいて行為することを、「行為者の信念と価値によって合理化される仕方で行為すること」と単純に定義することはできない。というのも、人は、自分の信念と価値のいくつかに照らせば合理的であるような仕方で行為しつつも、しかしまったく別の理由のために、その行為をなすことがあるからである。」(同訳、459)

これについて、デイヴィドソンは次の例を挙げています。

「私はある一人の老人を助けることを欲するかもしれない。しかも私は、その老人に傘を直してもらい修理代を払うことによってその老人を助けられるだろうと信じるかもしれない。」((同訳、459)

ここでは次の実践的三段論法が行われています。

「老人を助けたい」「老人に傘を直してもらって、修理代をはらえば、老人を助けられる」┣「老人に傘を直してもらおう」

「にもかかわらず、それらの理由は、私が傘を彼に修理してもらい代金を支払ったことと無関係でありうる。というのも、私はただ、自分の傘を直したかっただけかもしれないからだ。」

この場合には次の実践的三段論法が行われています。

「傘を直したい」「老人に修理代をはらって傘を直してもらえば、傘を直せる」┣老人に修理代を払って傘を直してもらおう」

この例が示すのは、「老人を助けたい」が行為の理由であると考えるためには、単に「行為の理由」を述べるだけでは不十分であるということです。そこで、デイヴィドソンは次のように言います。

「明らかにわれわれは、理由に基づく行為の分析に、さらなる何かを加えなければならない。つまり、行為を実行するための理由になるものが、行為者による当の実行を説明する理由でもあることを、保証しなければならない。それに対しさしあたり私が正しいと信じる一つの提案は、「理由は、行為を引き起こしたときにかぎり、その行為を説明する」と述べることである」(同訳460)

しかし、「老人を助けたい」という目的と「傘を直したい」という目的のどちらが、行為を引き起こしているのかを、どうやって確認したらよいでしょうか。これが、私が理解する、デイヴィドソンが挙げている行為の説明の問題の一つ目です。これは、行為の動能的理由の特定が困難であるという問題です。

デイヴィドソンはこの特定ができても、別の困難があるといいます。

「とはいえそれではまだ十分条件にならない。なぜなら因果は逸脱した仕方で働きうるからである。いやしくも理由が、行為において行為者がもつ理由たりうるならば、その理由はまさに正しい仕方で当の行為を引き起こすのでなければならない。だが私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」460

この「逸脱」した因果の例について、訳注2で柏端さんは、デイヴィドソンの他の論文‘Freedom to Act’から、逸脱因果の例をふたつ示しています。一つは、ある人Aが別の人Bをライフルで殺そうと意図して、引き金を引いたが、打ち損じてしまし、その銃声に驚いたイノシシの群れが暴走してBを踏み殺した、という例です。もう一つは、仲間のつかまるロープを握っている登山家が、そのロープの重みから解放されたいと思い、ロープを持つ手を緩めれば重みから解放されると考えた瞬間、そのおそろしい考えに狼狽し、手の力が抜けてロープを放してしまう、という例です。

この逸脱因果の例は、「認知的理由」の適切性の条件を定式化する困難を示しています。

「私は、どのようにすれば反例を免れる仕方で諸条件を構成できるのか分からないし、そもそもそのようなことが可能だとも思っていない。」(同訳、460)

行為の合理性の説明に関するこの二つの困難を、問答の観点から考察するとどうなるかを次に論じたいと思います。

46 知識の因果関係と逸脱因果の問題 (20220824)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

#原因を誤解する場合

一般的に原因と結果の関係を考えるとき、一つの結果は常に複数の原因を持ちえます。したがって、信念についても、ある信念を引き起こす原因には、常に複数のものがありえます。したがって、信念の原因だと思っている事実が、本当の原因であるとは限りません。このように原因を誤解するとき、その信念がたまたま真であるだけでは、知識を正当化できていません。

例1:時計が3時を指して止まっているのだが、ある人が、たまたまその時計を3時に見て、「今は時だ」と思ったとしよう。このとき、それは真であるが、しかし、時計が3時を指していることの原因は、時刻が3時であることではなく、時計が壊れていてたまたまその針が3時を指していたことである。

この場合、信念はたまたま真ですが、信念が表現している事実がその信念の原因になっていません。これは伝統的な知識の定義「知識=正当化された真なる信念」をみたすが、知識とは言えないという反例です。これを避けるために、Alvin Goldmannは論文A Causal Theory of Knowingで「知識の因果説」を主張しました。

#原因の誤解の可能性に気づいていない場合(逸脱因果の場合)

ある地域には、偽の納屋がたくさんあります。しかしそのことを知らない旅行者が、たまたま本物の納屋を見て、「納屋がある」と考えたとき、その考えは、本物の納屋があるという事実を原因として成立しています。しかしそれが偽物の納屋である可能性に気づいていないので、「納屋がある」という信念は、知識とは言えないと思われます。(これは「知識の因果説」への反例であり、「逸脱因果」と呼ばれます。これは、Alvin Goldmannが論文Discrimination and Perceptual Knowledge指摘しまた。)

#このどちらの場合も、原因と結果の関係が、1対1ではなく、多対1であることによって生じています。因果関係をもとに結果からその原因を推理するとき、原因と結果が、多対1であるために、間違った事実を原因と見なすことがありえますし、また、ある事実を正しく原因と見なしても、偶然にそうなっているだけのことがあり得ます。このような原因の複数性は原理的なものです。では、<私たちはどのようにして、ある事実を原因として想定するのでしょうか>。この場合、原因の特定は、問いに対する答えを求めることとして成立するのだと思われます。

上の例では、その地域に、偽の納屋があることを知っていれば、その人は「あれは本物の納屋だろうか」と問い、仮に本物の納屋を見ていても、それが本物の納屋だと判断できなければ。「あれは納屋だ」とは答えないでしょう。本物の納屋だと判断するには、根拠が必要です。つまり、知識であるためには、対象との間に因果関係が成立しているだけでなく、そのことを知っていなければなりません。そして、その場合に、対象(納屋)との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、偽物の納屋の可能性を排除しなければなりません。本物の納屋との間に因果関係が成立していることを知っているというためには、対象が偽物の納屋ではないことを知っている必要があります。そのためには、それを確認できるところまで、対象に近づいて見ること、あるいは近づいて触ってみることなどが必要です。

しかし、偽物の納屋の可能性があると思っていないならば、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは、人が住む家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクター、などでなく、納屋だろうか」という問いであり、その対象が、家や、積み上げられたほし草や、大きなトラクターなどでないことを確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。つまり、「あれは納屋か」と問い、通常の納屋の特徴が見えた時に、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。

それに対して、偽物の納屋の可能性があると思っているときには、「あれは納屋だろうか」という問いは、「あれは本物の納屋だろうか、それとも偽物の納屋だろうか」という意味で問われ、偽物の納屋でなく、本物の納屋である特徴を確認すれば、「あれは納屋だ」と答えるでしょう。二つの場合では、「あれは納屋だろうか」と問うときの注目点が異なります。それに応じて、答えの「あれは納屋だ」の意味も異なります。一方では、「あれは納屋だ」は、「納屋の特徴を持つ建物だ」という意味であり、他方では、「あれは偽物のなやではなく、本物の納屋だ」という意味になります。

偽物の納屋がある地域で、そのことを知らずに「あれは納屋だろうか」と自問し「あれは納屋だ」と答える者は、間違っているのでしょうか。「あれは納屋だ」が、「あれは納屋の特徴を持つ建物だ」という意味で問われているのならば、それが偽の納屋であったとしても、本物の納屋であったとしても、それは正しい、と言えるかもしれません。

逸脱因果の場合であっても、その問いに対する答えとしては、その答えはある意味では正しい、と言えるのではないでしょうか。人は、問いに応じた厳密さで答えるのあり、偽物の納屋のある地域でそれを知らずに、「あれは納屋だろうか」という問いに、「あれは納屋だ」と答えることは、問いに応じた厳密さを満たした正しい答えであるのではないでしょうか。

逸脱因果の事例は、知識とは言えない、という主張も理解できます。知識を問答ではなく、命題として考えるとき、逸脱因果事例は、知識ではないと言えますが、厳密にいえば、<逸脱因果の可能性をとりのぞくことはおそらく不可能なので、知識は不可能である>ことになります。これを回避するには、<単独の命題ではなく問答のペアを知識としてとらえる>ことが重要です。<逸脱因果の可能性に気づくとき、その問いの意味は変化し、それに対する答えの求め方も変化します>

45 デイヴィドソンが指摘した3つの問題を問答推論主義で解決する試み (20220819

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

(このカテゴリーでのこれまでの議論の内容ついては、このカテゴリーの説明文をご覧ください。左のカテゴリーの一覧からこのカテゴリーをクリックすれば、冒頭に説明文が出てきます。今回からしばらくは、デイヴィドソンが指摘している3つの問題を、問答推論主義の立場から解決することを試みたいと思います。)

ドナルド・デイヴィドソンは、論文「感情についてのスピノザの因果説」(柏端達也訳)(原文1993)(デイヴィドソン『真理・言語・歴史』柏端達也、立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)の冒頭で、知覚と記憶と行為と推論の説明が類似した困難に出会うことを指摘します(この論文は、スピノザがこれらの問題に取りくんで「劇的な解釈」を提案したということを主張するものですが、それについては後で触れることにします)。ここでは、デイヴィドソンが挙げているこれらの問題を、問答推論主義の立場から解決できるということを提案したいのです。

まずは、知覚に関する問題を説明します。

「月が出ているのをだれかが見ているとするならば、まず月が出ていることは真でなければならない。そして知覚者は、月が出ていると信じるに至っているはずである。さらに、月が出ているというその信念は、月が出ていることに引き起こされたにちがいない。」(同訳、458)

この主張は、「知覚の因果説」および「知識の因果説」(この二つは厳密には別のことである)であるが、しかしこれらは知識の必要条件であって、十分条件ではない。「なぜなら、実際に月が出ていることは、月が出ているという信念を、月が出ていることの知覚と見なしえない仕方で、引き起こすかもしれないからである。」(同訳458)例えば、「月が出ていることは、一匹のコヨーテの咆哮を引き起こすかもしれない。さらにある人は、コヨーテとは、月が出ているときにつねに、そしてその時にかぎって吠えるものだと誤って信じているかもしれない。その場合、月が出ていることは、月が出ているという信念を、主体のなかに引き起こすだろう。しかしそのとき主体は、事実月が出ていることを知覚してはいない。」(同訳458)

知識の因果説へのこのような反例は「逸脱因果」の事例と言われている。これらの反例を除外するために、条件を付けることはできるかもしれないが、「反例が生じないほどの厳格さで、そうした諸条件を述べることは、非常に困難――私の考えでは不可能――である。」(同訳459)

これが知覚ないし知覚報告の説明に関して、デイヴィドソンが挙げている問題です。この問題は、真なる知覚報告の定義の問題、知識の定義の問題です。次に、この問題に問答推論主義の立場から答えたいと思います。

08 真なる問答の規範性はどこから生まれるのか (20220813)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

問答の真理性を定義するには、問答の規範性以外にどのような条件が必要でしょうか

真なる問答の規範性と適切な問答の規範性の区別があるのですが、この二つを区別するのは、その規範性が何に基づくのか、あるいはどこから生まれるのか、という違いだといえるでしょう。真なる問答の場合、その問答関係の規範性が生じるのは、次の二つの場合があります。その規範性が<問答を構成する語句の意味だけに基づいている場合>と<問答を構成する語句の意味に加えて事実にも基づいている場合>です。

<問答を構成する語句の意味だけに基づいている場合>の規範性は、分析的な規範性であり、これれによって成立する真理を「分析的真理」と見なすことができます。これに対して<問答を構成する語句の意味に加えて事実にも基づいている場合>の規範性は、綜合的な規範性であり、これによって成立する真理を「綜合的真理」と見なすことができます。

他方で、問いと答えの関係の区別でなく、問いの成立の仕方を次のように区別することができます。<問いの前提の意味を理解すれば、それだけから問いの前提が成立することがわかる場合>と、<問いの前提の意味を理解するだけでは、そこから問いの前提が成立するとは言えず、問いの前提が成立するというためには、事実に依拠する必要がある場合>があります。前者の場合の問答の真理は、経験的認識を必要としないので、これを「アプリオリな真理」と呼び、後者の場合の問答の真理は、経験的認識を必要とするので、これを「アポステリオリな真理」と呼ぶことができます。

このようにして問答の真理について二種類の区別(分析的/総合的とアプリオリ/アポステリオリ)ができます。これの組み合わせによって、4種類の問答の真理を区別することができます。

{この区別について、カテゴリー[『問答の言語哲学』をめぐって]の34回でより詳しく説明しています。]

問答が真であるためには、その問答関係が規範性をもつ必要があり、その規範性が、どこから生じるかによって、一方で問答の適切性と真理性を区別でき、また同時に他方で、真理性の種類を区別することができると考えます。ただし今回は、分析/綜合の区別と、アプリオリ/アポステリオリの区別を説明できただけです。まだ、必然/偶然の区別と、事実的/規範的の区別の考察が残っています。(この二つについては、すこし考えあぐねていますので、もう少し時間をいただきたいとおもいます。)

07 命題ではなく、問答が真であることの説明 (20220810)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

私は、<命題ではなく、問答が真理値を持つ>と考えます。02回でもこれを説明しましたが、もう一度少し詳しく説明しておきたいと思います。

 文が意味を持つことは、問答によって可能になります。なぜなら、文は文を構成する文未満表現(語や句)を統合することによって成立し、その統合は、問いに答えるという仕方で成立するからです。文は問答によって成立するのです。したがって、文が意味をもつことは、問答によって可能になるのです。厳密にいえば、意味を持つのは問答であるということです。(これについては、カテゴリー[問答の観点からの認識]第67回~69回をご覧ください)。

 同じことを、ここで焦点の観点から説明しておきたいと思います。焦点構造をもつ命題の意味は、相関質問に応じて異なるので、問答関係において成立する、あるいは問答関係として成立するといえます。では、焦点構造を持たない命題の意味は、相関質問とは無関係に成立するといえるでしょうか。命題が成立するためには、文の統一が必要であり、そのためには問答関係が必要です。したがって、命題が成立するときには、相関質問との関係が不可欠です。では、そのようにしていったん命題の統一が成立した後は、どうでしょうか。その文が異なる問いの答えとなるとき、その意味(命題)は、焦点構造を持ちますが、それらの命題の間には、共通部分もあるでしょう。それは相関質問とは無関係な命題の意味だといえるでしょう。それを私たちは「これはリンゴである」のような文で表現できるかもしれませんが、しかしそれを理解することはできません。なぜなら、この文を理解するときには、つねにどこかに焦点を置かねばならないからです。焦点なしに文を理解することはできません。それは、ゲシュタルト構造のない知覚をもつことができないのと同様です。

 ちなみにブランダムは、文を構成する文未満表現の意味を、文の意味からの置換推論によってとらえることができるといいます(例えば、『推論主義序説』第4章)が、彼は、語が文を離れて意味をもち、語の意味から文の意味が合成されるとは考えていません。焦点構造を持つ命題の意味と焦点構造を持たない命題の意味の関係もこれと同じだと考えます。

 このように<文ではなく、問答が意味を持つ>と言える時、ここから、<文ないし命題ではなく、問答が真理値を持つ>が帰結します。

 ところで03回では、<問答が真である>つまり<ある問いに対するある答えが真である>とは、<その問いに対してその答えをすることが、規範性を持つ>ことと説明しました。例えば、問い「それは何ですか」に対して、答え「それはリンゴです」が真であるとすれば、何度尋ねられても、そう答えるべきですし、だれに問うてもそう答えるだろうと予測できますし、また誰に問うても、相手はそう答えるべきだといえます。

 しかしこのような問答の真理性の定義については、<問答が真であるならば、問答は規範性を持つ>には同意できるが、<問答が規範性を持つならば、問答は真である>には同意できないという反論があるだろうと思います。私はその反論を受け入れたいとおもいます。なぜなら、(『問答の言語哲学』で述べたことですが)問いを、理論的問いと実践的問いに分けることができるからです。理論的な問いの答えは事実の記述であり、実践的な問いの答えは意思決定です。『問答の言語哲学』「1.1.1. 推論は問いに答えるプロセスである」では、理論的な問いの答えは真理値を持ち、実践的な問いの答えは適切性をもつと説明しました。現在は、厳密にいうならば、理論的な問答が真理値を持ち、実践的な問答が適切性を持つ(その答えが真理値を持つ問い)と考えます。そして、実践的な問答が適切性持つ場合、例えば、問い「私が血圧を下げるには、どうすべきだろうか」に対して、答え「私は塩分を減らすべきだ」が適切であるとすれば、何度問うても、誰に問うても、答えは同じであり、その問答関係は規範性を持ちます。したがって、規範性を持つ問答関係は、真なる問答関係に限りません。したがって、<問答が真であること>を、<問答が規範性を持つこと>として定義することはできません。これは必要条件でしかありません。

 では、問答の真理性を定義するには、問答の規範性以外にどのような条件が必要でしょうか

これを次に考えたいと思います。(他方で、実践的な問答についてはさらに詳しい説明が必要ですが、それは別の機会に行いたいと思います。)

06 共有された言語と個人言語の区別 (20220809)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

「共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことが、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか」に答えたいと思います。

共有された言語がなくても、他者との問答は可能です。(04回で述べた)デイヴィドソンの例、一方が鼻を指さし、他方が「鼻」と答える例では、鼻を指さすことは「これは何ですか」という問いの意味を持つのですが、デイヴィドソンは、質問の発話に言及してはいませんでした。それは、言語を共有していないことを示すためだったのだろうと思います。一方が鼻を指さすとき、「これは何ですか」と質問し、相手が「鼻」と答えるとき、この二つが別の言語であることが可能だということです(この場合、別の言語共同体に属する別の言語である場合もあれば、同一の共同体に属する別の個人言語である場合もあるでしょう)。その場合、問答は二つの言語の間でおこなわれています。もちろん各人は、互いに相手の発話を自分の言語に翻訳して、それぞれの言語による問答として理解しています。

この場合、問いに対する答えが真であることは、二つの言語にまたがる問答が真であり、また同時に各人の言語に翻訳した問答が真であるということです。

このとき、L1におけるQ1にL2におけるA2で答えるとき、答える者は、Q1をL2におけるがQ2として理解して、それに対する答えA2が真なる答えになると考えています。質問したものは、A2をL1におけるA1として理解して、Q1とA1の問答関係を理解しています。ここでQ1とA1、またQ2とA2が、問答関係を構成することは、それらの意味に基づいて可能になります。

ところで、問答関係が成立するだけでなく、それが真なる問答関係となるとき、それらの意味だけによって成立する場合と、意味に加えて事実(世界の在り方)によって成立する場合もあります。

前者の場合の問答関係は、問答の意味に問い合わせて成立します。L1におけるQ1とA1の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L1の意味論的規則に基づいて真となります。返答者の側では、L2におけるQ2とA2の問答関係が意味に基づいて成立するだけでなく、意味に基づいて真となるとき、その時の問いと答えを結合する問答関数は、L2の意味論的規則に基づいて真となります。

この場合、問答がうまく行っている場合には、L1とL2は同一であると想定しても問題ない場合もあるでしょう。ただし、問答がうまく行かないときには、L1とL2の区別によって、うまく行かないことを説明することが必要になるでしょう。

後者の場合の問答関係は、問答の意味と事実に問い合わせて成立します。このとき、問答が異なる言語に属するとき、質問者がQ1とA1の問答において問い合わせる事実と、返答者がQ2とA2の問答において問い合わせる事実は、同一でしょうか、異なるのでしょうか。問答がうまくっている限り、問い合わせる事実が同一であると想定しても問題は生じないでしょう。問答がうまく行かないときは、問い合わせている事実は異なるのでしょうか。例えば、ある人が自分に赤く見えるものを指さして「これは何色ですか」と問い、相手が「赤い色です」と答えることを、いろいろな対象について繰り返してきたとします。ところが赤く見えるある新しい対象について「これは何色ですか」と問うたところ、相手が「緑です」と答えたとしよう。このとき、返答者が問い合わせた対象ないし対象の知覚と、質問者が指示した対象ないし対象の知覚は、異なるのでしょうか。

これについては、次のように考えられると思います。二人が同一の世界に存在しているとすれば、問い合わせる事実(世界の在り方)もまた同一のはずである、と。これは、L1での質問の「これ」とL2でのそれが、同一の対象を指示しているということではありません。なぜなら二つの「これ」の使用法が異なれば、L1とL2でその指示対象が異なることは可能だからです。ここで「問い合わせる事実(世界の在り方)」が同一であるというのは、それが世界の特定の断片ではなく、いわば全体としての世界そのものだと考えるからです。事実に問い合わせるあらゆる真なる問答において、問い合わされている事実は同一のものであるとすると、問いに対する答えが異なるとすれば、それは問いが異なるからだ、つまり問いの意味が異なるからだと思われます。

まとめておきます。問いの意味だけに基づいて、答えが得られるとき、問う者と答える者の言語が異なれば、問い合わせ対象である問いと答えの意味もまた異なります。しかし、問いの意味だけでなく事実に基づいて答えが得られるとき、問う者と答えるものの言語が異なるとしても、問い合わせ対象である事実(世界の在り方)は同一です。

質問者と返答者の言語が異なるとき、問答が真であるとは、このような事情の中で、問答が反復されたとしても、同一の問いに対して同一の答えが反復して成立することであり、その問答関係が規範性を持つということです。

05 共有された言語がないと、どうなるのだろうか (20220805)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

<規則に従うこと>と<規則に従っていると信じること>を区別するには、一人ではなく、二人以上が必要である、つまり社会的相互作用が必要である、と考えるだけなら、ありふれた議論です。

ダメットやクリプキを含めて、多くの場合は、この区別を行うときに共有された言語が必要だと考えますが、デイヴィドソンのユニークなところは、共有された言語は不必要だと考えることです。

#デイヴィドソンのいうように共有された言語がないとするとどうなるのでしょうか。

私たちはコミュニケーションできています。言語的コミュニケーションが、共通のルールから説明できるとするのが、コードモデルです。それに対して、共有された言語コードも用いるが、推論で説明するのが、(関連性理論の)推論モデルです。それに対して、デイヴィドソンは、コードを共有している必要はないと考えます。それぞれの反応に規則性があれば、その規則性が同じ規則によものでなくてもよいと考えます(おそらくブランダムも同じように考えます)。

他者との問答において、問いQにAと答えることを反復するとき、二人の間に安定的な問答関係が出来上がります。例えば、「これは何?」「それはリンゴ」という問答が反復されるとき、その問答は真です。

ところが、同じ対象に「これは何?」と問い、「それはナシ」という答えが返されたとき、それまでの規則性が破られます。この場合、次のことが起こっているかもしれません。返答者には、別の対象を指示しているように見えたとか、同じ対象が別のように見えたとか、「リンゴ」と「ナシ」がその人にとって共指示表現であったとか、かもしれません。あるいは、質問者は同じ対象を指示しているつもりだったけれど間違って別の対象を指示していたとか、「ナシ?」という質問が「ナシ」という断言に聞こえたとか、あるいは「ナシ」ではなく別の語を語ったとか、かもしれません。さらに考えてみると、このように規則性の破れ、齟齬が生じないときにも、たまたま逸脱が重なってうまく行っていただけかもしれません。以上から言えることは、言語を共有していることを確認することはできない、ということです(それ故にこそ、クワス問題が生じるのです)。私たちにできるのは、言語を共有することではなく、互いに相手の言語的反応を予想できるということです。

言語的反応を予想するとは、問いに対する答えを予想することです。相手の発話pを真だとみなしているとは、それを自分の問いQに対する答えとして発話されるべきだと考えているということです。つまり、厳密に言うならば、発話pが真なのではなく、Qとpの問答関係が真だといえます。なぜなら、発話pの意味は、相関質問が変われば変わるからです。問われた者は、相手の問いQをQ’として理解し、Q’に対する答えpを発話します。問う者は、相手の答えpをp’として理解し、Qに対する答えp’という問答関係を理解します。

ここでは各人が互いに異なる個人言語で問答しているのです。コミュニケーションが成立するには、一つの言語を共有しなくても、これだけで十分なのです。そのとき、各人が自分の個人言語の規則に従っており、単に規則に従っていると信じているだけではないことは、上記のような仕方で行われる他者との問答が順調に進むことで確認できるのです。

共有された言語がなくても、コミュニケーションを説明できそうですが、このことは、問答関係の性質として真理をとらえることとどう関係するのか、次に考えたいと思います。

04 問いと答えの組み合わせが真であることと規則遵守問題 (20220804)

[カテゴリー:問答の観点からの真理]

(ブランダムの読書会で担当が当たっていたことと、4回目のワクチンのあと体調を崩したことなどが続いてしばらく更新できずに失礼しました。この間少しデイヴィドソンを読みはじめました。)

命題ではなく問答が真理値を持つと主張しましたが、問答が成り立つためには問いが成立しなければならないので、「問いが成立するとはどういうことかを考えたい」と前回述べました。この問いに取り組む前に、足場固めのために、「問いと答えの組み合わせが真であるとはどういうことか」についてもう少し考えておきたいと思います。

 前回の説明は次のようなことでした。

例えばQ「これはリンゴですか?」という問いにA「はい、それはリンゴです」と答える時、その答えが真であるとは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合(あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるだろうと考える場合、あるいは、誰に問うても、何度問うてもそう答えるべきだと考える場合)です。問いに対するある答えが真であるとは、問いに対して<そう答えるべきだ>ということです。例えば、問いQを問うことは義務ではありませんが、その問いを問われたならば、<Aを答えることが義務になる>ということです。この意味で問答は、規範性を持ちます。

今回は、デイヴィドソンの議論を参考にして、問答の真理性と規範性の関係をもう少し解明したいと思います。デイヴィドソンは論文「言語の社会的側面」(1994)(ドナルド・デイヴィドソン著『真理・言語・歴史』柏端達也。立花幸司、荒磯敏文、尾形まり花、成瀬尚志訳、春秋社、2010)で、次のように述べています。

「たとえば、私が自分の鼻を指さすたびに、あなたが「鼻」と言う場合を考えてみよう。その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

ここで「私が自分の鼻を指さす」ことは、「私が自分の鼻を指さして、「これは何ですか」と問う」ことを意味しているのでしょう。そしてこれを行うたびに、相手が「鼻」と答えるのです。「その場合、あなたの理解は正しいし、しかもあなたはそれを以前と同じように続けている。」

ここに、前回私が述べた「問いと答えの組み合わせが真である」ことが成立しています。つまり、「これは何ですか」という問いに、「鼻です」と答えるとき、この問答関係が真であるのは、誰に問うても、何度問うてもそう答える場合であり、それがここに成立しているのです。しかし、どうしてそのように言えるのでしょうか。ここでのデイヴィドソンの次の問いかけは、この問いと同じものです。

「だがなぜ、あなたの言語的応答が「同じ」である――すなわち重要な点で類似している――と見なされるのだろうか。」197

この後、それにデイヴィドソンの答えが続きます。

「それはきっと、それぞれの事例における刺激を同じものと私が見なし、そしてそれに対する反応も同じであるとみなしているからであろう。あなたもまた、私のそれぞれの指差しを、何らかの原始的な意味で、同じものと見なしているに違いない。その証拠はあなたの反応の類似性である。」197

つまり、同じ問いに同じ答えを返すことを繰り返していると理解することは、問う者と答える者が、互いに相手の発話や反応を同じものと見なしているからである。相手の反応を同じものと見なしていることの証拠は、それに対する他方の側の反応の類似性であると、デイヴィドソンは言います。

彼は、続けてつぎのように問います。

「しかしながら、あなたの反応が重要な点で類似しているかどうかをあなた自身に教えるようなものはここでは現れることがない。刺激がどのようなものであれ、あなたの応答の類似性は、あなたが当の状況において類似する何かを見てとったということを示すであろう。逆にもしあなたが同じ諸刺激に対して明白に異なるような反応をしたなら、それはあなたがその刺激を異なるものとみなしたということをしめしていると解することができるし、あるいはそれと同等に、あなたにとってそれらが類似の反応であるということを示していると解することもできる。」

私は<問答が真であるためには、それを反復することが可能であり、また同じ問いに同じように答えることが責務であらねばならならない>と述べましたが、これを主張するには、同じ問答を反復するということが成立しなければなりません。そのためには、実際に同じ問答を反復することと、ただ同じ問答を反復していると信じていること、を区別できなければなりません。しかし、この区別は、一人ではできません。

デイヴィドソンは、上記に続けて次のように述べます。

「ウィトゲンシュタインがいうように、あなた一人では、状況がおなじものに見えるということと、状況が同じであるということとを、区別することができないのだ。(多くの論者の見解によれば、ウィトゲンシュタインは、この論点は刺激が私秘的であるときにのみ適用できると考えたということだが、私は、この論点がすべての刺激のケースに対して当てはまると考える)」198

デイヴィドソンは、しかし二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになることを、次のように説明します。

「ところがもし、私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら、まったく新しい要素が導入されることになる。そしてひとたびそのような相関が確立されれば、相関に失敗したケースを区別する根拠が、われわれの双方に与えられる。自然的帰結の失敗はいまや、正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違いをあらわにするものとして、受け取ることができる。」198

これをもう少しわかりやすく書き直せば次のようになります。

「私とあなたが、共有する刺激の出現を相手の反応にたがいに相関させられるなら」つまり、「ひとたびそのような相関が確立されれば」、一方は相関が続いていると考えているが、相手は相関が破られたと考えるということは生じうる。つまり「正しく理解することと誤って理解することとの違い、以前と同じように続けているのかそれとも逸脱しているのかの違い」が可能になる。

仮に私が同じように鼻を指さしたのに、相手が「眉間」といったとします。相手は、私が鼻を指さしたのに、もう少し上のほうを指さしたと見間違えたのかもしれません。あるいは、私が指さしたところは、鼻ではなく正確に言えば眉間だと考えたのかもしれません。あるいは、私は同じように鼻を指さしていたつもりだったのですが、私が考えるよりも上の方を指さしていたのかもしれません。私が考える眉間は、ほかの人が眉間と考える部分よりも狭すぎるのかもしれません。あるいは、しては、「眉間?」(「眉間を刺したの?」)と問うたのに、私は「眉間」(「眉間だ」)という主張だと聞き間違えたのかもしれません。このように二人いれば、反応が同じであることと、同じように見えることの区別ができるようになります。

私的言語の問題、つまり<規則に従うことと、規則に従っていると信じることの区別は、一人ではできない>という問題があるので、規則が成り立つには二人以上が必要である、あるいは「社会的相互作用に言及することが必要だ」(197)ということをデイヴィドソンも認めます。もしそれだけなら、それはありふれた議論です。「しかし、その必要性がどのように満たされるのかという点において、私は彼ら[ダメットやクリプキやウィトゲンシュタイン]と一致しない」といいます。

では、上記の彼の議論の新味はどこにあるのでしょうか。それは、命題ではなく問答が真理値を持つという私たちの提案とどう関係するでしょうか。