脳の中の組み合わせ問題

Y君のとった写真です。真ん中にリンカーンが座っています。
これってなんという建物でしたか?

1、「意識の境界問題」
「意識の境界問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、「意識の境界問題」とは、「個別化された各意識体験の間の「境界」というのは一体どのようにして決められているのか、という問題」であるそうだ。

2、「組み合わせ問題」
「組み合わせ問題」という項目が、Wikipediaにある。それによると、カナダの哲学者シーガーが、「意識の境界問題」を「組み合わせ問題」として定式化しているそうだ。
「組み合わせ問題」とは「宇宙の基本的な構成要素のひとつひとつが現象的な特性(原意識)を持つような場合に、そういった原意識からいったいどのようにして、私達の体験するような統合された意識が生まれてくるのか」という問題であるらしい。

3、「脳の中の組み合わせ問題」
私はこの「組み合わせ問題」を、「脳の中の組み合わせ問題」として、次のように定式化して考えてみたい。
「脳の中の現象的な特性をもつ一つ一つの要素から、いったいどのようにして、私たちの体験するような統合された意識がうまれてくるのか」

Wikipediaの「意識の境界問題」にはこれについての答えが書かれている。その記事は、唯物論ないし物的一元論をとるならばこの問題は、擬似問題であるという。「私達がある特有の方法でアクセス可能な情報の範囲が統一と呼ばれているものの範囲を決めている」という説明で十分であるという。

(この説明が、どのような問い対する答えとして十分なのか、あるいは問題が、擬似問題であるとはどういうことなのか、というようなことは、私の関心ではありません。念のために、申し上げますが、私は、この記事を書いた人に反論しようとしているのではありません。この記事の関心は、私の関心と少しずれているようにおもうからです。むしろ私はこの記事に非常に多くのことを教えられたことに感謝しています。)

その記事は、唯物論をとるならば、脳の中の現象的な特性を持つ一つ一つの要素は、「私達がある特有の方法でアクセス可能であることによって、統一される」と読める。しかし、「私(ないし私たち)が脳の中の現象的な要素にアクセスする」ということは、理解できない。おそらく<脳の中の諸要素が、ニューロンのネットワークで結合しているので、それらが統一されていても、不思議ではない>といいたいのだろう。しかし、脳の中の現象的特性を持つ諸要素がもし、ニューロンないしその束であるとして、それがニューロンで結合されているとして、そのことによってなぜ統一が生まれるのだろうか。ニューロンで、結合されていることは、意識の統一のための必要条件であるかもしれないが、十分条件ではない。では、それらは単に結合されているのではなくて、どのように結合されなければならないのだろうか。

脳と共有知の関係に向けて

3月までの研究室です。3月末に改修の為に引越しをして、現在は存在していません。
失われた過去です(有意味な発言?)。

一つの脳の中に一つの心しかないのは何故でしょうか?
多重人格者がいるではないか、という批判があるかもしれません。そのとおりです。しかし、多重人格者が非常に少ないのはなぜでしょうか。

もし、心が一つであることの理由が、それが宿る(?)脳が一つであることによるのではないとすれば、複数の脳にまたがる共有知の存在証明に役立つのではないでしょうか。個人を越えた「我々の知」あるいは、個人を超えた「共有知」というものの可能性を考えるときに、すぐに思いつく反論は、<我々は頭で考えるのであり、頭の数だけ心があって、「我々」が一つの頭をもつということはありえないのだから、我々が数的に一つの「知」を持つこともありえない>というものです。

<我々が知の主体であると考えるのはばかげている>という批判の前提には、一人ひとりが知の主体であり、考えるのは一つ一つの頭だ、という信念があるのではないでしょうか。しかし、例えば、私が知の主体であるとは、そもそもどういうことでしょうか。あるいは、どうして私の頭の中には、私しかいないのでしょうか?

<一つの頭に一つの心があって、その心が知の主体である>ということは、それほど自明ないことであるとは思えません。しかし、とりあえずは、確かにそのように言えると思えます。ここでは、その理由を考えて見ましょう。