13 無限の欲求の誕生

                Heidelberg 大学とGoettigen大学でworkshopをしました。
 
13 無限の欲求の誕生 (20130917)
 
(しばらく中断してすみませんでした。ゲッティンゲンでThe self-reflectiveness of Societyについて発表しました。)
 
部族のような集団、共同体、古代国家、近代以前の封建国家、これらにおいては、貨幣への無限の欲求はなかったのではないでしょうか。なぜなら、これらの社会の中で大きな富を持つことは、攻撃を受ける可能性を高めるからです。部族のような集団やもう少し大きな共同体の首長であっても、大きな富を持つことは、彼の安全を危うくする可能性があります。
 
そのために、ポトラッチなどの祭りで富をみんなで消尽することが必要になったのではないでしょうか。「ポトラッチの主目的は富の再分配(redistribution)と互酬(reciprocity)である」[Wiki Englisch]とされますが、しかし、受けとったものを壊すポトラッチもあるそうなので、富の再分配や互酬だけでは説明できないものもあります。これは、<大きくなりすぎた富の所有が危険であるので、それを解消するのだ>という仕方で説明できるかもしれません。
 
共同体の首長がどれほど大きな富を獲得しても、攻撃される危険がないということを、共同体と国家を分けるメルクマールにできるかもしれません。そのためには、首長は武装集団を部下としてもち、首長はその富を武装集団に分配し、また長はその富を共同体の成員に再分配することが必要になるでしょう。古代国家や封建国家では、首長だけが無限の富への欲望を持ちえたでしょう。
 
しかし、近代市民社会になると、市民が非常に大きな富を持っても、安全が脅かされるということはなくなります。王様や大統領より金持ちになっても、安全が脅かされることがなくなります。身の危険を感じることなく、富を追求できるのが、資本主義社会です。
 
お金のへの欲望に限らず、「無限」という概念が重要になるのも、近代になってからだといえるかもしれません。「閉じられた宇宙」観から「無限の宇宙」観へ変化するのも、近代になってからと言えそうな気がします。「無限の宇宙」と「無限の欲望」は深いところで結びついているかもしれません。