64 相互覚知の一歩前、意識の発生の一歩前  (20230127)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

「Aが、Bが川を見ていることを見る」は、多義的です。

その多義性は、「Bが川を見ている」の二義性に由来します。

ある意味では「Bが川を見ている」は、Bが視線を川に向けているという、Bの身体的行動を表現しています。他の意味では「Bが川を見ている」は、Bの心の働きを表現しています。この場合、見ている対象は、心的にイメージされている対象です(川=Bの心的イメージ、ではありません。川=Bが心的イメージで志向している対象、です)。

前者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの身体行動を見ること>になります。

後者で理解するとき、<Aが、Bが川を見ていることを見ること>は、<AがBの心の働き(心的イメージで対象を志向しているこ)を見ること>になります。この場合のAによる<見ること>は、眼で対象を見ることではありません。なぜならBの心の働きは眼では見えないからです。

ここでのAによる<見ること>は、<Bが川をその心的イメージで志向していること>を心的にイメージして、それが事実であると推測することだろうと思います。このとき、A自身もまたその川の心的イメージを持ち、そのイメージされている川が存在すると推測することが必要です。なぜなら、さもなければ、Bが<川の心的イメージ>でその川について考えていることを理解できないからです。

ここでは少なくとも、Aが、<Bが心的イメージを持つという心的イメージ>をもつことが必要です。そして、他者が心的イメージを持っているとイメージするためには、そのまえに心的メージを理解していなければならないでしょう。つまり、自分自身で何かについての心的イメージを持ち、そのことに気づいていることが必要だろうと推測します。

以上を踏まえて次に、互いに見合うという場合について考えたいと思います。

#相互覚知の一歩前

AとBの目があい、互いに見合ったとします。これは、<AがBを見て、同時に、BがAを見る>ということでだけではありません。<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>ということです。

これは上の例で見たように多義的です。

<Aが、BがAを見ていることを見る>の部分である<BがAを見ている>の<見ている>は、二義的です。つまり視線を向けるという身体的行動の意味と、心の働きとしての見ること(つまり、Aの心的イメージをもち、それの対象であるAが存在すると想定すること)という意味を持ちます。

<Aが、BがAを見ていることを見て、同時に、Bが、AがBを見ていることを見る>に4回登場する「見る」をすべて、前者の身体的行動の意味に理解するとき、相互覚知は成立していません。4回登場する「見る」をすべて、後者の心の働きとして理解するとき、相互覚知が成立していると言えそうです。

この前者の相互に見合うことから、後者の相互覚知へどのようにしてジャンプするのでしょうか。

<自分が心的イメージを持っていることの意識は、他者に見られることによって生じるだろう>ということが私の推測です。サルトルは、他者に自分を見られるときに、羞恥を感じるといい、熊野純彦さんは、Aが自分の愚かな行為をBさんに見られて羞恥を感じるとき、Aは、Bが見たAさんの愚かな行為について羞恥を感じるのだと解釈しています(熊野純彦『サルトル』)。これにならって、人は、他者に見られることによって、自分の意識(自分が持っている心的イメージ)に気づくのだろうと、推測します。なぜなら、自分の身体が他者に見られているのと同様に、自分の心のイメージまた他者に見られている、と考えることが、人にとっては原初的なことだと推測するからです。

63 相互覚知の諸段階  (20230123)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(発達心理学では、幼児と大人と対象からなる三項関係としての共同注意については多くの研究がありますが、対象を介しない幼児と大人の二項関係としての「相互覚知」についてはあまり研究されていないようです(私の乏しい知見の範囲内で)。あるいは、私は共同注意と相互覚知を区別しているますが、発達研究においては、相互覚知もまた共同注意の一種として扱われているのかもしれません。これについては、もうすこし調べてみる必要があります。)

幼児と大人の間の「相互覚知」がいつ始まり、どのように発達するのか、などについては私にはよくわかりませんが、つぎのような記述があります。

「乳児は誕生直後から、人が放つ感覚刺激に対して鋭敏に反応する。他者が顔を見合わせて語りかけようとするとき、乳児は視線を相手の顔に向け、全身に緊張感をみなぎらせる。一方、出産直後の母親もまた、我が子に対して高い関心と配慮を保持しつづける。乳児は自らが保有する人指向特性と、母親の間主観的な応答特性に支えられて、誕生直後から母親との交流を能動的に開始させる。やがて生後2か月になると、乳児の視線と母親の視線はより一層確実に出会うようになる。こうした母子の体面的交流は、見つめあいや目そらし、母子の交互の発声といった一定のリズム構造を組み込みながら、数カ月にわたって濃密に持続される。」(大藪泰『共同注意』川島書店、2004、p.1)

乳児が2か月ころに母親と見つめあうようになるというこの現象は、乳児の最初の相互覚知かもしれませんが、幼児とチンパンジーに見られるという身振りや表情の模倣の一種のようなきもします(これについて、もしわかる方がおられたら教えていただければありがたいです)。

さて、ここから本日の本論です。相互覚知には、つぎのような諸段階を区別できそうです。

(1) 互いの存在の相互覚知:互いに相手の存在に気付いていることを相互に気づいている

この相互覚知は、基本的なものであり、以下のすべての相互覚知に伴います。

(2) 互いの対称的関係の相互覚知:

例えば、互いの同類性の相互覚知:例えば、互いに人間として、互いの存在に気付いていることを相互に気づいている。

例えば、互いに同一の目的の実現を目指していることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立不可能であるとき、互いにライバルであることに、互いに気づいている。

例えば、同一の目的の実現が、両立可能であるとき、互いに同士であることに、互いに気づいている。

例えば、互いに対称的な感情の相互覚知:例えば、愛し合っていること、憎みあっていること、などの相互覚知。

(3) 互いの非対称の関係の相互覚知:A

例えば、AとBが、AがBの親であり、BがAの子であることを、互いに理解していることを互いに気づいていること

#相互覚知と共有知についての仮説

これらの相互覚知は、非言語的な気づきです。もし共有知を言語的なものだとすると、共有知とは、言語化された相互覚知だといえるでしょう。私の推測ないし仮説は、意識の始まりは、非言語的な相互覚知であり、言語の始まりは問答ですが、その問答は共有知として成立すると考えます。

#意識の発生

Aが意識を持つとは、Aが対象Oを見ているとき、自分が対象Oを見ていることに気づくということだろう。これは自分の行動に気づくということではない。例えば、自分が歩いているときに、自分が歩いていることに気づいている、ということではない。自分が対象Oを見ていることに気づくということは、自分の心的な働きに気づくということである。では、自分の心的な働きに最初に気づくのは、どのような場合でしょうか。

クマが川を見ているとき、Aはそのことに気づくということがあります。これはまだ、Aはクマが川を見ていることを意識したということではありません。Aが、クマが川を見ていることを見ていることに気づいたとき、Aは、クマが川を見ていることを意識している、と言えるでしょう。

相手がクマではなく人間だとします。

Bが川を見ているとき、Aはそのことを見ているということがあります。これはまだ、Aは<Bが川を見ていること>を意識したということではありません。なぜなら、ここでは、AはBの行動を見ているだけだからです。Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づいたとき、Aは<Bが川を見ていること>を意識している、と言えるでしょう。なぜなら、ここでは、Aは<Bの行動を見ている>という心の働きを意識しているからです。

では、Aが、<Bが川を見ていることをAが見ていること>に気づく、ということは、どのようにして生じるのでしょうか。このことは、Bが川を見るのではなくAを見るときに生じやすくなるでしょう。

次回、この続きを考えます。

62 相互覚知と予測誤差最小化メカニズム  (20230118)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

前回述べたように、個人の発達における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)であることが高いようです。したがって、人類史における言語の誕生における初語は、食べ物を指す言葉、あるいは近くの重要な他者を指す言葉(名前)である可能性が高いと推測します。重要な他者の注意をひくためにその人を指す言葉を用い、その人の注意を食べ物に向けるためにそれを指す言葉を発するのだろう、と推測します。

個人の発達において、共同注意の成立は言語の習得に先行するようですが、人類史における共同注意の成立もまた言語の成立に先行するだろうと、推測します。

では「共同注意」とは何でしょうか。これについて、次のように考えます。共同注意とは、二人(あるいはそれ以上)の人間が同一の対象に同時に注意を向けることですが、二人がたまたま同一の対象にたまたま同時に注意を向けているだけでは、共同注意が成立しているとは言いません。たとえ偶然に二人が同一対象に同時に注意を向けているのだとしても、二人がそのことに共に気づいていれば、成立しているといえるでしょう。他方で、AとBが対象Oに共同で注意していることが成立するためには、二人がともに、同一対象に同時に注意を向けることを<意図して>注意を向けたのである必要はありません(以前に言及したように、明確な意図が成立するのは共同注意が成立した後です)。したがって、<AとBが対象Oに共同で注意していることは、二人が、偶然であれ意図的であれ、同一対象に同時に注意を向けており、そのことに共に気づいているということです。>

もし「共同注意」をこのようなものと見なすならば、その眼目は「共に気づいている」ということにあります。「共に気づいている」ということの最も基本的な形態は、おそらく二人の人間が互いに見合っていることに気づいていることです。ベイトソンはこれを「相互覚知」(mutual awareness) と呼んいます。

「二者システムでは新たな統合が起こるのだ。集団が決定因となるには、参加者が相手の知覚に気づいていることが必要である。相手がこちらを知覚していることをこちらが知っており、相手もこちらが知覚している事実をわきまえているとき、この相互覚知は、参加者二人のすべての行為と相互行為の決定因となるのである。このような覚知が樹立すると同時に、こちらと相手で決定因集団を構成し、この大きな実在における集団プロセスの特色が二人を統制するのである。ここでも共有された文化的前提がモノをいう。」(グレゴリー・ベイトソン&ジャーゲン・ロイシュ『コミュニケーション』佐藤悦子、ロバート・ホスバーグ訳、思索社、1989(原書1951)、224)

(ベイトソンは「進化のこの段階は、ホ乳動物、霊長類と家畜にしかみられないものだろう」と述べていますが、その詳しい説明はありません。)

ところで、前に(第59回)に「共同注意」と「共有知」は予測誤差最小化メカニズムによって構成されると述べましたが、「相互覚知」も同じように説明できると思います。

<私は、自分と他者が互いに見合っているという仮定をし、そこから帰結することを予測する。その予測が、現実の現象とずれていれば、その誤差が縮小するように仮定を修正する、というプロセスを繰り返すことによって、相互覚知を実現しようとする>。

このメカニズムは、(まだ意識も意図も明確には成立していない段階なので)意識的意図的なプロセスではありません。ここでは、予測誤差最小化プロセスは、問いに答える意識的意図的なプロセスであり、予測誤差最小化メカニズムは、探索する無意識的非意図的なメカニズムであると区別しておきます。ここでの予測誤差最小化メカニズムでの「仮定」とは、(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろう」というものですが、このメカニズムはその仮定を確認しようとするプロセスであり、その意味では(あえて言語化すれば)「共に気づいているのだろうか?」という探索です。

前にも述べたように、言語は問答として発生すると考えますが、意識はおそらく探索に対する発見の一種として成立するだろうと考えます。「一種」というのは、原始的な生物もまた探索発見をするからです。意識を発生させる探索発見は、おそらく探索と発見が分離しているような探索発見です。探索と発見の分離は、おそらく同時に、行動と認知の分離でもあるだろうと推測します。

(この推測の正しさを確かめるには、この推測を仮定して、「予測誤差最小化プロセス」にかけるしかないだろうと思います。先走って言えば、科学研究もまた、この「予測誤差最小化プロセス」の一種だと推測します。)

 次回は、相互覚知の諸段階について考えたいと思います。

61 共同注意を促すための発声から言葉が誕生した (20230111)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

(これまで「予測誤差最小化メカニズム」について語るとき、「予測」の使い方があいまいで、K・フリストンの使い方と違っていたようですので、訂正し、明確にしておきたいと思います。予測誤差最小化メカニズムでは、モデルを「仮定」ないし「想定」し、そのモデルから感覚刺激を推論によって「予測」します。その「予測した」感覚刺激と現実を比較して誤差があれば、「仮定」ないし「想定」していたモデルを修正し、その修正したモデルから生じる感覚刺激を推論によって「予測」し、それを現実の感覚刺激と比較するということを繰り返すします。つまり「予測」とは、モデルを前提としてそれから何が帰結するかを推論(能動的推論)すること、あるいはその推論の結論です。)

前回の課題「言語が発生するときの最初の共有問答は、どのような内容になるのでしょうか」について考えたいと思います。まずは、個人の発達史における最初の共有問答について。

子供が初語を使うとき、それが子供の最初の問答です。子供の「初語」について、つぎのような調査がありました。「子どもの「初語」はいつ?初めての言葉にまつわるエピソード」(https://iko-yo.net/articles/1770)によると

ちなみに初語発生の年齢は、

とのことです。

幼児の初語は、食べ物を指す名詞(「まんま」)、あるいは最も重要な大人を指す名詞(「ママ」「パパ」のようです。これ以外の名詞も初語になりますし、名詞以外のものが初語になることもあります(私の子供の初語は、箸が転がって食卓から落ちた時に発した「落ちた」でした)。これらの単語の発話は、一語文の発話だと考えられます。「まんまが欲しい」「これはまんまだ」「マンがある」「これはまんまですか」などの意味に理解できます。「ママ、見て」「ママ、来て」「あなたはママです」「あなたはママですか」などの意味に理解できます。「落ちた」の場合には、「箸が落ちたよ。見て」というような意味だったと思います。一語文でも、イントネーションで疑問の発話にすることができますが、疑問の発話でなくても、それが近くの大人の反応を期待して発話されていると考えられます。それは、その反応がどのようなものであれ、反応を期待した発話は、暗黙的に問いかけの意味を持っていると考えられます。どのような発話とそれに対すする反応も、問答として暗黙的には問答になっていると考えられます。

アダムソンは初語について次のように言います。

「生後10~13ヶ月のあいだに、ほとんどの子どもは慣習的な語を喃語と原始語に混ぜ始める。一つには、大人がしばしば「ダダ」とか「ママ」のような子どもの発明を大人自身の語彙に同化してしまうので、正確にいつ子どもが初語を言ったかにぴったりと照準を合わせるのはしばしば困難である。このようなことばに惑わされるのを避けるため、たいてい初語は見過ごし、10語の産出語彙が安定した指標として選択されている。子どもは大抵この発達指標に13~19か月のあいだに到達する。」(ローレン・B・アダムソン著『乳児のコミュニケーション発達』(大藪秦・田中みどり訳、川島書店、212)

「要約すると、子どもの初語はコミュニケーションの慣習化に向けて重要な一歩を印す。10語の産出語彙を蓄えるまでには、子どもは典型的には語の象徴的自律性への洞察も得る。この洞察により、異なるコミュニケーションのコンテクストで語を柔軟に用いることが出来るようになる。」(同訳、216)

人類史における言語の誕生における初語も、食べ物を指す名詞、知覚の重要な他者を指す名詞、などが初語である可能性が高いと思われます。そこでも、それらは、暗黙的な問いであると推測します。

食べ物を表示する言葉は、食べ物への共同注意を促すための発声から成立したかもしれません。トマセロが言うように共同注意が、9か月ごろに成立し、アダムソンいうように初語が、13カ月~19カ月ごろに成立するのだとすると、<共同注意を促すための発声から言葉が誕生した>可能性が高いでしょう。初語が成立し、暗黙的な問答が成立し、暗黙的な共有知が成立するのだろうと推測します。

言語は(あるいは問答は)、共有知をモデルとして仮定し、予測誤差最小化メカニズムによって成立するとして、それには共同注意の成立が先行していると推測します。では、共同注意はどのようにして成立するのでしょうか。その成立は、意識の成立と同時なのでしょうか。推測の域を出ないのですが、次にこれらについて考えたいと思います。

60 共有問答と共有知について (20230108)

[カテゴリー:人はなぜ問うのか?]

2023年、明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。

今年こそ、意識と言語の発生メカニズムが明らかになることを願います。

私は、言語の発生は問答の発生である、と推測します。では、問答はどのように発生するのでしょうか。人はなぜ問うのでしょうか。以下は、私の現在の単なる予測であって、証明できているものではありません。

<知は、個人の知であれ、共有知であれ、相関質問への答えとして成立する、つまり問答として成立すると考えます。最初の問答は、共同問答として成立し、共同問答は、共有された問いとそれに対する答えとしての共有知として成立すると考えます。なぜなら、言語の発生は問答の発生であり、言語は他者との意思疎通のために生じた言えるから、問答も他者との意思疎通のために生じ、共同問答として生じたと思われるからです。問答には自分との自問自答もありますが、個人が行う最初の問答は、他者との問答であろうと思います。他者との問答が成立するとき、それは常に共同問答として成立します。個人の知や自問自答は、共有知や共有問答からの分離によって成立するのだと思われます。>

さて、以上の予測を、もう少し詳しく説明したいと思います。

まず、言語共同体の中で既にその言語を習得している二人が問答する場合を考えましょう。一方が他方に問い、他方がそれに答えること、が成立するには、他者に問われた者が、その問いを理解しなければなりません。答える者がその問いを理解していなければ、その問いに答えることはできません。問われたものがその問いに答えるとき、問うた者は、答える者がその問いを理解したと考えていなければ、その発話を、自分の問いへの答えとして認めることはできません。つまり、問答が成立するには、問いを二人が同じ仕方で理解し、しかもそのことを二人が知っている必要があります。答えについても同様のことが言えます。問うた者は、相手の発話を自分の問いへの答えとして捉えることが必要であり、答える者の発話が、その問いへの答えとなっていることを二人か理解すると同時に、そのことを二人が知っている必要があります。こうして、他者との問答が成立するには、問いと答えと問答関係について、両者が知っており、かつこのことが共有知になっている必要があります。つまり<他者との問答は、共有問答として成立する>のです。

この説明は、共有知の成立を前提とします。しかし、もし共有問答によって、最初の共有知が成立するのだとすると、共有問答の成立が問いの共有知を前提するということと矛盾ます。共有地の説明が共有知を前提とするという循環、あるいは、共有知の無限遡行は、どのようにして回避されるのでしょうか。それは最初の問いの共有知が、予測として成立し、予測誤差最小化メカニズムによってより確かなものになる、と考えることで回避できます。

予測として成立するのは、最初の問いの共有知に限りませんし、また問いの共有知にも限りません。おそらくすべての共有知について成り立つでしょう。

私たちは、共有知をモデルとして想定します。つまり自分と他者がある知を共有していることを想定します。他者の心の中はわからないので、他者が私とある知を要求していることを想定するだけです。ここで想定するのは、知を共有していることと、その知がある然々の内容をもつこと(たとえば、「二人がコップを見ている」という内容です。ここで重要なことは次です。

<共有知を想定をしているのは、個人です。しかし、その想定が間違いなら、これは知ではありません。つまりこれは共有知でもないし個人の知でもありません。他方、この想定が正しいなら、これは共有知であって、個人の知ではありません。したがって、いずれにせよ、これは個人の知ではありません。繰り返しになりますが、共有知の予測が正しければ、これは共有知であり、予測が間違いなら、これは共有知ではありません(個人の知でもありません)。>

共有知を想定するのは個人の頭脳の予測誤差最小化メカニズムです。共有知の予測誤差最小化メカニズムでは、ミラー・ニューロンも働いているだろうと思います(共有知に対するミラー・ニューロンの貢献は別途考察する必要があります)が、それでもそれは確かに個人の頭脳内のメカニズムです。ちなみに、この予測誤差最小化メカニズムは、無意識的なメカニズムだと思います。

では、言語が発生するときの最初の共有問答は、どのような内容になるのでしょうか。これについて、次に考えたいと思います。