物理主義の世界と法は両立するか

前回私がサクラだと思ったものは、散ってしまいました。やはりあれは梅だったようです。サクラと梅の違いの一つは、サクラの花は短い茎のようなもので、花と枝が結びついているにたしいて、梅の花は直接に枝についていることだそうです。サクランボを買ったときについている茎のようなものが、梅にはないということです。上の写真をみると、茎のようなものはないので、これは梅だったとわかりました。
 
前回の裁判の続きです。 

検察官は、次のように言うかもしれない。
「かつてカルヴァンは、救霊予定説を主張しました。それによると、人々が天国に行くかどうかは決定しています。しかし、個々人はそれを知りません。そこで、個人が天国に行くことに決定していることを欲するのならば、個人は善をおこなおうとすればよいのです。もし彼が善をおこなうならば、彼は善をおこない天国に行くことを予定されていたのです。」(注、これはこの検察官の理解する救霊予定説であり、カルヴァンがそのように主張したかどうかはわかりません。)
「これと同じことが成り立つのです。我々の行為は物理的に決定しています。したがって、あなたが法による刑罰を受けるかどうかも、決定しているのです。もしあなたが刑罰を受けないように決定されていることを欲するならば、あなたは法に反しないように行為すればよいのです。あなたが法に反する行為を行ったのならば、あなたはそのように行為し、刑罰を受けるように決定されていたのです。あなたは、詐欺という法に反する行為をしたことを認めました。つまり、法に反する行為をするように決定されていたことを認めたのです。したがって、法の定める刑罰を受けるように決定されていたことを認めるとしても、矛盾しないのではないですか?」
 
これに対して私は次のように自己弁護しよう。
「検察官の最後の発言こそ問題であり、私はそれを認めることができません。私は、もし法に従うならば、私の行為が違法であることを認めます。しかし私はそもそも法が存在すること、法が正当性をもつことを認めないのです。我々の社会は、「物理主義の世界」です。したがって、すべてが物理的に決定されていることをみんな認めています。私もそのように信じています。物理主義の世界に、法はありえない、と私は主張しているのです。それゆえに、法によって私を裁くことはできないと主張しているのです。なぜなら、刑法は、人間が自由に行為することを前提しているからです」
 
これに対して検察官は次のように応えるだろう。
「私は検察官であって、刑法と刑事訴訟法をみとめて、私の仕事を行います。刑法の正当性をここで論証することは、私の義務ではないのですが、あなたには特別に私の理解を説明しましょう。我々人類が、物理主義の正しさを受け入れるようになったのは、私がまだ若いころでした。我々の社会は、法の正当化に関して激しく論争しました。その結果、我々の社会は、次のような考えを受け入れることにしたのです。
<我々の社会が法を受け入れるどうかは、決定している。しかし、もし法を受け入れないとすると、我々の社会は無法社会になる。そのような社会では、法のある社会におけるよりも、人々は不幸であろう。したがって、我々の社会は法を受け入れよう。確かに我々の社会が法を受け入れられるかどうかは、すでに決定している。しかし、どちらに決定しているかは誰にもわからない。それならば、我々は法治社会が維持されるように決定されていると想定して、そのように行為しよう。そして法治社会が維持されている限りで、それが決定されていたことになるのだ。>
私の理解では、私たちの社会の法は、人間の意思の自由を前提していません。したがって、物理主義の世界と法は両立するのです。」
 
さて、この検察官に、私はどう反論したらよいだろうか。
 
 

 

物理主義の世界に道徳や法は成立するのか?

3月4日の暖かい朝でした。これは梅ではなくて、桜だとおもうのです。
こんなに早く咲く桜があるものでしょうか?ご存知の方がいたら、教えてください。
 
ここでは次のように仮定して議論したい。
<心はすべて脳の物理現象に還元される。つまり厳密にいうならば心は存在しない。意志の自由というものも存在しない。我々は、心について語ることができるが、それは「太陽が昇る」と語ることを我々が許しているのと同様の意味で許されるからである。>
 
<このような物理主義的世界観を人類のほとんどの人々が信じており、そのことが共有されている世界>を、以下では、「物理主義の世界」と呼ぶことにしたい。
 
ここで考えたいのは次ぎの問である。
問「物理主義の世界では、道徳や法は成立するだろうか?」
 

私が物理主義の世界の住人であるとしよう。私Aが、Bさんに次のように言うとしよう。
A「駅まで車に乗せてくれたら、千円払います」
B「了解しました」
Bさんは、わたしを駅まで運んでくれたとしよう。
B「それでは千円ください」
A「私は、千円持っていないのです」
B「私をだましたのですか?」
A「そのとおりです」
B「うそをつくのはよくないことです」
A「なぜですか?」
B「うそをついてはいけない、というのが、我々の社会のルールなのです」
A「それは知っています。しかし私は悪くありません」
 
Bさんが警官を呼んで、警官が私を捕まえ、裁判になったとしよう。私は次のように自己弁護する。
A「私はうそをついたことをみとめます。しかし私を刑法で罰することはできません。なぜなら、私には自由がないからです。」
 
物理主義の世界にも裁判制度があり検察官がいるとすると、検察官は私に何というだろうか?
 
(このような状況設定自体に矛盾がある可能性がありますが、その場合には、それを明らかにすることができれば、幸いです)
 
 
 
 
 

 

 
 
 

21世紀に人類に迫りくる哲学的問題

 
2011年2月14日に大阪に降った雪です。
 
仰々しいタイトルをつけましたが、深刻な問題だと思っていることがあります。それは、脳科学の進歩によって、人間の脳の研究がすすみ、心の働きが解明されつつあることです。哲学では1970年代から、心と脳の関係の研究が進んできました。現在殆どの研究者は心と脳の二元論をとらずに、脳の一元論をとります。しかし、心を完全に消去する(消去主義)のではなく、一元論をみとめながらも、心が脳内の過程や状態にsupervene(付随)すると考える付随現象説、非法則的一元論(デイヴィドソン)をとるひともいます。まだ理論的には決着が付いていません。
 
しかし、消去主義が正しい可能性はあります。それどころか、一般の人々は、通常の生活では、心と脳の二元論を採用して生活しながらも、他方では、心は脳内の過程や状態に他ならず、いずれ完全に物理現象として説明されるだろうと思っているのではないでしょうか。少なくとも、物理主義の主張を聞いて驚く人は、いないのではないでしょうか。
 
他方で、コンピュータのハードの面での進歩はすさまじいものです。大脳には300億個のシナプスあるが、孫正義さんの予想によると、コンピュータの1チップの中のスイッチの数は、2018年に300億個を超えるそうです。これまでの30年で1000万倍になったので、ムーアの法則がこれからも当てはまるとすると、100年後には1兆の一億倍になるそうです。このとおりに進歩しないとしても、今世紀中には、コンピュータの1チップのスイッチの数は、人間の脳のシナプスの数の数万倍のものになることでしょう。スピルバーグの映画「AI」のような世界がやってきそうです。このとき、我々がコンピュータと人間を区別し続けることは不可能になるのではないでしょうか。
 
21世紀の脳科学とコンピュータ科学の進歩は、物理主義の受容を我々に迫ってくるように思います。
 
我々が、それを悪夢だと感じるのは、それが我々の自由を否定し、善悪や道徳や責任の概念を無効にするように思われるからです。
我々に可能な選択肢は、次ぎの3つだろうと思います。
(1)物理主義を批判すること
(2)物理主義と両立するような仕方で、自由や道徳を正当化すること
(3)物理主義を受け入れて、道徳について考えること
 
(1)(2)については、多くの議論が行われています。(私は物理主義ではなくて、反実在論的二元論なるものの可能性を追究したいとおもっていますが、まだそれに確信があるわけではありません。)
この書庫では(3)を考えてみたいとおもいます。つまり、もし心の自由が幻想であるとして、そのとき道徳はどのようなものになるのかを考えてみたいとおもいますこれを考えるのは、心の消去主義を恐怖して考えないようにするのではなくて、もしそれが真であるとした場合に、我々がどのような世界を受け入れざるを得ないのかを、見定めたいとおもうからです。