病気としての悪

紅葉の始まる山の中です。紅葉のはじまりは、山の中ではFallの始まりです。まるで雨のように、一日中、ハラハラ、ハラハラと松葉などの木ノ葉が落ち続けます。
 
もし「物理主義の世界」の中で、道徳や法が成り立つのだとすると、そのとき、それに対する侵犯である「悪」は、人間の自由な意志の所産ではありません。それにもかかわらず、それが排除されるべき行為として理解されているのだとすると、それは「病気」として理解されているのかもしれません。
 
これは「物理主義の世界」において、「悪」が成立する場合の、一つの有力な可能性です。というわけで、悪を病気として理解することが、果たして整合的であるかどうかは、検討に値するでしょう。
 
しかし、どうも、このところ、このテーマに気が乗らないのです。
私としては、できれば物理主義を批判して、自由の可能性を追求してみたいと考えているということも、気が乗らない理由の一つなのですが、もう一つは、自分が納得していない物理主義を前提して考えることに、少し飽きてきたということがあります。
 
そこで、「病気としての悪」を考える前に、人格について考えてみたいと思います。たとえ物理主義を採用するにしても、道徳や法が成立するのなら、そこでは人格も成立しているはずです。したがって、「病気としての悪」をかんがえるためにも、「人格とは何か」を考えておく必要があるでしょう。
 
この問題については、すでに書庫「人格とは何か」で少し論じました。しかし、そこでは、明確な人格論を提案できていません。そこで、もう一度それを試みたいとおもいます。
 
という訳で、新しい書庫「問答としての人格」を始めます。
 
そのあとで、また「病としての悪」に戻ることにします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

さあ、仕切り直しです

 
                  海の中のような森の中
 
 
決定論を理解できないというストローソンの主張への批判は、とりあえず前回で終わりました。
 
最初の問題に戻りたいとおもいます。
つまり「物理主義の世界」で道徳や法は可能だろうか、という問題です。
 
仮に、ストローソンの主張、(道徳的な)怒りと物理主義は両立しないを受け入れたとしましょう。しかし、そのときそこから帰結するのは、<物理主義は理解できない>という選択肢だけではありませんでした。もう一つの選択肢は、<道徳的な怒りは理解できないという物理主義者の主張>です。
 
そうすると、問題は、「怒りがなくても、道徳や法律は成立するのか」と言うことになります。この物理主義者は、<我々は、不道徳な行為に怒りを感じるかもしれないが、その時には、その怒りを幻想的な「擬人化」によるものだと反省して、消去する>と主張することになるでしょう。
 
このとき、(すこし論理的な飛躍がありますが)次の可能性を考えてみたいと思います。それは、「悪は病気の一種である」と考えるという可能性です。
 
ここから、仕切り直しです。
 
 

私たちは人間を「擬人化」しているのか

窓からの眺めが水槽の水草の眺めに似ていることに、最近気がつきました。
地球の表面は、水の中も陸上も緑の世界だったのかもしれません。
 
 
 ストローソンの主張は、次のようなものでした(以下は私の勝手なまとめです)
<人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない>
 
これに対する反論として、前々回に挙げたのが、以下の二点でした。
①動物や家具に対して怒るときがある。
②動物や家具に刑罰を与えることもある
 
①に対するストローソンからの批判としては、次の二つないし三つが予想できます。
(i)怒りの種類を分けるべきだ:動物や家具に対する怒りと人間に対する怒りはことなる。前者の怒りは自然現象に向けられるが、後者の怒りは自然現象には向けられない。したがって、人間を自然現象と見なすことは、理解できない。
(ii)動物や家具に対する怒りは擬人化にもとづく:動物や家具を自然現象と考えているときには、それに対して怒ることはありえない。
(iii)上記二つの批判は、両立可能であるので、場合によって両方を使い分けて用いることもできる:動物に対して、思わず生理的に(?)怒りを感じるときもあるが、そうでない怒りを感じるときもある。そうでない怒りの時には、動物を擬人化している。
 
さて、このようなストローソンに対して、どのように批判することができるでしょうか。
 
物理主義者ならば、つぎのように批判するかもしれません。
<ストローソンの主張:≪人間は、他者の振る舞いに対して怒ることがあるが、自然現象に対しては、怒らない。したがって、他者に対して怒ることと、他者を自然現象と考えることは両立しない。したがって、他者を自然現象として考えるということが、どういうことなのか、理解できない≫の最初の二つの文章を認めて、そこから次の文を導出することも可能である。<したがって、他者に対して怒るということがどういうことか理解できない>。
ストローソンも、動物に対して思わず怒ることがあるだろう。そのとき、彼は動物を擬人化していたと反省して、動物に対する怒りを不合理な振る舞いだったと考えて、撤回するのだろう。
私は、それと同じことを人間に対しても行う。私は人間に対して思わず怒ることがある。その時私は人間を「擬人化」していたのだと反省して、人間に対する怒りを不合理なふるまいだったと考えて、撤回する。
この場合の「擬人化」とは、人間に対するある種の幻想化である。それはよく考えようとしても理解できない幻想である。>
 
このような物理主義者は、他者への怒りを認めず、おそらく刑罰も、自由も認めないでしょう。
 
これで、ストローソンの検討をいったん、終わりたいと思います。なぜなら、このような物理主義者の批判を(同意でなく)理解できるとすれば、ストローソンの、そもそもの批判、物理主義を理解できない、という批判は、回避できるからです。つまり、「物理主義の世界」で道徳や法は可能になるのか、という問題設定は、理解できることになるからです。
 
 

クマに罪はあるのか

 
森の中によくある看板です。一句作りたかったけれど、余りに散文的なテーマなので、できませんでした。
 
 
前回の反例3で言及したプラトンの当該箇所を引用します。
少し長いですが、興味深いので引用します。このくらいなら著作権の許容範囲だろうとおもうのですが、もし問題があったらご指摘ください。
 
プラント『法律』第9巻からの引用です。
 
「もし動物が、荷を運ぶ動物でも、その他の動物でも、誰かを殺した場合は、――ただし、公に催される競技において、競技中にそのようなことが起こった場合は別として――、近親者は、その動物を殺人のかどで訴えるべきである。そして近親者から指名された地方保安官が、――誰が指名されても、また何人指名されてもよい――、裁判をおこなって、その動物に罪がある場合は、これを殺して、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。
 また、何か生命をもたない物体が、人間から生命を奪った場合は、――ただし、稲妻とか、天から何かそのような矢が落ちてきて死んだ場合は別として、それ以外のもので、ひとがその上に倒れたために、あるいは、そのものがひとの上に落ちてきたために、その人を殺したというような場合であるが――、そのときには、近親者は、いちばん近い隣人をそのものに対する裁判官にしてこれを裁かせ、このようにして自分自身のためにも親族全体のためにも償いをさせなければならない。そしてその物体に罪があった場合は、動物の場合についての述べられたと同じように、国土の境界の外に投げ棄てるべきである。」(プラトン『法律』873E-874A、『プラトン全集13』森進一、池田美恵、加来彰俊訳、岩波書店)
 
さて、このような発想は、一見奇想天外ですが、しかし、よく考えてみれば、身に覚えのある発想です。このような裁判で、「動物に罪がある場合」とは、どのような場合なのでしょうか。人間がその動物を脅かすなどしたために、その動物にかみ殺されたときには、動物に罪はないということでしょうか。人間による山の開発で熊の住む場所がなくなり、熊が人里にやってきて人を殺したとき、熊には罪がないのでしょうか。豊かな自然があるのに、人里にやってきて、人間を襲う熊なら、「罪がある」のでしょうか。なんとなく、そんな風に感じるとすると、我々もプラトンとかわらない、ということでしょうか。
 
家具に「罪がない」とはどういうことでしょうか。地震で家具の下敷きになった時には、家具には「罪がない」けれども、静かな時にいきなり家具が倒れてきて、人が死んだときには、家具に責任があるということでしょうか。しかし、それは家具を作った人に責任があるのではないでしょうか。
 
動物の場合には、ともかく、家具に罪があるというのが、もう一つよくわかりません。家具に欠陥があるのならばわかります。その欠陥の責任が、作った人でなく、家具自身にあるというのがわかりません。この発想が、奴隷制とどこかで繋がっているのでしょうか。
 
これらのことを考えるのは、この書庫のテーマではありませんが、興味深い発想です。
 
今回は、余談でした。
 
 

机に腹を立てる

 
野分けすぎ、鈴虫も待つ、名月かな
(季語ばかりになってしまいました)
 
 
前回の(a)(b)(c)を考えてみます。
 
まず(a)「この前提の上で、(3)が成立するのかどうか」を考えましょう。
 
くどいですが「この前提」とは、(1)「物理的現象であること」を認め、かつ(5)「人間が自由であること」を認めないということでした。(3)は「他者の振る舞いに怒りを感じること」でした。
 
まず、(1)と(3)の関係を考えましょう。
 
<(1)と(3)は(心理的に?、主観的に?)両立不可能であり、しかも(3)は我々が体験している事実である。> ゆえに、(1)を想像することはできない、とストローソンは主張します。(1)と(3)は、我々にとって本当に両立しないのでしょうか。
 
反例になるかもしれない事実を考えてみましょう。
 
反例1:二匹の犬が喧嘩しているとき、犬は互いに怒っているように見えます。物理現象である犬は、別の物理現象である別の犬に対して怒っています。したがって、(1)と(3)は両立するのです。
 
予想される批判1:犬は怒っているように見えるだけであって、怒ってはいない。それは人間が犬に感情を投影しているのだ。
 
予想される批判2:犬は怒っているかもしれないが、その怒りは、人間の怒りとは異なる。人間は、自然現象である犬に対しては怒らない。もちろん、人間が犬にかまれたら犬に対して怒りを覚えるだろうが、そのときには犬を擬人化しているのである。
 
反例2:我々は、犬にかまれて犬に怒るだけでなく、机の脚に足の小指を思いっきりぶつけてしまった時に、思わず怒りおぼえて、机の脚を蹴りたいと思うけれども、余計ひどいことになるので思いとどまる、というようなことがあるのではないでしょうか。我々は明らかに人ではない机に対しても怒ることがあり、その時には、擬人化していないように感じられるのです、それはいわば生理的な反応のようなものです。
 
予想される批判3:そのような生理的な反応としての怒りがあることがみてもてよいが、それはストローソンが問題にしている怒りではない。それは別種の怒りであり、反例にならない。
 
反例3:手元にテキストがないので、記憶で言うのですが、プラトンは、古代の刑罰では、倒れたために人間を殺すことになってしまった家具などを、国外追放などにして罰するという記述があったようにおもいます。(そのような心性は、古代ギリシアにかぎらず、他の社会にもありうることです。)つまり、怒りの対象や刑罰の対象を、理性的で自由な人間に限ることは、近代的な刑罰観なのであり、理性的で自由な人間を前提しない刑罰観もありうるし、歴史的にはあったと思われるのです。それゆえに、(3)は(1)や(4)と両立するし、(3)は(5)の否定とも両立するのです。
 
この反例3、に対してストローソンならば、何と答えるでしょうか。
次回に考えてみたいと思います。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

またしてもストローソン

 
森と空の間に夏の風
 

ここまでの議論で前提しておきながら、それを断っていなかったことがありました。それは、決定論と自由の非両立説をとるということです。非両立説というのは、物理的な決定論と人間の意志の自由が両立しないと考えるということです。物理的な決定論と人間の意志の自由の両立論を主張する人もいますが、この書庫では、それが両立しないということを前提しています。しかも、物理主義が正しいということを前提しています。しかも、社会のほとんどの人がそのような非両立主義と物理主義を受け入れており、それが社会の常識になっているという世界(「物理主義の世界」)に住んでいるということを前提しています。
 
私は、非両立論と物理主義をここで論証しようとしているのではありませんし、それらが正しいだろうと予想しているのでもありません。この書庫での課題は、仮にその二つを社会が受けいれた「物理主義の世界」というものがあるとすると、その中で法律や道徳が可能かどうか、可能であるとすればどのようなものとして可能か、ということを考えてみることです。
 
これまで考えてきたところでは、物理主義の世界でも、計画的に行為する合理的な行為者の存在を想像することはどうやら可能だ、ということでした。では、道徳や法律や可能なのでしょうか。
これまでの議論では、次の3つを区別してきました。
(1)計画的に行為する合理的な行為者であること
(2)道徳や法律が可能であること
(3)人間が自由であること
(3)を認めないのが、この書庫での前提でした。(1)は可能である。(2)が残る問題です。
 
さて、以上の議論と関係しておりながら、以上の議論に対する根本的な批判になっているのが、ストローソンの論文「自由と怒り」です。ストローソンは、そもそもこの書庫の前提である決定論を「理解できない」、あるいは想像できない、というのです。しかし、それは決定論がまちがいであるというのではありません。そのような哲学者はたくさんいるでしょう。そして彼らとの論争は、この書庫の前提が脇に置いてきたことです。
しかし、ストローソンが決定論を「理解できない」というのは、決定論が間違っているというのではないのです。<人間にはそれをまともに考えることができない>、と言えばよいのかもしれません。このような立場は、我々の書庫での前提を脅かします。つまり、我々は決定論の真偽は別にして、それを理解し、想像し、仮定することはできると考えているからです。
 
そこで、ストローソンの論文「自由と怒り」(法野谷俊哉訳)(門脇俊介+野矢茂樹、編・監修『自由と行為の哲学』春秋社)の主張を検討したいと思います。
ストローソンは、「自由と怒り」において、まず悲観論者と楽観論者の論争を成立しています。悲観論者は、決定論をみとめ、それが自由と両立しないと考え、しかもそこでは道徳が成立しないと考えます。楽観論者は、決定論を認めるが、それは自由と両立し、道徳が成立すると考えます。
ストローソンの整理では、悲観論者は、自由も道徳も認めないが、楽観論者は、自由も道徳も可能だと考える。私がこの書庫で問題にしたいのは何度も繰り返しますが、自由を認めないで、法や道徳が成立する余地はないのだろうか、と言うことです。
 
さて、ストローソン自身は、「決定論という命題の内容が正確にわかっていない」(訳p.49)という立場をとります。彼は、人間には、決定論が正しいものとして受け入れて生活することはできないと考えます。その意味で、決定論を正確には分かっていないというのです。
 
この主張について、次に検討したいと思います。

 

人間は行為者である

日本語表記がなんとなく懐かしい雰囲気ですね。英語にすべきだと思うのですが、この方が外国人に喜ばれるのでしょうか。
 
みんなが物理主義が正しいと考えており、そのことが常識となっている「物理主義の世界」において、そもそも行為者というものは存在するのでしょうか?
「私」という人称代名詞で、話し手は「私」で何を指示するのでしょうか?
話し手は存在するのでしょうか?
 
たくさん質問を書きましたが、最後の質問から考えてみましょう。
「私は嘘をついた」という発話があるとします。このとき、話し手は存在するのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「我々に自由がなくても、我々は話し手です。それは犬に自由がなくても、犬がワンと吠えている、というのと同じです」
 
それでは、「私は嘘をついた」という発話をするとき、話し手は、何を指示しているのでしょうか。多くの人はとりあえず次のように答えるでしょう。「隣の家の犬を、隣の人はクロと呼んでいるのですが、それと同じように、我々は互いに名前で呼び合っています。隣の人が、クロを同定しているのと、おなじような仕方で、我々は、話し手を同定することができますし、そのように同定された対象を話し手は「私」で指示しているのです」
 
我々は、我々を「行為者」と呼ぶことができるのでしょうか、と問われたならば、多くの人はとりあえず次のように答えるかもしれません。「アンスコムの意味で「意図的な行為」をするものだけを行為と呼ぶのならば、犬は行為しません。しかし、犬を動物とよび、動物は動き回るものであり、行動するものであるということができるならば、同じように人間は行為する者である、行為者である、と言えるでしょう」
 
 
マイケル・ブラットマンは、人間の振る舞いが完全に因果的に決定していても、人間は行為者でありると考えています。
 
ブラットマンは、人間の「行為者性」の核となる3つの特徴を指摘しています。つまり、「反省的性格」「計画性」「自らの行為者性を時間的な幅をもったものとしてとらえる我々の自己理解」(原文にあたっていないので、3つ目の定式化がこれでよいのかどうか、すこし不安が残ります)です。
 
この3つは、つぎのようなことです。
「われわれは自分の動機づけについて反省する。また、我々はあらかじめ計画を立て、行為の方針をもち、そうした計画や方針が長期にわたるわれわれの活動を組織している。そして、われわれは自らを長期にわたって活動し続ける行為者とみなしており、また、時間的な幅を持った活動や企てを開始・展開・完了させる行為者ともみなしている。」(マイケル・ブラットマン「反省・計画・時間的な幅をもった行為者性」竹内聖一訳、『自由と行為の哲学』門脇俊介、野矢茂樹訳、春秋社、p. 289
 
そしてこれら3つの特徴は、「我々が因果的秩序のうちに完全に埋め込まれているということと両立可能である」(同訳、p. 320)と彼は考えています。
 
ブラットマンの議論の厳密な検討が必要ですが、しかしこの3つの特徴をある程度緩く理解する限りで、この3特徴によってとらえられる行為者性は、「物理主義の世界」でも成り立つようにおもいます。そのような意味では、人間を<主体>と呼ぶことも可能でしょう。
 
では、そのよ
うな行為者や主体には責任はあるのでしょうか?
これを次に考えたいと思います。
 
 
 
 

責任は主体を想定する?

 
2011年6月19日の羽田空港です。ひょっとして伊丹への帰路に富士山が見えるかと思いましたが、雲のために見えませんでした。もし雲が無ければ見えるのでしょうか。いつも夜ににばかり乗っているので、よくわかりません。
 
 
アンスコムのいうように、意図的な行為の場合、我々は「なぜそうするのか」と問われたときには、即座に「○○するためだ」と答えられるでしょう。このような<行為の理由>は、<行為の原因>と同一なのでしょうか、まったく別のものなのでしょうか、それとも一部重なるのでしょうか、それともこれらのいずれともことなるのでしょうか。
 
亀をいじめている子供たちを見たときに、私が思わず「やめなさい」といって止めようとしたとしましょう。「どうして、僕たちの邪魔をするのですか」と問われたとき、即座に「かわいそうじゃないか」と答えたとしましょう。このとき私が「物理主義の世界」の住人であるとして、私はこの行為をどのように理解するでしょうか。
 
私の行為は、自然的な因果関係によってすべて決定しています。私が「やめなさい」と言った行為の原因をCだとしましょう。私は、「亀がかわいそうだからやめさせよう」と考えていたとしましょう。このとき、「亀がかわいそうだ」という考えが、ここでの原因Cでしょうか。亀がかわいそうだ、という考えは、それだけでは行為を決定するに充分ではありません。したがって、<行為の理由>と<行為異の原因>は同一ではないでしょう。
 
「やめなさい」という発話行為が成立するには、そのほかの条件もはたらいていたでしょう。それらをすべて列挙することはできませんが、その原因Cが、そのような条件の集合であったとしましょう。「亀がかわいそうだ」という考えは、その原因Cの一部分であったのでしょうか。つまり<行為の理由>は、<行為の原因>の一部分になるのでしょうか。
 
ここから二つのケースに分けて考えてみましょう。
まず、<行為の理由>が、<行為の原因>の一部になっているとしましょう。
(今回は、このケースの途中までです)
 
このとき<行為の理由>の成立もまた、因果的に決定しているはずです。上の例では、私が「亀がかわいそうだ」と考えることです。この考えもまた、因果的に決定しています。
私が「亀がかわいそうだ」と考えたから(これが原因の一部となって)、「やめなさい」と発言したのだとすると、私にはその発話行為の責任があるのでしょうか。考えから行為が発生するのは、因果関係であり、しかもその考えもまた因果関係によって成立しているのだから、私の自由が介入する余地は全くないのです。しかし、「亀がかわいそうだ」という私の考えが、私の行為の原因の一部になっているということが言えるのならば、ここに「責任」について語れる余地はないでしょうか。
 
別の例で考えてみましょう。
私が楽をしようとして、「駅まで乗せてくれたら、お金を払うよ」と友人に嘘をついたとしましょう。友人が、自動車で駅まで乗せてくれたのですが、私には払うお金がなかったとしましょう。「嘘をついて、駅までのせてもらおう」と私が考え、実際に友人をだましたとしましょう。このとき、「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という私の考えが、原因の一部となって、友人をだます行為が生じたとしましょう。「嘘をついて、駅まで乗せてもらおう」という考えは、完全に因果関係によって成立したのだとしましょう。私にまったく自由がないとすると、私には、私の行為の責任がないかもしれません。そもそも私にまったく自由がないとすると、「私の行為」というものも、ある現象をそのように記述できるということにすぎず、別様にも記述できることになりそうです。「私の考え」についても同様です。私に責任があるとしたら、「私」が存在しなければならないように思われます。
 
=””>「私」という<主体>について語ることが可能であるのかどうか。もし可能であれば、「私」の責任について語ることも可能であるかもしれません。
 
これを次に考えてみようと思います。

 
 
 
 
 

自由なき道徳が可能なら自由なき責任が可能でなければならない

「駒の温」の横の川です。温泉帰りにとりました。
 
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 同様に、<「かわいそうだから」とか「残酷だから」という(道徳的な?)理由にしたがって、行為する>ということもありそうです。
 
<おいしそうな肉じゃがを食べようとすること>は、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思われます。それと同じように、<残酷な行為をとめようとすることは>もまた、自分の行為を自由な行為だと考えないことと両立するように思います。
 
しかし<残酷な行為をとめようとした>と考えており、かつ同時に、<それは自由な行為ではなかった>と考えているとき、自分がほめられるべき行為を行ったとは考えられないように思われます。
 
逆に悪い行為をした場合も同様です。
<見栄をはって、うそをついてしまった>としまししょう。そのとき<それは自由な行為ではなかった>と考えているのならば、自分が道徳的に責められてしかたがないとは考えないのではないでしょうか。なぜなら、自由な行為でなかったのなら、私はその行為に責任が取れないからです。
 
行為の「責任」という概念は、自由な行為主体であることを前提しているのではないでしょうか。
 
もし「物理主義の世界」でも法や道徳が可能であるとしたら、そのときには「責任」という概念も有意味であり、それには別の意味が与えられる必要があります。
 
つまり、「自由な行為の結果でないにもかかわらず、ある行為主体にその行為の責任がある」という言い方ができなければなりません。
 
<自由なき道徳>が可能なら、<自由なき責任>が可能でなければなりません(多分)。
 
 
さて、そのような「責任」概念は可能でしょうか。
 
 
 
 
 
 

理由をもつ行為と、物理主義は両立しそうだ

5月の木曾の空です。
 
森田さんのコメントを強引にまとめてみます。
1、自由がないとしても、我々は何か選択せざるを得ないだろう。
2、選択するには、決定のためのガイドが必要であろう。
3、そのガイドは法であろう。
4、「実は」決定されていたとしても).そのときに,抑止効果として刑罰は働くことができるだろう。
5、結論としては,決定論を信じていても,われわれは「じゃあ,その決定された世界がどのような世界なのか」を知るすべがないのですから,結果的に自由意志があると信じている場合と同じように行動するしかないのではないでしょう
 
最終的に私の結論は、森田さんの5と同じになるかもしれません。人間の心や意志に自由があるかどうかは、結局形而上学の問題であり、我々の経験には関わらないのだ、という結論になる可能性があります。しかし、他方で、やはり、自由がないことをみんなが認めている世界で、法や道徳を、現在我々が理解しているような意味(どんな意味?)で、維持することは難しいような気がするのです。
 
 
しばらく検察官との対話を離れて、物理主義の世界で、我々が我々の選択や行為をどのように理解するかを、考えてみることにします。
 
上記の2を考えて見ます。
 
ネコが選択するときに、物理法則や真理法則にしたがっているということはあるでしょう。
物理主義の世界では人間についても、我々は同様に考えます。
さて、我々が選択するとき、ガイド(私が考えているのは選択のための基準や規則や模範です)を必要とするでしょうか。必要とするかもしれません。なぜなら、選択するときには、何らかの理由があるように思われるからです。
 
たとえば、私が肉じゃがにするか、カレーにするかを食堂で選択するとしましょう。
私が、棚に並んで肉じゃがをとろうとしているとします。そのときに「何にするの」と問われたならば、
私は即座に「肉じゃがにします」と答えるでしょう。これはアンスコムのいう実践的知識です。
さて、アンスコムは、このようなときに、「どうしてそうるの」と理由を尋ねられたら、我々は「おいしそうだから」
などと、これまた即座に答えられるといいます。これもまたアンスコムは、実践的知識だといいます。
意図的な行為の場合、「何をしているのか」と「なぜそうするのか」の問に対して、観察によらず即座に答えることができるというのです。アンスコムは、このことを、ある振る舞いが、「意図的な行為」であるかどうかを、「意図」というあいまいな概念の分析によらずに行おうとしているのです。したがって、このような実践的知識があるから、意図があるのだとか、ましてやその意図は自由な意図である、というのではありません。
 
<仮に、自由が無いことを認めるとしても、我々が「何をしているのか」や「なぜそうするのか」の問に即座に答えられることは事実です> (これには矛盾があるかもしれませんが)、とりあえず、これを認めることにしてみます。
 
つまり、行為をするときに、我々は理由をもっていることになります。
その理由は、「この肉じゃがはおいしそうだ」という単称命題(ある一つの対象についての命題)かもしれません。
「この肉じゃがはおいしそうだ」が理由になるには、「おいしそうなものを食べたい」という命題を付け加える必要があるかもしれません。そうすると、これは「私が食べたいと思うすべてのものは、おいしそうなものだ」という全称命題になるかもしれません。基準や規則は全称命題です。
理由の背後には、このようなガイドといえるような全称命題を想定できる、といえそうです。
しかし、そのような全称命題は必ず必要か、といわれると、それを意識していないときが多いのも事実です。
反省してみて、かりにそのような全称命題が見つからないときに、最初の単称命題だけでは理由にならないのか、といえば、そうではないだろうと思います。
 
<「この肉じゃがはおいしそうだ」とおもって、それ以上余り考えないで、肉じゃがをとろうとする>ということは大いにありうることです。そして、これだけのことなら、自由が無いことと両立するでしょう。さらにいうと、理由として、全称命題となるガイドがあってもよいとおもいます(模範の場合には、単称命題になりますが、それは今は考えません)。
理由に従って行為を決定するということは、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
それならば、「かわいそうだから」とか「残酷だから」というような道徳的であると思われているような理由にしたがって、行為を決定することもまた、自由が無いことと両立可能であるように思われます。
 
さて、このようにして決定された行為の道徳的な責任は、どうなるでしょうか?
 
次回に考えたいとおもいます。