11 原始共同体内の問答(6) 共同体の歴史

               数日前の満開のサクラです。今年はなぜかサクラに心を動かされませんでした。
 
11 原始共同体内の問答() 共同体の歴史 (201404014)
 前回、共同体の同一性について述べたが、それに関連して付け加えるべき事柄が残っていた。それは、記憶の問題と、他の共同体との区別関係である。
 まず、記憶について。前回見たように、共同体の自己同一性は、記憶ないし集団的記憶を必要とする。記憶は通常、対象の記憶とエピソード記憶に分けられる。動物には対象の記憶はある。犬が、数年前飼い主であった人を記憶していたとか、イルカが、20年前の仲間を記憶していた、というような報告がある。しかし、動物のエピソード記憶の存在は報告されていない。なぜなら、エピソードの記憶は、エピソードの語りとして確認できるが、動物は言語で語ることができないので、動物がエピソード記憶をもつことを確認することができないからである。これに対して人間はエピソード記憶を持つ。
 言語によって人は、エピソード記憶を持つことが出来、さらに自分の人生についての記憶(自伝的記憶)を持つことができるようになり、それが共同体のなかで確認されることによって人格の同一性が成立することになるだろう。これと同様に、共同体もまた共同体の出来事についての人々の記憶を互いに確認しあうことによって、共同体にとっての出来事の記憶を共有する事になるだろう。これを集団的記憶と呼ぶことにしよう。この集団的記憶によって、共同体の歴史を共有することができ、それによって共同体の同一性や歴史が社会的に構成されることになる。人の人生は、家族の歴史や数十人の部族の歴史のなかで部族の歴史の一部として構成される。
 共有知が形式であり、その内容となるのが概念体系(文化)であり、それと類比的に、共同体の自己同一性が形式であり、その内容となるのが共同体の歴史である。共同体は、集団で記憶を共有することによって、歴史を共有する。
 エピソードの集団記憶によって可能になることの1つは、集団全体でおこなう約束である。未来のことを約束しても、それが当事者たちに記憶されなければ、約束は成立しないが、集団的記憶によって、未来の行為についての約束が可能になる。集団全体で行う約束によって、集団内に掟が成立する。おそらく、集団内の複数の人間の間の約束というのは、おそらく部族全体の取り決めが拘束力をもつものとして成立するようになった後で、初めて成立するだろうと推測する。なぜなら<約束できる個体>というような観念は、共同体全体での取り決めが成立する前には、成立しなかっただろうと推測するからである。

 

10 原始共同体内の問答(5) 共同体の同一性

                                            あるお祝いでお花をいただきました。ありがとうございました。
 
10 原始共同体内の問答() 共同体の同一性 (20140406)
 問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその4。
 答えその1は「共有知」の成立であり、その2は「文化」の誕生、その3は「規範」の登場であった。その4は、「共同体の同一性」(の構成)である。
 誰が集団のメンバーであるのかについての共有知が成立し、文化や規範を共有していることについての共有知が成立する。これらによって、狩猟採集する数十人の遊動集団が、一つの集団を構成することもまた共有知となる。サルの群れもまた、他の群れと容易に融合したりせず、その意味で一つの集団を形成しているといえるだろう。しかし、彼らは、その群れが一つの群れであることを互いに知っているのではない。「私の集団」とか「私たちの集団」とか「この集団」と呼ぶことはない。言語を持つ人の集団では、このような指示表現によって、人は自分たちの属する集団を同定し、この同定をメンバーが共有することによって、集団の同一性が集団的に構成される。
 集団の同一性の説明は、人格の同一性の説明と似たものになるだろう。人の細胞や組織が入れ替わるように、集団のメンバーは、その誕生と死によって、入れ替わる。そのとき、変化しないものは、文化である。これは、人の細胞や組織が入れ替わっても、その人の容姿が変化しないのと類似している。もちろん、人の姿形は、年齢とともに連続的に変化し
てゆくが、それは文化も同様である。姿形の変化の連続性によって、人格の同一性を保証するためには、変化の連続性を記憶によって保証する必要がある。この記憶の正しさを保証するものは、物理的な証拠、他人の記憶などである。集団の場合にも、集団の同一性を保証するのは、文化の連続性や集団の歴史についての記憶であろう。集団についての幾人かの記憶を集団のメンバーで共有し、あとの世代に伝えるということが行われてゆく。仮にこのような記憶を「集団的記憶」と呼ぶならば、このような集団的記憶によって、集団の同一性(物語的な同一性)が集団的に構成される。(後の議論になるが、国家と人の関係は、共同体と人の関係よりも、より抽象的であるので、国家の統合にとっては、同一性は、共同体にとってよりも、より重要なものになるだろう。)
 
 

 

9 原始共同体内の問答(4) 規範の登場

 
9 原始共同体内の問答() 規範の登場 (20140329)
前々々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答えその3。
 答えその1は「共有知」の成立であり、答えその2は「文化」の誕生であった。この二つから、規範性が生じる。
 一定の言葉(概念)の体系を共有することは、文化を共有することである。言葉の使用はある種の規範性をもつ。その規範性は、子供が「あれはオオカミだ」といったときに、「そうだ」とか「いや、あれはオオカミではない」などといって言葉の使用法を肯定したり、訂正したりするときに、明らかになる。<もしある言葉で何かを意味したいならば、その言葉の使用法に従うべきである> 
 

 このような言葉に関する規範性をとりあえず次のように分けることができるだろう。

 

①言葉の使用には、正しい使用と間違った使用がある。言葉の理解には、正しい理解と間違った理解がある。私たちは、言葉を正しく使用し、正しく理解すべきである。
②私たちは、真なる文ないし命題を語るべきであり、偽なる文ないし命題を語るべきでない。
③私たちは、真であると思うことを語るべきであり、偽であると思うことを語るべきでない。(誠実に語るべきであり、嘘をつくべきではない。)
④私したちは、約束をするときには、誠実にすべきである。
⑤私たちは、約束を守るべきである。
 
このような言葉の規範性は、ダメット、マクダウェル、ブランダムなどによって近年強調されている。これに対して、言葉の使用法がもつ規範性は、突き詰めれば何らかの実用的な有効性から説明できるのであり、規範的規則性は、非規範的な規則性に還元可能であると考える(Cf. Horwich, Meaning, chap. 8)批判がある。このような批判は、たとえば、一般的な形でいうと、<言葉を使うことで、実用的な効果Eを得たいのならば、言葉の使用規則Rに従うべきである>という批判になる。つまり、使用規則Rの規範性は、効果Eを達成したいという前件が成り立つことに基づいているのであって、元の条件法そのものには規範性はないという批判になる。しかし、この前件が成り立つことを私たちが理解すること(あるいは、条件法全体を理解すること)もまた、言語(の正しい使用)による。したがって、それらもまた一定の規範性を想定している。人の集団が言語を獲得し、文化を獲得したならば、私たちはその外部に出ることはできないのであり、言語がもつ規範性の外部に出ることはできない。
 (以上の主張は、言語の意味の規範性を否定するHorwichに対する批判になりうるだろうと推測している。言語の使用の規範的規則については、非規範的な規則で説明できたとしても、この説明自体はやはり真である必要があるだろう。つまり、何らかの言葉の使用法に従うべきである。)
 
 言語や文化の規範性は、共有知によって発生する。(これについては、もう少し詳細な論証が必要だろう。ただし、この書庫ではここまでとする。)
 

 

8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生

                                  満開の桜です。ソメイヨシノではないので、毎年早く咲きます。
                今日は大学の卒業式です。おめでとう御座います。
 
 
8 原始共同体内の問答(3) 「文化」の誕生 (20140323)
前々回の問い「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」への答え、その2。
 
前回は、人の自己意識と共同体の共有知がうまれたことを、重要な差異の一つとして述べた。今回は、そこで行われる問答について考えてみよう。
 
問答が行われるとき、言葉を共有していること、つまり語の意味や構文の意味の理解が、共有知となっていることを伴う、ないしは前提する。しかし、言葉を共有することは、同時に世界についての一定の認識を共有することである。「オオカミ」の意味を知ることと、オオカミ(語「オオカミ」の指示対象)が何であるのかを知ることは分離不可能である。
「オオカミだ」というとき、それが人を襲う危険な動物であることの理解の共有があるだろう。世界についての共有認識の基礎的部分は、危険な動物/危険でない動物、食べられるもの/食べられないもの、仲間/よそ者、昼/夜、人/動物、男/女、などの区別からなるだろう。
 
唐突に思えるかもしれないが、これらの区別の総体が、私たちの社会の「文化」の基礎部分である、と考えたい。「文化」とは、言語によって境界線を引くことや区別を立てること、あるいはそれら境界線や区別の総体である、と定義することを提案したい。(異なる文化間の境界は、それぞれの文化の中で、自文化/異文化という境界として存在する。)
 
「あれはオオカミか?」「あれは人か?」「あれは食べられるのか?」などの問いは、それぞれに対応する区別を設定したり、再確認したりするものであり、それに答えることは、その区別を個別的な事物に適用することである。「あれはオオカミか?」「そう、あれはオオカミだ」という一組の問答を共有することと、一つの文化が成立することは、同時である。言葉の獲得によって、人間集団は、こうした文化(問答体系)の中に住むことになる。これは「ノイラートの船」であり、その外部に出ることはできない。
(Neurath's boatについては、http://www.oxfordreference.com/view/10.1093/oi/authority.20110803100229963などを御覧ください。)
 
 

 
 

原始共同体内の問答(2)

 
7 原始共同体内の問答(2) (20140322)
前回「言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。」という問いを立て、それに答えようとしたが、うまく答えることができなかったので、もう一度試みたい。
 
西田正則によれば、「サルや類人猿などの高等霊長類は、互いに認知している100頭ていど以内の社会集団(単位集団)を形成し、その集団に固有な一定の地域(遊動域)を、毎日のように泊まり場を移りながら生活している」(西田正規『人類史のなかの定住革命』講談社学術文庫、p.15)。西田は、この本で何度か「互いに認知している100頭ていど以内の集団」というフレーズを用いている。言語を獲得した後の人の集団も「互いに認知している100人程度の以内の集団」ということができるあろう。しかし、言語の獲得によって、「互いに認知している」の意味は、全く異なるものになる。
 
サルは、群れの個体を同定できるので、そこに新しいサルがやってきたときに、群れの仲間ではないとわかるだろう。そして、それを排除しようとするだろう。しかし、サルには自己意識がない。例えば、サルは、ビデオに写っている自分の好きな雌をそれとして同定できるが、それと一緒に写っている自分が自分だとはわからず、怒り出すというTV番組を見たことがある。サルも類人猿も、鏡やビデオ映像を見て自分だとは分からない。サルには自己意識がないので、おそらく<自分が群れの一員だと他のサルが分かっている>ということを意識することはない。(これに関する比較行動学の知見があれば、教えて下さい。)
 
これに対して、言語を獲得した人類は、「互いに認知している100人ていど以内の集団」であり、よそ者をよそ者だと認知できるが、それだけでなく、<自分が集団の一員であるということを他のメンバーもわかっている>ということをわかっている。この意味で、「互いに認知している」の意味は、サルや類人猿の群れの場合と人の集団の場合では非常に異なる。
 
言葉が成立するためには、「オオカミ」でオオカミを指すことを、みんなが知っていることをみんなが知っていることをみんなが知っているというような「共有知」の成立が不可欠である。「然々の人たちがこの集団のメンバーである」ということが共有知になっており、集団についてのこの種の共有知が、まさに集団を構成する不可欠な要素となっている。
サルの群れには、社会構築主義は妥当しないが、人の集団には、社会構築主義が妥当する。
 
 

6 原始共同体内の問答

                                    今年もまた梅が咲きました。もうすぐ春です。
 

 
6 原始共同体内の問答 (20140304)
 言語によって、ヒトの個体と群れは、類人猿の個体と群れとは異質なものになっただろう。では、どこが異質なのだろうか。
 
 言語によって、人の群れは、原始共同体になる。共同体は、規則をつくり共有する。また、計画を立て共有する。類人猿でも、群れの規則をつくることは可能である。しかし、人間は、その規則を言語によって明示し、規則はより複雑化し、大きな体系を作る。さらに、その体系は、世界の成り立ちや共同体の歴史についての物語と結合するだろう。共同体は、世界の成りたちや、共同体の歴史物語を共有するだろう。
 共同体は、人が単独では解決できない問題を解決するために作ったものではない。共同体の中で、人は共同体の成員として生まれて、共同体の成員として生存可能である。共同体は、人の存立に先立って存在している。したがって、共同体の中で人々が語る問題は、共同体が抱える問題であり、その解決策を相談し合意し、共同体で実行する。
 共同体の中で、二人の利害ないし二つの小グループの利害の間に対立が生じる場合があるだろう。しかし、共同体の中では、共同体にとっての利害の考慮を、つねに優位において決定が行われるだろう。なぜなら、人は共同体を離れては存続できず、共同体が、共同体としての利害を追求することは自明のことだからである。人にとっての利害は、常に二義的なものである。
 
 言語によって、ヒトの群れが人の共同体に変化するのと同じように、ヒトの個体もまた、類人猿の個体よりもより自立性を持った個体になるだろう。人は鏡に写った自分を自分だとわかり、自分を指差しや名前や人称代名詞で指示することができ、「自分の物」という意識が生まれ、自分が損害を受けた時には、復讐しようとするようになる。自分の共同体の中での地位や役割を理解し、自分の過去を記憶し、自分の未来についての一定の予測をする。人は、言語によってそういう個体となるだろう。
 
 

 

 
 

5 予想される反論

 
 
5 予想される反論 (20140228)
 
 社会について基本的に次のように考えたい。
 <人間の社会を動物の群れと区別するのは、言語の存在である。また、言語にとって、問答関係は本質的な構造である。それゆえに、問答関係は社会の本質的な構造である。>
 
 しかしこの主張については、次のような反論があるだろう。
 <霊長類の群れと人間社会の区別を唯一の指標(問いを含む言語をもつかどうか)に求めることには無理があるだろう。火を使うこと、道具を作ること(道具の使用なら、動物にもあるので、道具を作ることとした)も重要な指標になるのではないか。絵を描くこと、音楽を楽しむこと、住居を作ること、なども重要な指標になるだろう>
 
 もしこの反論に答えようとするならば、これらのこともまた問いを含む言語をもつことによって可能になったことを論証しなければならない。そのためには次の二つを証明しなければならないだろう。
 (1)これら(火の使用、道具(打製石器)を作ること)の発生が問いを含む言語の発生の後であることを証明しなければならない。しかし、火の使用、打製石器の使用と(問いを含む)言語の使用のどちらが先であるかは、考古学的には証明することが難しいのが現状である。
 Wikipediaの項目「言語」では、現生人類とネアンデルタール人が分化する以前の30~40万年前にはすでに生じていたとされているようだ。
 Wikipediaの項目「初期のヒト属による火の使用」による火の使用の開始は170万年から20万年前までの広い範囲で説があるようだ。イスラエルのゲンシャー遺跡(79万年から69万年前に、焼けたオリーブ、大麦、ブドウの種や、木、火打ち石が残されており、これが火を使った確実な証拠として最古のものだそうだ。
 Wikipediaの項目「石器」では、オルドワン型石器群が最古の石器群と呼ばれており、250万年前(Wikipediaの英語頁では、340万年前)のものであるらしい。何れにしても非常に古い。(ちなみに磨製石器の出現は、紀元前9000年らしいので、ごく最近のことである。)
 
 (2)それでは、発達心理学で次のことを証明できないだろうか。
・人が打製石器を作るときには、完成予想イメージを予めもつことが必要である。<完成予想イメージをもつためには、打製石器を指す言葉を持つことが必要である>。
・火を熾そうとすると、彼らは火のイメージを持っていただろう。そして、<火のイメージをもつためには、火を指す言葉を持つことが必要である>
・<「シカ」という語がなければ、シカの絵を描くことは不可能であろう> 動物の洞窟壁画が描かれる前に、言葉が成立していたのではないだろうか。
 
発達心理学でこれらの証明されているのか、あるいは反証されているのか、私にはわからない。あるいは、これらについては、まだ研究されていないのかもしれない。

 
 

4 ヒトの群れから人間の共同体へ

                                    臼杵の石仏のなかでもっとも有名なものです。
 
4 ヒトの群れから人間の共同体へ (20140130)
 
 「問いの成立と社会の成立の間に循環関係があるだろうか」
これが問題だった。社会の成立、つまり社会制度の成立が、社会問題に答えるものであるとすると、社会制度よりも社会問題の成立が先行する。そして、その問いそのものが、社会制度の一部であるとすると、問いの成立には、社会問題の成立が先行することになる。つまり、ここに循環ないし、無限遡行が生じることになる。
 
これを明らかにするには、「社会問題」と「問い」を明確に定義する必要があるだろう。
 
まず「社会問題」について。もし<個人が近代になって登場した>のだとすると、<個人的な問題もまた近代になって登場した>ことになる。従って、「社会問題」を以前のように、「個人では解決できず、共同で取り組まなければ解決できない問題」と定義することはできない。なぜなら、社会制度が成立したあと、しかも近代になって個人が登場したからである。人間社会が誕生するとき、私たちが考えるような個人も個人的な問題も存在していなかったのである。社会問題は、単に「人間が共同で取り組まなければ解決できない問題」だといえるだろう。
 
次に「問い」について。「問い」は、意図と現実認識の衝突によって生じる、とこれまで説明してきた。それでは、この意図や現実認識をもつ主体は何だろうか。これまではそれを個人だと考えてきた。しかし、もし個人が近代になって成立するのだとすると、近代以前の人をどのように考えたらよいだろうか。近代以前であっても、人は意図をもち、現実認識をもつだろう。しかし、その意図は、個人の意図ではない。つまり個人的な目的を達成しようとする意図ではない。人の目的は、家族の目的や共同体の目的から独立しておらず、それらを<分有する>ことによって成立するように思われる。(「分有」の意味がまだ曖昧です)
 
では次に、この二つの発生情況を考えて見よう。群れで生活していたヒトの間に、動物レベルの言語が成立したあとで、最初に生まれる問いの発話はどのようなものだろうか。それは、ヒトが自分自身に問いかける問いだろうか。それとも、他の人に向けられる問いであろうか。それは、相手の発言を聞き返すような問いだろうか。それがどのようなものであれ、その問いの発話は、発話のタイプとして制度化されていないはずである。このレベルの問いの理解は、コードモデルではなくて、推論モデルでしか説明できないだろう。その後、問いの発生が反復し、発話のタイプとして共有される様になって、疑問文の発話が慣習となる。それが慣習として共有されるためには、慣習として共有される前に、それが共同体の問題の解決手段として理解されるということは不必要であろう。慣習ないし制度として十分確立した後に、それがなければ、共同体にとって不都合な問題が生じると認識され、逆にその問題を解決するものとして、疑問文発話の慣習が共同体の制度として承認されるのであろう。
 
動物の群れが、人間社会(人間的共同体)になるのは、まさにこの時である。動物としてヒトは群れで生活している。その群れが、疑問文を含む言語によって成り立ており、もし言語がなければ、群れにとって非常に不都合な問題(「どうやって複雑な行為調整をしたらよいのだろうか」)が生じるということに気付き(「言葉がなければ大変だ」)、言語が、群れの問題を解決するものであることを認識し、それを共同体の制度として承認するとき、動物の群れは人間的共同体になる。つまり、それは自然的なルールではなく、人為的なルールによって構成される組織になる。
 
以上は、「問いをもつ言語が、動物の群れと人間社会を分けるものである」という仮定からの推測である。この推測が正しいとすると、次のような結論になる。<当初の問いの発生は、まだ社会的制度ではなく、其の意味で、問いの発生は社会制度の発生に先立つ。問いを含む言語が社会制度とな
るのは、それが社会問題への解決策として事後的に認識されることによってである。つまりここに、問いと社会制度の循環や無限背進は生じない。>
 
 
 

 
 
 

3 矛盾とその解消 

 
                                       臼杵の石仏です。
     
3、矛盾とその解消 (20140124)
<議論1>
社会制度は社会的な問題に対する答である
言語もまた社会制度である
故に、言語もまた社会的な問題に対する答えである
故に、社会的な問題は、言語の成立以前に成立している。
故に、社会は、言語より前に成立している。
 
<議論2>
動物の群れと人間の社会を区別するものは、言語である。
言語によって、人間社会が誕生する。
故に、言語の誕生と人間社会の誕生は、同時であるか、あるいは言語の誕生が先である。
 
この矛盾を解消するには、<言語はいっときに発生したものではなく、すこしずつ発達したものである>ということを考慮しなければならない。
 
問いの発生以後の言語の発達は、問に対する答えとして説明できるが、問いの発生以前の言語の発達は、問いに対する答えとしては説明できない。
 
<動物と人間社会を区別するのは、言語の有無だ>を認めるとしよう。
しかし、動物もある意味では言語を持つ。カールビューラーによれば、言語には、3つの機能(叙述的、喚起的、表現的)があるが、動物の言語もそれらの機能を持ちうる。動物の言語にないのは、問うことではないだろうか。もしそう言えるとすれば、ビューラーのいう言語の3つの機能も、それぞれ問に対する答えとして発話される場合と、そうではない場合の二つに分けることができる。つまり、より正確には次のように言える。<動物と人間社会を区別するのは、問いの発話の有無だ>
 
これに従うと、先の<議論2>の中の「言語によって人間社会が誕生する」も、より正確には「問いの発話によって、人間社会が成立する」(より簡潔に言うと、「問いは社会に先行する」)となる。また<議論1>のなかの「言語もまた社会制度である」も、より正確には「問いへの答えもまた社会制度である」(より簡潔に言うと、「問いへの答えは社会である」)となる。この二つは、もはや矛盾しない。
 
では「問い」はどうだろうか。上記の<言語の成立>と<社会の成立>の循環ないし矛盾と同様のことが、<問いの発生>と<社会の成立>の間に生じないだろうか。
 
face=”MS 明朝”>それを次に考えよう。
 
 

2 言語の誕生:再説

 
       愛媛県八幡浜から臼杵行きのフェリーです。
       温泉へフェリーで向かう年の瀬かな。
   
 
 
2 言語の誕生:再説 (20140111
 道具を持ち歩くようになったヒトの集団は、その道具がヒトに対する武器として使われる可能性があることから、相互の攻撃の可能性に対してより敏感な集団となる。その中で攻撃の意志のないことを示すことは非常に重要であり、そこら挨拶などの言語が発達したと考えた。
 もちろん、これは想像で組み立てた話しにすぎ無いが、この話はもし自立した個人を前提しないで語るとするとどのように成るだろうか。
 脳は、運動をコントロールするために発生したと考えられる。群れで生活する動物では、運動を相互に調整する必要があるので、ミラーニューロンが生まれたと考えられる。主人があくびをすると犬もあくびをするそうだから、群れで生活する犬にもミラーニューロンがあることになる。言語の成立以前のヒトは、猿や犬と同じようにミラーニューロンをもつだろう。そして、それが言語の発生に関わっていなということは考えられないだろう
 このようなミラーニューロンをもつ動物の群れでは、緊張もまたミラーニューロンによって集団に伝染するだろう。もし、群れの中で、誰かが切迫した声を上げれば、群れに緊張が走るだろう。もし誰かが、ゆったりとした声を上げれば、そのくつろぎは群れに拡がるだろう。そして彼らは、くつろぎが広がっている事自体をも、おそらくミラーニューロンによって互いに知ることになる。ある発声が群れを緊張させたり、くつろがせたりすることを互いに知ることになるだろう。それが反復されると、次にはそれを意図して、それらの発声をすることになるだろう。この意図的な発声が反復することによって、挨拶などの発話が誕生するのだと想像できる。つまり、個体が自己保存のために敵意のないこと、ないし好意を持っていることを他の個体ないし集団に伝えようとして声をあげるようになる前に、まず最初は、集団の緊張の高まりを緩和しようとして、声を上げるということが行われるようになるのではないか。それが反復されることによって、次に自己保存のために集団の緊張を緩和しようとして声を上げるということが成立するのではないだろうか(全くの推測です)。
 このように考えるとき、言語は集団の問題を解決するために作られた社会制度であるといえる。しかし、この時の集団の問題は、個人では解決できない問題のことではない。なぜなら、言語の成立以前であるから、個人はまだ誕生していないからである。