17 ローカルな懐疑主義は可能か(3) (20200828)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 前回の最後に次のように述べた。

 <ローカルな懐疑主義が可能であるためには、

  「原理的に答えを持たない問いが存在する」

と主張できなければならない。しかし、ミュンヒハウゼンのトリレンマによるとどのような主張についても、それを疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問いが存在する」を主張できない。>

 しかし、同じことが次の主張についても言えるだろう。

  「原理的に答えを持たない問いは存在する」

この主張もまた疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問い」については、それが存在するとも存在しないともいえないことになる。

 この場合、問いQ1「原理的に答えを持たない問いは存在するのだろうか?」に対する答えは、A1「いいえ、原理的に答えを持たない問いは存在しません」となる。ところが、Q1に対する答えA1が存在するならば、それはA1の内容と矛盾する。

 グローバルな懐疑主義の主張が困難であるだけでなく、ローカルな懐疑主義の主張も困難であるように思われます。

16 ローカルな懐疑主義は可能か(2) (20200825)

[カテゴリー:問答と懐疑]

問答推論的意味論は、<問いの意味を理解しているとは、その問いの上流問答推論と下流問答推論について、正しいものと正しくないものを判別できることである>と考えることになる(参照:カテゴリー「問答推論主義に向けて」の「04 推論的意味論から問答推論意味論へ(1)(20200417)」)。


したがって、問いが有意味であるとは、その問いが正しい上流問答推論と下流問答推論をもつことである。前回見たように、原理的に答えを持たない問いは、前提に矛盾がふまれている推論ならば、どのような上級問答推論も正しいものになる。また、原理的に答えを持たない問いは、健全ではありえないので、それのどのような下流推論も正しいものになる。したがって、原理的に答えを持たない問いもまた、正しい上流問答推論と下流問答推論をもつので、有意味である。

 ローカルな懐疑主義は、<ある問いが、原理的に答えを持たないが有意味であること>を主張することであったが、これは整合的な主張である。

 では、ローカルな懐疑主義は、可能なのだろうか。

 それが可能であるためには、「原理的に答えを持たない問いが存在する」と主張できなければならない。しかし、どのような主張についても、それを疑うことが可能である。そうすると、「原理的に答えを持たない問いが存在する」を主張できない。そうすると、ローカルな懐疑主義が可能であるとは、主張できない。

 ウウウ・・・どうすべきでしょうか。


 

15 ローカルな懐疑主義は可能か (20200822)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 以前に「11 懐疑と批判  (20200808)」で、「ローカルな懐疑」と「ローカルな懐疑主義」を次のように区別した。

・「ローカルな懐疑」とは、ある主張の真理性を問うことに加えて、その問いに、真ではないかもしれない/真ではない/偽であるであるかもしれない/おそらく偽である/偽である、などと答える(信じたり、主張したりする)ことも含まれる。例えば、「ここに椅子がある」を疑うとは、「ここに椅子があるのか?」と問うことに加えて、その問いに対して、「この椅子は現象に過ぎないかもしれない」などと答えることである。どんな主張についても、疑うことは可能である。なぜなら、その主張の根拠について「それは正しいのか?」と問うことが可能だからである。

・「ローカルな懐疑主義」とは、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場である。例えば、「ここに椅子がある」についての懐疑主義とは、「ここに椅子があるのだろうか?」と問うだけでなく、この問いに答えることはできないと主張する立場である。

では、このようなローカルな懐疑主義は可能なのだろうか?

ある主張に関する懐疑主義とは、それを肯定することも否定することもできないと主張することである。それは、その命題に関する問いに、答えることができない、ということである。しかし、その命題の主張に関する懐疑主義を主張するためには、その命題の主張の真理性(ないし適切性)を問うことができなければならない。 従って、<懐疑主義とは、原理的に答えられない有意味な問いを認めることである>。

 では「原理的に答えられない有意味な問いは存在するのだろうか?」

 真なる(適切なる)答えをもつ問を「健全な問い」と呼ぶことにすると、真なる(適切なる)答えがない問いは、不健全な問いである。そのような問いは、どのような上流推論や下流推論を持つことになるのだろうか。

 不健全な問いは、上流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の結論となりうるだろうか。例えば、Γ┣Q (Γは平叙文の列、Qは疑問文)という問答推論が妥当であるとは、前提が真であるならば、結論の問いが健全である(真なる(適切なる)答えを持つ)ということである。Γに、r∧¬rという矛盾した式があれば、前提は真とはなりえない。ゆえに、結論のQが健全でなくても、この推論は妥当であることになるのだろう。問答推論ではなく、通常の推論でも、矛盾した前提からは、どのような結論でも導出できる。不健全な問いQが持ちうる上流推論は、前提に矛盾が含まれるような推論だけである。

 次に、不健全な問いは、下流推論を持ちうるだろうか。言い換えると、それは、問答推論の体系の中で妥当な問答推論の前提となりうるだろうか。

Q、Γ┣p (Γは平叙文の列、Qは疑問文、pは命題)という下流問答推論において、この推論が妥当であるとは、<問いQが健全で、Γに含まれるすべての平叙文が真であるならば、pが真であり、かつpがQの答えである>ということである。ここでは、問いQは健全ではないので、結論pが真でなくても、またpがQの答えでなくても、この推論は妥当である。この場合、pがどのような命題であっても、この問答推論は妥当である。

 ところで、このような問い、つまり原理的に答えられない問いを、有意味な問いだと認めてよいのだろうか?

14 日常の疑いの論法 (20200819)

[カテゴリー:問答と懐疑]

山田氏の整理している懐疑の論法は簡略化すれば、次のようなものであった。

① 主張:p

② 証明項:pに対する証拠q

③ 懐疑論的仮説 r

④ 証明不可能性の論証:②の証拠qによって、③のrを否定することはできない。

⑤ 正当化の否定:③のrが成り立つなら、①のpは成り立たない。

⑥ 結論:②と③は両立可能であるから、②が成り立っても、①が成り立つかどうか疑わしい。

例えば、

① 主張:「トランプは再選されないだろう」

② 証明項:「世論調査では、バイデンがトランプにリードしている」

③ 懐疑論的仮説「ヒラリーの場合のように、結果は、世論調査とは異なるものになることがある」

④ 証明不可能性の論証: ②の証拠によって、③を否定することはできない。

⑤ 正当化の否定: ③が成り立つなら、①は主張できない。

⑥ 結論:②によって①「トランプは再選されないだろう」というのは疑わしい。

ちなみに、懐疑よりも批判の方が負担が大きい。なぜなら、主張への懐疑のためには、主張の論拠の不十分さを指摘するだけでよいが、主張を批判するには、主張の論拠の不十分さを指摘したり、主張の論拠を否定するだけでなく、主張そのものを否定する論拠を示す必要があるからである。。上の例で言えば、「トランプは再選されないだろう」という主張を否定し、「トランプは再選されるだろう」と主張し、その根拠を示す必要がある。懐疑よりも、批判の方がなすべきことが多いが、もし可能ならば、その方が成果が大きい。何故なら、ある主張の懐疑よりも、ある主張への批判の方が、より多くの可能性を排除しているからである。

いずれにせよ、ローカルな懐疑は可能である。では、ローカルな懐疑主義が可能かどうかを、次に考えよう。

13 「外的世界」への懐疑 (20200815)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』の第2章において、「外的世界」「他人の心」「過去の実在」に共通して適用できる懐疑論の論法を提示している。例えば、「外的世界」に対する懐疑を次のように説明する。

<①「ここに椅子がある」という主張を疑うためには、まずこの主張の根拠として、②「私は椅子を見ている(感じている)」を想定する。次に②が①の根拠として不十分であることを示すために、懐疑論的仮説③「私は悪霊によって欺かれている」を想定する。②と③は両立可能である。しかしもし③が正しければ、①は誤りである。ゆえに、②は、①の根拠としては不十分である。したがって、①「ここに椅子がある」という主張は疑わしい。>

 山田氏はこれを次のように整理している。

(1)外的世界に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「ここに椅子がある」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「私は椅子を見ている(感じている)」

→②’再記述された証明項

  「私は椅子の視覚印象(感覚)をもっている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「私は悪霊によって欺かれている」(外的世界の対象は存在していない)

 (⟷③’〈日常的前提〉「外的世界の対象が存在する」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

ここで重要なのは、主張①とその根拠②と懐疑的仮説③の関係である。①と③は両立不可能であるが、②と③は両立可能である。それゆえに、もし③が正しければ、②は①を証明する十分な根拠とはならない。

この論法を「他人の心」と「過去の実在」に適用したものを次に引用しておこう。

(2)他人の心に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「彼は痛みを持っている」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「彼は痛みの振る舞いをしている」

→②’再記述された証明項

  「彼は顔の筋肉をゆがめて、お腹をおさえている」

③〈懐疑論的仮説〉

  「彼は自動機械である」(彼は心をもっていない)

(⟷③’〈日常的前提〉「彼は心をもっている」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③’である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②’(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

(3)過去の実在に対する懐疑論

①〈被証明項:日常的命題〉

  「日露戦争は100年前におこった」

②〈証明項:①に対する日常的証拠〉

  「日露戦争について書かれた100年前の文書が残っている」

→②′再記述された証明項

   「100年前の日付(「一九〇四年」という文字)のついた文書に日露戦争についての記述がある」

③〈懐疑論的仮説〉

   「地球は5分前に創られた」

(⟷③′〈日常的前提〉「地球は私が生まれる遥か以前から存在していた」)

④〈証明不可能性の論証〉

  ②の証拠によって、③でない(③′である)ことを根拠づけることができるか→できない。

⑤〈正当化の否定〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①(日常的命題)を信じることが正当化されていない。

⑥〈結論:正当化の否定 最終段階〉

 私は②′(再記述された証拠)を根拠に①の種類のすべての命題を信じることが正当化されていない。

この懐疑の論法は、哲学的な懐疑に限らず、日常の疑いにも使えるものである。それを次に確認しよう。

25 問いと推論の関係 (20200812)

[カテゴリー:問答推論主義へ向けて]

 問答推論主義にとって、もっとも基本となることは、このカテゴリーの始めに01と02で述べたように、<推論の前提から論理的に導出される命題は、複数あるが、現実に推論が成立するためには、その中から一つの命題が結論として選ばなければならない。その選択は、ある問いに対する答えを選ぶという仕方で行われている>ということである。この背景にあるのは、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>という理解である。これに対しては、「推論の結論となりうる複数の命題から一つを選択する方法は、これ以外にはありえないのだろうか?」という疑問が生じるだろ(私の最終講義でも、森田邦久さんからそのような質問を受けた。そのときには、他の解決策が思いつかないというような不十分な返答しかできなかったのだが、以下では、もうすこしだけ説得力のある説明をしたい。)

 問いの答えを見つけるプロセスには、次の二通りがある。一つは、これまで念頭に説明してきたものであり、<ある問いに対する答えを見つけようとして、すでに知っている知識を前提として、そこから推論によって答えを求めようとする場合>である。もう一つは、これまで言及してこなかったものだが、<問いに対するある暫定的な答え、ないし答えの予想をえて、それを証明しようとして、それを結論とする推論を考える場合>である。この後者の場合には、推論の結論は最初にまだ不確実なものとして与えられており、それを証明するために前提を求め、推論によって当初の答えを証明しようとすることになる。このどちらにおいても、<推論は問いの答えを求めるプロセスである>といえるだろう。

 私たちが推論するのは、この二通りしかないのではないだろうか。いま私はこれ以外の場合を思いつかないのだが、そのことを論証する方法も思いつかないので、まだ不十分であるかもしれない。もしその他のケースを思いつく方がおられたら、教えて欲しい。

12 ミュンヒハウゼンのトリレンマによるローカルな懐疑主義?  (20200809)

[カテゴリー:問答と懐疑]

主張pについて「なぜpなのか?」と主張の根拠を問い、さらにその答えについても「なぜ」と根拠を問うことを繰り返すことができる。そうするとトリレンマに陥る。このとき、¬pの主張に関しても同様に、その根拠を問うことができるので、トリレンマに陥る。したがって、ある主張pがある時、私たちは「p」も「¬p」も主張できない。こうして、主張pに関する懐疑主義が帰結するだろう。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマをもってしても、全面的な懐疑主義を論証することが難しいことは前に見たとおりだが、個別の主張についての懐疑主義ならば、可能である。ミュンヒハウゼンのトリレンマが、トリレンマという論理規則の妥当性を前提すること、「なぜpと主張するのか?」という問いが「主張は根拠を持つ」という根拠律を前提すること、を指摘して、この論証を批判するとしても、この論証を個別の主張や特定領域の主張についての懐疑主義に限るならば、その批判は当てはまらない。

 ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いた議論で論証できるのは、ある主張を「究極的に根拠づけること」(die letzte Begruendung)あるいは絶対的に根拠づけることはできない、ということである。

 ローカルな懐疑主義には、もう少し弱い主張に対する懐疑主義もあるし、むしろこちらの懐疑主義について語られることの方がおおいかもしれない。山田圭一は『ウィトゲンシュタイン最後の思考』において哲学的懐疑の典型例として

(1)「外的世界」

(2)「他人の心」

(3)「過去の実在」

を上げており、次にこれらについて考えてみよう。

11 懐疑と批判  (20200808)

[カテゴリー:問答と懐疑]

ここからローカルな懐疑について考えたいが、ある主張を疑うことと、ある主張を批判することは同じだろうか。

 命題pの主張を疑うことは、「pは真であるか?」と問うことであり、場合によっては、「それは真ではないかもしれない」「それはおそらく偽であるだろう」などの推論をともなう。それに対して、命題pの主張を批判することは、「pは真ではない」と主張することである。

 ある主張の懐疑を経て、場合によっては批判に至ることがある、という仕方で懐疑と批判は関係している。その意味では、懐疑は批判に先行するプロセスである。

 批判は、ある主張が偽であることを主張することなので、「全面的な懐疑主義」とは相いれない。批判に先行するのはローカルな懐疑である。

 ところで、ローカルな懐疑とは異なるものとて、「ローカルな懐疑主義」というものを考えるならば、それはどのようなものになるだろうか。それはおそらく、ある対象(ないしあるクラスの対象)についてのある種の主張について、その真理性(適切性)を問うだけでなく、その真理性(適切性)については、不可知である主張する立場になるだろう。

 例えば、現象の背後にある「物自体」について、それがどのような性質を持つかを知ることはできないと主張することは、ここにいう「ローカルな懐疑主義」である。また、物自体がそもそも存在するのかどうかについて、不可知だと主張するのも、ここにいう「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。人生の意味は不可知だと主張するのも、「ローカルな懐疑主義」にあたるだろう。

 まとめると、

・懐疑は批判に先行するプロセスである。

・ローカルな懐疑とローカルな懐疑主義を分けることができる

 ところで、ミュンヒハウゼンのトリレンマを用いて、全面的懐疑主義を論証しようとすると、前回のべた3つの反論が持ち上がるが、ローカルな懐疑主義(特定領域の全ての命題や、特定の命題についての懐疑)を主張することに対しては、この3つの反論は無効である。つまり、ミュンヒハウゼンのトリレンマは有効であるように見える。

 ます、ローカルな懐疑およびローカルな懐疑主義と、ミュンヒハウゼンのトリレンマの関係を考えてみよう。

10 ミュンヒハウゼンのトリレンマから全面的懐疑主義へ?  (20200804)

[カテゴリー:問答と懐疑]

 ミュンヒハウゼンのトリレンマによる懐疑主義の論証は、次のようなものだった。

<主張の根拠について「なぜ」と問い、その答えである主張についてさらに「なぜ」と問うことを繰り返すと、無限に反復するか、どこかで循環するか、どこかでストップするという3種類しかなく、どれであっても最初の主張の正当かはできないので、どのような主張であってもそれの究極的な正当化はできない>

 この論証から帰結する主張は、「どのような主張も究極的に根拠づけることはできない」である。

これに対しては次のような反論が可能である。

 反論1:この主張は、自己矛盾する。

 反論2:この論証は、次のトリレンマ(推論規則の一つ)が正しいことを前提している。

       p1ならばqである。

        p2ならばqである。

       p1ないしp2ないしp3である。  

       ∴qである。

  ゆえに、この論証は自己矛盾している。(ただし、この推論規則の妥当性について、「なぜ、なぜ」と問い続けると、トリレンマに陥る。)

 反論3:この論証において、「なぜ、その主張ができるのか」「その主張の根拠は何か?」という問いを反復するが、この問いは、前提(蝶番)をもつ。それは、

   「すべての主張は、それが主張であるためには、何らかの根拠を持たねばならない」

という命題である。これは、西洋哲学の伝統では「根拠律」と呼ばれてきたものである。この根拠律についても、私たちは「なぜ根拠律は正しいのか?」と問うことができる。この問いに対して、私たちは、どう答えることができるだろうか? この問いは、「根拠律もまた何らかの根拠をもつ」という命題を蝶番としているように見える。

 このように全面的懐疑主義を吟味しようとするといたるところに自己矛盾や循環論証が現れる。ただし、循環論証は、論証の失敗ではあっても、そこから主張の間違いを導出することはできないものである。自己矛盾は、通常の主張の正当化の場合には、そこで間違いを認めざるを得ないものなのだが、懐疑主義の場合には、全てのことを疑うので、矛盾していても、その立場を保持することが(考え方によっては)可能である(おそらくナーガールジュナ(龍樹)ならば、自己矛盾が現れてもまったく気にしないだろう)。

 全面的な懐疑主義は、両刃の刃なのだが、宗教など、絶対的な真理を主張する人に対しては、有効である。また、自文化中心主義の人たちに対しては有効である。

 ということで、次にローカルな懐疑主義、特定の主張に関する懐疑主義を検討しよう。

9 懐疑主義の正当化の仕方の区別  (20200801)

[カテゴリー:問答と懐疑]

・疑いと懐疑主義の区別

 前に述べたように、「疑う」とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うことだとおもいます。これは、日常生活でも頻繁に行っていることです。例えば、刑事ドラマを見るとき、私達は、登場人物をすべてについて、犯人かもしれないと疑ってみるとおもいます。このような疑いは、懐疑主義や懐疑論とは異なります。懐疑主義とは、ある命題の真理性ないし適切性を問うだけでなく、また、その問いに肯定的に答えられないと主張すること、あるいは否定的な答えの可能性が高いと考えることだけでもなく(ここまでならば、日常的な〈疑い〉に見られることである)、かなり十分に考えて、他者にその判断や態度を正当化する用意をもって、そのような否定的な判断ないし態度をとることである。例えば、自由意志についての懐疑主義とは、自由意志を疑ってみるだけでなく、自由意志の存在の主張を否定し、自由意識の非存在をかなりの程度正当化する用意をもっていることである。

・懐疑主義の様々な区別

 このような懐疑主義には、主張に関するもの、態度に関するもの、方法に関するものの区別があり、また、主張と態度に関するものについては、ローカルなものと全面的なものの区別があることを前回説明した。

 懐疑主義には、これらの区別に加えて、その正当化の仕方に関する区別がある。

 一つは、ある命題の真理性や適切性についての問いに、肯定的に答えようとすると、矛盾が生じることを示すことによって懐疑を正当化することである。

 第二のものは、ある主張が真である可能性を示し、もしその主張が真ならば、当初の問題になっている命題の真理性や適切性が成立しないことを示す方法である。

 第三のものは、問題の命題の正当化が不可能であることを示す方法である。古代の懐疑主義の方法がこれである。これの現代的なバージョンが、「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けられた論証である。H・アルバートは、ある主張の根拠の根拠の根拠の・・・とさかのぼってゆけば、①無限に遡行する、②最終的に根拠づけが循環する、③根拠付けがストップする、という3つのパターンしかないことを示し、そのいずれの場合にも、最初の主張は根拠付けられないことを指摘した。彼はこれを「ミュンヒハウゼンのトリレンマ」と名付けた。(ミュンヒハウゼンとは「ホラ吹き男爵」のことであり、川に落ちたと時に、自分の髪の毛を掴んで岸に持ち上げたというホラにちなんで用いられた。)アルバートは、これによって、どのような主張も、究極的に根拠付けることはできないことを論証した。つまり、いわゆる「絶対的な知」などは存在しないことを論証した。